2013/01/04

 三島由紀夫 死への誘惑 その1



三島由紀夫と自刃

 三島由紀夫は1972年(昭和47年)1125日、市ヶ谷の自衛隊の駐屯地のバルコニーに立ち、ビラを配り演説をした。
『今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。もしいれば、今からでもともに起ち、ともに死のう。』

 自衛隊員の野次と怒号の中、天皇陛下万歳を三唱して部屋に戻り、森田必勝とともに切腹した。

 三島由紀夫は戦後いち早く、常識を破る芸術至上主義の作家として売り出し、特異な行動する作家として注目された。しかし政治の舞台の常規を逸した行動は人々の理解を超えるものであった。 同じ年の228日には浅間山荘事件で赤軍派が逮捕され、機動隊員など3名の死者を出し、多くの仲間の死亡が明らかにされ過激な政治の季節は終わりをむかえた。

 大正の末期に生まれた三島由紀夫は本名平岡公威、エキセントリックで貴族趣味の病みがちな祖母のもとで,過保護に育てられた。

 戦前1941年(昭和16年)16才で「花ざかりの森」を文芸文化に連載し、平安時代から祖先のそれぞれの時代の異なった物語を洗練された古典的文体で描き、恐怖と憧れの心理を繊細な感受性で表現し当時の日本浪漫派に絶賛される。

 戦後1949年(昭和24年)「仮面の告白」で当時の日本社会の常識を打ち破り、精神分析的手法で自己分析し危険な美を告白し流行作家としてデビュウした。 そして,「ともすると私の心が死と夜と血潮へと向かってゆくのをさまたげることはできなかった。」と告白している。この暗闇の世界から、太陽の下での物語「潮騒」や、実在する事件を題材とした「金閣寺」などで広く人気を集め,映画化され流行作家になっていった。小説に飽き足らず肉体を改造し、映画に出演し、演劇を脚本し、映画もつくり小説以外のさまざまな芸術の世界で話題を巻き起こし、奇抜で危険な作家を演じつつあった。その後、行動はしだいに政治にも及ぶこととなった。

 1959年(昭和34年)鏡子の家で、右翼思想の人物を登場させ、自分が右翼集団に参加しているのは思想ではなく、死の陶酔だと想像するものとに触れたいという個人的な欲望からだと告白している。

 翌年1960年(昭和35年)に短編「憂国」を執筆。2 .26事件を題材に死を至福の物語として切腹の場面を延々と描写した。これをもとに5年後に映画化し、最初にフランスで公開された。この作品のなかの残虐描写と天皇崇拝、死への願望が描かれ、時代とともに政治化してゆくその後の三島由紀夫の行動、美学の原点となっている。

 思想的に天皇制擁護と愛国心を表に出した作品は1966年(昭和41年 )の「英霊の声」で『戦後日本の精神的退廃の原因は天皇の人間宣言であり、神風特攻隊の死は無意味になり、彼らの英霊が嘆き悲しむ。』として独自の天皇制復帰論を書き上げた。

 最後の大作となる「豊穣の海」では、第一部 春の雪、第二部 奔馬、第三部
暁の寺、第四部 天人五衰の4部構成になっていて、明治から現代までの六十年間の日本を舞台に各編の主人公が輪廻転生し登場する。この最後の長編作品の物語は美しい文体と三島的精神主義とともにやはり主人公の最後や神風連の描写は殉教する若者、切腹の美学があった。初期の作品から恐怖は憧れであり,美は危険な美、醜悪な美もあり、生の充実は死にあるとした思想が底流にあった。

 三島由紀夫にとって、死へのあこがれ、至上の美としての死があり、社会のためには天皇崇拝が必要であり、さらに自分の物語の実現のためには相手を必要とした。その相手が共産主義で政治行動の規範「反革命宣言」を発表し共産主義に反対し日本の美の伝統を体現すると宣言した。
 この時代の現実に即さない宣言は、幼い時に満たされなかった心の中の願望なのか、盾の会をつくり、自衛隊に入隊し、訓練を受け、日本は左翼に乗っ取られ危うくなる、これに対して我々は生命をかけ楯となり日本を守る覚悟を語り、全共闘に対話をいどみ、最後には切腹を実行にうつし自らの物語を完結させた。




