天から降ってくるものに雨、雪、霰、霙、雹がある。露は「地気」が粒になったもの、
霜はそれがが凝結したもの、冷気の強弱によって形がちがう。地気は天に登ると雨や雪や霰や霙や雹になるが、「温気」を受けると水になる。水は地を作っているもので、つまるところ、元のところに戻るわけだ。
鈴木牧之の北越雪譜の初編の上は、科学書のような書き出しで始まる。そして、雪国南魚沼郡塩沢町では、旧暦の9月末には寒風肌を刺すごとくで、冬枯れの木々は葉を落とす。天空は重い雲におおおわれ、連日太陽を見ない。こうして長い冬の季節が始まる。この雪国の生活を、その地で生活した者でしか感じられない世界を、挿絵とともに世に書き送った。
次の章「雪の形」には様々な雪の形状を、顕微鏡を以って雪状を審(つまびらか)に視る図を載せている。
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「雪竿」では、越後国ではとりわけ雪が深く、越後国高田には雪竿といって、雪の深さを測る竿が城下の前の広場にある。1834年(天保5年)の冬には雪が一丈(約3メートル)の竿を超えていた。
1681年(天和元年)には大雪に町は埋まり、この下に高田ありの高札がたてられた。この地方の雪は、3メートルを超えることが度々ある。 豪雪の地高田の測候所が開設された大正12年から昭和47年までの50年間の記録では、年間降水量、降雪も含め、3037mmと尾鷲に次いで多く、12月から3月の冬に1700ミリになり札幌の5倍の降雪量になる。初雪の平均が11月28日、終わりの雪は4月6日、根雪は大体93日に及ぶ。記録にあるだけでも3メートルを超えるドカ雪は1665年から1885年までに12回を数え、その後も現在に至るまで、数年に一度は大雪になる。
「雪中の洪水」は、この雪ごもりの生活で、ときどき洪水に見舞われる話が記録されている。初雪の頃、雪の溶けた水が家に押し寄せ、家財をあまさず引っさらい、溺死者の出ることもある。また寒気の緩んだ彼岸ごろにも雪解けの洪水に見舞われる。
また、越後の七不思議に農家の石臼が燃え出る火が、300年あまり絶えず燃えつずけているとの記録があり、魚沼郡五日町にも、池から炎が燃えたっていた。その池のほとりに湯小屋を作り入浴の客を迎えて商売をした。地中には水脈と火脈があり、この火脈が集まって気息を発し、これに陽火を点ずると炎になる。牧之は持ち前の観察眼で「雪中の火」の中で、越後の地層から吹き出す石油を記録している。
牧水は初編の中で、この地の名産「越後縮」について、他国の人は越後一国の産物と思ふめれど、さにあらず、我住魚沼郡一郡にかぎれる産物也。魚沼郡の内にて縮をいだすこと一様ならず、村によりて出す品に定めあり。その原料になる植物、おは陸奥国会津、出羽国最上のものを使い、雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上にさらす、雪は縮の親といふべし。
世に知られた夏用の織物、越後縮は雪と人の合作であると述べている。その魚沼産の縮を織って晒して、市で売る。その市には京大坂や江戸の呉服屋が大勢集まり買い付けをする。そして越後からこの名産の布を持って江戸に行商にいく。
鈴木牧之は越後国魚沼郡塩沢に、1770年(名和7年)生まれる。1772年(安永1年)田沼意次が老中になると、江戸は、繁栄を謳歌し、人は諸国から集まり、文化は栄えた。 その江戸の戯作者の一番人気は、牧之より10才年上になる山東京伝で、黄表紙の「御存商売物」「江戸生艶気樺焼(うはきのかばやき)」のキャラクター、艶次郎を生み出し戯作者として憧れの的だった。
その頃、日本では文化の中心が上方からしだいに江戸に移り、山東京伝、山東京山、曲亭馬琴などの戯作者は絵付きの本を書き、京伝の経営するブランド店で紙煙草、扇子、薬を売り、その宣伝に歌麿が加わり、馬琴も黄表紙で店の宣伝をした。煙草のラベルは京伝が描き、包装紙も自作し、江戸中の庶民に引っ張りだことなった。やがてこの江戸のファッション、ブランドの文化は日本中に広がってゆく。これらの品物は読本、歌舞伎、浮世絵とともに、江戸庶民に支持され、町人文化の中心になった。
