落葉
秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに、うら悲し。
鐘のおとに、胸ふたぎ、色かへて、涙ぐむ、過ぎし日の おもひでに。
げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落葉かな。
ヴェルレーヌ 「落葉」 上田敏 訳
江戸時代の文学の典型は、儒教的な教訓と、人の世の人情や滑稽さを描いたもので、近代以前の儒教の影響が色濃く反映していた。曲亭馬琴の南総里見八犬伝や、式亭三馬の浮世風呂、十返舎一九の東海道中膝栗毛は日本庶民の愛読書となった。それより前の田沼意次の時代には、1788年に、恋川春町は「悦贔屓蝦夷押領(よろこんぶひいきのえぞおし)」を黄表紙で水滸伝のように、蝦夷地(北海道)を舞台にロシア、中国、日本人の活劇小説を世に出し、平賀源内は「風流志道軒」で主人公の浅之進が仙人にもらった羽扇を手にして、「大人国」、「小人嶋」、「長脚国」そしてボルネオ、アルメニア、天竺、阿蘭陀さらに「愚医国」「いかさま国」などを巡り、荒唐無稽の異国遍歴の物語を出版した。
上田秋成も、物語とはひとしく「そらごと」「作り物語」である。作者の心の中の憤りを書きだし、それを出来るだけ現代の世相にはばかって戯曲化し露骨に表現しないように、過去の時代の事実なき筋に託したり、たわいない滑稽に紛らわせる。これが小説であるとした。また江戸時代の小説では、「支那(中国)や日本の小説だと、災厄が四方に迫り、進退全く窮まるにに際し、之を救ふ者は神仏の加護にあらずんば、必ず狐狸妖怪の助力であった。」
明治になり、西欧近代に出会うと、明治3年は早くも「西洋道中膝栗毛」が仮名垣魯文によって書かれた。弥次郎兵衛と北八がロンドンの万国博覧会見学に行くの途中の騒動物語であった。
明治11年(1878年)「八十日間世界一周」や「月世界旅行」が翻訳された。その中で、資本主義の国フランスらしく、クラブの中の賭けから世界一周の物語が始まり、月を目指す砲台作りには資金集めが重要だった。しかし物語のクライマックス、窮地に陥った時主人公を救うのは、神や仏や妖怪ではなく、合理的精神であり、資本力のある人の経済であった。
二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳「あひびき」で江戸の文芸から別れ、新たな言文一致の斬新な文章で当時の青年たちに熱狂的に受け入れられ、ドイツ留学をした森鴎外の翻訳詩集「於母影」、恋愛劇「即興詩人」は西欧への憧れを日本の若者に広げていった。
坪内逍遥は小説神髄で「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」として近代小説は江戸時代の八犬伝など、儒教的な勧善懲悪を批判し、真の近代小説であるためにはあるがままの人の情、煩悩などの心の内面を表現するのが文学であるとした。こうして江戸時代の戯作文芸からヨーロッパの自立した個人の内面や社会を描く西欧的小説の時代が始まった。
明治時代に近代日本文学が生まれたのは、西欧の小説が近代国家の文化とともに取り入れられたことによる。当時のイギリス、フランス、ドイツ、ロシアは経済的にも豊かで、軍事的にも強大でそれを支える国民の文化は豊穣であった。とりわけフランスは明治維新の時、第二帝政期で、世紀末の第三共和国が、第一次大戦を迎えるまで、ベル エポック期と呼ばれ、ヨーロッパ文化の中心で、世界の憧れの都市であった。
その時代のフランスの文化の香りを詩とともに日本に移入したのが上田敏であった。1905年(明治38年)上田敏の「海潮音」が翻訳刊行された。此の詩集やボードレールの詩集「悪の華」など19世紀末の象徴詩を翻訳した。当時のフランス象徴詩は対象を暗示し神秘性を語ることが象徴詩の目的で、この心情を読む人の心に起こさせるものであった。
フランス文学を正確に理解し、それにとらわれず日本語の詩として表現した上田敏は日本の和歌から、新しい言葉の響き、海の向こうのフランス語とその精神を日本語の詩として創造した。そして明星の誌上に「英米の近世文学」の中でバイロンの詩やチャールズ ディケンズの小説などを紹介している。
上田敏は東京帝国大学でラフカディオ ハーンのもとで学び、英語やフランス語をよく知っていて、外国語で完全に思考し表現できる学生と高く評価されていた。翻訳こそ日本を一等国に押し上げる原動力であり、国力としての経済、産業技術だけでなく、文化こそその国の豊かさ、国力の源泉であると考えていた上田は、20世紀初頭の日本について、「維新前後の混乱期にあって古典を学んでおらず、先行世代に比べ基礎的教養がない。また現在の若者も、短期間での専門家養成を目指す教育の弊害として教養教育を欠いており、文科を志願する者の他には、学生は精神上の修養といふ事を全く怠って居る。」
海潮音はフランス象徴詩を文語で訳し、原詩の叙情を、日本の古語の優美さを、その詩で創作した。のちの詩人北原白秋は「私がサツフォの断章を知り、ショパンを知り、近代白耳義の若い詩人たちを知り、仏蘭西の高踏派、象徴派の諸種の詩風を知り、世紀末の頽唐した諸官能と神経との交響曲を知り得たのは全く博士のお陰であった。」と語っている。
夏目漱石も西欧の文学が何かわからなくてロンドンの留学に向かった。イギリスの歴史と文化の奥深い教養から生まれる、シェイクスピアなどの小説の背景をなしている人間の洞察や人間存在を描くことを学んだ。留学時イギリスのケンジントン博物館、ヴィクトリアアンドアルパート博物館、ナショナルギャラリーなどを訪れている。多くのイギリスの芸術に触れ、それらの芸術は技巧ではなく自己の思想なり、価値観の表現であることを発見する。そして多くの小説に取り入れた。晩年には「天に則り私を去るとよむ。天は自然である。自然に従って、私、すなわち主観や技巧を去って、文章はあくまでも自然たれ」とする則天去私の考えに至る。こうして純文学は明治時代のヨーロッパの芸術の影響のもとに日本にもたらされ、トルストイの「戦争と平和」やスタンダールの「赤と黒」などの全体小説が目標であり基準となった。そして明治の文豪森鴎外や夏目漱石が生まれた。
一方、SF作品である、ジューン ベルヌが明治時代の初期に翻訳された。アフリカや北極、そして世界から月世界や海底に物語は広がり、展開する。これは、冒険の舞台が空間的に広がった新たな活劇として好評を博した。坪内逍遥は、それらの未来小説を「ヴェルヌの主眼とする所は学術の進歩を示すににあり、有形の社会の星霜の変化をしたる様を示すにあり、故に真成の小説の如くにあながち妙想を写さんとはせず外部の現象を写し得ればそれにて十分に満足したる者にて 云はば変則の小説にしていわゆる哲学の同胞にはあらで理学の解釈例証に過ぎざるものなり 」と批判的であった。
坪内逍遥の言う通り、SF小説は時間軸と空間軸をどんどん広げ、思考実験としての世界を荒唐無稽ではない起こりうる現実としての科学的物語で、メインストーリーはその科学的正確性と同時にアイデアの斬新さや意外性が重要視される。それは推理小説や冒険小説についても同様で、人間の能力のうち主に前頭葉の働きである理学、知的ゲームに主眼が置かれる。これらのエンターテイメントに近い通俗小説、娯楽のための読み物は江戸時代の黄表紙の時代からあった。明治時代の小説家にとって本当の小説はリアリティや哲学性をもった純文学、純粋小説であり、通俗小説とは明らかに質の違うものであった。