 参考 ジェニフェール ルシュール著 三島 由紀夫

 



 
 
 

2012/10/07

ロバート キャパとレオナール フジタ




戦場のカメラマンと戦場の画家

 戦場のカメラマン ロバート キャパは1913(大正2年)にエンドレ エルネー フリードマンとしてハンガリーのブタペストに生まれる。ヨーロッパ大陸がドイツやイタリアの枢軸国に支配され、ハンガリー生まれのユダヤ人であるキャパは、1933年(昭和8年)パリに亡命する。
 パリからカメラマンして、スペイン内戦でフランコ将軍の独裁政権打倒を目指す共和国軍と生活をともにし、多くの戦闘場面と戦場の民衆をカメラで描いた。戦争の激情、民衆の恐怖をカメラでとらえ、写真で人間の本質、悲しみ、明るさの生々しい真実を一枚の写真に描き出すことに成功した。その後は第二次大戦のノルマンディー上陸作戦、パリ解放などを写しフォトジャーナルの創始者として世界中に知られる戦場のカメラマンになった。

 
 パリにキャパの亡命したころパリのモンパルナスは芸術家たちの楽園で、ピカソやモジリアニといった画家ヘミングウェイやフィッツジェラルドの小説家などの芸術家が多く集まり、エコール ド パリとよばれ、さらにドイツなど東欧からの亡命者達で才気あふれる若者たちの聖地であり、また日本人画家、小説家達も多くパリに住みつき、若い才能を開花させ、競い合っていました。その中で最も有名な画家が藤田嗣治でした。1925年にはフランスで最高のレジョン・ドヌール勲章を授与され、夜の仮装舞踏会でもおどけもの藤田としても名をはせ誰ひとりとして名を知らないもののない時代の寵児でした。

 キャパの亡命した同じ1933年(昭和8年)藤田は日本に戻り、日本の地方の街や村を描き、1937年(昭和12年)海外に宣伝のための「子供の日本」というドキュメンタリー映画で四国の田舎の日本の情景を描いた作品を作成した。
 翌年1938年(昭和13年)藤田は、海軍の委嘱画家として、中国漢口に従軍し、「征戦従軍三十三日」の従軍記や「漢口突入の光景」などの戦争絵画を完成しています。これは政府が国民の戦意高揚、宣伝のために動員したもので、菊池寛、吉屋信子、久米正雄などの作家や、藤島武二などの画家などの文化人総勢100名以上が参加している大規模な宣伝部隊でした。

  亡命後写真家を目ざしモンパルナスで貧しい生活を送っていたアンドレーフリードマンはアメリカ人風のロバート キャパという名前にかえ人民戦線の報道カメラマンになり、ここから新しいフォトジャーナリストが誕生する。1936年(昭和11年)フランコ政権と戦う世界各地から駆けつけた義勇軍と生活をともにし、地下鉄駅に逃げ込んだ人々や大学都市の建物に立てこもり戦う義勇兵を映し出し戦場をフォトストーリーとして発表し、写真で物語を描き出した人物としてパリ、ニューヨーク、ロンドン、モスクワそしてバルセロナで出版され世界の注目をあびることとなった。

 1938年(昭和13年),キャパはヨリス イヴェンスと中国に出かけた。これは日本に対抗し戦う蒋介石陣営の側にアメリカ世論を動かそうとするライフ社との契約にもとづくものであった。
 蒋介石の率いる国民党は南京から首都を漢口に移していた。その首都が日本軍に空襲される場面を映像に残し、国民党が日本軍の進撃を食い止めるために、黄河の堤防を破壊し何百万人もの農民達が被害を受けた様子も撮影した。
これらの写真はアメリカのライフに掲載されただけでなく、フランスのルガールも「漢口は中国のマドリードになるであろう。」とタイトルをつけ数十ページにわたって特集し出版した。キャパは9か月の中国滞在のあとフランスに帰国しふたたびスペイン内戦の戦場に向かった。

