戦場のカメラマン ロバート キャパは1913年(大正2年)にエンドレ エルネー フリードマンとしてハンガリーのブタペストに生まれる。ヨーロッパ大陸がドイツやイタリアの枢軸国に支配され、ハンガリー生まれのユダヤ人であるキャパは、1933年(昭和8年)パリに亡命する。
パリからカメラマンして、スペイン内戦でフランコ将軍の独裁政権打倒を目指す共和国軍と生活をともにし、多くの戦闘場面と戦場の民衆をカメラで描いた。戦争の激情、民衆の恐怖をカメラでとらえ、写真で人間の本質、悲しみ、明るさの生々しい真実を一枚の写真に描き出すことに成功した。その後は第二次大戦のノルマンディー上陸作戦、パリ解放などを写しフォトジャーナルの創始者として世界中に知られる戦場のカメラマンになった。
パリにキャパの亡命したころパリのモンパルナスは芸術家たちの楽園で、ピカソやモジリアニといった画家ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家などの芸術家が多く集まり、エコール
ド パリとよばれ、さらにドイツなど東欧からの亡命者達で才気あふれる若者たちの聖地であり、また日本人画家、小説家達も多くパリに住みつき、若い才能を開花させ、競い合っていました。その中で最も有名な画家が藤田嗣治でした。1925年にはフランスで最高のレジョン・ドヌール勲章を授与され、夜の仮装舞踏会でもおどけもの藤田としても名をはせ誰ひとりとして名を知らないもののない時代の寵児でした。
キャパの亡命した同じ1933年(昭和8年)藤田は日本に戻り、日本の地方の街や村を描き、1937年(昭和12年)海外に宣伝のための「子供の日本」というドキュメンタリー映画で四国の田舎の日本の情景を描いた作品を作成した。
翌年1938年(昭和13年)藤田は、海軍の委嘱画家として、中国漢口に従軍し、「征戦従軍三十三日」の従軍記や「漢口突入の光景」などの戦争絵画を完成しています。これは政府が国民の戦意高揚、宣伝のために動員したもので、菊池寛、吉屋信子、久米正雄などの作家や、藤島武二などの画家などの文化人総勢100名以上が参加している大規模な宣伝部隊でした。
亡命後写真家を目ざしモンパルナスで貧しい生活を送っていたアンドレーフリードマンはアメリカ人風のロバート キャパという名前にかえ人民戦線の報道カメラマンになり、ここから新しいフォトジャーナリストが誕生する。1936年(昭和11年)フランコ政権と戦う世界各地から駆けつけた義勇軍と生活をともにし、地下鉄駅に逃げ込んだ人々や大学都市の建物に立てこもり戦う義勇兵を映し出し戦場をフォトストーリーとして発表し、写真で物語を描き出した人物としてパリ、ニューヨーク、ロンドン、モスクワそしてバルセロナで出版され世界の注目をあびることとなった。
1938年(昭和13年),キャパはヨリス イヴェンスと中国に出かけた。これは日本に対抗し戦う蒋介石陣営の側にアメリカ世論を動かそうとするライフ社との契約にもとづくものであった。
蒋介石の率いる国民党は南京から首都を漢口に移していた。その首都が日本軍に空襲される場面を映像に残し、国民党が日本軍の進撃を食い止めるために、黄河の堤防を破壊し何百万人もの農民達が被害を受けた様子も撮影した。
これらの写真はアメリカのライフに掲載されただけでなく、フランスのルガールも「漢口は中国のマドリードになるであろう。」とタイトルをつけ数十ページにわたって特集し出版した。キャパは9か月の中国滞在のあとフランスに帰国しふたたびスペイン内戦の戦場に向かった。
1939年(昭和14年)一時フランスに戻った藤田嗣治は,猫などの絵を発表したものの,ドイツ軍のパリ占領により翌年には再び日本に帰ることとなった。ノモンハン事件を題材とした「哈ル哈河畔の戦闘」や、「十二月八日の真珠湾」攻撃を発表した後、藤田が最高の傑作とした「アッツ島玉砕」を描いた。 これは戦意高揚などとはほど遠い英霊の声を聞き兵士たちの鎮魂の画であり、「サイパン島同胞忠節を全うす」は犠牲者たちの魂の救済を描いた宗教画に近いもので、人々がその絵の前で涙するのも戦争画をこえた絵画の力かもしれません。
彼は敗戦後アメリカに渡りふたたびパリにもどり、洗礼をうけ,キリスト受難の宗教絵画や子供たちを描き、永住し日本の地に戻ることはなかった。
キャパはしばらくアメリカで永住権をとって,母親や兄弟と暮らしたのち,アメリカ従軍カメラマンとして、北アフリカ戦線から、シシリア島上陸作戦に同行し多くの写真をとって出版した。1944年(昭和19年)ノルマンディー上陸作戦の有名な写真はライフのカメラマンとして撮影したもので、そのネガはアメリカ戦時情報局の宣伝機関に委ねられ、軍部などの検閲のあと、同盟国の新聞雑誌や映画に映像を無償で提供していった。そして、アメリカ軍とともにパリの解放の歓喜の写真を多く残し、まさにパリへの凱旋記録となった。
戦後は、スタインベックとソ連の農民や労働者を撮影しニューヨーク ヘラルドトリビューン社から発表するもスターリン政権下のソ連からはハイエナと言われ,アメリカ共和党からはスターリンの擁護者と非難された。