ラベル 雑記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 雑記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009/02/22

藤村と第一次世界大戦

まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり

 

やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に

人こひ初めしはじめなり

 

     島崎 藤村   若菜集 1896年発表

 

その後“破戒”や“家”で自然主義作家として、有名になる。

1913年4月42歳のときフランスに留学。

 

 その時代のフランスは、1870年普仏戦争に敗北しその後,海外の植民地を巡ってイギリスと衝突をおこし、アフリカ、インドシナなどにイギリスに次ぐ広大な植民地を手に入れていました。その後、イギリスと和解しロシアとは同盟を結んでドイツに対抗していました。

 

 ヨーロッパは、20世紀初頭 ドイツの台頭があったものの、社会民主主義が主流で戦争は起こらないと思われていました。しかし、“チボー家の人々”に詳しく描かれているように、ジョレスが暗殺され、その後ドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入しました。

 

 1913年4月42歳のときフランスに留学した藤村は、第一次大戦中もフランスに残り,東京朝日にフランス便りを書いています。

 1914年8月3日ドイツがフランスに宣戦布告。このときの報告は“パリにみるべきものの少ない時は今です。あらゆるミューゼを始め、パンテオンの戸も閉ざされ,番人は去り,いっさいの美術庫に固く錠のおろしてある。”

 

 そして,篤志看護婦の題で、“アストリアのホテル、その石造の大建築物の屋上に高く旭日旗が翻って行来のひとのいきつつあるのは,フランスに派遣された わが日本赤十字社救護の働いている場所です。”パリのホテルアストリアを拠点に約1年半に亘り,日本赤十字社が負傷者の救護にあたったと報告しています。

 帰国後、父親をモデルにした歴史小説“夜明け前”を中央公論に連載。自然主義作家としての地位を確立し、1941年には、東條英樹陸軍大臣の戦陣訓の文案作成にも参画しています。

 

2009/02/02

医師チエホフ結核で死す

 1853年、ロシアはオスマン帝国に軍隊を派遣し、それを支援したフランス、イギリスと衝突しました。 その後の19世紀後半は、帝政の下に改革を進めるも、混迷を深め、ロシア革命へと時代は動いていきます。この帝政末期に向かう1860年には農奴が解放され、1877年ロシアトルコ戦争、1881年アレキサンドル2世暗殺。そして、1904年日露戦争、この後、1917年の革命よって、皇帝ニコライ二世を最後に300年のロマノフ王朝は幕を閉じることになります。

 

 1860年生まれのチエホフもまたこの帝政末期の代表的作家で、コナン

ドイルや森鴎外とほぼ同時代の生まれです。

 1884年モスクワ大学医学部を卒業。同年モスクワに開業。その2年前にはアレクサンドル2世が暗殺され、ナロードニキ運動などの反政府活動は押さえ込まれ専制政治はより強化されていました。

 この頃のロシアは工業化され軍事力は巨大なものの、階級社会で、地方の貴族階級も農民も没落し都会には浮浪者があふれ、識字率は30%にも達せず、文明国とはとても言えない状況でした。

 1890年30歳のときに極東のサハリンを訪れ新聞紙上に“シベリアから”を連載する,それをもとに“サハリン島”を発表し、流刑囚の悲惨な生活を描きました。社会活動をおこないつつ作品を次々発表。

 

 トルストイが散文におけるプーシキンと呼んだように、主人公は平凡な人で、思想を表に出さず,淡々とした日常を描き、芝居がかったドラマチックな作為性を排除し、短編小説の改革者となりました。

 

 また有名な戯曲の“かもめ”(1896年)のなかで、

この不変性のなかに、ひとりひとりの生死にたいする全き無関心の中に、ひょっとすると、われわれの永遠の救いや地上の生活の絶え間のない動きや絶え間のない向上を約束するものがひそんでいるかもしれない。

 “三人姉妹”(1900年)では、

すでに生きてしまった一つの生活はいわゆる下書きで、もう一つの分が清書だったらねえ。

 桜の園(1904)では,貴族階級の没落とやがてくる新しい時代の登場を淡々とした日常場面の中で描いています。人間に対する洞察力の鋭さ、社会的不正義の批判を短い台詞に込めて、今でも世界中で、演じられています。

 

  1904年日露戦争に健康が許せば、軍医として極東に行きたいと語っていました。しかしその願いはかなわず同年44歳の若さで帝政ロシアの崩壊をみること無く結核で死亡。

 

