2015/05/24

日本の旅 イサベラ バード



月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也

 1878年(明治11年)当時46才になるイサベラ バードはハワイの旅を終え、5月20日日本の横浜の港についた。関東のまちまち、東京の浅草などに滞在した後、土手道に沿って、絶え間なく続く村落を目にしながら関東平野横切り、6月10日に日光に向い、新潟から東北の日本海側に沿って北上する北海道の旅に出発した。

 6月13日日光に到着。

 「私たちは、今朝早く、小雨降る中を出発した。そして8マイル続く杉の並木の下の坂道をまっすぐ登っていった。
 草木はよく繁茂していた。これは暑くて湿気の多い夏の気候と、山岳地方に豊富な降雨量があることをうかがわせる。」

 日光の東照宮は日本的建築と庭園の廟で、明治時代の廃仏毀釈により、儀式や壮大な仏教設備は取り去られてしまった。
 徳川の時代より変化したといえ、陽明門のドラゴンヘッドや牡丹の透かし彫り、唐草模様に驚嘆し、「富と芸術が黄金と彩色で仙境をつくり出している。」又、家康の遺骸のある宝塔と青銅の鶴、蓮を生けた花瓶をみて、「外には雄大な大自然が偉大な将軍の墓を華麗な悲しみの中に包んでいる。」と異邦人の眼にうつる江戸時代そのままの日本を記した。

 1689年(元禄2年)の春5月16日(旧暦3月27日)松尾芭蕉は江戸深川を発って日光に向った。「奥の細道」の旅立ちで、5月19日に日光に到着した。
 江戸時代の人々にとって日光は、空海が二荒山から日光にこの地の名前を改めた場所であり、恩沢八荒にあふれ、四民安堵のすみか穏なり。猶、憚り多くて筆をさし置ぬ、場所であった。

 あらたうと 青葉若葉の日の光

 その後、イサベラ バードはキリスト教の伝道活動をみるために7月の始め、1週間以上にわたり新潟に滞在した。
  晴れた日のない梅雨の季節で、信濃川の河口にある、人口5万人の日本海側の開港地であり、各種の官公庁や学校がつくられ,英語学校には150人の生徒が通っていた。
 当時の新潟県は150万人が住み最も人口の多い県にあげられていた。米など多くの作物の生産地で、運河が物品の搬送に使われ,有数の地方都市として、清潔に整備されている新市街地を目にしている。

 松尾芭蕉は福島を通り仙台、酒田から、旧暦7月に新潟に到着した
 新潟の街にはあまり興味をしめさず、次の旅路である加賀の府金沢までの130里  (520km)に思いを馳せ、自然の風景を楽しんだ。7月6日に

 文月や 六日も常の夜には似ず と詠み、

 名句 荒海や 佐渡によこたふ天河   を残している。

 イサベラ バードの旅は新潟から山形、横手を通り秋田、青森をへて,北海道の函館に渡るコースをとった。
 その年は例年になく長く続く梅雨の年で、青森県の平川では一週間以上の長雨で増水した河の氾濫に遭遇した。
 「どの波も黄褐色の泡をふきながら   浪頭を立てていた 栗毛の馬のたてがみにも似て」と書かれたように、材木や樹木は押し流され、橋も橋台の根元が削られ、19あった橋のうち2つだけ残り、道路はほとんど全部流失した。その後、馬と人力車を乗り継いでようやく黒石にたどり着いた。青森まで22マイル半のきれいな街だった。
 当時のイサベラ バードの服装はアメリカ山岳服とウエリントン靴で、駄馬に乗っての旅が続いた。大雨のときには,蓑かさを使ってずぶぬれを免れた。

 梅雨の季節、芭蕉は仙台、松島から最上川を通って新潟に渡った。
 最上川は米沢を源流にし,山形を上流にする大河で、江戸時代、通行の難所として知られていた。旧暦の5月29日梅雨の頃、有名な

 五月雨を あつめて早し最上川

の句を残している。

 イサベラ バードの旅行した明治の初期より、さらに200年まえの元禄時代に生きた芭蕉にとって,西行、義経や戦国時代は歴史の断絶のない、直近の過去であった。その時代の近さを感じさせる俳句を残している。 

