戦後、1950年代、日本的生活様式や好み、あるいは戦前的遺制を色濃く残していた映画が多くつくられた。その代表作は東映時代劇で、その中の8作品は当時人気の出た少女歌手美空ひばりが主演していた。1950年の後半には、1年に10億人以上の人たちが映画館に足を運んでいた。そのピークは1958年(昭和33年)で年に11億2745万に達し、日本人全員が1月に1回は映画館に行ったことになる。
石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、1956年(昭和31年)にこの作品が映画化され、大学生の弟、石原裕次郎は俳優としてデビューした。つぎの石原慎太郎脚本の「狂った果実」は葉山のヨットハーバーを舞台にした兄弟の物語で、29歳の蔵原監督や若い助監督達によって制作された。静止した映像とセリフで、既成の伝統的映画を壊した新しい映画となった。そしてフランスヌーベルバーグのゴダール監督やトリュフォー監督にも影響を与えた。「この映画は明白な単純性と明晰さを持っている。全てのショット満ちて、かつ豊かなのだ。なぜならばそれらは等価であり、そのどれもがつぎのショットに奉仕しないからである。」とフランソワ トリュフォー監督は語っている。
もはや戦後ではない、明るい時代の象徴として、裕次郎の存在そのものが、古い日本を感じさせない全く新しい価値を体現していたと言える。1958年(昭和33年)最も多くの観客を集めた10作品のうち「陽のあたる坂道」や「嵐を呼ぶ男」など4作は裕次郎の主演映画だった。
東映の時代劇に対して、日活は新しい路線を確立していった。小林旭と浅丘ルリ子は渡り鳥シリーズや流れ者シリーズで人気を保ち、浜田光夫と吉永小百合は民主主義的青春映画路線を定着させ、次々とヒットさせた。個人主義的アクション映画の石原裕次郎はコンビの北原三枝と結婚、その後20代後半、1960年に入るとアクションにメロドラマの要素を加えたムードアクションと呼ばれる一連の映画に主演する。孤独な雰囲気を持った、過去にこだわる主人公とヒロインの浅丘ルリ子の映画「銀座の恋の物語」でこの路線は始まった。
同じ年に「憎いあンちくしょう」がつくられる。主人公の裕次郎は「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで運んでもらいたし。但し無報酬」これに感動し自分で運転して九州まで中古のジープを届ける、ヒロインの浅丘ルリ子はスポーツカー、ジャガーを運転してそのジープを追った。この作品はフランス映画のようなロードムービーでしゃれた会話とヨーロッパ的な場面で時代を先駆ける、流行の先端を行く作品だった。日活は古い時代の日本とは完全に決別し、アメリカ、フランス、イタリアの映画作品を手本にした、赤いハンカチ、二人の世界、夜霧よ今夜も有難うなどの作品を作る。夜霧よ今夜も有難うはカサブランカの日本版とも言える作品で裕次郎と浅丘ルリ子の二人が共演する映画は12本になる。
この映画黄金時代は1960年代の後半になると、しだいにテレビに主役の座を奪われ、石原裕次郎を主演にしたテレビ番組「太陽にほえろ」が1972年(昭和47年)に始まった。
第二次世界大戦後の1946年3月にチャーチルが「鉄のカーテン」の演説を行った。その後世界は自由主義の共産主義の陣営に分かれ、対立する。ソ連の共産主義のプロパガンダに対してアメリカは日本の民主主義の文化による支援を始めた「自由な人びとが、全体主義政権を押しつけようとする外圧に逆らって、自分たちの制度とその本来の姿を守る手助けをする」目的もあって、アメリカの良質な映画、良きアメリカンライフの作品が日本に輸入された。