 1939年(昭和14年)一時フランスに戻った藤田嗣治は,猫などの絵を発表したものの,ドイツ軍のパリ占領により翌年には再び日本に帰ることとなった。ノモンハン事件を題材とした「哈ル哈河畔の戦闘」や、「十二月八日の真珠湾」攻撃を発表した後、藤田が最高の傑作とした「アッツ島玉砕」を描いた。 これは戦意高揚などとはほど遠い英霊の声を聞き兵士たちの鎮魂の画であり、「サイパン島同胞忠節を全うす」は犠牲者たちの魂の救済を描いた宗教画に近いもので、人々がその絵の前で涙するのも戦争画をこえた絵画の力かもしれません。
  彼は敗戦後アメリカに渡りふたたびパリにもどり、洗礼をうけ,キリスト受難の宗教絵画や子供たちを描き、永住し日本の地に戻ることはなかった。

 キャパはしばらくアメリカで永住権をとって,母親や兄弟と暮らしたのち,アメリカ従軍カメラマンとして、北アフリカ戦線から、シシリア島上陸作戦に同行し多くの写真をとって出版した。1944年(昭和19年)ノルマンディー上陸作戦の有名な写真はライフのカメラマンとして撮影したもので、そのネガはアメリカ戦時情報局の宣伝機関に委ねられ、軍部などの検閲のあと、同盟国の新聞雑誌や映画に映像を無償で提供していった。そして、アメリカ軍とともにパリの解放の歓喜の写真を多く残し、まさにパリへの凱旋記録となった。

 戦後は、スタインベックとソ連の農民や労働者を撮影しニューヨーク ヘラルドトリビューン社から発表するもスターリン政権下のソ連からはハイエナと言われ,アメリカ共和党からはスターリンの擁護者と非難された。

 
 第二次大戦後フランスは再びベトナム支配を試みた。1954年(昭和29年)5月フランス軍の支配するディエンビエンフーがベトナム軍に陥落しフランス兵捕虜は11000人以上にのぼった。この時の負傷兵はキャパのカメラにおさめられ世界に配信された。同月ロバートキャパはフランス軍に従軍しベトナム軍との戦闘に向かう途中、地雷で命を失うこととなった

2012/09/16

社会保障




 消費税の増税10%が2年後に実施されることが決まりました。一方、社会保障の改革は今後に先送りされました。

 現在日本の状況は国家予算90兆円の40パーセント、約36兆円(国税、地方税、国債費に一部を含む)が社会保障費で占められています。一方、収入である税は46兆円で、毎年44兆円は赤字国債でまかなわれています。この赤字を解消するには、22 パーセントの消費税の増税が必要になります。さらに、本年度までに累積している赤字は960 兆円になりもし50年で返済すれば10パーセント、100年返済で5パーセントの増税がさらに必要になります。両者の赤字を解消するだけで合計30パーセントの増税は必要になります。

 今後10年後に社会保障費の関連費用はどうなるのか。さまざまな試算がありますが、一つのモデルとして、2010年の社会保障関連費は約100兆円が10年後に1.5倍の150兆円になると試算されています。そのうち、保険料を60兆円とすると、現在47兆円の税金が投入されているものが、10年後には保険料を変えなければ税金として90兆円必要になります。

 社会保障費の内訳は、現在の時点で、年金53兆円、医療費40兆円、介護8兆円、福祉その他が13兆円です。この社会保障支出の金額は、高齢者の人数に比例しているため、現在65才以上の人口は約3000万人で20パーセント高齢者が増加すれば、2025年には3600万人を超えそれだけで、福祉関連費用は増加することになるわけです。

 先ず第一の年金は、支払い額の60パーセントは保険料でまかなわれ、この負担は世界水準からみてもかなり高い水準でこれ以上は負担を増やせません。
 次に医療費は自己負担額、保険料以外の公的資金が現在80.8パーセント使われています。2025年頃にはこれが59兆円と全社会保障費の50パーセントをしめる予定で、これをだれが支払い、税はどのように工面するかが問題となります。 
 最後に、2000年に始まった介護保険は50%が保険料、50%が税金でまかなわれていますが、これも高齢者の増加によって、ほぼ比例して増加します。



 社会保険がうまく機能しなくなった根本の原因は、高齢者世代、現役世代、未来世代それぞれの負担と給付の関係を曖昧にし、収めた税と社会保険料がどのように使われているか解りにくくして、結果的に赤字を未来に先送りし、現在の負担を少なくしていることに原因があります。10年以上前から、社会保障費増加は消費税などの税で補填する予定が、安易な借金である国債の発行に頼った結果です。

