2010/10/11

東亜同文書院と教育


 東亜同文書院の教育

 

 日本と隣接する大国、中国との関係は複雑で、歴史上、友好と対立のはざまで多くの人びとはほんろうされてきました。


  近代化で先んじた日本が日清戦争で勝利した後、日清関係は対等となり好転し、1898年(明治31年)には日本と清が経済,教育、文化活動を中心として提携する,『東亜同文会』が発足しました。


  日本は西欧列強に対する支那の保全が必要と考え,清もまた日清戦争後近代化による富国強兵をはかるべきと主張する変法派が勢力を強め、日清同盟を推進しました。


 

 東亜同文会が中心となってできた東亜同文書院は、1900年(明治33年)に開設された南京同文書院に始まり,義和団事変をうけ、翌年上海に移設され、中国の保全を目的に、中国を富強ならしめ,日中提携の基礎を固めるため、それに必要な中日の人材を養成する事を目的とした教育機関と本格的教育は開始されました。



 同文書院の教育制度は日本と中国の貿易を行う実務者を養成する為に,実学を重んじ、両国の通商を盛にするための中英の語学の教育とともに『徳教を經となし、聖賢經専により之を施す』として儒学に基づく徳育を重んじ『中外の制度律令,商工務のかなめをさずく』を実践し、公費により日本各地より優秀な人材を集め、教育が行われました


 このころ、中国から東京に逃れてきた人は、数多く、中国清朝打倒のための結社『中国革命同盟会』を結成し、孫文なども加わってきました。


 日本の近代化を学ぶ目的でも、多くの学生が留学のために来日し、その受け入れ教育機関として,東京に東京同文書院も開設されました。

 清の留学生のなかで日本の陸軍士官学校を目ざした人たちも多く,その中には蒋介石も名をつらねています。

 そして、1911年辛亥革命で清朝は滅亡する。しかし権力は袁世凱に受け継がれ、中国革命は未完のまま、1921年広州に中華民国政府が樹立され、各地には列強の援助をうけた軍閥が支配地域を確保していました。


 1920年代は比較的、日中関係は安定し 東亜同文書院の学生たちは最終学年には夏休みに中国政府の許可を受け、中国各地に大旅行を行いその記録誌をまとめています。

 

 1915年から1921年にかけ、『支那省別全誌』が当時の中国事情報告として刊行され残されています。


 その後、中国の混乱期,浜口内閣は侵略政策を排斥し、友好協力関係を築く政策を一時すすめるも、陸軍は満蒙の領土確保の方針を強行し、1930年代満州事変、日中戦争となった。


 この時期にも東亜同文書院は大学となり存続し、匪賊の横行する奥地、内戦の中、大旅行は続けられています。これが実現したのは友好を実行する建学の精神が中国内でも認められていたためと思われます。


 中国保全、友好路線はもろくも崩れ去ったものの、東亜同文書院が昭和20年8月閉学まで存続し多くの人材を世に送り出し得たのは、 東亜同文会が、日中間の政治問題には絶対不関与を貫いたことによること、また政府と関係なく日中の人材交流もあったことをしめす歴史とかんがえられます。