2021/05/25

オンリー イエスタデイ 、新型インフルエンザの教訓



 2009年3月新型インフルエンザの流行がメキシコで始まった。飛行機の発達により、中南米より早く、アジアの国々にも感染が広がり、連日10000人以上の人材を航空機の検疫に動員したにも関わらず、5月16日には神戸で初めて、国内の感染者が確認され、その後兵庫県と大阪府で感染は急拡大した。一斉休校や人々の外出自粛で約一週間で下火になった。しかし6月初旬には福岡、中旬以降は首都圏や愛知、広島で感染者は一気に増えた。7月には全国で5000人を超えるまで増えた。


 幸いにも新型インフルエンザは豚由来のH1N1インフルエンザで弱毒性であったのと、タミフルなどの治療薬が有効で、ワクチンの投与とあいまって、急速に終息に向かった。


 その時の反省から2010年6月10日に新型インフルエンザの対策総括会議の報告書がまとめられ、将来の感染症の対策に役立てるように公表された。 その時の報告書で、昨年2020年の新型コロナのパンデミックで起こったことがすでに、ほとんど議論されていた。水際対策、検疫の問題、ウイルスの毒性とそれに応じた対応、公衆衛生対策としての学校や施設の休業社会活動の制限。そして感染症専門施設や発熱患者をみる発熱外来の問題、ワクチンなどの問題が検討され公表された。



 具体的には、提言の初めでまず、意思決定プロセスと責任の主体を明らかにして、地方との関係を発生前の段階から、関係者の間で対処の方針を検討し、実践的訓練をする必要がある。と述べられ、それぞれの分野の対策が提言されている。


 感染症の危機管理に関わる体制の強化については、国立感染症研究所や検疫所、保健所、地方衛生研究所など危機管理を専門にになう組織や、人員体制の大幅な強化必要で、アメリカのCDCなどを参考にして、より良い組織や人員体制を構築すべきである。そしてPCRを含めた検査体制について強化し、地方衛生研究所の法的位置ずけについて検討が必要であると記されていた。

 当時から、ウイルス感染症に対してPCR検査は必須で、すでに使われ、次の感染症には迅速に広範に、系統だって対応できる用意は整えていたはずであった。


 医療体制については、医療スタッフ等の確保、ハイリスク者を受け入れる専門の医療機関の設備、陰圧病床等の施設整備などの院内感染対策等のために必要な財政支援を行う必要がある。

発熱相談センターと発熱外来の設置に関して再度整理すべきである。

やはり、感染症の疑いのある患者をそのリスクに応じて、どこで診察して、どこで入院すべきかの提言がなされていた。


 さらに国家安全対策からワクチンの生産体制を強化するべきで、ワクチンの接種についても、集団接種で実施することも考慮しつつあらかじめ実効性のある体制を計画するべきである。と書かれている。


 政権が交代し、2011年3月東日本大震災が発生。福島原子力発電所1号機、2号機 3号機が次々にメルト ダウン。原子炉は高熱と、高放射線で、人が立ち寄ることができず、ロボットも強い放射線で、燃え尽きてしまった。それらは10年経った今でも、メルト ダウンの結果できたデブリは未だ取り出すことができず、放射線に汚染されたもの、とりわけ汚染水が問題となっている。この汚染水は、原発敷地に一日400トン流入し、それが山側に作った凍土の壁だけでは堰き止められなかったのが遠因で、今でも毎日増えている。その後、地震や風水害が毎年のように起こり、感染症は忘れ去られていた。


 20020年、武漢を閉鎖するほどの猛威をふるった新型コロナウイルスが日本でも流行し、4月7日に緊急事態宣言が出された。第一波は次第に収束し、第二波、第三波とその後何度も、感染の拡大収束を繰り返し、2021年5月、1年半経った現在も緊急事態宣言は解除されず、今も世界中で新型の変異株が生まれ、感染拡大は続いている。


 10年前との違いは、ウィルスの性質の違いと、ロボットの進化と同様、技術の進歩とりわけワクチンの開発とその実用化にあった。 新型インフルエンザは比較的弱毒であったし感染の様式も今回の新型コロナウイルスより単純であった。今回の新型コロナウィルスは、治療薬がなく、感染は世界中に拡散し、死亡者も300万人を超えている。一方ワクチンの接種の進んだ国では、感染の拡大は止まり、正常の日常生活が戻りつつある。

 

