2018/07/03

岡本太郎の父一平


           梅咲くやえらく儲けた製材所                                                       一平

 

 岡本一平は1886年(明治19年)函館で生まれ、江戸情緒を残す東京で、5歳から生活する。一平は、美貌のおしゃれな都会っ子で、東京の下町育ちで洒脱で野暮の嫌いな江戸っ子気質をもち、東京美術学校西洋画科に入り、大地主の娘大貫かの子と結婚する。
 かの子は1899年(明治32年)生まれ、明星で短歌発表しその常連となっている。
2人は美術学校の主任教授の仲人で1910年(明治43年)に挙式した。翌年二人の間に長男太郎が生まれた。岡本かの子は、のちに女流作家として有名になり、また長男岡本太郎は戦後、日本美術の革命児となる。

 岡本一平は大正から昭和初期にかけて、朝日新聞に漫画にちょっと洒落た文章をつける漫画漫文を連載、大ヒットし一躍有名漫画家になった。
 夏目漱石は朝日新聞の1912年(大正1年)8月から翌大正2年12月の掲載作品をまとめた「探訪画趣」の序文で、一平の時事漫画とその洒脱な文章を「私はこの絵と文とをうまく調和させる力をいっそう拡大して大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いていただきたいような気がするのです。」と絶賛。
 その後、映画小説と名ずけ、ストーリー性のある漫画を創作した「映画小説 女百面相」を単行本として出版し、さらに子供向けの連載漫画「平気の平太郎」を発表。 風俗漫画、政治漫画、似顔絵漫画、人生漫画と幅広い漫画の世界を開拓し大正期大衆漫画時代を作り出した。

 1921年(大正10年)東京美術学校の古き良き学生時代の恋物語「へぼ胡瓜」
と大正13年「どじょう地獄」を講談社から発表。実生活では一途すぎる性格のかの子と衝突し、一時は梅坊主の一座に弟子入りし、ばか囃子やかっぽれを踊り浅草の舞台に上がる日々を送った。その後家庭生活の葛藤を乗り越えるため、宗教に救いを求め、二人でキリスト教の信仰に入り、やがて大乗仏教信者となった。
 
 漫画においては漫画漫文スタイルを確立し、超多忙な生活を送っていた一平は、1922年(大正11年)新たな飛躍を求めて、一度めのアメリカ、ヨーロッパの旅行に旅立った。アメリカ、イギリス、フランスの政治漫画雑誌の現場を実感し、東京美術学校時代の同級生藤田嗣治とも再会し、ヨーロッパ近代絵画の知識を身につけ、それを漫画の世界に反映させた。これは、しんぷりしちずむと題した8コマ漫画漫画など新たな漫画の手法に反映されている。
 
 
 1929年(昭和4年)ロンドン軍縮会議を朝日新聞特派員として取材のため出発。
ロンドン、パリ、ベルリンと1932年(昭和7年)まで3年間ヨーロッパに滞在し、息子の岡本太郎は1940年(昭和15年)までずっとパリで暮らした。

 政治まんが時事まんがも一平流をつらぬいた。政治に対する激しい怒りや批判をストレートにすることはしなかった。底流には江戸時代の俳画作品に通じる、洒脱と笑いと粋な姿勢があった。政治的にはあまり先鋭にはならず、批判は後からクスリと笑う、ペーソスに包まれていた。

 そして「漫画にもやはり歴史もあれば世界的情勢といふものもある。これらを腹に置いてかからないと論に権威が足りないし、確たる想も建てにくい」と技術だけではない漫画での知性、歴史観にうらずけられた表現を大切にした。  

 林陸相(議会印象評)大臣席の1ばん端で深沈寡黙を守っている将軍がムクムクキリッとなった。演壇に出ての語気が荒い。「好戦的態度で国民を煽るという事実は全くありません。軍部としては甚だ迷惑です」将軍の虎ヒゲに触れていいところと触るるとべからざるところがある。
 一平の政治漫画はやはり、夏目漱石が評したように、「あるものになると、画よりも文章の方が優っているように思われるものさえあった。」
 また「漫画を3つの起源に分け、ナンセンス漫画、諷刺漫画、リアリズム漫画で、時局漫画の如きにおいても風刺の実効よりも機智の興味に力を移してきた。時局風刺画は性能不足の時代となった。大衆はこの絢爛なる時局の動きに対して、漫画家に別の注文を求めている。それは時局に就ての挿画であり、ユーモアであり、機智であり、余裕である。」

 その頃1929年(昭和4年)に、一平は江戸時代の俳優絵帳の現代版「新水や空」と題した、俳優や政治家の似顔絵を新聞で連載し、毛筆で人物の性格まで表現した。かの子は一時期隣に住んでいた芥川龍之介をモデルにした「鶴は病みき」で小説家としての一歩を踏み出し、認められる。一平はそのプロデューサーを務め、かの子は次々と小説を発表し女性流行作家となる。その絶頂期、1939年(昭和14年)の冬にかの子は亡くなる。その遺稿の小説「生々流転」などを出版し、自らは、漫画界の第一線から退いていった。

 戦時体制になる中、翌年1940年(昭和15年)トントントンカラリと隣組と全国で歌われた隣組の作詞をして、再び脚光を浴びる。戦争の激化とともに東京の空襲が激しくなり、1944年(昭和19年)には浜松に、その後岐阜県に疎開した。 


ちいもははも猫もしゃくしもおとりかな
たもとして払ふ夏書の机かな 
          与謝蕪村

気に入らぬ婆アと並び田植え歌 
風流も用事も一つ机かな  
          岡本一平。




 大正時代から昭和の初期にかけて、新聞、雑誌の漫画漫文で一時代を築き、漫画にヨーロッパ美術の新たな手法を取り入れ、革新し、先端を疾走した岡本一平。晩年は江戸時代の与謝蕪村の俳画の伝統にもどり、戦争中、疎開先の木曽川沿いの田舎で小さな子供たちと生活し、漫俳を作り出した。
 そして、へぼより野暮を嫌った粋で、洒脱な人生を終生貫き、1948年(昭和23年)62才で幼い4人の子供を残して亡くなる。


秋晴れや映画の景色ゆく心地


菊の香やなにを今更諸慾ぞも