
大正時代は1912年からはじまり、1926年までの15年間で,この時代日本は極東における大国になりつつありました。
この大正時代の代表的作家は芥川龍之介で、1892年(明治25年)に生まれ、大正4年(1915年)に羅生門を発表し、事実上のデビュウ作となりました。文章のうまさ、冴えそして物語の見事な構成力で、人間心理を描き出しスマートな短篇小説を次々と生み出し、若くして国民的作家となりました。薮の中、鼻、蜘蛛の糸,地獄変は今昔物語など昔話を題材として創作したもので,中国を舞台にした物語、童話など多岐にわたる短篇を世にだしています。
大正3年(1914年)ヨーロッパを主戦場として第一次世界大戦勃発。日本は参戦したものの,被害はほとんどなく,輸出で利益を得、つかの間の好景気と平和がおとずれ,大正モダンと呼ばれる都市化と,大衆化の時代でした。
それにあわせて,国内にも日本改造を合い言葉に様々な団体ができました。民主主義を目ざす黎明会や新人会、それと対極をなす興国同志会など国粋主義団体が次々と結成され、文学もプロレタリア文学や自然主義文学が台頭してきました。
一方、中国では大正8年(1919年)には、講和会議に対する幻滅から,五−四運動が起こり、又,日本の21か条の要求など対中政策に対して、排日反日運動が高まっていました。
しかし、中国は統一されず中華民国政府、共産党、地方軍閥の間で内戦がおこり混乱を極めていました。
この頃大正10年(1921年)、芥川龍之介は大阪毎日新聞の特派員として,3月から7月までの4ヶ月中国を旅行しその旅行記を“支那游記”として発表しました。
○支那の紀行となると,場所そのものが下等なのだから,時々は礼節を破らなければ溌溂たる描写は不可能である。
○現代の支那なるものは,詩文にあるような支那じゃない、
○上海同文書院の見学では一本の鯉幟を見て、“支那じゃない日本にいるのだと云う気になった、しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に,支那の百姓が働いていた。それが何だか私には怪しからんやうな気をおこさせた。”
○あるいは天平山白雲寺の反日の落書きについては、“この使喉費は30万円内外ということだ。”と記している。
毎日新聞の紀行文の随所に見られる、今では考えられないような表現や偏見に驚かされます。それが、当時の日本人の一般的な中国観そのものだったことが伺われます。
○ 又短篇小説“馬の脚”で、北京の三菱につとめている主人公が、“わが金甌無欠の国体は家族主義の上に立つものなり。家族主義の上に立つものとせば,一家の主人たる責任の如何に重大なるは問うを待たず。”の文章は当時の日本の家庭に、国体思想が行き渡っていたことを示しています。
大正時代の後期の作品は、大導寺信輔の半生、或る阿呆の一生や歯車など自分にまつわる物語を書きつつ,人生に対する漠然たる不安から、1927年(昭和2年)、35歳で自らの短い生涯の幕を閉じました。
芥川龍之介の死んだ翌年、1928年(昭和3年)張作霖爆殺事件がおこり、満州事変、支那事変から、太平洋戦争に時代は突入していきました。