2011/04/10

関東大震災

 大正時代は、日本も大正デモクラシーと呼ばれ明治の戦争の時代から比較的平穏な世の中になってきました。

 第一次大戦中に戦場とならず経済は急拡大し大戦景気といわれる熱狂的な好景気に日本中は沸き立ち,好調な経済のもといわゆる成金が多数生まれ,一方労働運動もさかんになっていました。反面この時期、明治以来の国家目標を見失い国家規範はしだいに喪失していきます。


 政治では、政友会と民政党の2大政党制が定着し行われていました。しかし、国民生活とはかけはなれた政党間の利益誘導の競い合いとなり腐敗政治が蔓延する結果となり、世論の政党離れが広がっていった時代でした。


 その後の日本の経済は1920年には戦後恐慌をおこし多くの失業者がうまれました。ようやく回復が始まった頃におきたのが1923年(大正12年)の関東大震災でした。


 同年9月1日午前11時58分関東地方をマグニチュード7.8の直下型地震がおき、死者9万1344人上り行方不明者をあわせ14万人に達した大震災で、東京を中心には火災で多くの家屋は焼失し貴重な企業や人的資産を失い経済、政治は大打撃をうけ、戒厳令が施行されました。 


 その後、政府は金融面の救済措置をとりさらに多くの財政赤字をかかえることとなり、この救済措置に便乗し多くの企業は一時的に生き残るも、その後政府はインフレ的不況対策と為替相場の維持、介入というデフレ的対策とその場の応急対策におわれていき、しだいに日本経済は崩壊寸前にまで落ち込んでいきました。


 次の1930年代はアメリカの金融恐慌から世界大恐慌を来たし、日本でも銀行の破綻や企業の倒産、大量失業それに農村の凶作が加わって、昭和恐慌は本格化しました。そして日本の政党内閣制と国際協調体制、国際金本位制ともに崩れ去っていきました。

 

 その頃、永井 荷風は日記に、「日本の現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚無きことの三事なり」と書いています。この閉塞状況を打ち破るべく軍人のあいだに過激思想が力を持ち始め、1932年(昭和7年)に大アジア主義者大川周明の関与した5.15事件が帝国海軍将校を中心に起こされ、さらに1936年(昭和11年)には北一輝に触発された2 26の軍事クーデターがおこされました。その後国民の自由な言論や批判は消え、軍部の暴走を許容し大戦へと突き進んでいきます.

2011/01/30

ワクチンについて

 日本医師会が昨年、「希望するすべての子供に予防接種を」の署名をおこない、269万人を超える人の賛同を受け、神戸市でも、5万人以上の署名が集まりました。


 種痘から始まった,ワクチンの治療は、アメリカ映画の一シーンの中でみた自分で速攻性のワクチン注射をして、敵と戦う近未来が実現しそうな時代になってきました。


 現実には日本のワクチン行政は世界の先進国よりかなり遅れていました。これは、過去のワクチンによる副作用の問題がきっかけとなり、公衆衛生的視点が忘れ去られ、接種の多くが個人の判断にゆだねられ、副反応に対する保障が未整備で、有効性を調べる大規模疫学調査はなされず、また今後のワクチン開発を日本としてどうすすめるかがはきりしないことにありました。


 今回、そのうちようやく昨年の緊急予算である2010年度補正予算により,ワクチンのうち子宮頸がん、ヒブワクチン、肺炎球菌ワクチンの3つが予算化され、本年1月からこれらが無料で接種できるようになりました。これが今後のワクチンギャップの解消の第一歩となることが期待されています。


 特に子宮頸がんのワクチンは3回の接種で5万円かかっていたものが、補助の対象になり無料となり、そのため現在接種が増えています。期間は平成22年から23年末までで対象は13才の中1から16才の高1までの人です。


 このがんワクチンは現在開発戦争といわれるほど多くの種類が開発され実用化されようとしています。とくにアメリカではワクチン開発をオバマ政権での重要課題として着々と政策を実行にうつしています、

 たとえば、がんワクチンの治療効果判定のガイドライン素案を発表し、アメリカが治療効果判定のデファクトスタンダードを制することをねらっています。これが確立すれば今後、米国に拠点を置く製薬企業が、がんワクチン開発では有利になります。


 日本でも今後は、がんワクチンの接種の戦略を確立する必要があるとおもいます。すなわち予防接種法を改正し、無過失保障の制度を充実させ、今後続々と開発されるがんワクチンをどのように日本でも開発し、実施するかを体系的に決めていくことだと思います。

