2019/01/23

突破もの 平賀源内


  


 近世初期の思想界を独占していた儒教とりわけ朱子学は、時代とともに、社会に合わなくなり次第に崩れようとしていた。その時代に本草学者、物理学者、文人戯作者、そして加茂馬淵の門人でもあったリベルタン(自由主義者)、時代の先駆け(先走り)平賀源内は生まれた。

 18世紀になると、国学が起こり、蘭学や洋学が江戸の世界に入ってくる。 享保の改革で幕府は実学にかぎって蘭学を認め、西洋の学問として蘭学が盛んになり、長崎でオランダの学問を学ぶ人が増えてきた。平賀源内も長崎に留学し洋画や本草学、今で言う博物学を学ぶ。 国学は荷田春漫が、古典を研究することによって古代の道、すなわち「から心」、「仏心」によって歪められない以前の純粋な日本の古い道を求める。加茂馬淵と本居宣長によって完成の域に達する。平賀源内も、加茂真淵のもとで国学を学ぶ。

 1763年(宝暦13年)36才の時、平賀源内最初の小説「根南志具佐」を天竺浪人の名前で出版する。 初めての江戸の言葉で書かれた江戸文学で、歌舞伎の女形の溺死を題材にした。閻魔大王が歌舞伎俳優に惚れ、地獄に連れてくるように竜王に命じ、その命を受け、一匹の河童が若侍に化けてこの世に派遣される。江戸見聞をする蜆とさざえ、鯨と海老は江戸の下町を見て聞いて、江戸の活気を、江戸のくらし、風俗をテンポ良く語る。
 序文には「其詞は違へども 、食うふて糞して寝て起きて、 死んで仕舞ふ命とは知りながら、めったに金を欲しがる人情は、唐も大倭も、昔も今も易ことなし。」で始まる。単純な閻魔大王の恋物語の中に、窮屈な儒教を笑い飛ばし、上方守旧派を打ち負かす、文化の力をつけた江戸の代表作となる。この一作が、、戯れに世を諷する江戸戯作のはじまりの作品で、平賀源内は四国の讃岐から上京して数年で、江戸の文化の発信者、江戸の流行作家となる。

 続いて、洒落精神満載の世界諸国巡り「風流志道軒」を出版する。この中で、浅之進は、唐人 たちのため不二山の張り抜き細工を作って見せてやろうと、紙とのりを積んだ大船30万艘引いて、 唐土の海へこぎ出す。これを阻止しようと日本国の神々が集まり重要会議を開く「一族みんな出張してしまえば、風邪を引くものが一人もいなくなっちまって医者が困りはしないだろうか」と風の神が心配する。「 どうせ八百屋が浅漬宅庵になり、魚屋が稲田安康に変身し、餅屋は佐藤養閑と改名し あめ売りが雨井堯仙と名乗って医者をやっているようなものだ。はやらなくなったら元の商売に戻るだけさ」と八百よろずの神が駄洒落をいう

 そして浅之進は小人国から長脚国へ、長脚国から手長国、そして蝦夷、琉球、あるめにあ、天竺、阿蘭陀と世界中を仙人によって授けられた羽扇一本で飛び回る。



 風流志道軒伝の中で、時代に合わなくなった儒教を批判して「唐は唐、日本は日本、昔は昔、今は今なり。古代といえども礼楽は同じからず      聖人の政なりとて、井田の法を行ば、百姓どもには安本丹(あんぽんたん)の親玉にせられなん」と「主の天下をひったくる不らち千万なる国ゆえ、聖人出て教給ふ。日本は自然に仁義を守る国故、聖人出ずしても太平をなす。」と述べてその教条主義を批判した。


 平賀源内は1728年(享保13年)讃岐の生まれ。22才の時、高松藩御蔵番の役職をつぐ。
1752年(宝暦2年)から1年間長崎に、本草学研究の目的で行く。家督を妹夫婦に譲って、1756年(宝暦6年)28才で江戸に出て、本草学の物産会である薬品会を開き、1763年には加茂馬淵の門人になる。この年に小説「根南志具佐」と「風流志道軒伝」を出版する。

 その後、浄瑠璃の原作者となり、また各地の鉱山調査を行い、江戸の神田では大田南畝や画家晴信などの狂歌仲間と生活し、根無草後編も書いていた。そして才能のある千里の駒もよき伯楽にも巡りあえずと嘆息し、自らを小間物屋と称した。

