2023/02/16

ユートピアの夢 横光利一と中野重治


 とうとう、春がやっ来た。


どこから来たの。

此の花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやってきたのさ。


妻は彼から花束を受け取ると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚として目を閉じた。

  

              「春は馬車に乗って」            横光利一




 自然主義や白樺派を乗り越えようとして、新感覚派とプロレタリア文学が登場する。1924年(大正13年)6月「文芸戦線」が創刊され菊池旦や中野重治らが中心メンバーとなる。4ヶ月後の同じ年の10月「文藝時代」が創刊され、川端康成、横光利一、片岡鉄兵などが名を連ねる。横光利一は新感覚派の驍将と呼ばれ、小説の神様と言われ、川端康成より人気のあった流行作家だった。


  その年、横光26才の時「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された」の新たな感覚的表現で「頭ならびに腹」を書いて、文壇に登場した。新感覚派は文学の表現の問題で、象徴派の響き、言葉のテンポ、リズムを表現上の重大要素として取り入れた。この前には、1923年(大正12年)に「日輪」上代の美しい姫をめぐる3国の大路の物語を書き、「斬新、絢爛の感覚的な修飾、緊迫した高調子の文体、強烈な極彩色的物語の大胆な構成は、当時の驚異であった。」と高い評価を受け、馬の背中にとまった蠅の目で見た短編小説「蠅」を翌年に「御身」などの第一次大戦後のヨーロッパ小説影響を受けた初期作品を刊行。



 1926年(大正15年)若い妻の死を悼んだ作品。「春は馬車に乗って」や「花園の思想」を執筆。  この年、中野重治は堀辰雄などと驢馬を敢行し、叙情性の中に、硬質で激情を内包したプロレタリアート詩「機関車」や「夜明けの前のさよなら」を発刊。


お前は歌ふな 

お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな


それらの歌々を

行く行く人びとの胸郭にたたきこめ


 機関車では


彼は巨大な図体を持ち、黒い千貫の重量を持つ、

彼の身体の各部は悉く測定されてあり、

彼の導管と車輪と無数のねじとは隈なく磨かれてある


 と機関車を集団指導する力強い党にたとえ詩にした。


 プロレタリア文学は、文芸の課題もその作品がどのような階級のイデオロギーを代表しているかを問題にすべきであるとして、新感覚派の文学をヨーロッパから輸入された小ブルジョアジーの個人的反逆に過ぎないと批判した。それに対して、文学をマルクスさえも一個の素材にして、宇宙の廻転さえも包摂することができるものと前提した上で、資本主義も社会主義も認め、世界の見方においては唯物論的立場に立つ。としてコンミニズム文学より新感覚派の文学が弁証法的発展段階の上に位置すると、横光利一は主張した。


 1929年(昭和3年)横光は上海に行き、1ヶ月滞在する。ここを舞台にプロレタリア文学を超える小説を意気込んで、「上海」を執筆した。中国人、異国人の日本人、ロシア人の人間を物自体として描く感覚主義の集大成とも言われる作品だった。僕は上海へ行って、「上海」を書きましたが、それは精神とか意識とかいうものよりも、できる限り物質を書こうと思った。と後に語っている。当時の上海は国際都市、租界地、阿片窟、や歓楽街があり、中国人苦力や地方の豪家の子女の裕福な中国人、流れ者の西洋人そして日本人も共同租界地に2万人住んでいた。


 この年、中野重治は「雨の降る品川駅」を改造にのせる。


 1930年(昭和5年)には横光利一は「機械」で人間と人間の組み合せや人間と事件の力関係によって変化する人間関係の中だけに、人間の実態はある。」私という存在の不安定さを小説に定着した。


中野重治は1935年転向した後、「村の家」などの小説を発表する。


 横光利一は1935年(昭和10年)純粋小説論で、通俗小説と純文学の融合を唱え、その思想を小説化した「家族会議」を新聞に連載した。東京兜町の株屋と大阪北浜の株屋の娘の恋愛劇で、軽井沢のホテルや六甲の別荘を舞台に、資産家階級の当時のモダーンガールやモダンボーイが主人公の作品で、翌年に映画化され、流行の先端をゆく作品だった。


