爾俸爾禄
民膏民脂
下民易虐
上天難欺
戦時体制下の1938年(昭和13年)厚生省は内務省から独立した。内務省の健兵建民政策の一部を担っていた保健所は独立後、主に結核の対策と伝染病対策に取り組んだ。
戦後はGHQのサムス准将による医療改革で、衛生警察から、民主化された保健所が公衆衛生を担う体制に変わり、厚生省に医師の技官を数多く登用し、科学的医療政策を進め、また海外からの引揚者からの伝染病を解決した。こうして戦後、厚生省は国民の健康を守る省として再出発し、省内に「爾の俸給は人々の働きによる、この人々を虐げてはならない。」との戒めが掲げられた。
戦後初期、日本経済は破綻して、食料もなく、大人も子供もその日の食事も手に入らない状態で、とりわけ子供達の栄養状態は悪化していた。GHQはこの解決のために、学校給食に脱脂粉乳とパンを輸入し栄養改善を図った。1950年代に少しずつ日本経済は回復し、米は食べられなくても、麦飯は手に入るようになり、栄養が改善するとともに感染症は減ってきた。 1960年代に日本は最貧国から脱して、所得倍増計画のもと日本の豊かさは世界の中進国まで到達した。その象徴とも言える「国民皆保険制度国民皆年金制度」ができるのが1961年(昭和36年)、病気の治療が保険によって受けられるようになった。
1970年代は日本列島改造、高度経済成長の時代で、1973年(昭和48年)には老人医療費は無料となり、各県に1大学の医学部ができた。日本は経済的に上り坂になり、GDPは世界でアメリカの次に多くなり、やがて世界一を目指すまでになった。この好調な経済に支えられ、全国の医療体制は次第に整備されていった。車が普及するとともに交通事故も激増し、救急体制を中心とした医療の充実がはかられた。公衆衛生と医学の進歩により14歳以下の死亡者は激減し1980年には数%までに減少し、子供の時死亡することは稀になってきた。
若者人口増加の戦後40年間は経済成長の時代で、所得は倍増し、列島は改造され交通網は充実し、東京などの大都市は世界の都市と肩を並べるようになった。アメリカ医学が取り入れられ、病院は整備されてきた。しかしその後の40年人口構成は変化し、若者人口は減り高齢者が増え、厚生行政のあり方、戦略は変こうを迫られる。
医療を提供する病院や診療所の体制をどうするかが再び問題となってきたころ、 家庭医に関する懇談会報告書1986年(昭和61年)が厚生省から出された。昭和50年代からアメリカでは家庭医と言う専門医を養成しはじめた。それを学び日本でもこの家庭医を実現させようとした。そしてイギリスでの登録制度の家庭医の存在や、医療国営の考えもその背景にはあった、それに反対して日本医師会は家庭医の言葉を使わないように、かかりつけ医という言葉を提案した。結局、家庭医の制度は取り入れられず代わりに、2000年(平成12年)に、医学部卒業後の2年間は家庭医の仕事が十分できるように、各科をローテートしてから専門医となるべく入局する研修制度が法案化され、2004年(平成16年)に実行された。
戦後の40年そして急性期に対応する病院の数は充足した。1990年(平成2年)以降は高齢化が急速に進み、75歳以下の死亡者は減り、平均寿命は急速に伸びてきた。急性の病気や感染症は次第に減少し、慢性の病気や老化に伴う身体的不調の人々が増えてきた。その高齢者は医療を受けた後のリハビリや家庭内の介護が必要となって、社会的システムとして世話を引き受ける、個人や家族が抱えこむのではなく、社会全体で老人の世話をする必要性に迫られた。その結果、医療のみではなく介護も保険でまかなう介護法案が法律化され1996年(平成8年)介護保険法が成立した。
現在、日本国民の平均年齢は47.8歳でインドの28.7歳、アメリカ38.5歳、中国38.4歳の比べ飛び抜けて高齢である、今後10年後20年後はこれがさらに高くなり、所によっては80歳以上の人口が半分を占める地域が出現する。そして現在 病院での医療が中心であったものが高齢、多死社会になって、地域のネットワークで高齢者を支える必要が出てきた。地域ごとに病院と診療所や介護の施設が役割を分担し、家に住みながら医療介護も受けられることが必要になってきた。病院は高度な急性の病気に対応する病院は減っても、その後のリハビリや療養を担う病院、介護を主体とした病院は増え、さらには在宅で対応する介護と医療を地域で備える必要が出てきた。
感染症は克服されたかに見えた20世紀末、再び新たな感染症に世界が振り回されることになった。国家としての感染症対策が必要で、新型インフルエンザやSARS、MARSや、今回の新型コロナの世界的流行は、感染症対策の司令塔や保健所の役割が改めて問い直される。健康危機管理システムを整えて、突然起こる感染症に対応する体制が必要となった。
保健所は1937年(昭和12年)内務省が国を支える兵士や国民の健康が大切であるとして健兵建民政策のために各都道府県につくり、戦後これが解体され保健所は厚生省の傘下に入り、公衆衛生を担うことになった。ここが新型コロナ感染症対策に対応した。
まずコロナ感染症を感染症の2類にして、結核感染症課が担当した。保健所が感染者を検査し、周りの接触者を特定し、隔離し封じ込める方法で対応した。PCR検査は保健所が地方の衛生研究所に検査を依頼して感染経路も追った。さらに詳しい変異株の検査は国立感染症研究所に一本化した。
この時政府はPCR検査の拡充や対応する施設の拡大を図るもうまくいかず、また市と町の管轄する保健所と、県と国が別々に対応し、政府の発表と感染症の対策の現場がチグハグになっていた。治療においても、病院はバラバラで大学病院は文部省の管轄下で、厚労省の管轄下病院の多くが私立病院で、公的病院も管理の主体は様々で一本化されていないため、病院間の連携はとれず、重症患者の受け入れは一部に偏った。公衆衛生を担う保健所と治療する病院は別のシステムで動いていた。
このバラバラな統治を一元的にするために、今後は公衆衛生や建康危機の管理をアメリカのCDC(Center of Disease Control and Prevention)参考に改変が図られようとしている。
1983年(昭和58年)厚生省の吉村仁保険局長が「医療費亡国論」発表し、高齢化が進み、このまま医療費が増え続けば国の財政はそれに耐えられなくなると公表したが、当時日本は豊かであり、その後バブル経済の時代になり、あまり切実感は広がらなかった。
2000年になると、この心配が現実のものとなり、国の財政赤字が増え、社会保障費も制限する必要に迫られ、医療費の自己負担額は増え、社会保障費も抑制され始めた。
その後も高齢化は進み、経済の成長も止まって、国の借金はその後20年で2倍に膨れ上がった。限られた国富を使って高齢者が増えた社会をどのように安寧に保つかが医療をどうするかの大もとになっている。今のまま支出を国債発行(借金)でまかなうことができないとなると、支出を減らすか、稼ぎ手を増やすか税を増やのか、あるいは他の方法か。
人生100年時代は80才まで働く時代かもしれません。
「太平の 夢から覚めて 蔵見れば なおも膨らむ 借金の山」