 日露戦争に対し、皇帝に批判的なトルストイは非戦論、“なんじら、悔い改めよ”がロンドンタイムスに掲載されています。チエホフの活躍したのは,ナロードニキ運動が弾圧されたあとの時代で、無思想の思想のような劇や小説が生まれた背景もこの時代を反映しています。ロシア社会民主労働党が誕生したのは、1898年でした。

 

2009/01/18

町医者爵位を得る

               アーサー コナン ドイルの叔父の画


 イギリスの19世紀はヴィクトリア時代と呼ばれ,イギリス一国が覇権を打ち立て世界の7つの海を支配し、世界中に植民地を持った時代でした。1837年にヴィクトリア女王が即位し。その後約60年間にわたり,国内は特に混乱も無く発展していきました。

 

 しかし,国内は1940年代、飢餓の時代とも呼ばれ,食料不足になやまされ、多くの貧民が都会に住んでいました。この時代の労働者階級の人達を描いたのが、チャールズ ディケンズで“オリバー ツイスト”、“デビット コバフィールド”,“大いなる遺産”,“クリスマス キャロル”などの有名な小説を残しています。

 

 対外的には,しだいに他の帝国が力をつけ、また1953年のロシアとのクリミア戦争、そして中国大陸では清朝とのアヘン戦争、アロー戦争、南アフリカでのボーア戦争など植民地拡大の局地戦争を起こしていました。この19世紀後半になると、アメリカやヨーロッパの大国が関税障壁をもうけ,一方、開かれたイギリス市場には,海外からの輸入品が津波のように押し寄せ,国内の工業に打撃を与え、しだいに覇権国の地位からすべり落ちていきました

 

 19世紀末の最も有名な作家はアーサー コナン ドイルです。こどもの頃読んだ不毛の荒野ダートムーアや恐ろしい沼地や魔犬のでてくる物語、“パスカビル家の犬”に興奮したことを今でも覚えています。

 ドイルは1859年に生まれ,1876年エジンバラ大学医学部に進学。20歳のとき,北洋捕鯨船で7ヶ月暮す。大学卒業後船医となり28歳のとき“緋色の研究”でホームズの小説を初出版しその後1890年に“四つの書名”を出版、翌年1891年に眼科をロンドンで開業。

 1900年南アフリカのボーア戦争に従軍。戦争擁護の“大ボーア戦争”と

“南アフリカでの戦争の原因と行動”を書きイギリスの戦争を擁護し,1902年にナイトの爵位をうける。

 

 ドイルはシャーロック ホームズシリーズをやめて自分の書きたい小説を書こうとした時期もありました。しかし、あまりの人気に、死んだホームズを再び、“パスカビル家の犬”でよみがえらせ、結局60の事件を解決し、世界中にシャーロキアンをつくり今なお人気が衰えていません。

 叔父は風刺雑誌パンチの有名な画家で、日本や中国の風刺画や妖精の絵を残しています。この影響か、晩年は“心霊術史”や“新しい啓示”の著作を書き心霊を信じ妖精と心霊の神秘主義に傾倒していきました。

 

 

100年前の小説家たち


  19世紀は,イギリス一国が覇権を打ち立て,植民地を拡大し世界を支配していました。

 19世紀後半になると、アメリカやヨーロッパの大国がしだいに力をつけ、一国支配の覇権国の地位からすべり落ちていきました。

 1900年この時代の状況を、ギルバート マレーは“どの国もわれわれこそ国家の中の精神であり花である、そして,何よりも他を支配すべき資質を備えている”と表現しています。 こうして1885年以降、世界は多極的世界となり帝国主義列強の争いの場になりました。

 

 この時代 7つの大国がありました。各大国の工業力を1900年のイギリスを100として、比較すると、アメリカは 127.8とすでにイギリスを追い越し,ドイツ 71.2ロシア 47.8オーストリアーハンガリー帝国 25.6でイタリア 13.6日本が 13.0でした。その後、アメリカ、ドイツ、イギリス、ロシアの順に工業力は飛躍的に増大していきました。

 

 そして、とりわけドイツは第一次大戦直前には日本やイタリアの3−4倍の工業生産力で,ロシアを追い抜いて,イギリスに迫る勢いになり、覇権国として軍備も着々と増強していきました。

 日本は,1868年の明治維新以降,西欧の植民地化をさけるため,富国強兵、殖産興業を達成すべくドイツにならった憲法のもと、地域での大国の道に邁進しました。

 1894年日清戦争に勝利し、地域の覇権を確立したあと、1904年に、大国の間の政治の延長としての戦いである日露戦争に勝利しました。この2つの戦争により、日本はアジアの強国の地位を固め、侵略併合をされる危険は当分なくなった時でした。

