くれないの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨のふる
正岡子規
正岡子規は江戸幕府最後の年1867年(慶応3年)松山藩士の長男として生まれる。17才の時叔父の加藤拓川を頼って上京し、第一高等学校に入学、1889年(明治22年)に詩文集「七草集」を書き上げる。漢文、漢詩、和歌、俳句、地誌、小説の七巻からなるもので、当時友人に読ませ、その批評を夏目漱石が好意的に書き、これが二人の出会いのきっかけとなる。
帝大を中退、1892年(明治25年)新聞日本に入社。古来の俳句を技法や用語で分類し、洋画の技法を俳句にも取り入れ、自分で観察した風景を句とすることによって、月並み俳句から写生の俳句への変革を始めた。
住まいを日本新聞社社主陸羯南の家の隣に定め、文明開化の象徴である情報の発信の中心メディア、新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句革新運動を広げていった。1889年(明治22年)に創刊された新聞「日本」は、政府の欧化主義に反対し、日本の国民精神を回復発揚することを目的としていた、保守的革新主義のメディアであった。文芸では和歌の入った紀行文、そして子規は俳句でその一翼を担った。
当時の日本は西欧の列強にならって、強国をめざして、産業を興し、教育の充実をはかった。軍隊も英国の海軍から専門家を招き助言を求め、近代的な艦隊をつくり、プロイセンの参謀将校が陸軍の近代化を助けた。明治政府になった日本は戦略的な安全保障を求めて、朝鮮半島に進出して、権益をめぐって清国と争いが起こり、1894年(明治27年)日清戦争となる。陸でも海でも数は劣っていたものの、訓練と装備に優っていた日本軍が勝利し、大陸まで突き進む。そして休戦協定の結ばれた11日後の1895年(明治28年)子規にも従軍記者として中国大陸の遼東半島に渡る許可が出る。広島から出発する前に松山によって「父の墓」という新体詩を残している。
父の御墓に詣でんと
末広町に来て見れば
鉄軌寺内をよこぎりて
墓場に近く汽車走る。
石塔倒れ花委む
露の小道の奥深く
小笹まじりの草の中に
荒れて御墓ぞ立ちたまふ。
見れば囲ひの垣破れて
一歩の外は畠なり。
石鉄颪来るなへに
粟穂御墓に触れんとす。
胸つぶれつつ見るからに、
あわてて草をむしり取る
わが手の上に頬の上に
飢えたる藪蚊群れて刺す。
父の墓を詣で、最初は武人として、従軍記者として気負って、広島から船に乗り込む。
いくさかな我もいでたつ花に剣
野に山に進むや月の三万騎
蛙はや日本の歌を詠めにけり
大連から金州、旅順と移動ししだいに、移動する中で、大陸の自然風景や人々の生活、そして戦争を漢詩や新体詩として写生して表現していくようになる。
わがすめらぎの春四月、
金州城に来て見れば、
戦のあとの家荒れて、
杏の花ぞさかりなる。
1895年(明治28年)春28才の夏目漱石は松山中学の英語教師として着任し、愚陀仏庵と名ずけた家に下宿した。大陸から戻り、神戸で入院していた正岡子規も病気静養のため松山に帰って、愚陀仏庵の一階に居候する。正岡子規の周りにはその地の俳句の愛好家が集まり、句会が開かれ、地方新聞に掲載された。この50日の間に、2階に住んでいた漱石も、その仲間に加わり多くの俳句を作っている。
鐘つけば銀杏ちるなり建長寺 夏目漱石
松山での病気静養を終えて、東京に戻った子規は俳句の革新で、与謝蕪村を発見し、高い評価をした。俳句の革新を次の短歌でも行い、1898年(明治31年)「歌よみに与ふる書」の連載を「日本」で開始した。そこで古今和歌集の紀貫之を否定し、万葉集を高く評価し、定型化し月並みの和歌を再生し、現実離れした空想的なものから、写実短歌と変えていった。
当時、子規より6才若い、与謝野鉄幹もまた新詩社をつくり和歌の革新を始めていた。今までの型にはまった和歌を自己表現の短歌に変え、心情を歌にして女学生ブームをつくり、「明星」誌上で与謝野晶子などの多くのスターを送り出した。「明星」は新しい装丁の雑誌で、その表紙は一条成美のフランス絵画を思わせる乙女を載せ、短歌などの文学と新進の洋画家美術を斬新なレイアウトで融合させ、華やかな新時代の象徴となる。
1901年(明治34年)1月の日本の「墨汁一滴」誌上で「去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹子規と併記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾おもへらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。」批判した。
正岡子規の気質は、大将的で、彼は自分が中心に立つことでなければ何事に対しても興味を見いだすことが出来なかった。漢詩や絵画のイメージを俳句として表現し、和歌も同じように変革し新しい短歌の世界を切り開き、敵対する相手と論戦を戦わせた。
しかし、病気によって心身が疲労してくると、「さすがに人間を小さいと感じることが多くなり、極めて柔軟で少しも彼の意に逆らわない天然界の王者になることを望んだ。」そして印象派の絵画のように自然を陽光の下で観察し、筆で言葉にした。子規は病床にあっても生涯「日本」の社員として作品を連載し、1902年(明治34年)に「墨汁一滴」1903年(明治35年)には「病床六尺」を連載した。そのなかで「草花のひと枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密がだんだん分かって来るような気がする。」と語っている。その年の9月に「糸瓜」の句を最後に母と妹に看取られ35歳で夭折する。
漱石は熊本の第5高等学校の講師として赴任し、離れ離れに暮らした。その後も子規は漱石に100通ほどの手紙を書き、冗談話や文学論などをやりとりしている。 漱石は1900年(明治33年)33才の時英国に留学する。その時も病床の正岡子規は多くの手紙をロンドンに書き送った。
1903年(明治36年)帰国し、亡き正岡子規のところを訪れ、「霜白く空重き日なりき。我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。 爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。我は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ。」と書き残した。
いちはつの 花咲きいでて我が目には 今年ばかりの春ゆかんとす
若い日に正岡子規と出会った夏目漱石、2人は畏友として互の文学に影響を与え、日本文学を変革し、日本の文化を豊かにした。