2015/10/25

アジア主義と帝国


 1900年この時代を、ギルバート マレーは「どの国もわれわれこそ国家の中の精神であり花である。そして,何よりも他を支配すべき資質を備えている国家であると考えていた。」と表現しています。イギリス一国支配は終わりを告げた1885年以降、世界は多極的世界となり欧米帝国主義列強の争いの場になった。
 こうして ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア ハンガリー帝国、イタリア各国は植民地を求めアフリカやアジアに進出してきた。アメリカもまた門戸開放をかかげてこの競争に加わった。アジアの各国はこの強大な圧力に対して対抗した。しかし、エジプト、印度、中国そして東南アジアやフィリピンは列強の支配下におかれた。

 日本は天皇を神格化し、神道を国家宗教としたが、実務は西欧的規範を取入れ近代的国民国家をつくりあげ植民地化をまぬがれた。 1894年に日清戦争に勝利し、地域の覇権を確立したあと、1904年に、大国間の政治の延長としての戦いである日露戦争に勝利した。この2つの戦争により、日本はアジアの強国の地位を固め、侵略併合をされる危険は当分なくなり、群雄割拠する世界にどう対応するかが問題となった。


 この時代中国を支配していた清王朝は、儒教で国を治めていた。儒教では徳のある皇帝は絶対的権力者であり、君臣、父子、夫婦間の上下関係をなにより重んじた。4000年前より文明が続く中国は宇宙の中心であり、その他の辺境は夷狄である。この華夷思想で対外政策をすすめ、科挙で官僚制度をつくった。西欧列強に遭遇した清朝は改革に失敗し西欧の技術、武力に敗北した。それにたいし、康有為は儒教を新たに解釈し直して孔教として広めようとした。一方広州の農民出身の孫文は満州族の君主制を倒し、共和制をめざした。

 欧米列強の進出とともにアジアの平和は崩れた。汎アジア主義は、この西欧列強の進出に対抗する思想で、日本の脱亜入欧は西欧列強の人種差別の壁にぶつかり、汎アジア主義の思想が生まれた。 アジア主義は多様でアジア諸国の連帯をどうするかで意見はさまざまであった。その一部には中国、朝鮮も日本に支配されるべきとする軍国主義者いたが、多くは隣国と協調し西欧に対抗しようとして多くの政治亡命者を温かくもてなした。
 20世紀はじめ東京はアジアの活動家の中心地となった。孫文、魯迅、梁啓超などは中国から、またベトナムからファン ボイ チャウ、その他印度、フィリピンやイスラム圏から多くの亡命者が集まってきた。

 海外の帝国主義者に対抗するために中国の強化に協力した。かれらは明治維新時代の無私無欲の理想家をめざし、夢見た。宮崎滔天は孫文を支援し、北一輝は宋教仁を支えた。そして1911年辛亥革命で清帝国は滅亡した。しかし、中国の辛亥革命は頓挫し、儒教の復活と帝国の再来をねらう軍閥袁世凱に政権を移譲した。その後のアジアは混乱した中国の安定が最重要の課題となった。

 日本の民間では孫文と辛亥革命への共感が広がっていた。ところが時の政府と外交官僚による対支21箇条要求を袁世凱の中華民国に突きつけ、中国の反帝国運動の矛先は日本にむかった。その後、孫文はロシアへの期待を強め、そして中国共産党も成立した。

 日本が強大になってくるとともに、拡張支配の欲望と、アジア諸国との連帯の間にしだいに矛盾がでてくる。1924年(大正13年)孫文は神戸において有名な演説をする。「日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持っている。今後日本が世界の文化に対し,西欧覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべき問題であります。」と述べた。

 
 その後アジア主義は時代とともに変化し、偏狭な日本主義陥ってしまう。日本国内では腐敗した政党政治を打破し、資本主義をやめ、天皇親政を目ざす国民運動がおこりこの国家主義の賛同者は増え、天皇の下に挙国一致して、軍と一体化し欧米列強をアジアから駆逐しようと訴えた。そして大東亜共栄圏の思想にまで行き着く。

 やがて中国大陸での日本と中国の事変は、太平洋戦争となり、日本の敗戦により内戦から中国共産党が政権をとった。

 中国はマルクス主義の理想とした平等社会を実現したかにみえた。しかし、その後の文化大革命、天安門事件をへて、しだいに昔の中華帝国を思わせる強勢大国に変貌していった。
 左翼が弱者救済、平等社会を目ざすとすればその定義にはあてはまらない富みの偏在と、弱者の無権利状態を生み出している現在の中国は、強権国家であり、儒教主義的華夷思想の中華帝国にもどりつつある観さえする。