2009/03/08

大正時代と芥川龍之介


  大正時代は1912年からはじまり、1926年までの15年間で,この時代日本は極東における大国になりつつありました。

 

 この大正時代の代表的作家は芥川龍之介で、1892年(明治25年)に生まれ、大正4年(1915年)に羅生門を発表し、事実上のデビュウ作となりました。文章のうまさ、冴えそして物語の見事な構成力で、人間心理を描き出しスマートな短篇小説を次々と生み出し、若くして国民的作家となりました。薮の中、鼻、蜘蛛の糸,地獄変は今昔物語など昔話を題材として創作したもので,中国を舞台にした物語、童話など多岐にわたる短篇を世にだしています。

 

 大正3年(1914年)ヨーロッパを主戦場として第一次世界大戦勃発。日本は参戦したものの,被害はほとんどなく,輸出で利益を得、つかの間の好景気と平和がおとずれ,大正モダンと呼ばれる都市化と,大衆化の時代でした。

 

 大正6年(1917年)人生劇場の作家尾崎士郎は、“最近世界各国の政治を支配する新たな時代精神は云うまでもなく政治の平民化であり,民衆化である。”と雑誌で論じ、 第一次大戦後の世界は、帝国列強の力の時代から、道義が大切であるという方向に政治学の趨勢は変わっていきました。

 

 それにあわせて,国内にも日本改造を合い言葉に様々な団体ができました。民主主義を目ざす黎明会や新人会、それと対極をなす興国同志会など国粋主義団体が次々と結成され、文学もプロレタリア文学や自然主義文学が台頭してきました。

 

 一方、中国では大正8年(1919年)には、講和会議に対する幻滅から,五−四運動が起こり、又,日本の21か条の要求など対中政策に対して、排日反日運動が高まっていました。

しかし、中国は統一されず中華民国政府、共産党、地方軍閥の間で内戦がおこり混乱を極めていました。

 

 この頃大正10年(1921年)、芥川龍之介は大阪毎日新聞の特派員として,3月から7月までの4ヶ月中国を旅行しその旅行記を“支那游記”として発表しました。

 

 ○支那の紀行となると,場所そのものが下等なのだから,時々は礼節を破らなければ溌溂たる描写は不可能である。

 

 ○現代の支那なるものは,詩文にあるような支那じゃない、

 

 ○上海同文書院の見学では一本の鯉幟を見て、“支那じゃない日本にいるのだと云う気になった、しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に,支那の百姓が働いていた。それが何だか私には怪しからんやうな気をおこさせた。”

 

 ○あるいは天平山白雲寺の反日の落書きについては、“この使喉費は30万円内外ということだ。”と記している。

 

 毎日新聞の紀行文の随所に見られる、今では考えられないような表現や偏見に驚かされます。それが、当時の日本人の一般的な中国観そのものだったことが伺われます。

 

又短篇小説“馬の脚”で、北京の三菱につとめている主人公が、“わが金甌無欠の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば,一家の主人たる責任の如何に重大なるは問うを待たず。”の文章は当時の日本の家庭に、国体思想が行き渡っていたことを示しています。

 

 大正時代の後期の作品は、大導寺信輔の半生、或る阿呆の一生や歯車など自分にまつわる物語を書きつつ,人生に対する漠然たる不安から、1927年(昭和2年)、35歳で自らの短い生涯の幕を閉じました。

 

芥川龍之介の死んだ翌年、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件がおこり、満州事変、支那事変から、太平洋戦争に時代は突入していきました。