  時代はその時の作家により記録され、時代精神もまた読み取ることができます。日本では日清,日露戦争に従軍した森鴎外が軍医として記録を残しています。

 

 同じ時代ロシア帝政時代末期で1904年にトルストイが非戦論、“なんじら、悔い改めよ”をロンドンタイムスに掲載されました。そして、ロシアマルクス主義が世紀末に結党されました。また,ドストエフスキーやチエホフもこの時代の作家です。

  

 一方、1902年に日本と同盟を結んだイギリスでは、19世紀中頃にディケンズが、19世紀末期にはアーサーコナンドイルが活躍しました。

  

 同時代フランス、オーストリアは世紀末のベルエポックの華やかな時代で、1900年のパリ万博でエッフェル塔が登場し、芸術、美術、流行の中心地としてもにぎわっていました。

 

 ドイツでは、アヴァンギャルドの潮流が時代精神を表し,美と様式に価値を見いだす世紀末芸術が流行し、トーマスマンやヘルマンヘッセの文学がうまれています。


  各帝国はそれぞれ国内の富を増大し、それとともに各国独自の文化芸術が栄えていきました。その様子を作家は描き、その時代精神も知ることができます。同時にこの富と権益確保のために,帝国間には武力行使が各地で起こっています。これらに作家も参戦したり従軍記者として多くの文章が残されています。

 そこには国家に対する義務と作家の世界観が反映され、 100年後の今読み返し、あらためて興味深い発見をして、驚くことが多くあります。

2009/01/01

ディズニー王国


マンガの魅力

 

 1920年代のアメリカはマイアミの土地バブルに引き続き、豊かな生活を謳歌していた。株価は上昇を続け,新たな投資信託が流行し、すべての職業の人、主婦もこぞって株を持ち、アメリカ人の生活は株式市場を中心にまわりはじめていた。

 

 この時代1928年に、ミッキーマウスは初めて蒸気船ウイリーでスクリーンにデビューした。そしてアメリカだけでなく瞬く間に世界中で有名になり、ヨーロッパやオーストラリア、ニュージーランドさらには日本や中国、インドでも上演された。

 

 1929年に株価暴落が起こり、1930年代は10年間にわたり世界が恐慌に陥った。アメリカではルーズベル大統領のもとにニューディール政策がとられ、ドイツやイタリアは国家社会主義の政権ができ、ロシアは社会主義政権が確立していった。

 

 この時代がミッキーの黄金時代で10年間に100以上の作品が生み出され,ミニー、プルート、ドナルドなどのキャラクターが生まれた。1935年ミッキーマウスとシリーシンフォニーが世界中で4億6千800万人の観客を動員した。

 フランスでは、国際連盟メダルを受賞し、日本ではミッキーマウスの人形が飛ぶ絵に売れ,ロシアではミッキー映画は資本主義に対する風刺とみなしモスクワ映画祭審査委員会よりの賞を受賞し,イタリアでは、ムッソリーニからサイン入りの肖像が送られた。

 

 ドイツでもまた国家社会主義政権になっても、ディズニーが受け入れられた。その理由は,内容がほとんど非政治的で、作品にドイツのメルヘンの伝統に対する愛着があり、何より彼の母親がドイツ系であったことが影響していた。

 

 1930年後半に長編アニメの白雪姫と続いてピノキオが封切られた。しかし、これらの作品は、1940年代、ヨーロッパの大戦から第二次世界大戦が始まり、世界中に広まることはなくなった。

 1950年戦後なってドイツの映画館に登場し翌年ミッキーマウスもカムバックした。

世界が大恐慌から世界大戦に至る時代にもかかわらずディズニーマンガは世界中のこども達に歓迎され、おとなにも受け入れられ喝采をあびました、そして戦後ディズニーは世界中に巨大なテーマパークも造り上げ、ディズニー王国の夢をあたえ続けています。

 

2008/08/21

ソルジェニッチェンのロシア


ロシアとソルジェニッチェン

 

 ロシア平原は長い間,遊牧民族モンゴルの支配のため,国家をつくる事が出来ず(タタールのくびき)15から16世紀にかけてようやくロシア人の国家ができた。17世紀にはいりロマノフ王朝が誕生し、北の強国となったものの西欧のルネッサンス、市民革命はこの地域までには及ばず、支配層の皇帝と支配される農奴とに分かれ、市民社会をつくることはなかった。

 1917年にロシア革命が起こり,ソ連になった。その翌年に生まれたソ連時代の反体制作家ソルジェニッチェン氏が今年8月4日に死亡しました。

 