笈も太刀も 五月にかざれかみ幟

夏草や 兵どもが夢の跡

終宵 嵐に浪をはこばせて 月をたれたる 汐越の松  西行

 芭蕉の200年後に日本についたイギリス生まれのイサベラ バードはカナダ、アメリカ、オセアニア、ハワイの旅行に続いて今まで外国人の行ったことのない日本の地方を旅し「日本奥地紀行」を出版した。
 日本の歴史を背景にした時空の俳人芭蕉とは異なる眼、広い空間的視野で、同じ季節の日本を書き記している。江戸時代から変わることの少ない地方の子供たち、女性の風俗や習慣と自然が描きだされている。
 イサベラ バードはその後も中国、マレー半島、シナイ半島、チベット、ペルシャ、モロッコなどを旅しその観察眼は思い込みのない広い文化的素養をもって書かれ、出版された旅行記は世界中で読み継がれている。




2015/05/17

ニューサイエンス


    
                   

 1960年代アメリカは世界の富の50%以上が集中し、平均的な男性で彼らの祖父の2倍以上の収入があり,労働時間は3分の2程度で,終身雇用や年金を提供する企業に所属していた。この時代、豊かな物質文化、消費社会に対して,カリフォルニアから質素な生活を実践するヒッピーの文化、対抗文化が生まれた。そして,レイチェルカールソンが「沈黙の春」で残留性化学物質が自然界を汚染し、人体に蓄積される危険を警告した。

 1970年代にはいるとアメリカの経済は停滞期に入り、1974年には第1次のオイルショックがおこった。これに対して1980年代レーガン大統領の時代に2つの方法で解決がはかられた。
 企業の利益に結びつかないコストの削減を行なったこと。会社を買収して再生させる、構造の改革株主革命が起ったこと。このもとになる思想は、企業は従業員や社会に対して何の義務もおわない、企業は経営によって利益を増加させることが社会的責任であるするもので、株価を上げるための効率的な方法は大規模なレイオフによる経費削減であるとされた。こうして、会社人間の時代は終わりを迎えた。

 この時代、西欧社会に対する近代文明の批判としてアメリカではニューサイエンスが出現した。「1980年の始めにあたって、人類はかつてない世界的危機を向かえている。
 この危機は複雑で多面的で私たちの生活のあらゆる面に関係してくる。 物質と精神世界を分けたデカルトの世界観、すなわち世界は人間が造り出した機械のように部分に還元され、そして理解されるというのはまちがいで,世界における一切の存在は可変的で無常であるという東洋思想が物理の世界では現実に近いものであることが証明され、社会もまたデカルト的心身を2分するのではなく、有機的で全体的である、エコロジーアプローチが必要である。」という思想だった。この世界観の転換により世界は持続可能な社会に変化すると語られた。


 ベルリンの壁の崩壊により、1990年代以降、世界はアメリカの一極体制「市場経済と民主主義の時代」になった。さらに、IT革命によるオートメーション化と安価な人件費の地域に生産場所を求める、グローバル化から経済はさらに効率化し富を生み出した。

 21世紀にはいると市場は新しい金融テクノロジー使って住宅ローンを買い集め、それをまとめて債務担保証券を発行して、年金基金などに販売した。これがアメリカなどで住宅バブルをひきおこし、リーマンショックをもたらした。
 この恐慌を乗り切るため、アメリカは貨幣を増刷し中央銀行が国債を買い、経済を支えた。世界中で人生の目的は目先の物質的豊かさ、高収入となり、この近視眼的衝動が世界にまんえんした。
 人々は貧乏になることを恐れ、経済の成長なくして幸せはないと信じて、生産性のさらなる向上をめざし、さらなるエネルギーを消費し、膨大な物を買うよき消費者となった。

 現在、人々の消費が社会を豊かにし、経済を成長させ、GDPをふやし、国力を増強させる。この考えはほんとうに正しいのか、再び疑問視されるようになり始めた。1930年年代世界中の人口は20億人であった。今はその4倍以上になり日々増加している。海面が上昇し南の島々は水没の危機が迫り、アラル海は干上がり、世界中の氷河は消えつつあり、気候は荒々しくなった。地球上に生活する人々が豊かな生活を送るのに消費するエネルギーを地球は十分供給できるのか、豊かな環境は保全できるのか、あるいは多様な生物との共存が出来るのかといった地球環境の問題が人々の眼にみえる形で現れ解決をせまられる問題となりつつある。

