2019/03/10

幕末の国学者 橘曙覧


たのしみは 朝おきいでて 昨日まで 無かりし 花の咲ける見る時

たのしみは 庭にうえたる 春秋の 花のさかりに あへる時時

                                    橘 曙覧


  橘 曙覧は1812年(文化9年)現在の福井市に生まれる。文具商を営むも、28歳の時弟に店を譲り、愛宕坂に暮らす。33歳の時、飛騨高山の国学者田中大肥の下で学び、和歌をよみ始める、37歳の時三つ橋に住み、「藁屋」と呼んで終生の住処とした。 このころから徳川幕府は、幕末と呼ばれる激動期になる。橘曙覧42歳の時ペリーが浦賀に来航し開国を迫った。その後安政の大獄、桜田門外の変が起き、54歳の時福井藩主松平春嶽に仕官を勧められるも断る。

花めきて しばし見ゆるも すずな園 田庵(たぶせのいほ)に 咲けばなり
                                                                                                               橘 曙覧

すずな園 田ぶせの庵に さく花を しひてはをらじ さもあらばあれ
                           松平 春嶽

 徳川時代に中国文化の儒教とりわけ、朱子学が統治の中心に置かれ、機能していた。その朱子学も中国とは国情が異なり、日本的に変化して取り入れられた。
 19世紀に入り徳川時代の後半、幕末の日本はその思想、精神が混迷をきたし、幕府の組織の弱体化を招き、各藩への支配が弱まり、同時に、経済的にも行き詰りをきたしていた。さらに、ロシアが蝦夷地に現れ、交易を求め、イギリス、フランスも開港を求めた。そして、アメリカはペリーが軍艦で江戸の近くに来航し、開港を迫まり、幕府は1854年(嘉永7年)日米和親条約の締結を強行する。

 それに対して、開国に反対する尊王攘夷派が台頭し活動を起こした。徳川幕府は、井伊直弼の下で、安政の大獄と呼ばれる反対派の強行弾圧を行った。松平春嶽は井伊直弼の日米修好条約に反対し、安政の大獄で謹慎処分を受けた。桜田門外の変による井伊直弼暗殺後は幕閣となり公武合体をすすめた。


  国学は徳川時代の中期、契沖の歌学の革新から始まる。外来思想に影響されない日本の美的価値を、古来のうた、特に万葉集に見出し、国学の基礎をつくった。この日本の古来の歌の研究は荷田春満に受け継がれ、賀茂真淵は上代日本の歌人になりきり、古道を明らかにした。それを完成させたのが本居宣長で、漢意(からごころ)に対する、大和意(やまとごころ)を見いだし、儒教、仏教が伝わる以前には人々の心は清く直かったと外来イデオロギーを批判した。

「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいへるは、いとうるさし、人は教えよりてよくなるものにあらず、   教えのなきこそ尊けれ」「事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ」として日本古代からの精神、日本固有の道を見出だした。


たのしみは 神の御国の 民として 神の教えをふかくおもふとき

たのしみは 鈴屋大人の 後に生まれ その御諭しを うくる思ふ時

国学者として橘曙覧は本居宣長(鈴屋大人)を尊敬し、独楽吟の中でその楽しみをうたった。

                
   一方、幕末の尊王攘夷の思想は、国学とともに、後期水戸学が大きな役割を果たす。
 歴史は、その国の文化の変化を記すもので、社会や文化をどのように捉え、理解していたかを現す。水戸学は、水戸光圀が彰考館を創設して、大日本史を編さんしたことに始まる。明の王室から日本に逃れた、重臣朱舜水の助言の下に、日本の歴史の正統を大日本史で示そうとした。これが前期水戸学で この日本史の研究を受け継ぎ、この研究機関から、後期水戸学がうまれる。その代表が会沢正志斎、藤田東湖で反幕府の急先鋒となる。

 はじめ、藤田東湖の父藤田幽谷が「正名論」で、生名とは社会の人の秩序を明らかにすることであり、正当な統治者は誰かを問題にした。この大義名分論による尊皇論は、はじめは敬幕論を伴っていた。

 さらに儒教理論の中心に、国内統治における王道と覇道がある。この王覇の弁が幕末になると尊王の意味がしだいに変化し、王道を尊ぶことはすなわち天皇を尊ぶことであり、覇道とは武家政治のことであるとして、尊王敬幕が尊皇倒幕になってくる。

 同じように儒教の世界観としての華夷の弁、すなわち中心に位置するのが中華で、その周りに夷狄が住むという認識が日本に適応され、幕末の日本が中華であり、周りの国々、外国は夷狄であり、これを撃つという攘夷の思想に変貌する。

 この橘曙覧のように、古代の心に共鳴する歌の道に始まった国学は、政治とは距離をおいていた。幕末になって、外国からの開国の強要、国内の混乱から次第に変貌をとげ、国学は天皇親政の古にかえれと叫ぶ皇国主義、日本主義の復古イデオロギーになってくる。

 国学が尊王論の根拠を明らかにする一方、儒教をもとにした後期水戸学も尊王敬幕から尊皇倒幕に変化し、2つの潮流があわさって反幕府運動、尊王攘夷派を生み出した。それに対して、幕府も公武合体を行い、延命を図った。しかし反幕府の奔流を押しとどめることはできなかった。


たのしみは 三人の児ども すくすくと 大きくなれる 姿みる時
 
たのしみは 妻子むつまじく うちつどひ 頭ならべて 物をくふ時

たのしみは そぞろ読みゆく 書の中に 我とひとしき 人をみし時


                   
 橘曙覧は権力や名声を求めず、清貧の生活を選び、家族と自然と歌とともに暮らし、幕府が崩壊し、大政奉還と王政復古が成った1868年(慶応4年)57才で亡くなる。彼の死後10日目、明治元年になり新たな時代が始まった。