2021/12/06

神の国、民の国


 240段の石段を上った山の頂の一番奥の高いところ、家康を讃えて建立された全ての社殿を背後から見下ろすかのごとく、大きな石積みの上に青銅の壺がのる簡素な墓があり、そこに家康の遺骸が眠っているのである。    

                    イサベラバード 「日本奥地紀行 日光東照宮」


 国を支配する権力者は様々な型で国を統治し、歴史的に多くの宗教国家や王国、独裁国家が生まれた。その権力を保ち存続させるためには、その正統性を人々に認められる必要があった。古くは王権神授説で、神に与えられた権力であるとして支配者は権力の正統性を語った。


 日本では、古代は天皇が国を治め、鎌倉時代になって初めて武士が権力を握る。鎌倉幕府が武士の源頼朝によって、開かれ、権力が武士の手に渡った、それに対して後鳥羽上皇が政権奪還を目指して天皇のもとに権力を戻そうとして敗北し、隠岐島に流された。この承久の変の後、武士が権力を完全に握り朝廷は儀式や官位を与える権威の象徴のみになった。


 その鎌倉幕府も、後醍醐天皇に敗れ幕を閉じ、建武の新政と言われる天皇制が復活する。この建武の新政はうまくいかず、新たな天皇をたて、自らは征夷大将軍となった足利尊氏が室町幕府を開く。これが北朝で、一方北朝方の天皇、上皇、と三種の神器共々吉野に撤退した天皇が正統性を主張し南朝の政権をつくり、天皇の並立する南北朝時代となった。


 足利尊氏と対立した南朝の北畠親房は、歴史書「神皇正統記」を書き、南朝の正統性を神道の思想で編纂し残した。日本の国の成立は天照大神が天孫降臨するとき与えた神勅から始まり、後村上天皇の時代までの天皇の万世一系の血統が続く系譜を書き記し、三種の神器、鏡、玉、剣を正直、慈悲、智恵に対応させ、これが正当に受け渡されることが正統の根拠であるとした。さらに、現実の統治には民の安定こそ重要で、初期の鎌倉幕府を支持し、承久の変を不義とした。神の意志は民の安心、仁政安民にありとして、神道でも儒教と同じように統治者の仁を求めた。


 室町幕府は三代目の足利義満の時、権力の証を皇室では満足せず、明の皇帝から国王と称されることを求めた。しかし、その後も権力は日本全土には及ばず、応仁の乱になる。権力と権威は空洞化し、日本全国に群雄が割拠し、戦国時代に突入した。近畿地方と中部の中心を支配した織田信長は室町幕府の将軍義昭を擁立し全国の支配に近ずいた。その後、義昭を追放し自らが武士の頂点に立ち、権力を握り、天皇からの官位を辞した。信長は天皇や将軍の伝統的権威を否定した。自らが統一した日本の皇帝になることを望んだように思われる。しかし、その望みは実現せず、信長は全国制覇の途中で暗殺され、それを引き継いで秀吉が日本を統一した。


  秀吉は天皇から関白の称号を得て、朝鮮出兵以後は太閤の称号を得た。農民からついに天皇と並び立つ地位を獲得し、「自分が権力に登るとは、まさに奇跡的なことで、自分自身の力によるものではなく、日本、中国そして遥か西のアジア諸地域をも支配する特別の使命のため天が選んだため」と天道の思想を用いて自らを描き、さらに「わが国は神国である。神は心であり、心は全てを包んでいる。どんな現象も神なくしては存在しない。神なくしては、霊も道もありえない。神は生長の美しき時も衰退の悪しき時も増減しない。そして陰陽不測である。それゆえに万物の根源である。それはインドでは仏法、中国では儒道、日本では神道と呼ばれている。神道を知ればすなわち仏法と儒道を知る。」と語り、死後遺言で、彼をまつる神社を建てることとした。これが「豊国大明神」で神道をもとに秀吉を神格化した。この秀吉を祀る神社はその後各地に建てられた。