 彼は、スターリンを批判した罪で8年間の流刑を受け、それを題材にして1962年に収容所生活を描いた小説 “イワン デニーソヴィッチの一日”でデビュー。その後“ガン病棟”“ 煉獄のなかで”を海外で出版。70年ノーベル文学賞を受賞。“収容所群島”を出版後1974年に国外追放処分を受けアメリカに亡命。

 

 その後、ソ連はゴルバチョフの改革政策で、1990年から大統領制を取り入れ,共産党一党独裁を廃止し、市場経済体制に移行。この年市民権を回復。ソ連は解体し、翌年ロシア連邦大統領にエリチェン就任。1994年にソルジェニッチェン氏はロシアに帰国した     1996年の大統領選で再びエリチェンが選ばれた。このとき,ロシア経済は壊滅状態で国家破産寸前であった。そして,政権の中枢は、新興財閥集団オルガルヒが占める事になった。

 

 ソ連時代の体制批判の急先鋒であったソルジェニッチェンは,帰国後、新しいロシアの主人公たちの金権と反ロシア主義を激しく非難し、民族の文化的伝統を守るように主張した。国際資本のもとの金権国家をやめ,自分たちで自立して、固有の国家機構、文化、正教の教えを維持し民族の精神生活こそ大切であると主張し、

後のプーチン政権を支持した。結局,ソ連の崩壊は西欧型民主主義国家を生まず、国際資本にほんろうされ,復活させたのは宗教と新たな民族主義でした。

2008/08/04

江戸の花火


暗く暑く 大群衆と 花火待つ 西東三鬼

 

 100万都市になった江戸。夏の大江戸花火の日は両国には大群衆が集まり,大道芸、ガラス細工、鉢植えの朝顔、見世物小屋が立ち並び,隅田川には花火をみる屋形船でひしめいていた。

 

 今でも,続く夏の夜の花火など,江戸の文化は今も多くのこっています。その中で、江戸時代の文化を代表する浮世絵がヨーロッパの絵画に多くの影響を与え、伊万里焼きなどの陶器もまた世界中で人気を博しました。

 

 陶器はこの時代、日本が最も優れたものをつくっていました。  17世紀前半の初期伊万里の図柄は今みても、その斬新性に驚かされることがあります。17世紀後半にはオランダ東インド会社から多くの柿右衛門様式の茶器や動物の置物が輸出され、ヨーロッパの貴族たちにとって伊万里焼きを飾る事は流行の先端を行く事でした。

 

 絵画の世界では、日本の画家では葛飾北斎が代表で、19世紀末のヨーロッパ画家、ミュシャ、ロートレックやゴーガンそしてマネ、ドガなどの印象派の作品に多くの影響を与え、ガレの作品のモチーフにも多く用いられています。当時のパリにジャポニスムの熱狂がみられ、その後、浮世絵は西欧絵画の根本にまで影響を与えています。遠近法を無視した装飾性や、はっきりとした輪郭、単純な構図、独特の色彩の使い方を多くの画家がとりいれていました。

 

 中でも北斎の漫画は絶大な人気で、北斎55歳のときから初編が発行され,風景,人物画、動植物、建築,妖怪などが描かれています。最終的には15編あり多くの芸術家はこの漫画から,インスピレーションを受け、構図や表現を学んでいます。

 

 江戸時代の北斎と浮世絵は国内での評価は狩野派などの正統派に対して,庶民に人気のあるサブカルチャー扱いで、今の日本の状況と似たところがあります。最近まで国内では、漫画や村上隆の作品はサブカルチャーで一流扱いされていなかったものが、アメリカやヨーロッパの評価の高さにつられ,日本美術界での評価が上がり日本文化の代表になりつつあります。

北京

北京の55日

 長い間、唐、天竺の時代から、ユーラシア大陸の東の端に海を隔てて、大陸の影響を受けつつも日本は独自の文化を育ててきました。

 

 今から100年前は世界がグローバル化し、グレートレース、列強による利権争奪競争の時代でした。ユーラシア大陸の西の端の国、イギリスが海洋を渡り、世界中にかれらの支配地域を広げ、インドを中心にして世界帝国を築き,ユーラシア大陸の東にある清王朝に租借地をつくり、一方大陸の北方には強大なロシア帝国が旧満州現在の中国東北区に支配を広げ、フランスはインドシナを植民地化し、アメリカもまた南北戦争後、フィリピンを支配下におき,清への進出をねらっていた。日本も徳川幕藩体制から,植民地化されることなく明治政府になり、脱亜入欧政策のもとに富国強兵、殖産興業を掲げ列強の後を追いはじめた。

 