 1936年(昭和11年)ヨーロッパに行く。2月に神戸港から船でパリに着く。ドイツやオーストリアなどなどをまわってフランスで滞在する。そのパリで若い岡本太郎の案内で生活して8月にベルリンオリンピック取材後シベリア鉄道で帰国する。

 横光利一の大作「旅愁」を執筆し始める。矢代と久慈、日本主義者とフランス崇拝者、そして若いヒロイン宇佐美千鶴子の宗教、愛、政治を網羅した全体小説を目指した。西欧文化に対する日本精神による文化戦争に次第に傾いていく。カソリックなどのキリスト教や日本精神をも包摂する古神道をその中心に据えた。その頃公演で、「日本もこの近代の毒に侵されてきたのです。だからこの厳しい時代を生きぬくために、われわれ文学者が召されていると思っている。その毒から日本を清める。これがみそぎということのほんとうの意味ですですよ。みそぎの精神は、民族の心だ。」その時代の波に乗って、皇国の民の心を捉えていく。



 中野重治は、戦後共産党に入党。同じ共産党に入党した杉浦明平は旅愁を批判し、「これはまさに痴呆の書というべきである」と攻撃「天皇に帰一し奉る東洋的無の発見は主として京洛の哲学者だましによってなされたが、横光ももその毒をひそかに小説に盛り込んで、読者を害おうと努めた。」戦後は政治的立場から激しい批判にさらされた。 

 フランスに暮らしていた岡本太郎は「氏は決して単なる日本主義者でもなければ西欧礼賛者でもなく、その反対でもなかったのだ。氏の魂にとって西洋東洋の問題は実は氏自身が考える程深刻な矛盾ではなく、二つのものは一本の透きとおった感性によって貫かれていたとしか私には思えないのである」と考えていた。 横光利一は、戦後「旅愁」の最終編「梅瓶」を書いて、昭和22年に病死した。



 中野重治は戦後共産党から出馬し、選挙に出て当選し、政治の世界で活躍し、また「甲乙丙丁」など多くの小説を出し、文芸の世界でも活躍した。


 怒涛のようの訪れた政治の変化、社会の激動に文学者として生真面目に対応し、日本主義に傾いた横光利一。一方、中野重治はプロレタリア文学で時代に挑み、、そして転向、入党、と政治的文学者の道を揺らぎながら歩いた。中野重治が1979年亡くなって10年後、ソ連は解体し、現在ロシアは新たな民族主義、反西欧のユーラシア主義思想に支配されている。



2023/02/11

1920年代 モダーン都市東京と大連のアヴァンギャルド

  林芙美子は1922年(大正11年)尾道から東京にやってきた。この20年代、復興景気にわく新宿の都市生活、下町の東京の放浪時代の小説「放浪記」を1930年(昭和5年)26才の時、出版し、多くの地方から上京した若者たちに支持され、作家として脚光を浴びた。この時代、都市では職業婦人が活躍し、地方からの多くの若い女性たちも店員、事務員、女工あるいは女給などの仕事についてモダーン都市、東京で生活をしている。


 1910年代は第一次大戦の時代で、戦火を免れた日本は、その結果もたらされた軍需による好景気で工場が次々と都市に建てられ、全国から若い労働者が集まり、東京の人口も急激に増加した。1920年(大正9年)から毎年10万人から20万人の人口が東京に向かい10年間で人口は2倍に増えた。こうして1920年代東京は新しい都市空間を作り出した。


 龍胆寺雄は1928年(昭和3年)「魔子達はデパートの明るいウインドウの前で盛んに活動していた。夜更けで女っ気の乏しくなった折でもあり、彼女らのきらびやかな娘姿はおおびらに周囲の視線を集めていた。」と「放浪時代」に書き、翌年1929年(昭和4年)「アパートの女達と僕」でその風景を「カフェM.の光の渦をはらしたドアへ足を入れかけて、ふと僕は店の向こうの化粧壁の一部を削ったベビーショップのつららのかけらのような小さなショーウインドーを見やった。」と当時東京の街には商業美術デザインが登場した様子を描き、アパートやデパートなど新しい都市の建物ができた東京の都市空間そのものを小説にした。


 「放浪時代」の主人公URと真子とその兄の都会生活は、1920年代の世界の中の都市生活を描いたニューヨーク、フィッツジェラルドのジャズエイジそしてヘミングウェイのパリの日々と同じようになりつつある大都市東京の記録である。