 1972年のローマクラブの警告、成長の限界は、緑の革命で克服され、医療の進歩で人々の寿命は伸びカタストロフィーは回避された。 無限のクリーンエネルギーを生み出すはずの原子力は人々のコントロールー不能の放射能汚染をもたらし、熱エネルギーの消費が地球温暖化、気候の大変動をもたらしている。成長が永遠に続く経済成長至上主義にかわる経済学はないのか、地球温暖化を防ぐエネルギーの使い方はないのか、放射能に汚染されることのない今以上に住みやすい気候や環境は手に入るのか。今後の地球環境の未来は、現在の人々の選択に委ねられている。








2015/05/03

日本の大学教育


日本の教育

 明治政府は国立大学を設立にあたってアメリカやイギリスと異なり100%国の予算でまかなうシステムをつくり、学問の自由は、財政の制約のもとにおかれた。明治の初期にも、教育ファンドをつくる案や、文部省から独立した特別会計の案もだされた。しかしいずれの案も明治政府は取入れることなく文部省の権限のもとにおかれ、それが現在も続いている。

 そして、日本の高等教育は、各省庁が帝国大学の法学部卒業生を中心に人材を養成し中央の官庁や地方に行政官を送り、省庁の中に科学技術を取り込む技官制度を作った。頂点には5つの帝国大学、台湾,朝鮮の台北帝国大学,京城帝国大学さらに昭和に入り、大阪、名古屋の合計9帝国大学を作り旧制高等学校からの入学生が日本のエリ−トとして養成された。この旧制高校の割合は国民の1%以下であった。その他のコースとして,専門学校があった。さらに、教師のための師範学校、女子高等師範学校があった。

 第二次大戦後は、すべての高等教育を大学として一本化した。旧制高校は廃止され、大学に再編された。
 戦後初期は一部の人が大学進学し、多くの人は早くから職業につき、日本の高度経済成長を支えた。その後は昭和38年(1963年)大学入学12.1%に昭和40年(1965年)17%、昭和50年(1975年)には37.8%と増えさらに、その動きは加速し大学全入化の動きに乗って、現在50%以上の若者が大学に進学している。

 国立大学は約100校、私立大学は約500校におよび、多くの定員に満たない大学や、日本の最高といわれる大学も世界的には何の変哲もない大学となりつつある。
 日本の大学の特徴は、25才以上の割合が2%以下で,他の先進国とは大きくかけ離れていること。一斉入学,一斉就職が今でも大多数を占めていること。これは、戦後に一時期大学などの教育機関が不十分で,入社した若者を自前で教育し,終身雇用、年功序列が会社にとって合理的な時代があった。

 企業が世界競争を強いられる中、人材の流動性が高まり、実際は1980年代には会社共同体に取り込み会社で0から教育するシステムはコストにあわなくなっている。現在実社会と大学の関係がミスマッチをおこしていることが誰の眼にも明らかになり大学で何を学ぶかが再び問い直されることとなった。

  1980年以降、様々な教育改革が試みられた。大学における教養教育は形骸化しているとして,1991年には教養学部が解体された。専門教育も戦後の大学進学が例外的であった時代の研究者養成プログラムの延長で,研究もそれぞれの専門がたこ壷化していて何を学生に教えるのかがあいまいになり、勉強もきびしくなく、脱落することなく遊んで卒業できる。大学の教育の充実がいわれつつなかなか変革にはむすびついていない。そして,大学卒業だけでは国際的にはイニシアチブをとるのが不十分で大学院教育が必要とのかけ声で、多くの大学院がつくられ多くの博士が誕生した。2006年には博士過程卒業生の就職率が57%となり、就職難の時代となった。
 
 2004年4月から国立大学の法人化がはじまる。これは目的として大学間の競争を促し,競争的起業的な文化を生む目的であったが、実情はあまり大きな変革はなされていない。さらには国際的に通用するトップ30校に資金の配分を多くする構想も実行されている。

 一方入学試験についても、一点をあらそうセンター試験はよくないとして数年後に廃止され新たなアメリカ型の習熟度をはかる入試システムに変更される予定となった。しかし今の日本の中学,高校では受け身の受験のための勉強と長時間の部活という内向きのグループ活動に時間を費やされ,職業に就いて学んだり考えたりする時間はほとんどない。この高校卒業までの教育をどうするのか、大学入学後の教育をどうするのかはっきりとした目標がより重要だと思われる。

 大学では、現在実学の学部は受験倍率が増えているのは、目的が明確で、卒業後試験の関門があるため勉強せざるを得ない環境であることがおおきい。戦後の総合大学指向から再度、実践的職業訓練を目的とした大学と研究やアカデミズムの大学を別々に充実させることも必要な時かもしれません。