2022/11/18

アメリカングラフィティ 1970年代アメリカと映画


 1962年夏のカリフォルニアを舞台にした、反抗と変革の時代の始まる前の古き良き時代の若者の世界をロックンロールの音楽に乗せた映画、「アメリカングラフィティ」が1973年に上演された。その映画で4人が高校を卒業した翌年、1963年、J F ケネディー大統領は暗殺される。その後を継いだリンドン ジョンソン大統領は偉大な社会を目指し、1964年にはトンキン湾事件を受けて北ベトナム爆撃を開始し、ベトナム戦争を拡大していった。アメリカングラフィティ4人の若者の1人チャーリーマーチンスミスが演じたテリーは「1965年12月、ヴェトナム戦争におけるアン ロク付近の戦闘で行方不明と報告された」。


 60年代後半のアメリカ映画の一大潮流となったニューシネマは、「卒業」でダスティホフマンを「俺たちにあすはない」でフェイダナウエーをスターにした。そして「イージーライダー」という時代そのものを象徴する作品を生み出した。デニスホッパーとピーターフォンダ、ジャックニコルソンの3人はワイルドで行こうと、カリフォルニアからバイクに乗って、南に向かう。「イージーライダー」はビリーザキットであり、ワイアット アープだった。「ならず者が裕福になるというアメリカン・ドリーム。だが実際は自分の国を破壊している。それがストーリーだ」と監督のデニス ホッパーは語っている。

 そしてカンターカルチャーは世界を席捲し、ピーターフォンダとジェーン フォンダは反体制、反権威のトップスターになった。このニューシネマの流れは1977年の「ジュリア」まで続くことになる。この作品でジェーンフォンダは筋金入りの反ナチスの友達ジュリアを助けるヘルマン役を演じている。



 1970年代のアメリカはベトナム戦争の泥沼化により社会は分断し、街は荒廃し、経済もインフレと若者の失業者の増加で、人々の間に夢と希望は消え去り、内向する私的な時代 「何もないアメリカ」の時代となってゆく。ベトナム戦争はアメリカ人の徳の衰退と偉大な国家の意識を衰退させた。そして暴力事件と人種暴動が各地で広がる。

  フランシスコッポラ監督はゴッドファーザーで1940年代のアメリカやバチスタ政権下のキューバを舞台に、イタリア移民の暴力と争いの物語を製作する。ゴットファーザーパートI が1972年にパートII は1974年に上演された。

 ドン コルレオーネ一家の結婚式のシーンでその物語は始まる。勤勉な移民でアメリカの夢を追求して成功したゴッドファーザーはアメリカの法制度を信じていた事の間違いに気づき「アメリカがパラダイスだとでも思っていたのか、本当の友達にだったら身構える必要なんてないはずなんだ」と語る。 建国以来の故郷を捨てアメリカへの同化した世代から、やがて民族としてのルーツを大切にするファミリー、シチリアの同族による世界を描きだす。この時代、マイノリティー文化が復活し、民族のルーツの探求がさかんになった。黒人世界にとどまらずイタリアやスラブやポーランドなど新移民の民族の主張も起こってくる。




 70年代アメリカ経済は低迷し若者の夢は現実とはならない。この時代の若者の現実と夢を描いた映画が登場する。1976年シルヴェスタ スタローンが脚本を書き、主演した「ロッキー」が大ヒットする。何も誇ることのない30歳になった三流のイタリア出身のボクサーが、世界チャンピオンのアポロと闘い、打ちのめされても最後まで戦う姿を描いて時代をつかむ。

 1977年には、イタリアの労働者階級出身ジョントラボルタがマンハッタンで働くステファニーと出会いダンスコンテストでの優勝を目指すディスコ映画、サタディーナイトフィーバーで主演し、ビージーズの曲に乗って踊って流行の先端となった。

 

 フランシスコッポラ監督のベトナム戦争を描いた「地獄の黙示録」は1979年に上演された。諜報部員ウィラード大尉のマーチーン シンがマーロンブランド演じるカーツ大佐を探査、そしてジャングルの奥地に支配者の独立王国をみつける。政治的背景や正義は語らず、サーフィンやラスベガスの様なバニー、ワーグナーの音楽ワルキューレの騎行に乗って攻撃型戦闘ヘリコプターコブラが戦場に向かうシーンで根源的な人間の持つ暴力性と人間の狂気を描いた。

 この映画のロケ地はフィリピンで、コンゴ川の奥地え原住民を支配する物語「闇の奥」をベトナム戦争に置き換えて撮影されられた。

 