 現在既に年金を支払わない人が国民保険では増え、年金積立金の取り崩しがおこなわれています。さらに保険料の確保もむつかしくなってきています。これを清算するために、もし今払込まれた保険料を払い戻し、将来支払うべき金額をまとめて支払うと1000兆円の不足をきたし現実には清算も不可能になってしまっています。

 医療保健は、政管健保、組合健保、国保、共済組合に分かれていますが、国保などへの拠出金負担の増加で多くが赤字をかかえ、保険料の負担引き上げか、将来世代への負担先送りかが迫られています。
このままこれらの制度の根本的変更がなされなければ10年後に社会保障料が30パーセントを越す日がくるかもしれません。このように社会保障改革については何をどのように変えるか、きわめて複雑で誰もが明言を避けているのが現状です。

 先日2020年にプライマリーバランス(単年度の財政収支)を黒字化するという国際公約は達成不能であると政府財政試算であきらかにし、今後も毎年当分の間財政赤字をだし続けることを発表しました。現在の国の財政赤字960兆円がさらに増え続けるのは確実です。
 この、何兆円という金額はあまり身近な金額でないため想像がしにくい値ですが、戦前、予算にしめる軍事費のケースがあります。1920年代20%だった軍事費が満州事変のあと1931年にはじめて30%をこえて31.3%になり1937年に70%を超え、その後太平洋戦争突入後には、さらに増えて行きました。これは各種公債発行によるもので敗戦後のインフレで帳消しになりました。戦後は財政法第4条で赤字国債発行は禁止されています。




2012/08/16

8月15日 日本の戦争


 清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、1912年(大正1年)中華民国が建国された。しかしその後、中国は袁世凱に政権を奪われ、各地に軍閥が割拠して、長い混乱期になった。中国特に農村地帯は当時魯迅が吶喊で画いた、荒廃し、寂寞感に覆われ、経済的には貧しく自給生活に近い状態が続いていた。

 第一次大戦によって、ドイツ帝国とロシア帝国は滅亡し、イギリス、フランスも大きな損害をうけた。開戦の翌年1915年(大正4年)大隈内閣のとき,袁世凱に日本は対中21か条の要求を突きつけ,権益を拡張しようとし、それに対してして中国国内で広範な排日運動がおこった。 
 
 1931年(昭和6年)陸軍内での協調意見も無視し、軍の一部は満州事変をおこし満州を独立させた。その頃イギリスは揚子江を中心とした地域を経済的に支配し、アメリカは門戸開放を唱え中国進出をはかり、ドイツも中国の蒋介石軍を援助した。ソ連もまた蒋介石軍と同盟し、中国共産党もしだいに勢力を拡大し、東アジア誰にも将来は見通すことの出来ない、混沌状態におちいっていた。

 1936年(昭和11年)中国は西安事件により国共合作。中華民国の蒋介石は日本の侵略を四億人の中国人をまとめ常識化することによって対日融和派は力を失い全中国に抗日の信念が生まれ、また中国共産党も国民に武力と思想で浸透していった。 同じ年日本国内は2.26の軍事クーデターがおこされ,その後日本は革新官僚と陸軍統制派が権力を握る。

 1937年(昭和12年)盧溝橋事件をきっかけに北支,上海へと戦火は拡大し、南京、漢口を日本軍が陥落占領し、蒋介石は重慶に首都を遷す。

 日本国内は国家総動員法を成立させ、大本営をつくった。両国の民族主義の激突が小競り合い、地域の小さな軍事事件を頻発させた。日本は支那事変の解決、和平を願い幾度も試みられたもののうまくいかず、蒋介石の実力を過小評価し、陸軍と海軍の方針が一致せず不仲のままであり、また陸軍内部も対外戦略路線を廻って、対立し一方内閣は頻繁に交代し、方針は定まらず国民やマスコミは軍部内の方針さえも乗り越え、熱狂が対中国強硬路線へと駆り立てて行った。参謀本部は本格的な日支戦争の起ることさえ想定していなかった。