 関東大震災は東京を灰塵に帰したものの、震災後に東京再建計画で道路は拡張され、同潤会アパートなどのアパートが建てられた。同時にアメリカ文化、アメリカの資本主義の世界が、映画や小説をなどを通して、急速に流入し、銀座はこのアメリ文化を取り入れアメリカ化していった。ジャズエイジのフラッパーと呼ばれる、タバコを吸い、酒を飲み、ダンスをする新しいタイプの活動的女性が大都市東京に生まれた。


 林芙美子は1930年(昭和5年)9月から1ヶ月中国大陸を一人で旅行し、ハルピン、長春、奉天、大連、さらに、南京、杭州、蘇州などをまわっている。そしてあこがれのハルピン行きの列車の始発駅錦州で生まれて初めて洋服を買い、日本より幅の広い列車で紅茶を飲み、ハルピンに着く。街を散歩し「キタイスカヤの巴里的な街よりも、松花江の河床に発達したと云ふフウジャテンと云ふ中国人の街が大変好きでした。」と書いている。


 大連は遼東半島にある都市で、ロシアが租借権を得てパリと同じような港湾都市を19世紀末に建設した。これを日本がポーツマス条約で租借権を譲り受け、大連となずける。1925年(大正15年)には19万8000人の人口で、日本人も7万6000人住んでいた。 この地、大連にアヴァンギャルド文学が生まれる。詩人の北川冬彦や安西冬樹の「亜」の短詩運動である。


 関東大震災後、日本の国内では、ヨーロッパのダダイズムなどのアヴァンギャルドの芸術が日本のモダーン都市東京に流入した。大連でも北川冬彦や安西冬樹などが1924年(大正13年)に「亜」を創刊した。フランスの詩人ギョーム アポリネールやルナールの詩 「蛇」 長すぎる と共通の芸術、詩と絵画を目指した。


 てふてふが一匹間宮海峡を渡って行った   軍艦北門ノ砲塔ニテ


                        安西 冬衛


 軍港を内蔵している              馬


 落日が鏡のごとく平原に汎濫した。       砲撃


                        北川冬彦


 日本の平静さとは異なり1930年代に入るとヨーロッパでは政治の混乱が起き、アジアでもペナンやシンガポールでは満州事変に対する反日本帝国の運動が起こっていた。


 林芙美子の「シベリアの三等列車」は「長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白くみえるだけで、雪はまだ降っていません」の書き出しで始まる。この2ヶ月前の1931年(昭和6年)9月18日に満州事変は起きた。「なにごともなくハルピンに着きました。」と書いた一週後に関東軍は斉々哈爾(チチハル)入城をし北満に進駐した。その後林芙美子はシベリア鉄道でパリに着き、「下駄で歩いた巴里」や「巴里の小遣い帳」を発表している。、その小説ではロシアの風景を「いよいよロシアです。青い空に真っ赤な旗が新鮮でした。赤い貨物車がはしっている。杳々とした野がつづいて、まるで陸の海です。」と美しく描いている。


 1900年頃に生まれた人が、1920年代に若者となり、豊かになった日本の都市や外地で多くの文学作品を生み出し、新しい文化を流行させた。1898年横光利一、1899年に川端康成、1900年に北川冬彦、1901年に竜胆寺雄、1902年に小林秀雄や中野重治などが生まれ、1903年には林芙美子が生まれて、青春時代に新しい文学、詩や芸術の担い手になる。


 1920年代は技術の進歩によって車や列車、飛行機に乗って移動し、ラジオや映画で娯楽を楽しみ、アパートで暮らし、デパートで買い物する新しい生活は文学で新興芸術派やアヴァンギャルド派を産み出した。政治の世界で社会主義革命を実現することを目指すプロレタリア文学も広がった。1930年代に入ると、激変する世界の影響はしだいに国内にも波及し日本でも国民の意識や気分は次第に変わってくる。街は繁栄し、人は着飾り、文化も栄えていた。しかし人々は都市を享楽的すぎると捉えるようになり、農村の暮らしの中にこそ正しい在り方があるという農本主義の思想が若者たちに支持されつつあった。そして、プロレタリア文学と新興芸術、アヴァンギャルド文学はともに時代の表舞台から消えていった。