 1978年「ディアハンター」が上演される。アメリカ中西部の鹿狩りハンターがベトナムに行き解放戦線の捕虜になる。捕虜中のロシアンルーレットの恐怖、その後のアメリカでの生活、「タクシードライバー」に似たベトナム帰還兵をドラマ化した。その後の「プラトーン」や「ハローベトナム」、「7月4日に生まれて」など世界一の技術と、財力を持つ国の軍隊が、北ベトナムに敗戦しアメリカの価値観を揺るがしたこの戦争はなんであったか、第二次世界大戦の正義の戦争、大義ある戦争とは異質の戦争の現実をどの様にとらえ、人々をどう描くかで製作者は苦闘した。


 1970年代ベトナム戦争は泥沼化し、1973年1月ニクソン大統領は12年間続いたベトナム戦争の停戦合意を発表する。1975年サイゴン陥落により北ベトナムによってベトナムは統一される。そして、ニクソン大統領はウオーターゲイト事件で退陣し、フォード大統領からやがてカーター政権に時代は移ってゆく。カーター大統領は1981年に退場し、ドナルド レーガン大統領になり強いアメリカ小さな政府を掲げ新自由主義の政策を進める。


 70年代のアメリカはベトナム戦争を契機に生まれた反体制反政府、すべてのアンチであるニューシネマからロッキーのような困難にあっても負けない、人生肯定的な作品を生み出し、それが80年代の時代精神に乗ってジョージ ルーカスとスピルバーグの時代になる。ジョージルーカスの監督2作目になる「アメリカングラフィティー」は1973年に、1975年にはスピルバーグ監督27才の作品「ジョーズ」がヒットした。


  1977年スターウオーズの歴史の始まり、最初の作、「新たなる希望」が上演された。ルーカス監督は「若者たちに、僕たちの世代が持っていたような、正直で健全なファンタジー ライフを与えたかった。」と語り、現代の神話、新しいファンタジー映画「スター・ウォーズ」で夢と正義の世界をつくった。この正直で単純な心温まる物語はアメリカ国民に支持され世界中に広まっていった。


 1980年の選挙でレーガン大統領はアメリカ民主主義の道徳観と保守的政策で国民の支持を集めた。レーガン サッチャーの新しい資本主義路線はその後世界で共感を呼び新自由主義と呼ばれることになる。 レーガン政権のとき1983年にソヴィエトを悪の帝国と呼び、戦略防衛構想では衛星の軌道上に迎撃ミサイルを配置するシステムの軍事戦略を発表した。エドワードケネディーはこれをスターウォーズ計画と呼んでいた。


2022/11/06

欧州戦争 平和はいかに失われたか

 

大正3年に出版された雑誌欧州戦争実記である。




 日本の大正時代は、世界ではヨーロッパの戦争、第一次世界大戦の時代であった。日本は直接に参戦することはなく、欧州に輸出する軍需やその他の輸出で好景気にわいた。1914年(大正3年)に第一次世界大戦が始まり、総力戦がヨーロッパ全土に展開され、各国が兵器、物資の欠乏を訴え、日本は生産補給する立場に立った。国内各地に工場が続々と生まれ、経営者やそこで働く労働者が膨大な数になった。日本は4、5年で開発途上国から世界有数の工業国、資本主義国となり、給料は倍増し、物価も急上昇した。 そして「大正三年の夏の頃 波立ち騒ぐ大洋の 西の果てなるヨーロッパ 人の心も勇なり 」の歌が流行した。


 1900年(明治33年)ギルバートマレーが、どの国も「われわれこそ国家のなかの精粋であり、花である。そして、何よりも他を支配すべき資質を備えていると考えていた」と欧州の大国を書いている。


  1890年のドイツの人口は4900万人、その後大戦の前の1913年には6600万人に急速に増加した。強大な陸海軍を持ち、近代的工業力の充実、電気光学、化学の発展により巨大企業を育て、国力を高めていった。1850年代は取るに足りない領邦であったドイツの急速な台頭がヨーロッパ大陸の力関係を変えることになる。ドイツは大陸の中央に位置し西はフランス、東はロシアと国境を接していた。ビスマルクの時代にはドイツが領土的野心を持っていないことを周辺の大国とくにロシアとイギリスに納得させ、ヨーロッパの現状維持に努め、海外の領土拡張には熱意を示さなかった。

 20世紀に入ると、世界の列強は争って覇権を求めた。この拡張主義の時代にドイツは列強の力関係を覆すだけの財力と武力を手に入れた。陸軍だけでなく、海軍力も急速に充実させ、英国海軍に迫るドイツ海軍を作り上げてきた。 ウイルヘルム二世が政権につき、ビスマルクが退くと、帝国主義的拡張政策を推進した。1907年イギリスの外交官エア クロウは「ドイツの意図がどうであれ強力な海軍を持てば必ず覇権を追求する」と書いている。

 時の参謀総長シュリーフェンは対フランスの戦時戦略でベルギーを通ってフランスに侵攻するプランを策定し、モルトケがそれを引き継いだ。東部戦線での戦いの前に電撃作戦で西部で勝利し、その後に東部作戦を開始する戦略を立てていた。