2010/12/31

バウハウス


ドイツのバウハウス運動

 アール ヌーボーの装飾主義、曲線を多用したと自然主義の生きものの描写の時代、世紀末に輝きの絶頂をむかえたベル エッポックはドイツにも広がりユーゲン シュティール(青春様式)と呼ばれる新たな絵画、建築が流行しました。

 それらの流行は20世紀にはいると急速におわりをむかえています.かわって装飾を排した幾何学的造形のドイツのバウハウスの教育やロシア構成主義に流行は移り、とりわけドイツにおけるバウハウスの運動は、1919年から1933年のきわめて短い期間であったにもかかわらず、建築、工芸,絵画あらゆる分野に大きな影響をあたえました。

 バウハウスとはドイツ語で建築と建物を組み合わせた言葉で、「あらゆる造形芸術が目ざすべき目標は建築にある。」と宣言した初代の校長グロビウスは芸術家とマイスター(職人)が共同して,それに産業界が加わって、絵画,彫刻、建築の統合したものの教育を開始しました.

 ブルーノ タウトもその宣言のなかで大衆のための建築をはじめて唱え、生活と遊離した芸術ではなく、芸術と生活を融合させるためまず工芸から活動ははじめられています。

  その後,絵画の教授に、パウル クレーやヴァシリーガンジンスキーが加わり、多くの優秀な人材を教授陣に加え、時代の先端をいく活動を開始し人びとの注目を浴びることとなります。絵画、陶磁器、織物、金属工芸品、家具ガラス工芸品、製本,舞台芸術あらゆる分野でこの時代の流行をつくりだしました。

 

 そして1926年にグロビウスははじめて、産学共同で、テルテン団地工場での生産のモデル開発をおこない、工場であらかじめ資材を規格化し製造しその製品を現地で組み立てるシステムをつくりだしています。

 1932年には,ユンカース工業の労働者団地も設計されました。2万人規模の住宅団地で、中心部には共同のスポーツ施設や保育施設また病院も併設され、車道は街の外周を走り、現在みられるニュータウン構想の先駆けともいえます。

 その時代の校長は世界の3大建築家のひとりに名をあげられ有名なミースファンデル ローエで、バウハウスの最後の校長を務めていました。

 1933年、ヒトラーのナチス政権によって社会主義的学校として目をつけられバウハウスの学校が閉鎖。

 ミースは後アメリカのシカゴに渡り建築家として活躍し、有名なLess is more の言葉を残しています。この「より少ないものは、より豊かである 」で表される20世紀のモダニズム建築は装飾を排除した、その無色透明さにあり、究極には壁や柱を極力取り除いた,20世紀の時代の象徴である鉄とガラスを材料にきわめてシンプルな建築をめざしました。

 

 

2010/11/03

カールラーションとこどもたちの絵




 

 現在でも日本で人気のある絵画は、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌといった印象派が占めています。この19世紀後半、フランスを中心に広まった印象派絵画は、室内の肖像画や神話の物語あるいは宗教画から解放され、戸外の光のおりなす自然の陽光と人物を題材とした絵画をキャンバスに描き出しました。そして、平面的で非対称で装飾的な日本の浮世絵等の画法を取り入れ、絵画そのものに大変革をもたらしました。

 この時代は日本で明治維新がおこり、江戸時代の多くの浮世絵がヨーロッパにわたり、1878年パリの万国博覧会にも多くの日本の絵画、陶磁器、工芸品が展示され、これらの作品が印象派の画家たちに強い影響を与えました。


  後期印象派とよばれるゴッホは浮世絵の色使いを、ゴーギャンは平面的な輪郭線を特徴としています。ルノアールもまた浮世絵の着物やその色彩を取り入れ、また、印刷技術の向上でポスターがデザイン芸術の一分野として確立され、ベルエポックを代表するロートレックやミューシャのポスターはジャポニズムの代表として時代の寵児となりました。


 世紀末、1895年パリのプロヴァンス街にサミュエル ビングがアール ヌーヴォー「新しい芸術」と名づけた画廊を開き、これが日本美術、浮世絵や北斎漫画などの影響を受けた19世紀末のヨーロッパ装飾芸術を総称するものとなっています。

 この時代のフランスは普仏戦争に敗れたものの、海外に多くの植民地を持ち、芸術,文化の大国であり、パリはフランスの首都であると同時に世界の首都であり、特に絵画や工芸品、文学、建築などの流行の中心地でした。


 ゴッホと同じ年1953年に生まれたスエーデンの画家にカール ラ−ションがいます。  1882年パリに行き,印象派につながる外光主義の技法を学び、1899年代表作『私の家』の画集で、日本美術の影響のみられる画風でなにげない生活や楽しそうな家族の日常を描き、スウエーデンにおける最も有名画家、ジャポニズム派画家とよばれています。