鈴木牧之は、田沼時代の終わり、1788年(天明8年)18才の時、江戸へ縮を持って上京する。牧之は高級織物の縮、80反を売る商売で、越後から賑やかな江戸の町にやってきた、商売のかたわら、江戸の町を歩き、江ノ島や鎌倉を訪れ「東遊紀行」を書き上げる。その後も仕事の傍、西遊記行、苗場山紀行などの作品を仕上げている。
その頃、人気戯作者、山東京伝に江戸で、出会う。 江戸の文化への憧れから、牧之30代の頃山東京伝に、北越雪譜の原稿を持ち込み「山東京伝著述、北越鈴木牧之校正」で出版してもらうべく相談した。しかし版元に断られる。47才の時滝沢馬琴に出版を託すも、うまくいかず、山東京伝のなくなった後1829年(文政12年)、弟の山東京山に「越後国雪物語」としてようやく出版を勧められる、その時、牧之はすでに59才になっていた。いく年か経ち1837年(天保8年)67才になって、ようやく若き日からの念願の「北越雪譜」初編が世に送り出された。
初編は上中下の3巻で、上、中巻で、雪にまつわる話、雪のなかの暮らし、熊やキツネなどの動物、雪国の生業を書き、下巻ではその地に生息する鮭と人々の暮らしを描いた。
第二編では、春夏秋冬の四冊四巻からなり、その巻の扉には、 越後塩沢 鈴木牧之 編撰 江戸 京山人百樹 増修と書かれ出版された。第一巻と二巻は雪国の生活、雪の正月、羽根つき、ソリやカンジキなどの雪中の道具や風習、四巻には猿に似た異獣などのを奇談も綴った。
北越雪譜 二編の一
雪国ではソリは古きからあり「初深雪(はつみゆき)降りにけらしなあらち山超(こし)の旅人(ソリ)橇にのるまで」と堀川百首に歌われている。冬の雪は凍らないので、沈んで引くことができず、ソリはもっぱら正月、二月、三月の雪が凍りついたときに用いる。
このソリが転用されたスキーが日本にもたらされたのは、日露戦争後、日本軍の視察に来たオーストリア ハンガリー帝国の軍人レルヒで、彼が新潟県の高田を訪れたことに始まる。 この豪雪の地で1911年 (明治44年)1月9日陸軍の師団長長岡外史が高田58連隊の専修将校13人にスキーを日本で初めて、習わせた。そのスキーはソリと似ていたため、日本の職人が青欅を削り、長い手製のスキー板を造った。陸軍の営庭でスキーを履き、滑降を学んだ軍隊の訓練に始まるスキーは、瞬く間に民間に広がり冬のスポーツとして普及した。
北越雪譜二編の四
苗場山は越後第一の高山である。頂に天然の苗田がある、そこから「苗場」の名がついた。塩沢からの登山を試みた。神楽岡からから松があるだけで、ほかの木はいっさいない。から松は強風のため背が伸びない。梢が雪や霜のため枯れている。背の低い茂みをつくっていた。そのなかを登り、ついで少し下った。そこはお花畑といって、山桜が咲きほこり、百合、桔梗、石竹などが、まるで人が植えたように群れて咲いていた。眺望がすばらしい。越後山々はもとより、浅間の煙、信濃の連山みな眼下に波濤す。千曲川は白き糸を引き、佐渡は青い盆石を置く。能登の洲崎は蛾眉をなし、越前の遠山は青黛を残せり。ここに目を拭いて扶桑第一の富士を視いだせり、そのさま雪の一握りを置くが如し。
この苗場は昭和の時代の、ホテルに直結して、最も人気の高いスキー場となり、80年代日本を代表するリゾート地となった。
北越雪譜二編の四
三、四月の雪
越後では冬は無論のこと、春になっても二月ごろまでは雨が降らない。雪が降るからだ。春も半ばになると、小雨がみまう日がある。そうなると晴天の日は当然のこと、雨でも風でも雪がしだいに消えていく。とはいえ家の北東にあたる乾の方の雪はなかなか消えない。山々の雪は里よりも消えるのが遅い。春の陽気にドッととけると水害を起す。
夏のはじめになってようやく冬下駄や藁沓を脱いで、草履やセッタになる。たこあげに走りまわる元気な声が聞こえる。
桃や桜が花盛り。雪がない。まさに別天地だ。
三編以降は構想のまま鈴木牧之は72才の時この世を去った。北越雪譜は雪国で暮らし、雪の中で生活した江戸時代の文人商人の、愛着を込めた科学的随筆であり、今でも、読み継がれている。