 北京の55日は、1963年のアメリカ映画で、この時代の義和団の乱を描いた映画です。キリスト教の布教に対する不満からおこった義和団事件は扶清滅洋を掲げ、各地で排外主義の争乱がおき、清朝はこれを裏から支援しました。

 1900年北京の各国外交官に対し義和団が攻撃を開始し、清朝も宣戦布告、55日の戦いの後、8か国連合(イギリス,アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、日本)軍が北京に到達して清は戦いに破れ、1912年に滅亡。また,その後ロシアのロマノフ王朝も,オーストリア帝国も滅亡しました。このとき日本軍は柴中佐役の伊丹十三が率い登場しています。

 

 20世紀の大半は、共産主義主義と民主主義の2つの世界に分割されていました。アメリカ映画の中で描かれる物語は当然その時代の制作者の意識の反映で、主役のチャールトンヘストンが邪悪な義和団と黒幕の西太后に対して各国が協力して55日間の危機を乗り越えハッピーエンドを迎える物語です。実際は列強による清の領土に対する覇権争いとそれに抵抗する排外主義の乱で、当時日本でこの映画が結構人気を獲得したのは、戦後アメリカのソフトパワーの強大さを物語っています。

 21世紀になり、ユーラシア大陸や世界各地で起きている資源をめぐる大国の動きは配役は変わったものの100年前の列強の時代を彷彿とさせます。

2008/06/15

桜桃忌

 蛍火の おぼるる如く 桜桃忌

 また,翌年シラーの人質から題材をとった,”走れメロス”(1940年)はその巧みな
描写で、いまでも多くの教科書に取り上げられています。

 メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは,村の牧人である。で始まる単純な爽快な文。

 戦後になっても文壇において,既存の価値観が崩壊した時代、それを破壊し、生活そのものも無軌道で無頼派と呼ばれるようになった。

 人非人でもいいじゃないの、私たちは、生きていさえいればいいのよ。”ヴィヨンの妻”

 1947年(昭和22年)12月には”斜陽”が単行本として,発売された。前年に新憲法が発布され,華族が廃止され、また農地解放で地主階級もまた廃止された。この時代に斜陽華族の家庭を巧みに表現し、太宰治の評価をさらに高めた。

 1948年(昭和23年)雑誌展望に若い頃の作品”道化の華”以来の自伝小説”人間失格”を掲載.同年朝日新聞に小説”グット バイ”が掲載予定であった。
 このころから戦後の混乱期がようやく収束し、新しい時代が始まった。
 39歳になるこの年、東京三鷹の多摩川上水で心中自殺。

 ひよわな華、道化の華としての人の心を描いた作家、太宰治は、実生活でもそれを貫徹してしまった。


2008/06/01

更衣

 海をみて 青空をみて 更衣

 梅雨に入る前、日本は四季のうちもっとも美しい季節を迎えます。
この頃を盛りに花は咲き乱れ,若葉から青葉、濃い緑と木々は繁り、やがて季節は梅雨から夏に移り変わっていきます。

 更衣は明治になり,政府が6月1日と10月1日に決めたもので、平安時代から既に,始まり江戸時代には、武士の袴の更衣、庶民もまた,服の虫干し、夏支度がいっせいに行われていました。

 四季のある国、日本の自然の美しさを幕末から、明治初期におとずれた多くの外国の日人々が記録に残しています。

 この季節江戸近郊の田園について、至る所に農家、村、寺院があり、また至る所に豊かな水と耕地がある。作地は花壇のように手入れされ,雑草は一本もみることは出来ない。竹林の中の農家、高く伸びた杉の木陰道、緑の木立に隠れたお宮。椿 槙の生け垣。植物相は無限なほど形態が豊富だ。
 
 また,小泉八雲は素朴で絵のように美しい、はかなく滅びゆく江戸時代から続く日本の文化を描き、数々の小説をとともに、アメリカに紹介した。
 
 小泉八雲,ラフカディオハーンはギリシャで生まれ,アイルランドで育ち,南北戦争のころアメリカで記者生活を送り、1890年に日本の山陰の松江市に居を構え、多くの民話や怪談を題材にした幻想的で情緒豊かな世界を小説で描いた。

 また、そのころの時代18世紀から19世紀にかけての日本は暗い遅れた生活に喘いでいた訳ではなく、多くの人々もまた衣食住ともに簡素ながら,満たされ自然の中で、自給していた生活が紹介されている。
 
 その後19世紀後半から20世紀にかけ、日本も近代化,工業化が急速に進み、豊かさを求めて世界中が疾走した時代にはいりました。
 この,時代に確かに存在した、一つの美しい文明は滅び去り、いまでは残されたこの時代の記録から想像する以外によみがえらせる事は出来ません。
 

