2022/08/16

寺山修司 時には母のない子のように II

 時には母のない子のように だまって海をみつめていたい

時には母のない子のように ひとりで旅に出たい 

だけど心はすぐかわる 母のない子になったならだれにも 愛を話せない


 寺山修司は1935年(昭和10年)生まれ。父親寺山八郎は4才のとき、セレベス島で戦病死してその後、母親せつと、父のない子の生活が始まる。


 わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びき番人が棲む


 わが鼻を照らす高さに兵たりし父の流灯かかげてゆけり


 父親になれざれしかな遠沖を泳ぐ老犬しばらく見つむ


 1954年(昭和29年)「チエホフ祭」1957年(昭和32年)第一作品集「われに5月を」を発表、1958年(昭和33年)第一歌集「空には本」を刊行した。


 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり

 

 少年時代から、言葉の力を信じ、言葉の生み出す力を信じる、それは終生変わることはなかった。感情のさらに奥にある情念、故郷や父の不在や母の存在、血縁の修羅を言葉とした。「短歌31の言葉の牢獄に、肉声のしたたりを封じ込めた。」と語るその心の奥底の不定形の情念は、日本的アニミズム、因習、血縁の世界であった。しかし、心の奥を言葉にした初期の頃の短歌や、日本の従来の短歌の特徴とした、私的な自己告白の歌は否定し、ロマンとしての短歌、歌われるものとしての短歌をめざした。


 すでに亡き父への葉書一枚もち冬田を越えて来し郵便夫


 みずうみを見てきしならん猟銃をしずかに置けばわが胸を向き


 林檎の木ゆさぶりやまずわが内の暗殺の血を冷やさんために


 1962年(昭和37年)「血と麦」を刊行した。「私の体験があって、なお私を超えるもの個人体験を超える一つの力が望ましい。心、鬼そんなものを自分の血のなかに、行動のバネのようなものとして蓄積しておきたい、と思っている。」

 それゆえに政治的な発言も政治的社会的な文脈から離れ、言葉とその情感、心情に、共鳴する形で評価した。そして現状の破壊者としての、ヒットラーを論じた。「ネロの一生はどこかヒットラーの一生を思わせる。彼らはオペラハウスでやることを国家の歴史の上で演ってしまったという「場違い」をしただけのことだからである。」我々に興味があるのは思想でなく思想をもった人間である。

 詩人もたとえば本気でデモの効果を信じ、テロを信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。その後も「革命は呪術化し、運動は祭儀化し、幻想の世界を抱え込む。」と赤軍派を擁護している。 寺山修司はこのカルチャーに対するカウンターカルチャーとして反合理主義、反歴史主義の新しい世界を言葉と映像の世界で生み出そうとした。



 新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥


 かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭


 1965年(昭和42年)「田園に死す」を出版。その表題は恐山、犬神、子守唄、山姥、そしてこの歌集に新たに文を添えて出版した。短歌のかたわら、1960年代にはドラマを書き、演劇の脚本も手がける。やがて短歌の世界から、演劇実験室天井桟敷に活動を移す。



 1967年(昭和44年)「青森県のせむし男」を皮切りに新しい演劇は開始され、第二回の公演は「大山デブコの犯罪」だった。天井桟敷は「毛皮のマリー」、「青ひげなど」親と子の古くからの因習を見せ物的構成とアバンギャルドな衣装、新しい視覚の表現によって演劇にした。


 1968年(昭和45年)アメリカの前衛劇の事情視察のための渡米した。1960年代後半、時代は世界的に、カウンターカルチャー、若者たちの反抗の文化、ヒッピーやパンクがアメリカから起こり文化運動として世界に広がっていった。ヨーロッパでもパリのカルチェラタンや日本でも若者の反乱が起こっていた。体制に対する反逆、家や家族制度、学校教育あるいは理性的秩序、愛情に叛逆の衝動を広げていった。

 同じ年、寺山修司はニューヨークのブロードウェーのミュージカル「ヘアー」のヒッピー文化と共鳴する。その年「書を捨てよ、町に出よう」の舞台で反逆するハイティーンを登場させ、「時代はサーカスの象に乗って」でその時代のアメリカを描いた。


 1970年代からは市街劇という新しい試みで、舞台を街中に移しての演劇を試みる。そして初期の実験演劇は情念の劇、怨念の劇に退化したとして、俳優中心の人間同士のドラマから、人間とものとの対立、虚構と現実の入り組んだ迷宮の中に新しい世界を作る演劇を目指した。

 70年後半には「盲人書簡」「疫病流行期」「阿呆船」など多くの海外公演を行い、呪術的、祭儀的、麻酔的陶酔をもたらす劇として迎えられた。

 

 「奴婢訓」奴婢は奴隷で、その奴隷が主人に変わる、権力の不在「レミング」で壁を壊す男の物語で壁を壊した後の偶然と無秩序の世界を描き、「百年の孤独」で生と死と過去と未来の反転する実験的演劇作品を作り最後の寺山作品となった。


 日本のカウンターカルチャーを世界に発信した寺山修司は、既成の文化に対して、反文化を、権力に対して反権力を、演劇を通して実現しようとした。多くの思想、作品をコラージュ的に取り入れ舞台音楽と映像を進化させていった。


 その世界観は、現実は一つではなく、多重構造である、自分自身でさえ自分の分身を規定しないと理解できない。母と子の物語と自己の中心の不在、自己を意味づけるものの不在をテーマの演劇を様々に、装いを変えて、繰り返し、繰り返し作品とした。その演劇では、人間と自然との関わりあるいは宗教や道徳は不在のまま、私とは誰かを問い続け、意識する自分が、意識下、無意識の自分の発する言葉、思想などさまざまな断片のコレクションを言語化し視覚化し表現した。