 1939年(昭和14年)ノモンハン事件、独ソ不可侵条約締結。国内ではこれにたいして平沼内閣は欧州情勢は複雑怪奇として総辞職。

 1940年(昭和15年)日独伊三国同盟締結。近衛内閣は大東亜共栄圏構想を発表。日中戦争は長期戦となり、日本の南方進出は、イギリスと鋭く対立することとなり、アメリカの対日経済措置から大東亜戦争へと突入していくことになる。

 この年、日本の戦死者は中国戦線で10万人に達した。同年2月民政党の斉藤隆夫は聖戦の美名のもとに国民に犠牲を強い、戦争終結の具体策を示さない政府を批判した。答弁にたった畑陸軍大臣は「日中戦争はまさしく聖戦である。」と答えた。聖戦以外何のために闘ったのか方針のはっきりしないまま敗戦をむかえ,中国大陸には100万人の日本軍と50万人の日本人が残された。


 われわれの父親世代は10年以上におよぶ中国戦線での戦争に従軍。戦後多くを語らず、どの時代にどこで間違った選択をしたのか、他の方法はなかったのか責任はどこにあるのか、8月15日敗戦に至る歴史に結論は出ていません。
  

  

2012/07/16

オーム真理教とカルト


 80年代、日本のバブルと呼ばれた時代、人々は豊かな都会の生活を求め、自然から離れた人工的な世界、ブランド化したより高級な物にあこがれた。テレビや雑誌でもこの世界を報道し、日本中に広まった過剰な豊かさ、金ぴか時代でした。

 人々が特異な世界観に惹かれるのは、現実社会に対する不満であることが多く、物質的欠乏状況では、心は当然なんらかの救いを求めたためと考えられます。
 日本が豊かになり、こうした現実的不満が解消され、物質が充足しても心の欠落感、不安や満たされ無い気持ち、空虚感は解消されません。この物を持つこと以外の何かを達成したい気持ちを持ったり、欠落感を抱いた心の持ち主が普通の人とは異なる道を選びオウムに入信しました。
 

 最初わずか15人でオウム神仙の会をはじめた麻原は、1987年にオウム真理教と名乗り、 この年には、ハルマゲドンを唱え、オウムに入らないと生き残れないといって信者を誘い、その後、原始仏教を取り入れ、ヨーガの修行や神秘体験によって現実を超越する世界に達する方法で信者を獲得し、資金を集めていきました。2年後に宗教法人となり、仏教の修行の基礎はヨーガにありとして、修行し、極限の状態を体験し,このヨーガの階梯を一歩一歩上る。この秘技瞑想を通じて、クンダリー ヨーガを成就し、さらにマハー ムドラーを成就する方法を使って信者を増やしてきました。そして、最大1 万2000人人以上の信者を集めたことになります。

 しかし、 これらの、ヨーガ道場での布教では飽き足らず政治で権力を得るために選挙に出馬し落選。この政治権力を握る方法がだめなら次は武力で政権を攻撃するとして、様々の兵器をつくり、買い集めテロ集団に変貌してくる。
 人の心は移ろいやすく確信や信念も永遠には続かない。何が本物で何が偽物かを見極めるのはむつかしい。平安時代、空海は既心成仏を唱え、最澄は道心が大切と言い,鎌倉時代の明恵は菩薩心を語り、親鸞は深心を阿弥陀如来を信じる心とした。これらの先達による宗教としての仏教と、カルト集団オウム真理教の根本的な違いはどこにあるのか。

 大脳には理性や言葉を司る新皮質と感情や潜在意識や深層意識に関与する旧皮質がある。密教はこの2つの意識をうまく扱い、修行を通じて抑圧されたエネルギーを解放する技術を身につけられるとした。この密教の方法を使い、仏教用語を用い、迷いや悩みを直ちに解決したり、ヨーガの修行を通じて悟りに至ることができるとして、信じやすい心に入り込んでいった。

 マインドコントロールを薬物を用いて行い、宗教のおとぎ話化、デズニーランド化が行なわれ,ポアという仏教用語を使い、現実観の希薄なまま殺人を次々と実行して行った。最初はヨーガの指導者先生と呼ばれていたものが、大師と呼ばれる宗教団体の教祖になり、最後には尊師と呼ばれる絶対的グルへと変貌していった。

