暗く暑く 大群衆と花火待つ
西東 三鬼
遠花火 海のかなたにふと消えぬ
長谷川 素逝
西東三鬼は「昭和17年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。」で始まる神戸物語を発表する。トアロードの安アパートは、日本人のほか、ロシア人、トルコ人、エジプト人や台湾や朝鮮の人たちが生活を送る。多くの外国人との生活を戦時下の神戸の街を舞台に物語を描き始め、戦後の混乱期の神戸の街の異邦人の生活を実録風につづり戦後の昭和29年「俳句」に連載を始めた。
水枕 ガバリと寒い海がある
西東 三鬼は明治33年(1900年)生まれ。同じ年に詩人の三好達治が生まれている。歯科大学を卒業後大正14年(1925年)シンガポールで開業。昭和13年歯科医をやめ、無季俳句、新興俳句を作る。
高浜虚子のホトトギスと対決する俳句の勢力、新興俳句運動が昭和10年代に起ってくる。
昭和3年(1928年)に虚子は「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四季の移り変わり依って起る自然界の現象、並びにそれに伴なふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」それに反対し秋桜子が馬酔木をつくり、その新興運動を推進した。
大正14年の震災以降、昭和に入り日本は大国の道を目指すも前途は混迷し閉塞に陥っていた。それを打破するために日本では新興財閥、新興仏教、新興科学などがブームになり、モダニズムとマルキシズムが日本を席巻した。 昭和12年(1937年)日中戦争始まる。それに対して、この強烈な現実こそは、無季俳句本来の面目を輝かせる絶好の機会だとして、三鬼等は、戦争をテーマの俳句に熱中した。
兵隊がゆく まつ黒い汽車に乗り
兵を乗せ 黄土の起伏死面なす
機関銃 熱キ蛇腹ヲ震ハスル
昭和15年(1940年)京大俳句事件で逮捕された。
昇降機 しづかに雷の夜を昇る の俳句を、「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が昂揚する」という意味で新興俳句は暗号で同士の間の闘争意識を高めていたという。治安維持法違反であった。翌年、昭和16年(1941年)12月7日真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる。
長谷川素逝は明治40年(1907年)生まれ、昭和12年(1937年)に召集され、14年(1939年)戦場の句集「砲車」を刊行。高浜虚子は序文に「素てつ君も其後砲兵中尉に昇進したのであるが、不幸にして病を得、今は内地に還送されて居る。然も支那事変は有史以来の出来事であり、その事変の俳句における一人者であり得たといふことは以って自らを慰む可きであらう」
中国戦線で、中国大陸上陸後南京に方面に転戦し、揚子江で雨と泥濘の中敵前上陸、南京陥落後、徐州戦線に参加、多くのうたを詠む。その後、昭和17年(1942年)日本文学報告会ができ、俳句部会の会長は高浜虚子で、国民詩としての俳句本来の使命を達成し、俳諧報国を念ずるとした。当時、俳句部会には入会申し込みが殺到した。
夏灼くる 砲車とともにわれこそ征け
かをりやんの 中ゆく銃に日の丸を
おほ君の み楯と月によこたはる 長谷川 素逝
戦後「定本素逝句集」には「砲車」の中の「しづかなる いちにちなりし障子かな」などの3句以外は消去した。
寒燈の 一つ一つよ国敗れ
戦後、西東三鬼は、終戦を神戸で迎えた。終戦とともに、米軍の艦載機が空から捕虜たちに慰問物資を投下し始めた。米国軍は、フイリッピンから移動し、和歌山から神戸にも進駐軍としてやって来た。水道工事の仕事をしながら、再び俳句を始めた。
広島や 卵食う時口開く
昭和29年(1953年)から「俳句」に「神戸」「俳愚伝」を、天狼に「続神戸」を連載する。「俳愚伝」は戦前の俳句弾圧、京大俳句事件の様相を描いて当時の日本の文化統制の記録となっている。
中年や 遠くみのれる夜の桃
おそるべき 君等の乳房夏来る
西東 三鬼は、昭和17年東京を去って神戸に住みつき、戦前、戦中、戦後の14年間、神戸を中心に、関西の地で暮らし、多くの句を残した。