2010/03/29

満州事変後の日本と小林秀雄


 第一次世界大戦のあと、1920年代は大戦の反省から、世界的に平和の時代であり、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代でした。共産主義と民主主義が世界にひろまり、そして,次の1930年代は世界的な大転換がおこり,革命の時代に入ります。

 その頃日本国内でもプロレタリア文学が流行し、学会でも社会主義や無政府主義の紹介がなされるようになってきました。

 小林秀雄は昭和初期の1929年(昭和4年)改造に“様々なる意匠”を発表。そこでのプロレタリア文学批判、その観念性と政治の為の文学に対する批判は、時代の先駆けでした。

 

 一世を風靡したプロレタリア文学も、1930年代前半には共産党員の大量の検挙や、幹部の転向宣言などで人心がはなれ、しだいに日本全体が民族主義的になってきました。右翼の運動はさらに過激な行動主義,テロリズムに走り出します。

 1930年には、後に外務大臣になった松岡洋右が国会で幣原外交の国際協調路線を批判し、経済上、国防上満蒙はわが国の生命線(life line)であると演説し、その頃東京帝国大学での調査でも、学生達の88%が満蒙に対する武力行使は正統であると回答しています。

 1931年に満州事変がおこされ,国内での一般国民の世論は陸軍の主張を圧倒的に支持しました。この背景には、1931年から翌年にかけて、政争に明け暮れる政党ではなく陸軍が“国防思想普及運動”を全国で展開し、その中で、「この生命線を守るため、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の救済は最も重要。」とし農民救済,国民保健、労働政策を各地で訴えた結果でした。

  また小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、満州の印象で以下のように書いています。

  この年から国策で16から19才の少年達の移民政策が始まり、この満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所の一カ所を見学し、寒さの中、計画が、うまくいっていない様子も描いています,「満州にわたった少年開拓団の子供達について、その表情は奇妙なものであった。まさしく困難な境遇におかれた時の子供の心そのままの顔なのだ。」書いていました。 そして“欠陥は満拓公社という官僚的組織と何をおいても先ず臨機応変の手腕を要するこの新しい仕事の実際との決定的齟齬にあるのではあるまいか”と

 当時日本の政府は国内の閉塞状況を打ち破るため壮大な夢と熱狂のもとで500万人の満州移民計画をたて、その為に、特別助成金や、別途助成金を村や町に出し、道路整備や産業振興に使う政策をすすめ多くの国民を満州へと向かわせさました。

 小林秀雄は亦1939年(昭和14年)“疑惑Ⅱ”では、「国民の大部分が行った事も見た事も無い国で,宣戦もしないで大戦争をやり,新政権の樹立、文化工作、資源開発を同時に行ひ,国内では精神動員をやり経済統制をやり,といふ様な事態は、歴史始まって以来何処の国民も経験した事などありはしない。」と記しています。

 その当時陸軍は、中国の脅威を最初は反日運動、次第に平和を攪乱するする匪賊、最後には、満州を奪おうとする国民党の陰謀と喧伝しました。そして、上海事変、盧溝橋の発砲から、北支事変、南京占領へと突き進んでいき、1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃から対米英蘭に宣戦布告に至ります。

 この事変から戦争にいたる日本の正当性を意義付けるため、昭和17年(1942年)座談会「近代の超克」が13人の学者知識人によって催され、このメンバーの一人として小林秀雄も参加しています。「この戦いは世界史的に見れば、行き詰まった西欧的近代を再定義し、それを超克するものである。」とした内容で、その年の雑誌『文学界』に掲載されました。

 その後の小林秀雄は政治的発言をほとんどせず、西行や実朝の世界を描き戦後、“無常という事”モオツアルト“などを発表することになります。