 このジャポニズムの影響をうけた、アール ヌーボーの装飾主義、曲線を多用したと自然主義の生きものの描写の時代、世紀末に輝きの絶頂をむかえたベル エッポックは急速におわりをむかえました.20世紀にはいると、装飾を排した幾何学的造形のドイツのバウハウスの芸術教育やロシア構成主義に流行は移り、そして、世界は大国間の対立から第一次、第二次世界大戦へとすすんでいきました。

2010/10/11

東亜同文書院と教育


 東亜同文書院の教育

 

 日本と隣接する大国、中国との関係は複雑で、歴史上、友好と対立のはざまで多くの人びとはほんろうされてきました。


  近代化で先んじた日本が日清戦争で勝利した後、日清関係は対等となり好転し、1898年(明治31年)には日本と清が経済,教育、文化活動を中心として提携する,『東亜同文会』が発足しました。


  日本は西欧列強に対する支那の保全が必要と考え,清もまた日清戦争後近代化による富国強兵をはかるべきと主張する変法派が勢力を強め、日清同盟を推進しました。


 

 東亜同文会が中心となってできた東亜同文書院は、1900年(明治33年)に開設された南京同文書院に始まり,義和団事変をうけ、翌年上海に移設され、中国の保全を目的に、中国を富強ならしめ,日中提携の基礎を固めるため、それに必要な中日の人材を養成する事を目的とした教育機関と本格的教育は開始されました。



 同文書院の教育制度は日本と中国の貿易を行う実務者を養成する為に,実学を重んじ、両国の通商を盛にするための中英の語学の教育とともに『徳教を經となし、聖賢經専により之を施す』として儒学に基づく徳育を重んじ『中外の制度律令,商工務のかなめをさずく』を実践し、公費により日本各地より優秀な人材を集め、教育が行われました


 このころ、中国から東京に逃れてきた人は、数多く、中国清朝打倒のための結社『中国革命同盟会』を結成し、孫文なども加わってきました。


 日本の近代化を学ぶ目的でも、多くの学生が留学のために来日し、その受け入れ教育機関として,東京に東京同文書院も開設されました。

 清の留学生のなかで日本の陸軍士官学校を目ざした人たちも多く,その中には蒋介石も名をつらねています。

 そして、1911年辛亥革命で清朝は滅亡する。しかし権力は袁世凱に受け継がれ、中国革命は未完のまま、1921年広州に中華民国政府が樹立され、各地には列強の援助をうけた軍閥が支配地域を確保していました。


 1920年代は比較的、日中関係は安定し 東亜同文書院の学生たちは最終学年には夏休みに中国政府の許可を受け、中国各地に大旅行を行いその記録誌をまとめています。

 

 1915年から1921年にかけ、『支那省別全誌』が当時の中国事情報告として刊行され残されています。


 その後、中国の混乱期,浜口内閣は侵略政策を排斥し、友好協力関係を築く政策を一時すすめるも、陸軍は満蒙の領土確保の方針を強行し、1930年代満州事変、日中戦争となった。


 この時期にも東亜同文書院は大学となり存続し、匪賊の横行する奥地、内戦の中、大旅行は続けられています。これが実現したのは友好を実行する建学の精神が中国内でも認められていたためと思われます。


 中国保全、友好路線はもろくも崩れ去ったものの、東亜同文書院が昭和20年8月閉学まで存続し多くの人材を世に送り出し得たのは、 東亜同文会が、日中間の政治問題には絶対不関与を貫いたことによること、また政府と関係なく日中の人材交流もあったことをしめす歴史とかんがえられます。

 

2010/09/23

レオナール フジタ 


 
 藤田嗣治は東京美術大学卒業すると,パリに旅立ち,画家としての第一歩を踏み出しました。その翌年1914年(大正3年)フランスはドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入しました。この間貧しいながらも自由で多くの芸術家の仲間に囲まれフランス生活を送りました。

 第一次大戦後の1921年藤田の乳白色の肌で知られる,繊細な画法を用いた独特の風貌の人物画がパリで認められ,エコール ド パリの代表的画家の1人となり、レジオン ド ヌール勲章を受賞していました。 

 1920年代のパリは世界中から芸術家が集まり、画家ではピカソやマティス、モジリアニなども活躍していました。そして日本からも多くの芸術家の卵が生活していました。この黄金の20年代の最後,1929年に17年ぶりに日本に帰国し展覧会を開くも、日本の画壇ではあまり高い評価はされていません。