 
 

2008/05/06

人知れず微笑まん

 北京オリンピックを前にして、チベット問題が引き金になり、中国の民族主義が、
世界中に波紋を投げかけています。
 民族主義、ナショナリズムはいつの時代も扱いをあやまると,災いをもたらす
厄介な感情にもなります。民族主義はいつも無頼の砦と化す危険を抱えています。

 日本でも1930年代無謀な戦争に突入したのは、この民族主義的情動も大きく関与していました。戦後、この国体思想は何だったのかを分析して、論壇に若くしてデビューし、瞬く間に時代の寵児となった人が丸山真男です。
 
 ”超国家主義の論理と心理”のなかで,昭和日本のファシズムはほかの国の近代国民国家のナショナリズムと明らかに異質である。個人の自由な判断、主体が無い、近代市民社会の欠けた村落共同体のままであった日本が、天皇制のもとで、教育勅語などの国家神道を中心とする教育を通じ、内容的価値の実態を伴って統治したものであったと明快な理論で分析しました。

また”軍国支配者の精神形態”で軍の支配分析を行い,その後 ”日本の思想”で日本の
特性の由来を分析しさらに多くの賛同者を得ました。

 丸山真男が最も活躍したのは1950年代後半から1960年代で、多くの人たちにとって彼は民主主義の指導者であり、戦後民主主義の教祖でもありました。

 時代は、ちょうど吉永小百合がキューポラのある街で有名になり、その映画が当時
の日本の流行思想でもあった時代でした。

 1960年の新安保条約反対のオピニオンリーダーでした。この年の5月に安保条約改訂は岸内閣によって強行採決。6月15日全学連主流派の安保反対デモで,樺美智子さんが死亡。

 その頃から,戦後民主主義のオピニオンリーダーはその思想そのものやアカデミズム体質を批判されるようになりました。

 1960年中頃からは,日本が高度大衆消費社会となりつつあり、また、丸山真男
が病理とした前近代的で西欧より劣っているとした日本の文化が逆に肯定的に評価
され始めました。

 あまりに西欧的で、西欧近代の視点からの丸山日本社会論は力を失い、1960年代
後半には全共闘の批判の的となり、1969年拠点の東大法文2号館が占拠破壊され、
失意の内に,定年を待たずして退官されました。

 戦前の1930年代から40年代、蓑田胸喜らが超国家主義の先導者たちの時代とするならば、戦後から1960年まではその思想の全否定の時代でした。時代精神もまた流行があり、後の時代からみれば真理がかならずしもいつも主流を成す訳ではありません。

”最後に”

誰かが私を笑っている
向こうでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
最後に笑うものが
最もよく笑うものだと
でも私は
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

  樺 美智子
 

2008/04/17

岡本 太郎



物まねは易く、創造は難し。

 先日,青山の岡本太郎記念館を訪れました。

岡本太郎は有名なコラム漫画家岡本一平と小説家岡本かの子の一人っ子で、
戦後、絵画、彫刻、評論活動で時代の寵児となりました。
 大阪の万国博覧会の太陽の塔は、多くの議論を呼び起こし、現在もその異形は残っています。

 美術界で岡本太郎の最も嫌ったのは,戦前からの伝統、形式主義です。盆栽にもみられる、繊細なひねり。洒落,創造する事なく、型を模倣しその世界にこもってしまっていること。これらに対して激しく反対しています。


 これは歴史的に日本の美術が室町時代から始まり日本の中世にかけてでき上がった過程で、ちんまりし気取った形式主義、趣味的繊細さに陥った結果です。

 この伝統主義、日本独自の芸術観は戦国時代から江戸時代にかけ確固としたものになり、明治、大正そして昭和の初期まで変わる事なく続いています。

 
 たとえば、雪舟の絵画が技法を極める事のみに集中し、絵の本質を失っている事。明治時代以降の洋画がヨーロッパとくにフランスの絵画を取り入れた物まねで、洋画アカデミズムに陥り、絵画の形式化や観念化してしまった事。また伝統芸術は些末さと技法に走り本来の
創造的エネルギーを無くしたことも同じ理由によります。
 
 岡本太郎はこの日本主義、伝統主義を単に否定したのではなく、逆にフランス生活でのヨロッパの芸術家との交流を通じ、抑圧された戦争時代を経て、日本の芸術の中にあるまっすぐで原始的なたくましさをもった縄文土器の再評価し、尾形光琳の紅白梅流水図や燕子花図屏風の絢爛と力強さの中に世界レヴェルの高い芸術的価値を見いだし評価をしています。


