2014/12/31

明治維新、昭和維新と三島由紀夫の ナショナリズム













 西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、産業技術の西欧化で対抗した。この明治維新を推進した薩長の尊王攘夷、王制復古は国学を源流とする。

 国学は賀茂真淵が万葉集を研究し万葉時代の和歌をよみがえらせ、本居宣長は古事記を検討し、儒教や仏教伝来以前の人々のことば,心を読み解き、からこころに対するやまとこころを発見した。
 「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定し、考え方、思考方法の儒教的なもの、からこころとは規範主義であり、一方、やまとこころは「うまれながらの真心、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心をいふ。」おしつけではなく自分の心に従って内側からとらえるものであるとし、外来思想の輸入される以前の日本古来の自然のままのすなおなこころを見いだした。

 さらに宣長は日本の天皇統治ついて「皇国は天照大御神の授け賜へる皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私という事はなき事なり」とした。その後継者の平田篤胤はよりこの理論をファナティックに体系つけ尊王思想をとなえた、幕末の平田篤胤の一門は王制を復古し、古代のように天皇のもと祭政一致の国家を夢みた。

 この国学思想に「知行一致」死をも恐れぬ行動理論の日本的陽明学、後期水戸学の過激主義が相まって尊王攘夷のかけ声のもと、武力により明治維新は実現し、徳川幕府は滅びた。


  一方、再び国外からの圧力に直面した昭和時代に、昭和維新をかかげ国内の武力行動がひきおこされた。これらの理論は、天皇親政のもとの万民平等を実現することが理想で、天皇は特権階級、貴族的軍閥を排除する直接行動の変革の象徴となり、日本を混乱悪化させた側近を排除し、天皇と陛下の赤子としての国民による、国民のための国家を夢みた。

 1906年(明治39年)北一輝22才の時「国体および純正社会主義」を書き上げ自費出版する。この中で,『生きるとより死に至るまで脱する能わざる永続的飢餓の地獄は富豪の天国の隣にて存する』と書き天皇制の歴史と役割を分析し、平等社会すなわち純粋の社会主義を提唱する。
 
 清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、1912年(大正1年)中華民国が建国された。その革命に、北一輝は理論的支柱として参画し、国民党の最有力者宋教仁を通して中国革命を動かしていた。しかし、その盟友宗教仁が翌年暗殺される。

  その後、北は中国を去り日本に帰る決意をする。それは「十数年間に特に加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにしておいては対世界策も対支那策も日本本国もあきらかに破滅であると見た。」その後、軍事クーデターの理論『国家改造案原理大綱』を1919年(大正8年)上海で書き上げた。

 この中で北一輝の中心理念は、アジアの独立、支那の保全を求めた大アジア主義であり、日本においては天皇のもと、国民が国家への忠誠を尽くす平等主義を構想し、私有財産の制限や土地の国有化をする明治維新に次ぐ第二の武力による革命、昭和維新が必要であるとした国家改造論であった。 

  1972年(昭和47年)三島由紀夫の自殺もまた、国家改造を夢想した。
 その実行のもとになる理論は陽明学にあった。陽明学は朱子学と同じ時期に日本に紹介され、中江藤樹などが広めた。朱子学の机上の論理と異なり、知行合一を主張し行動の学問であった。善もなく悪もないのが心の本体であり、その混沌からほとばしるものが真の善ある。純粋であるか否かが問題で、「至良知」とは天理が自然に発現したものであるとした。
 この中国における陽明学は日本において変質し、生死を超脱し変革を実行する、より精神主義的に変貌をとげ、実践の理論となった。また武士の理想は、君主の下、与えられた責任を果たすため、必要があれば命をかける覚悟でこれに臨み、私的利害にとらわれないことを理想とした。この極論が「葉隠れ」でやはり三島由紀夫の座右の書であった。

 天皇は国体であり、神勅を奉じて祭祀を司り、国軍の栄誉の源であるとして祭政一致の日本をつくる維新法案をつくった。そして行動にうつした。


 国粋主義の国学は明治維新の原動力となり、明治政府を樹立した。一方、同じ天皇の下での臣民国家の構想は昭和の時代、軍の暴走の象徴となり、クーデターの恐怖を植え付けて、鎮圧された。また経済的繁栄にむかう時代の三島由紀夫の檄文は時代を1世紀逆行させる復古主義のマヌカンととらえられた。