1962年(昭和37年)に「007は殺しの番号」で007シリーズの第1作目が公開された。主役ジェームス ボンドが、カリブ海のジャマイカを舞台に、活躍する。第二作目は「007危機一発」ソ連情報部のタチアーナからの手紙でイスタンブールに向かうショーン コネリー主役のジェームス ボンドが世界的犯罪組織スペクターと戦う作品で、後に「007ロシアより愛をこめて」と題名が変更された。翌年にさらには「007ゴールドフィンガー」、そして、「007サンダーボール作戦」と次々日本でも上演され大ヒットした。この時のジョンバリーのサンドトラックは、当時の若者に大流行し、各地の高校の文化祭でその音楽は流された。1965年(昭和40年)の日本での洋画観客動員の一位は「007ゴールドフィンガー」よく1966年(昭和41年)は「007サンダーボール作戦」、1967年(昭和42年)は「007は二度死ぬ」で3年連続で日本人の最も多く見た作品となった。
戦後生まれの若者世代が次第に豊かになり、これらの世界を違和感なく受け入れ、むしろジェームスボンドの乗る車アストロマーチンDB5、お酒のマティーニやブランド製の食べ物へのこだわりだわりはむしろ憧れの上流社会の生活の典型として受け入れられ、それを取り入れようとした。
作家イワンフレミングは陸軍の士官学校を卒業後ロイター通信に勤務し、その後第二次大戦中は諜報部に勤務した。生まれつきの上流階級の出身で、戦後はケムスレイ新聞グループに勤務し、年に2ヶ月寒いロンドンを脱出して、美しい海のジャマイカの別荘でスキューバーダイビング生活中に007シリーズを書き、出版した。ジェムス ボンドの生活はイワンフレミングの生活そのもので、華やかな西欧世界の憧れをまとった初期5作品の主役は、ショーンコネリーが演じている。
この米ソ対立時代のスパイブームはテレビドラマにも広がり「0011ナポレオン ソロ」は1964年(昭和39年)から、「スパイ大作戦」は1966年(昭和41年)から放映が始まり、トムクルーズ主演のリメイク版「ミッション インポシブル」を作り出すことになる。これらの短いカットを重ねる回転の早い画像や物語の展開、広大な自然を背景にした、車やボートやヘリコプターを使ったアクション場面、そして時代背景としての米ソの冷戦を反映し、お茶の間でも多くの視聴者を獲得した。
1967年(昭和42年)中根千枝著作の「タテ社会の人間関係」が発売された。日本社会の人間関係は、個人主義契約精神の根づいた欧米とは大きな相違をみせている。日本独特の人間関係を国外と比較し、内と外の意識、先輩後輩といった日本独自の社会システムを分析した。
「男はつらいよ」シリーズの第1作が1969年(昭和44年)に始まった。遠い世界のおとぎの国の夢もの語りではない、等身大の世界の人情話。近所の人や家族との人間関係、時には重荷になるような思いやりの世界をゆっくりした画面の展開と寅さんの語りと、日本の四季の風景を織り交ぜて展開する。そこでは、人々は自己主張はしなくても、個人主義を主張しなくても安心できる古くからく下町庶民の世界が展開する。
第25作は浅丘ルリ子と共演する、「寅次郎ハイビスカスの花」が上演された。沖縄の美しい海、青い空の下に東京から寅次郎は空路、病気のリリーを見舞いに飛んでいく。夢のような生活、そしておいちゃん、おばさん、さくらの待つ下町のお店の東京葛飾柴又に帰る。そこは、かき氷、蝉の声のする日本の夏だった。
古い日本的映画はすたれ、無国籍の架空の北の大地や港町の物語に変わって、日本社会の人間関係、懐かしい日本の風景、下町を舞台にした新しいタイプの日本的映画が生まれた。
歌の世界でも1960年代のイギリスのビートルズやアメリカのジャズ、プレスリーやカントリーソング フォークソングから1970年代は、日本の若者たちのオリジナルなフォークミュージックが創られ、今までの歌謡曲世界を変えていった。
浴衣のきみはススキのかんざし
熱燗とっくりの首つまんで
もう一杯いかがなんて
みょうに色っぽいね 旅の宿 吉田拓郎