 1910年、イギリスのジャーナリストノーマンエンジェルが「大いなる幻想」を出版。財政とか経済面で各国が依存しあい、戦争は今や実行不可能になったと論じて各国で話題になっていた。一方、同じ年ドイツのヘルン ハルディーの「来るべき戦争」が出版された。戦争を起こす権利、戦争を行う義務、世界制覇か没落かを論じた。そこでは戦争は生物学的に必要であり、生きるための闘争であり、国家には進歩かさもなくば衰退あるのみと主張した。ドイツ国民は、1870年以来武器と戦争こそドイツの偉大さのよってくる根源であるの主張に染まってきた。一方フランスでも失地回復の民族主義者愛国主義者の声が高まっていった。


 1914年(大正3年)以前のロシアは強力であると同時に弱体な国家であった。農業と個人消費は遅れ、社会の近代化が遅れていた。アレクサンドル三世の跡を継いだニコライ二世はお気に入りの臣下、道楽、気まぐれ、強情さに身をゆだね、政権はおびただしい数の秘密警察に占められていた。ニコライ二世の統治下で、不平不満は絶え間なく繰り返し、災害、虐殺、軍事的敗北、暴動が起こった。1908年から1914年に陸軍大臣を務めたのはラスプーチンと親交のあるスホムリノフ将軍で、銃剣こそが砲弾もかなわぬ至上のものという時代遅れの思想の持ち主で、後に権力の冒涜と怠慢で有罪となっている。このスホリノフと対立し力を持ったのがニコライ大公で2メートルコス長身で陸軍部内改革派の旗手で、日露戦争では騎兵監察長官を務めた生粋の軍人であった。来るべき対ドイツ戦争では指揮をとる計画であった。そしてオーストリア=ハンガリー帝国だけでなくドイツに対抗するためにフランスと同盟を結び財政援助を受け協調を深めていった。



 「バルカンのどこかで、途方もなくバカげたことが起これば、さし迫った戦争に火がつくだろう。」とビスマルクは予言した。

 1914年(大正3年)6月28日セルビアの国粋主義者がオーストリア皇位継承者フェルディナンド大公を暗殺。20世紀に次第に力を失い衰退の兆候を見せてきたハプスブルグ家のオーストリアハンガリー帝国の皇位継承者に対する、長年に渡りその支配のもと虐げられてきたセルビアの失地回復主義者による暗殺事件は、瞬く間に欧州全土を戦乱の渦に巻き込んだ。

 7月5日ドイツはオーストリアに対して、もしオーストリアがセルビアに制裁を加え、ロシアとの間に紛争が起きた場合は、オーストリアはドイツの誠意ある支援を期待してもよいと保証した。7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告。7月30日オーストリアとロシアは総動員令を発令。7月31日ドイツはロシアに対して最後通牒を発令。8月1日宣戦布告。8月3日にフランスに対して宣戦布告した。そしてのシュリーフェンプランどおりベルギーに侵入して、フランスに大規模攻撃をかけた。ロシアの士官も、ドイツのカイゼルもフランスやイギリスでも、木の葉が散るころには家にかえれるだろうと語っていた。こうして短期で解決するはずの欧州戦争は始まった。


 ドイツ帝国とオーストリア ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア帝国は同盟を結び、ロシア、フランス、イギリスは協商関係にあった。同盟の持つ意味はある紛争当事国が攻撃によって決定的打撃を受けても、あるいは戦争をつずける充分な資源を持たないことが明らかでも、その国は同盟国からの支援で戦争を継続できる。そのため欧州での戦争は誰もが望まない結果をもたらし、長期化し2000万人以上の死者を生みヨーロッパを崩壊に導いた。

 当時一般の短期戦予想に対して、モルトケは「今度の戦争は決戦では片ずけられない、国家総力戦になるであろう。そして我々は、国力が完全に衰退するまでは負けてしまわない。敵国を相手にして、長時間苦闘しなければならない、たとえドイツが勝ったとしても国民は徹底的に消耗してしまうであろう。」と予想した。イギリスのアスキス首相も1914年7月に「ハルマゲドンが近ずいている」と書き、フランスやロシアの将軍たちも絶滅戦争や文明の死滅を口にした。結局この対戦の結果、ロシア帝国、オーストリア ハンガリー帝国、ドイツ帝国は崩壊し1918年に終戦した。


 多くの政治家たちや軍人は長期戦の恐怖は感じていたものの、短期戦の期待とその計画に沿って戦争は進んでいった。20世紀最初の欧州における大戦はまさに多国間の相互作用によるもので、それぞれの国の皇帝、軍人、政治家や国民の政治文化の結果であり、その立場いた決定者の人間の本性にもとずく恐怖、傲慢、欲望、願望、理性的判断の織りなす結果であった。

 科学技術の急速に進歩した現在も、やはり変わることのない人間の心、世界の認識、妄想が国家の行動を支配している。