     かゝる時何と千里のこまものや伯楽もなしこづかひもなし

1770年(明和7年)かねてからの夢を実現するため、時の権力者田沼意次から「阿蘭陀翻訳御用」の名義をもらって、阿蘭陀本草翻訳のために再び長崎に旅立った。その間に、杉田玄白は前野良沢らと苦労の末阿蘭陀語を翻訳し1774年(安永3年)に解体新書が刊行された。その表紙や挿画は源内が秋田から連れてきた若い画家小田野直武が描く。しかし日本物産大系を翻訳出版する願いは果たせず、友である玄白に先を越されたことになる。

 源内は2年後、長崎から持ち帰った壊れた機械エレキテルの復元に成功し、多くの見物客に人気を博した。 
 同じ年「天狗髑髏鑑定縁起」を出版。弟子の大場豊水が川から変な死骸の頭を、薬品鑑定をしている源内と門人たちの元に運び込む。これを見て源内「これ天狗のしゃれこうべなり」と鑑定する物語で、医者は陳皮も知らずといってからかい、既成の学問を笑い飛ばした。
 「牛の糞やら胡麻味噌やら、やみらみつちやの流渡り、海参(なまこ)の尻やら頭やら、蟹の竪やら横道やら、にうががにうへとちりあべこべ銭あるものは利口に見え、出る杭は打たるゝ習ひ、天狗のあたまの真偽を論じ、時を移せば腹がへり、日が重なれば店賃がふえ、月が延びれば質が流るゝ。」と源内節満開。

 江戸時代のように、崇高なもの、超越的なものより、卑近な日常と現世主義の濃厚な文化のもとでは、儒教を揶揄したパロディーの力は時代を変える方向より、手放しの泰平の世の賛美、現状肯定に向かう。そして後年の源内の作品を、太田南畝は編集した風来小品集「飛花落葉」の序文で「憤激と自棄ないまぜの文章」と書いているように、膨大な未完の構想と現実の間で、 人気がありながら、世間から理解されず、思いを実現できない生活を送っていた。

 1779年(安永8年)ささいなことで人を殺傷し、入獄。その年52才で獄死する。

 平賀源内、大田南畝、山東京伝と連なる3人の突破者の時代は、江戸の文化を新しく変え、豊かなものにした。 18世紀はじめ、徳川吉宗により享保の改革が行われた。吉宗のブレーンであった荻生徂徠は古文辞学で、朱子学から中国の古にかえるべきと唱えた、これが、前近代的公と私の未分化状態から、私的領域文芸や学問と公的な世界政治との分離を行なった。そして経済の発達によって豊かになった人々の中から江戸文化がつくられ、田沼意次の時代に頂点に達した。

 しかし、2度目の幕府の思想のたてなおしを目指した寛政の改革が行われ、寛政異学の禁で、儒教のうち朱子学を正統とし、教育の中心にすえて、儒教倫理の徹底を試みた。閉鎖された国の壁は厚く、再び徳川イデオロギーは復活した。

2019/01/03

江戸の華 山東京伝 と 優雅なユーモア 与謝蕪村


 江戸時代、俳句とその内容を墨絵や淡彩画で表現し、絵と文が一体となった俳画が蕪村の手で完成された。蕪村は絵画とりわけ文人画といわれる南画を描き、やがて俳句の世界でも活躍を始める。それを組み合わせ、さらには絵つきの文を印刷出版する。この絵つきの本は江戸では黄本と呼ばれ、田沼意次の時代に、庶民の熱狂的人気を獲得した。その代表者が山東京伝で、絵の才能と切れのいい文章で痴れ者ぶりを発揮した。京の優雅さや儒教道徳を洒落のめす力で時代のトップランナーとなった。


 17世紀の中頃、江戸で生まれた荻生徂徠の古文辞学は、朱子学も一つの学派に過ぎないとして人情、個人の情を重んじ、享保以降の陽明学や老荘思想の流行、心学や国学などの新思 潮が生まれる素地をつくる。18世紀になると儒教道徳にも実際的な気風が生まれ、都市生活は自由になり、経済は豊かになり、江戸っ子など庶民のための文芸、文化が盛んになる。18世紀は江戸文芸の最盛期を迎えることになる。

 蕪村の生まれた年が京保の改革の始まる年、1716年(享保元年)で、この時から寛政の改革までが、蕪村の活躍した時代、江戸時代の文化が上方から江戸に中心が移る時であった。
 蕪村は大阪に生まれ22才の年に江戸で絵画と俳句を学ぶ。中国の南画を学び、漢詩を学び、中国文化を終生憧憬していた。
 1757年(宝暦7年)42才から俳諧師として京都に定住し俳句と絵を組み合わせた独創的な俳画をつくる。そして俳文という散文の詩を作り、そこに滑稽な絵を載せたり、妖怪絵巻も描いた。それらの作品には優雅なユーモアがみられる。「新花摘」の狐狸談の物語は1797年(寛政9年)に刊行された。


