2020/07/26

不機嫌な時代の書 吉田兼好の徒然草



 此頃都ニハヤル物    
 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
 生頸 還俗 自由(まま)出家
 俄大名 迷者
 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
 本領ハナルヽ訴訟人 
 文書入タル細葛(ほそつづら)
 追従(ついしょう)、讒人(ざんにん)、禅律僧 
 下克上スル成出者(なりづもの)


                  京都二条河原落書    建武元年(1334年)8月


 後醍醐天皇は1288年に生まれ、1318年天皇となる。その当時南宋で儒教から、
人間、社会、宇宙を「理と気」からなるとした、壮大な学問体系の朱子学が生まれた。それが大陸より日本にも移入され盛んになった。
 新しい物好きの後醍醐天皇は、この朱子学を学び、政治に用い、家柄に関係なく有能な人材を側近に取り立てた。そして真言密教の一派、立川流の信奉者でもあった。この密教の呪術を自ら行い、密教の僧の演出で、宮廷でも無礼講が開かれ、地位を問わない人々の集まる場を作った。それが、やがて反幕府の人のつながりを作り、その後の茶寄り合いや連歌の席の流行を作る。
 茶寄り合いでは、会所に人が集まると、まずくずきり、酒、そうめん、そしてお茶が出され、それを味わい、小休憩をして庭を散策した後、茶会が開かれる。その茶会の席には、仏画が飾られ、周りには、唐絵、障子のふすまにも唐絵が、唐風の花びんには生け花と、唐風の香炉に香がたかれ、お茶の種類を当てる闘茶が行われる。そして夜になるとお酒を呑んで舞管弦の演奏を耳にして、歌いの宴が延々と続く。

 後醍醐天皇は、朱子学の名分論をよりどころに1324年の正中の変、1331年の元弘の変と呼ばれる倒幕運動を起こすも、鎌倉幕府に敗れ、隠岐の島に流される。1333年後醍醐天皇は、再び起ち、あやしき民、武装商人の名和長年によって伯耆国の船上山に戻る。そして、楠木正成など各地の武将が倒幕に加わり、足利尊氏もまたこれに呼応し決起する。そして同年6月鎌倉幕府は崩壊し、建武の新政が開始される。

 

  この天皇親政では、後醍醐天皇のいない時代の公厳天皇の即位を認めず、その時の任じた官位も無効とした。そして天皇がすべての政治を行い、訴訟を決める体制を開始した。中国の王朝にならって権力の一極集中を進めたものの実行する機関が機能せず、身内の追従や近臣の内奏で朝令暮改がはなはだしかった。

 この天皇親政の試みは二条河原の落書など、痛烈な諷刺の対象となった。官軍への恩賞乱発に伴う成り上がり貴族や、にわか大名が現われ、鎌倉時代を支えた坂東武士の誇り、道理の意識が低下し、京の都の風俗の退廃も起こり、御家人世界の秩序の崩壊から、下克上の始まりとなる。

 建武の親政下の腐敗や堕落は、足利政権に引き継がれていった。 足利尊氏は後醍醐天皇から鎮守府将軍に任命されるも、建武の新政権の混乱の後、後醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府を樹立した。
 その政治の立て直しに鎌倉幕府と同じような「建武式目」を定め、君と臣はそれぞれの名分にもとるふるまいをしてはいけない、君臣の分際を守るべきとした。また風俗の乱れや、奢侈に対して、「倹約をおこなはるべき事」の規定で「近日婆娑羅(バサラ)と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし。頗る物狂と謂ふべきか。」としてこの風潮を押しとどめようとした。

 しかし、足利幕府が茶寄り合いや連歌会を禁止したにも関わらず、婆娑羅(バサラ)の世界は各地に広がっていった。一方足利政権の中枢もまた、三代将軍義満になると、王朝趣味につかり、武士としての権力を王朝的儀礼で権威づけ、宮廷の人材を臣下にし、花の御所室町殿をつくり、金閣寺を権威の象徴とした。そして、異国の大陸から多くの装飾の品を手に入れ、自らは明の皇帝に臣属し日本国王と名乗った。しかし鎌倉時代の武家政治の道理による支配が消え去り、政治は時の将軍の好みの人事やえこひいき、汚職、賄賂の横行などにより幕府の統治能力は低下し権力はしだいに弱体化し、その権威は回復しなかった。

 天皇が南朝と北朝に並立して皇室の権威は失墜し、室町幕府の権威の正統性も定かではなくなり、社会の安定に必要な伝統的権威が失われ、社会的規範が崩れてくると、各地にエゴイズムが噴出した。中央に対して地方の守護大名は朝廷の祭り事や伝統的権威を無視し嘲笑的対応をとっていった。そこには道義や道理はなく、宗教心も倫理も関係のない、その場の力関係で人々は行動を決めた。

 庶民もまた、農業を捨て系図を買い、侍身分を手に入れ、あるいは身分の分からない足軽となって守護などの抗争の兵士になり、まさに下克上の始まりになった。やがて応仁の乱に突入し戦国時代にいたる群雄割拠、むき出しの実力闘争の時代になって行く。


 吉田兼好は後醍醐天皇より5年早い1283年に生まれる。そして北条政権が倒れ、後醍醐天皇の建武新政権の樹立とそのあわただしい没落の後に徒然草は描かれた。仏も神道も朝儀礼節もない、不機嫌な時代、社会的無規範時代の人々の生活や世相、自らの想いをつづった。

 五十八段で「勢ある人の貪欲多きに似るべからず」第百六十五段では「顕密(顕教や密教)の僧、すべて我が俗にあらずして人に交われる、見ぐるし。」と後醍醐天皇やその密教に対しての苦い思いを書きつづり、 後醍醐天皇の側近、日野資朝の学問に秀でた秀才の冷徹な振る舞いも批判的に描いている。

 百五十二段で西大寺の静然上人を西園寺内大臣が「あな尊の気色や」と尊敬の念を込めて見ていたのを「年のよりたるに候ふ」といって後日、老いたむく犬を送り届けた物語。百五十四段で雨の東寺の雨宿りの時体の不自由な人の集まりを見て、「もっとも愛するに足れり」と見ていたが、やがて家に帰り、鉢植えの曲がりくねった木を引き抜いた話を逸話を、さもありぬべきことなりと。
 また、第十段で、多くの工(たくみ)の、心をつくしてみがきたて、唐の大和の、めずらしく、えならぬ調度をどもを並べおき、前裁の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。と輸入した品々や豪華なものを並べたりする奢侈や、人工的な庭つくりは好まなかった。第十八段では、「人は、己れをつつましやかにして、奢りを退けて、材を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。」として絢爛華美な物狂の生活感覚を嫌った。
  また第七段で、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」
 「ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさまし。」と述べている。


自然を愛し、風流を尊び、もののあわれを知り、
高貴な人に憧れ、儚い世の中、無常を受け入れ、
仏に仕え、この世に執着しない、生きかたをした。
平静の心を保ち、書に親しみ、世相を描き、
その思いを綴って、残された文が徒然草だった。