19世紀後期江戸時代の代表的小説 「南総里見八犬伝」は曲亭馬琴の生涯28年かけた長編小説で江戸庶民に大評判をはくした作品であった。 物語は「水滸伝」をならい、15世紀の足利時代南総の地を舞台に展開する。 伏姫の護身の数珠が飛び散り、この霊玉をもった八犬士が活躍するスペクタクル物語で、天守閣での決闘、立ち回り刑場破りなど、その後定番になる活劇の場面を創造した。この数珠玉をもつ八犬士の活躍する勧善懲悪、因果応報の物語の最後は、富山の山中で仙人になりめでたく終わる。
八犬伝の世界は儒教的倫理をもとにして組み立てられている。儒教の7つの徳目、仁義礼智信は五行の徳であり孝、悌は家族の掟で、この 仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌 の八つの霊玉をもつ八犬士がこの倫理を実践し活躍する98巻106冊の大長編読本であった。
「南総里見八犬伝」は明治から、昭和にかけて読みつがれ正岡 子規も八犬伝の漢詩をのこしている。山田風太郎の「南総里見八犬伝」は馬琴の原作を題材にして、葛飾北斎との江戸での暮らし、娘との家族生活、十返舎一句や歌麿など当時の絵師や物語作家の生活など、文化文政時代の庶民生活を描いた場面、実と、戦国時代を舞台にした八犬伝の物語、虚を並列して小説にした。
家康は、若い城主となったとき,一向一揆に苦しめられた。幕府を開いた時、この仏教による反乱を防ぐため、仏教を無力化した。また、幕府の存立を脅かすことを恐れ、キリスト教はキリシタン禁止令と鎖国により完全に排除した。
こうして 徳川幕府は、国をおさめるため朱子学を主とした儒教を取入れ、文治政策をとった。各藩もこれにならって学問所で教学振興をはかった。そして寺子屋で読み書きが教えられ、それが庶民への儒教普及をうながした。
江戸幕府として藩として統治の原理徳川イデオロギーの主流に朱子学はなるとともに、自然や、世間を見る世界像もまたこの朱子学により組み立てられた。そして、儒教は江戸庶民の世間常識のもととなった。
明治の時代においても、家族の関係、世間の常識すなわち親に対する孝、夫婦男女の別、長幼の序、友達との交わりなどの倫理は江戸時代から続き、昭和の時代にも生き残ることとなった。しかし国を治める原理としての儒教は消滅した。
江戸時代の国家統治の原理は儒教による修身斉家治国平天下であった。
「武家諸法度」で各大名を統治し、「禁中並公家法度」で朝廷を幕府の法の下において支配した。
「武家諸法度」で各大名を統治し、「禁中並公家法度」で朝廷を幕府の法の下において支配した。
徳川の世も、時代とともに変わり、幕府の正統とした朱子学思想の見直しをせまる様々な思想が広まった。
1758年朱子学を神道と結びつけた闇斎学を信奉する竹内式部が追放され、1766年には山県大弐が処刑された。彼らの主張は、尊王の思想とともに、倒幕思想を含んでいた。
これに対して、幕府は体制の立て直しをはかり1790年「寛政異学の禁」で朱子学を幕府の生学とした。それとともに湯島の昌平坂を幕府の学問所として公認した。
これに対して、幕府は体制の立て直しをはかり1790年「寛政異学の禁」で朱子学を幕府の生学とした。それとともに湯島の昌平坂を幕府の学問所として公認した。
知行合一を主張し行動を重視する陽明学の信奉者、大塩平八郎は大阪で1837年に乱をおこした。
朱子学を背景に幕藩体制を立て直す水戸学がしだいに先鋭化し水戸浪士により、桜田門外の変がひきおこされた。
さらに仁義礼譲孝悌忠信などはもろこしの聖人と呼ばれる人々がつくり、人間をしばりつけてしまったものであるとし、儒教をまっこうから否定する国学なども人々の間に広まってくる。幕末にはこれらの思想が王政復古、尊王攘夷の錦の御旗となり時代を動かすことになる。
朱子学を背景に幕藩体制を立て直す水戸学がしだいに先鋭化し水戸浪士により、桜田門外の変がひきおこされた。
さらに仁義礼譲孝悌忠信などはもろこしの聖人と呼ばれる人々がつくり、人間をしばりつけてしまったものであるとし、儒教をまっこうから否定する国学なども人々の間に広まってくる。幕末にはこれらの思想が王政復古、尊王攘夷の錦の御旗となり時代を動かすことになる。
徳川イデオロギーは、未だにその実態や役割について議論され、明治から昭和にかけての影響についても結論はでていない。
儒教の分派や国学は江戸時代にうまれ、時代とともに変化し、倒幕、明治維新の理論となってくる。さらに1890年(明治23年)明治憲法のもとでだされた教育勅語や1930年代の昭和時代の日本帝国の国策として持ち出された国体論や国体の明徴はこれらのイデオロギーを再構築したものであった。
儒教の分派や国学は江戸時代にうまれ、時代とともに変化し、倒幕、明治維新の理論となってくる。さらに1890年(明治23年)明治憲法のもとでだされた教育勅語や1930年代の昭和時代の日本帝国の国策として持ち出された国体論や国体の明徴はこれらのイデオロギーを再構築したものであった。