 その頃の日本は、戦後の好景気に湧き、大正デモクラシー時代でしたが1920年代からしだいに戦後不景気となり、政府が1930年に金本位制を採用し、緊縮財政をうちだし、デフレは急速に進行し、金が国外に流出、経済は失速し、街には失業者が街にあふれていました。翌年犬養毅内閣になり、蔵相高橋是清が金本位制度をやめ、積極財政で経済の立て直しをはかり経済はようやく持ち直しました。

 1930年代になると、ウオール街の株価暴落に始まる世界の経済混乱は、世界の通貨戦争を引き起こしました。

 イギリスでは、1931年金本位制度を放棄して、対外的には猛烈にポンドを切り下げました。これに対抗しアメリカは1933年金本位制度を停止して、為替切り下げ競争に走り、これに追いつめられフランスは猛烈なデフレに見舞われ、輸出は伸びず、輸入のみ増え対外収支は大きな赤字になり、デフレの押し付けあい、為替切り下げ戦争に巻き込まれて行きました。

  ドイツは、戦後インフレに苦しめられ、世界大恐慌で、経済は完全に機能不全に陥り、1933年にヒトラーが政権をにぎり債務返済を放棄、統制経済に切り替えたその後結局、世界経済はブロック化し、世界大戦に突入していきました。

 

 このころ藤田は一度パリに戻って生活をはじめるも1940年には第二次大戦のため日本に再び戻り,アッツ島玉砕などの多くの戦争画を残しました。

 戦後、この戦争画に対する日本の国内での対応から,再びフランスに居を移しフランス国籍をとってレオナール フジタと日本名をやめました。フランスに永住する事を決めたこの時期、多くのこどもたちの無邪気なかわいさの中に虚無をたたえた表情を独特に描き多くの作品を残しています。晩年にはフランスの教会、ノートルダム ド ラ ぺのフラスコ画を描き残し81才で生涯を閉じました。

 

2010/09/20

薬剤耐性菌



 晩夏の海岸に来ると、いつもルキノヴィスコンテの映画『ベニスに死す』の最も印象的なラストシーンを思い出します。アッシェンバッハ教授が夏の終わりの浜辺で、いすにもたれ,芸術に行きづまり、化粧がくずれコレラに感染し死にゆくことを暗示するシーンです。

 アッシェンバッハがヴェニスに出かけると、街中の掲示板に「伝染病に注意!運河の水の使用を控え、貝類の摂取はしない」と書かれている。運河からは消毒のためか薬品の臭いが漂っている。

 アッシェンバッハは集まっている人々に「何の病気か?」と尋ねるが、誰からもまともな答えが返って来ないので、彼はドイツ語の新聞を買って読んでみた。新聞には「ヴェニスでコレラ汚染の恐れ!ドイツ国民は直ちに帰国せよ!」とある。インドからコレラの流行がヴェニスに広がってきたことをはじめて知りました。


 コレラ、赤痢、腸チフスなどの下痢をおこす腸管感染症は汚染された飲料水が原因でおこり,かつては世界中で流行をくり返し、公衆衛生上大問題でした、20世紀にはいり、下水道の整備や清潔な飲み水になったことなど衛生状態の改善とともに激減してきました。しかし、現在もこの飲み水が少なく,上水道の不十分な国々では依然これらの細菌による感染症で多くの命がうしなわれています。


 2009年になり、インドで美容整形をうけたイギリス人に薬剤耐性の高い細菌NDM-1に感染していることがわかりイギリスの医学雑誌に発表されました。この細菌はどんな抗生物質にも耐性を持ち、治療が出来ないため警戒が必要と書かれていました。現在世界各地に感染者が広がり、アメリカやカナダでも同様の感染者がみつかっています。

日本でも、今年に入りインドから帰国した一人の患者がこの菌に感染していることがわかりました。


 さらに今問題となっているのは、大学病院で多くの死者をだした多剤耐性アシネトバクター・バウマニがあります。多剤耐性アシネトバクター・バウマニは院内感染防止にとって重大な脅威で、この菌への感染防止対策は極めて困難であることが知られています。

   アシネトバクター・バウマニは栄養要求性が低く、どんな環境でも生き延びることが可能であるためにきわめて厳密な環境対策が必要となります。たとえば緑膿菌は乾燥に弱く、いわゆる水周りを清潔にすれば対応できるのに対して、アシネトバクター・バウマニは乾燥に強く、カーテンや診療端末のキーボードやマウスのような通常の環境表面でも数週間以上にわたり生存します。

 抗生物質の効かない多剤耐性菌は、多くは弱毒で健康な人は、免疫力があるため発病する事はありません。しかし、病気になったり、手術で抵抗力の落ちた時感染すると、薬が効かず感染が広がり死に至るため大問題となっています。

今のところ,手洗いなどの清潔に心がけ,環境を清潔にする以外の良い対策はわかっていません。