 また自らは、美術や彫刻は美しくあってはいけない,芸術はいやらしくなくてはいけない。その信念のもとに創作活動をし、現在毀誉褒貶の後、現在はその独創性は高く評価されています。

 一方、日本人に受け継がれてきた伝統的感情、価値観や道徳、世間体あるいは文化的伝統といったものは、昭和25から26年生まれ世代以降の家庭では、すでに消え去っています。団塊の世代の親が戦前より引き継いだ伝統的諸価値はその後の世代に受け継がれる事はなかったように思われます。

 

花いばら

春風や 堤長うして 家遠し

 春の日の、土手や堤防は江戸時代から、治水のためにつくられ、春になるとそれらの堤の斜面に,つくしが芽を出し,タンポポが咲き、豆科の植物の蔓がいっせいに伸び始めます。
 
 その堤防の土手沿いには桜が植えられ,4月の初旬、満開の花のあと、強風、青嵐が吹き、花が散り、一斉に若葉の季節になります。

 この時期,草がまだ密生する前の、虫の少ない季節で、この短い4月の初めは,草滑りの遊びが出来る一番いい季節です。

 蕪村のもうひとつの有名な句に

   愁ひつつ 丘にのぼれば 花いばら

があります。
そして,同じ心情は春風馬堤曲にみられます。

  堤下摘芳草
  荊与蕀塞路
  荊蕀何妬情
  裂裙旦傷股

そして、もうひとつ有名な茨の句

  路絶えて 香にせまり咲く 茨かな

があります。





2008/03/11

無心



良寛和尚の春の短歌


霞立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ
今日もくらしつ
 
漢詩



花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花を尋ね
花開くとき蝶来たり
蝶来るとき花開く
我も亦人を知らず
人も亦我を知らず
知らずとも帝則に従う

    
良寛の春の短歌と漢詩は
日本の四季を実感させる。
300年以上前の風土と感覚に共鳴。

日本の伝統、意識のひとつに清貧、無心といった、仏教の教えが、この江戸時代の
代表的心情であり、江戸時代の教養は、この良寛和尚のように、漢詩、俳句
和歌、書、などでした。明治時代の西欧化にもかかわらず、多くの教養人は共通の基礎
知識としてこれらが受けつがれていました。
 昭和になり、戦後民主主義の時代にも、生活の実感では、戦前の教育をうけた親の
世代が、この伝統を伝え生活に根付いていました。

 平成になり、江戸時代からの文化的教養を担う世代が途絶え、伝統は歴史になりつつ
あります。それは、仏教が生活に密着していた時代が終わったことを示しています。

 良寛の思想の根幹は

我が生何処より来たり 去りて何処にか之く
独蓬窓の下に座し ごつごつとして静かに尋思す
尋思するも始めを知らず 焉くんぞ能くその終わりを知らん
現在も亦復然り 展転総べて是空
空中我有る無し 況や是与非と有らんや
如かず些子を容れ 縁に随ってしばらく従容たるに

これらが、今後再認識される時代くるかもしれません。



Homage to Perfection of Wisdom

the Lovely,the Holy.

Avalokita,the Holy Lord and Bodhisattva,

was moving in the deep course of the Wisdom

which has gone beyond.

He looked down from on high,

He beheld but five heaps,

and He saw that in their own-being

they were empty

2007/12/30

THE LAST LEAF

今年は、地球温暖化のためか、12月の終わりになっても、枯れ葉は落ち葉とならず、年を超しそうです。

THE LAST LEAF 最後の一葉は、THE GIFT OF THE MAGI 賢者の贈り物と並んで、

O ヘンリーの代表的短篇小説です。

相手の大切な物のために、自分の大切な物を犠牲にする。落ち葉を自分の人生に託す人のために、

描いた一枚の葉。今でもその心情がこころに深く残る物語で、小説だけでなく、

この季節には世界中の舞台でも催されています。

19世紀末のアメリカの健全な精神を伺い知ることができます。

アメリカは資本主義の中心で、マハトマ ガンジーが60年前に20世紀資本主義の7つの

大罪のなかで、

労働なき 財産、
良心なき 快楽、
品性なき 知識、
道徳なき 商売、
人間性なき科学、
献身なき祈り、
原則なき 政治をあげています。

それにも関わらず、アメリカが精神的大混乱に陥らないのは、

意外に19世紀以来のピューリタニズムがのこっているからかもしれません。

逆に、貧しく,清貧の思想が根ついていた、日本が、最近、世界的資本主義の

荒波に飲み込まれ、精神的には漂流しているように思えます。

2007/12/26

地動説

荒海や佐渡によこたふ天河      芭蕉

オリオンの盾 かうかうと 年動く  みのる

古代から、人々は星の光から、星座をつくり、ミルキーウエーを創り
宇宙を想像していました。
 
冬の冬至の頃、オリオンの輝く夜空が、しだいに、動き地球の動く
ことを体感させる季節です。

一方、江戸時代の有名な句、これもまた、天の川がしだいに動く
様を想像させます。


 