 日本の第1例目が報告されたとき、アメリカですでにmRNAワクチンができていた。中国が新型コロナヴィルスの遺伝子配列を公表してから一週間でワクチンはできた。3月16日にこのモデルナ社のワクチンの第1相臨床試験が始まった。一ヶ月遅れでファイザー社はがん治療を研究していたビオンテック社のmRNAの技術を使ったワクチンを製造し5月4日に第1相試験を開始した。この技術は遺伝子工学の成果で、ウイルスの粒子の表面にあるスパイクタンパクの遺伝子情報を持ったmRNAを筋肉内に注射して、このスパイクタンパクを作らせ、それに体が反応し、それに対する免疫ができる技術であった。


 中国では17年前SARSワクチンをシノバック社とシノファーム社はすでに開発していた。それをもとに武漢市のロックアウトされた3月後の4月に新型コロナに対する毒性を無くしたウィルスを利用するの不活化ワクチン臨床治験を始め、7月に北京で緊急接種が行われた。

 

 イギリスでは英国アストロゼネカ社とオックスフォード大学の共同開発のワクチンの開発を行うとともに、ジョンソン首相の指揮のもとに、2020年4月から、ワクチン接種に向け、世界の製造会社との交渉を開始し、夏には接種体制の整備に着手した。


 一方日本では10年前にワクチン体制の強化が提言されていたのに、世界に出遅れた。1980年代に日本はワクチン先進国で、水痘、日本脳炎ワクチン、百日咳ワクチンで世界をリードし技術をアメリカなどにも提供していた。1992年、予防接種の副作用訴訟で、副作用による被害者に国が賠償するべきの判決が出たため、1994年に予防接種法が改正され、接種は努力義務となり接種率は次第に低下した。1996年薬剤エイズ問題で、当時の厚生省生物製剤課長が逮捕され有罪となった。そして製造する企業への開発は支援が遅れ、国が国民の安全のためワクチンを開発し、備蓄する体制が崩れ、ワクチンギャップが生まれた。


 ここ10年くらい、100年に一度と言われる国の安全に関わる事故、災害、病気の流行がおこった。歴史は繰り返し、対策は提案された。未来は正確に予想できないとしても、技術を理解し、状況を判断して未来に向けた対応が実行されるべき時は今なのかもしれません。

 


 



2021/05/04

 トルシエ監督のいた時代


九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす


                             正岡子規

  戦後、遊びやスポーツは野球がすべて、広場では、キャッチボールを手製の松の実を布団のワタで包んで、それに糸を巻いたボールを使い、手製のグローブでしていた。プロ野球は毎日テレビで中継され、高校野球は毎年憧れの舞台をつくっていた。野球アニメ巨人の星は1968年にテレビでも放送が始まった。

 1983年キャプテン翼がスポーツ根性路線とは全く違った、明るいスポーツアニメとして人気になった。1993年Jリーグが誕生し、1998年ワールドカップフランス大会に出場。その頃野球に変わって公園ではサッカー少年が主役になってきた。スポーツも人々の好みは、ずーと続くことはなく、流行は変動する。高度経済成長時代のスポーツの王者野球が、国際化し世界標準を目指すサッカーに主役を交代した時期がやってきた。 

 

 1998年43歳のフィリップ トルシエが日本代表監督となる。フランスのサッカー選手から、コーチになり、9年間アフリカで過ごし、アフリカナイジェリア、ブルキナファソ、南アフリカで監督をして、その才能を発揮していた。

 トルシエは革命を起こした。今までの日本サッカーの当たり前のことをことごとく変えていった。チームを本当に国際化し、プロ化することを徹底する指導で、オリンピック代表選手やユースの選手を育て、2002年のワールドカップにのぞむ準備を始めた。

 まず20歳以下のユースの選手をワールドユースの開催されるナイジェリアの試合の前にブルキナファソに連れて行きそこで合宿した。アフリカの、ワニが生きた鶏を食べ、40度を超す暑さの中、埃まみれの冷房の効かないバスが道路を走るところに着いた。「彼らをあえて遠出させたのは、彼らの生活圏の枠を壊さなくてはいけないと考えてからだ。日本人は海外旅行をしているのではなく、どこに行くにも日本を持ち歩いている。だから、いつも食べ慣れているもの以外を食べさせなくてはいけない。自分の部屋以外でも寝られることを、教えなくてはいけない。精神性と社会性をともなった男にならなくてはいけないからだ。」年功序列ではなく、能力さえあれば若い人でも抜擢され、高給を手に入れられるシステムを作り、国際標準に近ずけた。

 当時サッカー協会は、2年で彼を解雇し、ベンゲルなどの有名な監督を高額で雇うことを考えた。結局トルシエ監督が日本の文化や伝統、性格を理解することを条件に監督を続行することを認めた。

