寒月に 木を割る 寺の男かな 蕪村
1703年に吉良上野介の家に、署名し討ち入りした47士の生き残り寺坂 吉右衞門のその後を詠んだもので、討ち入り後、故郷に帰り、その後83才の死ぬまで寺男として江戸に暮らした。
赤穂浪士の討ち入りは、平和と安定の200年間に起きた唯一の政治的事件であった。身を捨てて主君への忠誠を果たした四十七士は、国民的英雄となった。これに対して荻生徂徠は「もし、私論をもって公論を害し、情のために法を二三にすれば天下の大法は権威を失う、法が権威を失えば民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。」とした。
徳川幕府はこれをうけて四十七士に切腹を命じた。
江戸時代の中期1700年代に入ると,初期の農業中心の経済から、しだいに商業活動が活発化して、文化も新たな転換点をむかえることになる。文学や学問にあたらしい潮流があらわれた。この中に、新思潮をつくり主導した荻生徂徠の古文辞派があった。
戦国時代に戦国大名の統治の原理、主従関係のもとになる思想が儒教から取入れられた。徳川家康が天下を統一したとき、その政権の正当性を示すため儒教思想を用いた。「天下は天下のための天下なり」とし、将軍もまた,自然的規範、天道のもとに拘束されると考え、諸国の武将を自らの下に平定して支配の機構をつくりあげた。
徳川時代は儒教思想とりわけ朱子学を統治原理の根幹とした。 朱子学は自然の法則と人間の規範、個人の道徳と社会の秩序を「理」の概念で統一的にとらえた。自然界に上下があるように人間社会にも上下、貴賎がある。個人の修身によって、家の秩序、和はたもたれ、君臣の義によって社会的、政治的秩序はたもたれる。これが自然の摂理とつながる。そして人々はそれぞれの分相応のくらしをすることによって国は治まる、という思想であった。
この朱子学にたいして、荻生徂徠は、儒学の古典に帰ることを唱えた。
そして、学問の基礎は古語、古義を正しくは把握することにありとして、中国の文献を正確に読み解き、聖人の聖とは作者であり、社会制度をつくった王たちを示す。道とは天地自然の道ではなく歴史上の事実であるとした。
さらに、儒教は統治術であり、個人の道徳はべつもので、聖人への道は人々の心の善悪とは関係ないものである。文芸など個人的、私的分野を政治と別なものとしてあつかうこととした。
このようにして、教条化した儒教を構築しなおし、古文辞学を打ち立てた。
江戸時代の中期にはこの徂徠の思想が広く芸術界におよんでいった。この影響下に、蕪村が絵画、俳句の革新をおこない,俳画を生み出した。
与謝蕪村は 1716年うまれる。芭蕉の跡をおって若い日々、東北の旅に出る。その後京都で居をかまえた。
俳句においては、芭蕉没後低迷していた俳句を芭蕉の道に帰ることで立て直す。絵画では中国の古典を題材にした画を学び山水画で有名になる。その後、夜色桜台図など蕪村独自の新たな絵画を生み出し、池 大雅、丸山 応挙とともに絵画の新たな潮流を京都の地におこした。また、同じ年に生まれた伊藤若冲などと、自由奔放な画風を競うことになる。
自然を季節をとぎすまされた五感で感じとり、凝集し、絵画であるいは俳句で表現した。やがて絵と句を融合した俳画をつくり、その日本独自の諧謔と情景、情感をあらわす作品をうみだした。代表作「奥の細道図屏風」では奥の細道の書と芭蕉を中心に多くの人物像をえがいた。安永の10年間にわたり同じ題材を10巻以上くりかえしえがいた。
釣り上げし 魲の巨口 玉や吐
さみだれや 大河を前に 家二軒
閻王の 口や牡丹を 吐かんとす
などの絵画を俳句にしたような作品がある。蕪村の中では感じ取られた情景は同じで、表現がときには絵となりときには俳句となる。やがて両者の融合した俳画が生まれる必然があった。俳画では南画でみられる風景は描かず、詩や俳句の文字と人物を軽いタッチで軽妙に描き出した。
日本の情景そのものの、春の海 終日のたり のたりかな
なの花や 月は東に 日は西に などの膨大な俳句そして書、絵画、俳画をのこし 絵画と文学の体現者蕪村は68年の生涯を閉じた。