 政権を握った家康は「天下は天下のための天下なり」として儒教の天道思想で支配の正統性を語り、大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼした二ヶ月後「武家諸法度」と「禁中並びに公家諸法度」を公布し、家光の時旗本や御家人に対して「諸士法度」を交付して外様大名から旗本御家人庶民を将軍お権力の下に置いた。そして皇室は国政には関与しない体制とした。


 家光の時代になると鎌倉、室町の将軍たちとは全く異質の方法で徳川の権威を高めた。家康を神祖化するため、1934年日光の家康の社を豪華な廟に立て直し、徳川家康が「神君」と称されるようにした。日光の家康を祀った東照宮を建て、東照大権現とした。正直、知恵と共に慈悲が神聖な徳である。これらは万物の根元であり、日本の三つのシンボルの根底によこたわる理であるとして天道をもとにした「東照宮御遺訓」を残した。


 日本の有史以来政治の中心の天皇、都の京都が日本のイデオロギー空間の中心であった。この空間を家康から3代目の家光の時代に、権力の中心に将軍家、都を江戸、家康を祀る東照宮を日光に再配置し江戸幕府も新たなイデオロギーつくり、天皇を国政から遠ざけ、日本を支配し、天下泰平の世をつくりだした。

 

  

 1868年、徳川慶慶は薩摩と長州を中心にした反幕府軍に敗れ、政権を明治天皇に奉還。薩長連合軍はこの時14才の天皇を中心にした政府をつくり年号を明治とした。ここに再び政治の中心に皇室をおく神武以来の王政復古がなされ、それを動かす機構に西欧の中央集権制が採用された。


 権力は長期の武士の政権から、天皇へと再び移った。若い天皇が京都から、東京へ向かう途中、伊勢に立ち寄り、伊勢の内宮に参り天照大御神を拝んだ。各藩は土地や民を国に奉還し、国はこれを新しく県に再編し、武士階級はなくなり、四民平等として、中央政府の軍をつくり、国家の体制を整えていった。

 当時西欧から急速に、新しい思想が国内に流入した。明治憲法を作るにあたり、日本ではこれまでの宗教が国民全体の機軸となるほどの確固たるものはなく、江戸時代の儒教は日常生活の徳目としてのみ残り、仏教もまたその宗教的な影響力はそれほど強固ではなかった。明治憲法では新しい国家体制の機軸とすべきは皇室あるのみとして、天皇制を機軸として1899年明治憲法が制定された。

 国王とは異なる、立憲主義をとり、そこには信教の自由が認められ、天皇の機能を行使するのに、3大臣が輔弼(助言)をするように定め、大権行為は天皇のではなく大臣が最終責任を負うものとした。そのほかに元老も輔弼の役割を果たし、軍事の統帥権については、陸軍参謀総長や海軍軍令部長が輔弼の役割をになった。 


 よく年1890年に教育勅語が発布された。この中で神話、天皇、国家は結びついた。

「朕思うに、わが国は天皇の祖先がつくり、徳をもって国を治め、臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげてきた教育の基づくところもまた実にここにある。」から始まり、儒教の徳目を定め儒教道徳と神道の混合した神話による国家、神の国日本の教育の目標を定めた。そして、一旦急あれば義勇を持って公に奉ずることとした。


 明治維新の後、明治初期の新しい思想の中に自由、民権の思想があり次第に反政府の運動として力を持ってきた。国論は分裂して、国内は流動化しつつあった。時の政府は伊東博文を中心にして、憲法を制定し、教育勅語を発令し、神話教育を進め天皇制の国に作り上げられていった。


 天皇を神格化して現人神となり、日本書紀は神話であったのが、次第に歴史的事実となり、誰も批判できなくなった。そして神道は国家神道となる。


 第二次世界大戦の敗北により、日本は国民が主権者となり象徴天皇制に変わり、平和を求めれば戦争はおこらないものであり、経済のみを重視する価値観が広がり、宗教なき世界になっていった。