一面の芝の庭が裏山を背景にして烈しい夏の日に輝いている。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏庭へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。
昭和の庭園は、「豊饒の海」の場面に描かれたように、背景の裏山、庭石、楓そして青々とした芝に象徴される広々とした開放的な庭になった。 明治時代に、小川治兵衛が芝生を日本の庭園に取り入れ、大名屋敷のよく剪定された名木の庭から、山縣有朋などの政治家や実業家の岩崎小彌太たちが望んだ近代的な庭園に変わっていった。
その特徴は、庭に琵琶湖から導いた水を引いて、多くの石や岩を使って滝や池を作り、その前の解放された空間は、芝が多く用いられた。植栽は赤松やモミジ、そして京都の山々が借景となっている。この無鄰菴庭園に似た庭が昭和の時代に入っても標準になる。苔むす環境でない、明るく、広い庭園には手入れされた芝と、庭石、そして刈り込まれたツツジやサツキ、楓が植え込まれている。
「見渡せば春日の野辺に霞立ち 咲きにほへるは桜花かも」
万葉の時代、野山にはヤマザクラが自生していた。 奈良時代には、仏教とともに隋や唐の文化が流入し、そして珍しい植物も日本に輸入された。今までの日本には自生していなかった梅やヤナギが大陸から渡来し、流行した。
7世紀の推古天皇の時代にはすでに庭園が貴族の生活にはふつうに見られるようになった。広大な自然を取り込んで、限られた空間にそれを再構成することが行われ、庭は、仏教の極楽浄土を表現したものだった。石を組んで人工的な水の流れを作り、緑の樹木を配置して、鳥のさえずる空間を造形した。 その庭に植えられた植物には桃、梅や柳があった。 当時、土氏 百村の「梅の花咲きたる苑の青柳を かずらにしつつ遊び暮らさな」と梅を詠んだものは多く、この新しい園芸品種が流行していたことがわかる。
平安時代になると貴族によって、古代からの浄土教寺院の世俗化ともいえる阿弥陀堂の前庭に池や島をつくる、寝殿造りの庭園が広まった。部屋から見渡す庭には春や秋の草花を植え、その中にある人工の河の上に船を浮かべ、歌を詠んで楽しみ、夜には、月明かりの淡い光の下で集まり、自然を楽しむ、自然主義の庭だった。
平安時代の後期に書かれた「作庭記」は、石をたてん事まづ大旨をこころうべき也、から始まり、生得の山水を学ぶとして、ともかく人の作るものより、自然の姿、風景が優っているので、庭石もなるだけ自然らしく石を組み立てるべきである。池岸、池底、流路には石を敷きつめ、築山し、滝をつくり、樹木を組み合わせる。全体の構成は、風情をめぐらし、おもしろきことが大切と記している。
鎌倉時代から室町時代にかけて、再び大陸の影響で禅の文化が日本にもたらされた。庭には常緑樹のシイ、イヌツゲ、シャクナゲ、カシ、ヒイラギ、マキなど平安の庭には見られない種類の木々が使われるようになった。
室町時代に雪舟は中国の明に渡り、南宋画を学び、それを日本の山水画にした。この水墨画はいろいろな自然の中の、本質的なものを象徴的に単純に表現する。 当時京都は応仁の乱で混乱し、山口に移った雪舟は医光寺の住職となり、庭造りにもその才を発揮し、今に残る庭園をつくった。陽光の下に、水と植物と岩を使って、芸術としての庭を作る。原生の林で出来た裏山を借景として、岩を組んで枯れ滝をつくり、浮き石を配置した池庭をつくり、池のまわりに低潅木のツツジやカエデを植え込んで、山水画を描くように、庭を造った。
応仁の乱の後、時の将軍、足利義政は現代にも続く、住まいや華道の源流、東山文化を作った。築庭に情熱を注ぎ、禅宗の影響のもと、日本古来からの美意識と共鳴し、日本の風土に合ったものとして完成したのが銀閣寺とその庭園で、東山丘陵を背景にした、煌びやかな色彩を使わない幽玄の美を完成した。
この時代に、新たに自然を狭い空間に圧縮して、象徴化する枯山水が造られた。白い砂の上に様々な大きさの15個の岩を配置した龍安寺の石庭、さらに大徳寺の大仙院につながる、禅から生み出された、現在の抽象画のような庭が完成した。最初の枯山水は作庭記にも記載されている、それが山水画や禅の思想の影響のもとに、禅の庭の名で呼ばれる枯山水として発展した。
その後江戸時代にかけて様々な形の枯山水の庭が造られる。銀閣寺の向月台もまた江戸時代に、東山からのぼる月を待ち、杉の木の向こうから次第に浮かぶ月の光の下で、輝く銀の砂の庭として完成された。 将軍毛利家の家老桂運平忠晴によって造られた月の桂の庭もまた、岩の上に岩を重ね、その砂に月が光る、そこに団子と小豆がゆを供え、月待ちの行事の舞台となる。
西行の月すむ空へのあこがれ、足利義政の東山文化のかたぶく空の影をしぞ思う心、それを庭で造形し、夜空の下の月の輝く世界と共鳴する、静寂の空間を生みだした。
そこには華麗で秩序だったベルサイユ宮殿やアルハンブラの庭、あるいは日本のきらびやかな金閣寺の庭には無い、それとは対極の侘びの美を見いだし、現世の限りない権力への執着や富への欲望を断ち、色彩を抑え、無常観をたたえた庭となった。
戦国時代になると、茶道を極めた千利休が露地に庭をつくった。それは、樫の葉の散りつもる、奥山寺の道にたとえ、露地に落ち葉が積もっているのが重要で、そのまま掃かぬが巧者なりとし、また庭木には花のある木を嫌い、カシ、シイ、ユズリハなどの照葉樹林系の常緑樹とその二次林の落葉樹であるカエデ、マユミ、ヤマウルシなどが良いと、「茶の湯六宗匠伝記」で述べている。
自然のままの、木々と石を配置した露地草庵と呼ばれる茶庭と極小の茶室の世界、無彩色の楽茶碗や万代屋釜を使い、茶杓も自作した美意識に徹した世界を生みだした。千利休によって、わびとさびの日本文化が完成し、日本中に広まっていった。
日本的庭は、日本の美意識に合ったもの、一切の無駄を排し、色彩を抑え、自然のままの石やシンプルな植生を組み合わせた築山、枯山水、露地の庭になった。その様式が、庶民の庭にも採り入れられ、昭和の時代まで続いた。
「おほくの工の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めずらしく、えならぬ(素晴らしい)調度どもならべおき、前栽の草木まで心のままならず(あるがままで無く)作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし」
徒然草 吉田 兼好