 高度な技術を習得するために、今までテストによる選手の評価自体がなかった日本で、選手たちに様々なテストを受けさせた。目的は、その選手たちが戦術やゲームの展開を理解しチームでオーケストラをつくることであった。その中心選手にイタリアセリエAで活躍していた中田英寿がいた。世界の一流選手となり世界を舞台に活躍するパイオニアで、ペルージャから、ローマそしてワールドカップの年にはパルマに所属していた。そして戦術は、ディフェンダーを3人にする、3バックを試みた。その一翼を担った、もう一人の中田選手、トルシエ監督の申し子中田浩二選手がいた。

 トルシエ監督のもと、2000年のシドニーオリンピックで健闘し、同じ年の10月サウジアラビアを破って、アジア大会で優勝した。しだいに日本でのサッカーの熱気は高まり、その期待を受けて、2002年ワールドカップが日本と韓国で開催された。日本は初戦でベルギーと引き分け、第二戦でロシアを破り、第3戦でチュニジアに勝ちベスト16に進む。次のトルコ戦で敗れ熱狂のワールドカップは幕を閉じた。トルシエ監督の後、ジーコが監督に就任した。


 やがて時代は国際化から、グローバル化に変わる。国際化とは、国は国でその間の障害や垣根が低くなり、世界は標準化される。一方グローバル化は、20世紀末から、21世紀にかけて、国とは別の単一のプラットフォームが情報通信革命とともに起きた時代。金融とコンピューター産業を中心とするグローバル経済がアメリカで始まる。


 スポーツも野球が再び脚光をあび、国内からグローバル化したアメリカメジャーリーグで野茂選手が活躍する。1990年仰木監督率いる近鉄に入団し、数々の記録を塗り替える。しかし、監督の交代や日本のプロ野球システムに合わなくなり、1995年メジャーリーグロサンゼルス ドジャースに入団、新人王を獲得しその後もメジャーリーグの代表投手として数々の記録を残した。 当時、日本はサッカーと同様に野球も国際化とは程遠い世界に住んでいた。日本は日本の野球でありメジャーリーグは別の世界であった。


 多くの人はジャパンアズナンバーワンの夢が破れても、日本の成長には国内的(ドメスティック)でなく国際化(グロバリゼーション)が必要と言われても、多くの人には関係のないことで、本当のところ理解不能で、国際化とは世界的に通用する人材となることと漠然と考えていた。むしろグロバリゼーションコンプレックスから、国際化には反感さえ抱いていた。


 先駆者野茂英雄の大活躍に続いて、イチロー選手が2001年やはり仰木監督の率いるオリックスからメジャーリーグのマリナーズに入団し、一年目から大活躍し新人王とMVPを獲得した。当時日本のテレビニュースのスポーツコーナーではまずアメリカメジャーリーグのイチローや野茂のことが取り上げられ、日本のプロ野球は一面を飾ることがなくなった。


 2001年この年小泉内閣が発足し、郵政改革などの改革を進める。2006年6月ジーコ監督率いるサッカー日本代表チームはドイツのワールドカップで、一勝もできずに敗退。2006年9月第一次安倍内閣が発足。


 日本のサッカーは、トルシエ監督のいた時代に国際標準に向けて、前進した。野球もメジャーでの活躍を目指して多くの才能がアメリカに渡った。そしてテニスやゴルフも世界のトップを争うようになった。


 2020年にパンデミックとなった新型コロナで日本はスポーツ以外の分野で、世界の先進の国ではなくいつの間にか世界に取り残されたことが誰の目にも明らかになった。医療研究で先頭の国と思っていたワクチンの開発競争では、アメリカやヨーロッパ、中国やロシアあるいは生産拠点となったインドにも遅れ、接種も世界の後塵を拝している。世界に冠たる医療制度のつもりが、コロナの重症患者に対応できず、デジタル化もまた世界の標準から置いてけぼり。そして、国の借金ばかり増えた。


 スポーツ界で世界標準に追いつき世界で競争するためには、世界を知り、体験し変化する必要があった。そして結果の見えるスポーツの世界では、サッカーや野球、ゴルフやテニス、バスケットなど多くの種目で日本の選手が活躍するようになってきた。

 変化をするためには努力が必要であり、あつれきを生む。反対に逆らって改革を推し進めるよりは、嵐の過ぎ去るのを待って、困難な物事を先送りすれば、社会は変化しないでもしばらくは平穏に過ぎて行く。そのため国内の多くの分野で日本社会はあまり変化することなく過ごしてきた。しかし、激変する世界では、日本にいれば今のままでも安心安全の国でいられる時代はもう終わるのかもしれません。