近世初期の思想界を独占していた儒教とりわけ朱子学は、時代とともに、社会に合わなくなり次第に崩れようとしていた。その時代に本草学者、物理学者、文人戯作者、そして加茂馬淵の門人でもあったリベルタン(自由主義者)、時代の先駆け(先走り)平賀源内は生まれた。
18世紀になると、国学が起こり、蘭学や洋学が江戸の世界に入ってくる。 享保の改革で幕府は実学にかぎって蘭学を認め、西洋の学問として蘭学が盛んになり、長崎でオランダの学問を学ぶ人が増えてきた。平賀源内も長崎に留学し洋画や本草学、今で言う博物学を学ぶ。 国学は荷田春漫が、古典を研究することによって古代の道、すなわち「から心」、「仏心」によって歪められない以前の純粋な日本の古い道を求める。加茂馬淵と本居宣長によって完成の域に達する。平賀源内も、加茂真淵のもとで国学を学ぶ。
1763年(宝暦13年)36才の時、平賀源内最初の小説「根南志具佐」を天竺浪人の名前で出版する。 初めての江戸の言葉で書かれた江戸文学で、歌舞伎の女形の溺死を題材にした。閻魔大王が歌舞伎俳優に惚れ、地獄に連れてくるように竜王に命じ、その命を受け、一匹の河童が若侍に化けてこの世に派遣される。江戸見聞をする蜆とさざえ、鯨と海老は江戸の下町を見て聞いて、江戸の活気を、江戸のくらし、風俗をテンポ良く語る。
序文には「其詞は違へども 、食うふて糞して寝て起きて、 死んで仕舞ふ命とは知りながら、めったに金を欲しがる人情は、唐も大倭も、昔も今も易ことなし。」で始まる。単純な閻魔大王の恋物語の中に、窮屈な儒教を笑い飛ばし、上方守旧派を打ち負かす、文化の力をつけた江戸の代表作となる。この一作が、、戯れに世を諷する江戸戯作のはじまりの作品で、平賀源内は四国の讃岐から上京して数年で、江戸の文化の発信者、江戸の流行作家となる。
続いて、洒落精神満載の世界諸国巡り「風流志道軒」を出版する。この中で、浅之進は、唐人 たちのため不二山の張り抜き細工を作って見せてやろうと、紙とのりを積んだ大船30万艘引いて、 唐土の海へこぎ出す。これを阻止しようと日本国の神々が集まり重要会議を開く。「一族みんな出張してしまえば、風邪を引くものが一人もいなくなっちまって医者が困りはしないだろうか」と風の神が心配する。「 どうせ八百屋が浅漬宅庵になり、魚屋が稲田安康に変身し、餅屋は佐藤養閑と改名し、 あめ売りが雨井堯仙と名乗って医者をやっているようなものだ。はやらなくなったら元の商売に戻るだけさ」と八百よろずの神が駄洒落をいう。
そして浅之進は小人国から長脚国へ、長脚国から手長国、そして蝦夷、琉球、あるめにあ、天竺、阿蘭陀と世界中を仙人によって授けられた羽扇一本で飛び回る。
風流志道軒伝の中で、時代に合わなくなった儒教を批判して「唐は唐、日本は日本、昔は昔、今は今なり。古代といえども礼楽は同じからず 聖人の政なりとて、井田の法を行ば、百姓どもには安本丹(あんぽんたん)の親玉にせられなん」と「主の天下をひったくる不らち千万なる国ゆえ、聖人出て教給ふ。日本は自然に仁義を守る国故、聖人出ずしても太平をなす。」と述べてその教条主義を批判した。
平賀源内は1728年(享保13年)讃岐の生まれ。22才の時、高松藩御蔵番の役職をつぐ。
1752年(宝暦2年)から1年間長崎に、本草学研究の目的で行く。家督を妹夫婦に譲って、1756年(宝暦6年)28才で江戸に出て、本草学の物産会である薬品会を開き、1763年には加茂馬淵の門人になる。この年に小説「根南志具佐」と「風流志道軒伝」を出版する。
その後、浄瑠璃の原作者となり、また各地の鉱山調査を行い、江戸の神田では大田南畝や画家晴信などの狂歌仲間と生活し、根無草後編も書いていた。そして才能のある千里の駒もよき伯楽にも巡りあえずと嘆息し、自らを小間物屋と称した。
かゝる時何と千里のこまものや伯楽もなしこづかひもなし
1770年(明和7年)かねてからの夢を実現するため、時の権力者田沼意次から「阿蘭陀翻訳御用」の名義をもらって、阿蘭陀本草翻訳のために再び長崎に旅立った。その間に、杉田玄白は前野良沢らと苦労の末阿蘭陀語を翻訳し1774年(安永3年)に解体新書が刊行された。その表紙や挿画は源内が秋田から連れてきた若い画家小田野直武が描く。しかし日本物産大系を翻訳出版する願いは果たせず、友である玄白に先を越されたことになる。
源内は2年後、長崎から持ち帰った壊れた機械エレキテルの復元に成功し、多くの見物客に人気を博した。
同じ年「天狗髑髏鑑定縁起」を出版。弟子の大場豊水が川から変な死骸の頭を、薬品鑑定をしている源内と門人たちの元に運び込む。これを見て源内「これ天狗のしゃれこうべなり」と鑑定する物語で、医者は陳皮も知らずといってからかい、既成の学問を笑い飛ばした。
「牛の糞やら胡麻味噌やら、やみらみつちやの流渡り、海参(なまこ)の尻やら頭やら、蟹の竪やら横道やら、にうががにうへとちりあべこべ銭あるものは利口に見え、出る杭は打たるゝ習ひ、天狗のあたまの真偽を論じ、時を移せば腹がへり、日が重なれば店賃がふえ、月が延びれば質が流るゝ。」と源内節満開。
江戸時代のように、崇高なもの、超越的なものより、卑近な日常と現世主義の濃厚な文化のもとでは、儒教を揶揄したパロディーの力は時代を変える方向より、手放しの泰平の世の賛美、現状肯定に向かう。そして後年の源内の作品を、太田南畝は編集した風来小品集「飛花落葉」の序文で「憤激と自棄ないまぜの文章」と書いているように、膨大な未完の構想と現実の間で、 人気がありながら、世間から理解されず、思いを実現できない生活を送っていた。
1779年(安永8年)ささいなことで人を殺傷し、入獄。その年52才で獄死する。
平賀源内、大田南畝、山東京伝と連なる3人の突破者の時代は、江戸の文化を新しく変え、豊かなものにした。 18世紀はじめ、徳川吉宗により享保の改革が行われた。吉宗のブレーンであった荻生徂徠は古文辞学で、朱子学から中国の古にかえるべきと唱えた、これが、前近代的公と私の未分化状態から、私的領域文芸や学問と公的な世界政治との分離を行なった。そして経済の発達によって豊かになった人々の中から江戸文化がつくられ、田沼意次の時代に頂点に達した。
しかし、2度目の幕府の思想のたてなおしを目指した寛政の改革が行われ、寛政異学の禁で、儒教のうち朱子学を正統とし、教育の中心にすえて、儒教倫理の徹底を試みた。閉鎖された国の壁は厚く、再び徳川イデオロギーは復活した。