2007/12/09


先日、京都に行きました。
イチョウはまだ落葉せず、紅葉も12月になってみごろでした。

 冬の銀閣寺はいまだ秋。この銀閣寺の庭は有名で、砂の庭がきれいに掃かれ、広がり、
すり鉢状の砂山が連なる。
これは銀砂灘と向月台という。
 足利義政の山荘である慈照寺銀閣。昼間の太陽の下での庭というより、夜のための庭であり、
とりわけ月のための庭である。
 砂庭の向こうには、月待山があり、ここから月がのぼり、白砂に反射し幽玄の世界をつくる。
月夜に輝く銀砂、池に写る月。
金閣寺が権勢の象徴とする建物とすれば、足利義政は混乱する政治からの逃避し厭世、幽玄の世界を
つくるエネルギーにかえた。

 何事も夢まぼろしと思い知る 
         身にはうれひも悦もなし


 ルキノヴィスコンチィーの映画で有名なバイエルンの国王、ルードリッヒは多くの城や宮殿を造り、
政治には関心をもたず、勃興するビスマルクに国を併合され、国王の座をうばわれた。
 彼もまた、夜と月を好み、森の中を月光を浴び、馬で彷徨し、情熱の多くを、建築と芸術に注ぎ、
富はほとんどその為に浪費した。
ワーグナーの熱狂的擁護者であり現実逃避のもとに芸術と美を後世に残した。

時代と場所の全く異なる、中世日本とドイツが心情てきに共鳴しあう不思議さをおもう。

2007/11/30

宗教について


いま流行しているには、インフルエンザのうち、Aソ連型で比較的症状は軽くてすみます。

話は変わりますが,ソ連は既に崩壊し、今はロシアに戻りました。プーチン大統領の力か、
資源大国として、復活し宗教もまた復活しました。
共産主義国であり弾圧された宗教のため、意外にロシアの宗教は知られていませんが、ビザンチン帝国が滅亡し、
ギリシア正教の後継キリスト教をモスクワに再現したのがロシアです。
また、プーシキンやドストエフスキーやプーチン大統領を生んだのが、サンクトペテルブルグで
1712年にモスクワから遷都。
街全体が計画され、設計どうりに建てられた純西欧風の都市です。建物のスタイルは統一され、街路と広場
は幾何学的に整然と建てられ、多くの宮殿がみられます。ネヴァ川に面し対岸はフィンランドで、この都市は
西欧的国家でなかったロシアが、ヨーロッパたらんとして、ピョートル大帝によりつくられたものです。


I LOVE THEE,PETERS BOLD CREATION, I LOVE THE AUSTERE,THY LOVE GREAT SQUARES,

AND NEVAS FASCINATION BETWEEN HER BANKS OF GRANITE STONE...

ALEXANDER PUSHIKIN

キリスト復活教会など、多くの独特のネギ坊主型のやねの教会は熱心な信者が集まり再びロシアの大きな
精神的支柱に成りつつあります。

日本は、混迷しても、宗教は復活していません。仏教国であるのかないのかさえ分類しにくい国です。

2007/11/27

紅葉

今年、ようやくイチョウは黄色に楓は赤く紅葉しました。例年になく,風邪やインフルエンザが早くはやったのに、
紅葉は遅れ気味、季節はやはり巡りくるものです。
この季節,日本は昔から、おおくの歌が読まれ,日本的美意識を刺激する季節といえます。

 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋のゆふぐれ     

 定家

 心なき身にもあはれは知れれけり鴫立つ沢の秋の夕ぐれ
      
 西行

この、無常感が日本的な心象とすると、ヨーロッッパやアジアの国ではこの季節をどう感じているのか
興味あるところです。
 例えば、四季のないタイでは、落葉は乾期になり、水不足から落ち葉が舞い、憂いより乾燥し暑さに
空の青さに汗をかきつつ木陰を求める季節です。

一方、ヨーロッパは四季があり、寒いロシアから、暖かいスペインまで、それぞれの秋がやってくること
と、クリスマスや復活祭と結びついている。

 

2007/11/26

初投稿

Dr.Kです。
この度、ブログを始めることにしました。
時間がある時に少しずつ更新していければと思っています。