 元禄時代上方を中心とした出版の文化は、18世紀蕪村の時代になると、江戸にも生まれ、両者が混じり最も豊饒なる江戸の文化が花咲いた。 
 江戸は百万都市となり、豊かな庶民も増え、上方の上品な芸にはない独自のエンターテイメントの成り立つ市場規模になった。出版業界は確立し、蔦屋重三郎などが台頭してきた。彼らがプロデューサーとなり、あとは有能な絵師、作家の登場を待つばかりとなっていた。

 1782年(天明2年)山東京伝21才の作品「御存商売物」でデビューする。
本の本と言うコンセプトで、面白かったとか、すごひ、と様々の本を擬人化し、評価して当時の出版事情をパロディー物語とした。上方文学とりわけ八文字屋の京阪小説を茶化し、黄表紙や洒落本、一枚絵や、柱絵という柱に貼る細長い浮世絵が流行し、赤本黒本は流行遅れになる様を描いた。そしてその時代のはやりの食べ物などの流行通信となり、江戸で高い評価を得る。黄本は江戸庶民の心意気の現れで、人々は強い愛着を持ち、上方の文芸を鈍重で古くさいものとした。

 1785年(天明5年)には金持ちの一人息子、ぶ男でうぬぼれものの物語「江戸生艶気樺焼」を出版し、黄本作家として人気が沸騰する。主人公艶二郎のしし鼻は京伝のシンボルとなる。京伝自身は大柄で、美男子で、容貌においても江戸の華であり、粋で、洒脱な生粋の江戸っ子だった。
 その後も「孔子縞ま時藍染」で幕府の儒教奨励を茶化し、「時代世話二挺鼓」で田沼意次の失脚を題材に、早業競争にパロディー化した作品などを次々と刊行した。

 この時代になると徳川イデオロギーはゆるみ、道徳重視から経済重視になってくる。
文芸作品の商品化が進み、京伝は「隠者めかした者が、煩悩に束縛される人々を哀れみ、自ら高踏する態度は銭無し組の負けおしみ、仏教の空も、般若の空観もない、金がすべてを可能とする」と大楽の中で語っている。
 
 京伝29才、1790年(寛政2年)「小紋雅話」でうなぎやネズミ、人の頭を図柄と して着物のデザインをつくり、それを売り出したり、あるいはゆきのあしでは白地に二の字の下駄跡 、人の内股の👣、そして犬の足あと🐾をデザインした。近代的蕪村の創作を飛び越え現代の商業デザイナーの先駆けともいえる作品を残した。

 寛政の改革で、京伝31才の時1791年(寛政3年)幕府に手鎖50日の刑を受ける。
 1793年(寛政5年)に京橋銀座に紙煙草入の製造販売をを始め、デザイナー(意匠作家)の仕事に没頭する。京伝の店の包装紙に謎絵を描いて大人気となる、そして曲亭馬琴は、京伝の店の煙草と煙草入れを擬人化した恋物語をつくる。 
 寛政の改革で、幕政批判や風刺が禁止されると、作品は滑稽さの極みの追求と、仁義忠孝の儒教的教訓話になっていく。政治を語れず、宗教が卑俗化した後の滑稽さは止めどのない馬鹿馬鹿しさのパレードとなる。
 1809年(文化6年)痴れ者ぶりを発揮した人が、蛇の真似をし、蝶々になり、蝙蝠になり、鳶になり、手長海老になり、蝋燭になる。これを歌川豊国の絵でを出版したのが「腹筋逢夢石」、大評判をとり続編が次々と出て、その翌年「座敷芸忠臣蔵」でこのシリーズは終わっている。
 この滑稽本の二大書物は物語にとどまらず、その形態模写は実際に当時の人々がそれを真似て遊んで楽しんだ。   






 そして、読本では、滑稽さを通俗道徳のもとに描いて、馬琴と人気を争い多作になる。
合巻、読本、洒落本、滑稽本それぞれの流行にそれなりの作品を残して山東京伝は生涯戯作者であり、店主であり、江戸っ子の通人であった。晩年は考証学に没頭し、「骨董集」を未完のまま、文化13年56歳でなくなる。


 山東の嵐の後に破れ傘身は骨董の骨にこそなれ       太田南畝