 このグルの心の中は何であったのか。 
 大江健三郎は小説「宙返り」の中で、教団の一部の急進派が原子力発電所を占拠し、爆発させる計画を立て、実行に移しかけた。それに対して、教祖はこの計画を中止させるために全国にテレビ中継で、これまでの教義は、冗談であり悪ふざけだった。ただちに、原発占拠を作戦を中止してほしいという声明を出した。

 連合赤軍事件から25年後の1995年再びセクト集団による大量殺人、政権支配を目ざしたテロ事件が起きたことになります。1991年から、フランスではすでに反カルトの法律が制定されています。


2012/07/02

2012/07/01


梅雨

 日本はアジアモンスーン地帯に属し、湿潤な気候で,特に夏は高温で南方と同じ暑さの3ヶ月が続く。冬もまた,日本海を渡る北風は大雪を列島にもたらし、やがて、春の雪解け水と豊かな地下の水脈をつくる。
 日本の海は太平洋からの、海流が太平洋側と日本海側に流れこみ、北からの海流と沖合でぶつかり合い、豊かな漁場をつくるとともにこの海の湿度が日本の山脈に出会うと、雨や雪を降らせ、乾燥地帯では、考えられない植物の成長をもたらし山々は豊かな森林を形成する。現在でも日本の国土の67パーセントは森林に覆われ、世界の国の中で最も森林面積の多い国です。

  日本列島ができ、紀元前3世紀に稲作が始まるまで、日本のほぼ全域は森に覆われていました。この森のうち1/3が開拓され水田となり、稲作が行なわれました。しかし、牧畜は土地の急峻なことや、湿潤な気候の為にわずかにとどまり森林の伐採は免れました。

 暑熱と湿気が必要な様々な諸草木に成長を促し、相互に密接に絡まり合い生い繁り、成熟し、日本の南部では亜熱帯の植生を生み出している。単位面積あたりでは,膨大な植物を中心とした生物のエネルギーを生み出している。
 梅雨と台風を特徴とする日本の気候が豊かな自然をつくり、恵まれた列島「豊葦原の瑞穂の国」として縄文時代からよばれてきました。

 この森の文明、縄文の文化が日本の文化の源にあり、湿潤なモンスーンの気候に適応したものです。稲作がはじめられても森林は多くは伐採されることなく残され、「人も動植物もみな同じ」や八百万の神の思想が生まれました。6世紀の半ば中国を経由して伝来した仏教も,その後、神道と共存し日本の地に定着し平安時代、鎌倉時代になると多くの宗派がうまれさらに発展し「草木国土悉皆成仏」の思想が定着してきました。


  仏教はインドで釈迦の悟りから生まれたもので,この世に生きる限り生老病死から逃れることはできない。諸行無常と悟り,涅槃寂静の境地に達することを説いた。インドの東北部に生まれたこの仏教は6世紀の中国南北朝時代に広がり、やがて日本にも伝来し聖徳太子の時代に仏教国家となりました。インド本国はヒンズー教が主流になり、中国もまた宋の時代から儒教が盛んになり近代ではマルクス主義になり、アジア大陸の東と南の地域、すなわち、日本、カンボジア、タイ、ミャンマー、スリランカが仏教国として現在まで残っています。


 一方、農耕牧畜や砂漠地帯の宗教であるキリスト教は源流のユダヤ教とイスラム教ともに唯一の神をあがめる一神教であり、この思想のもとで都市文明を生み出しました。森の神であるフンババを殺害したギルガメッシュの伝説がこれを物語っています。砂漠の民であるかれらは攻撃性を持ち、自然と戦い、制服する環境から生まれた唯一の神を信じ巨大都市文明を創り出し世界にひろめていきました。

 東南アジアからインドを通り、中東に向かう時,湿度過剰なバングラディッシュから乾燥地帯のパキスタン、アフガニスタンを通りさらに西に進むとイラク,イランと砂漠地帯に気候は変化する。さらに西には地中海がある。地中海の北にはヨーロッパ諸国になる。この地域は、夏の乾燥と、冬の湿潤からなる地中海性の気候で,夏の乾燥で雑草が繁茂することはなく、牧草をつくり、緑の大地は放置されても草原になる。この自然,気候と風土がそれぞれ異なった文化や宗教を生み出し発展させてきたと考えられています。



 戦後はアメリカの高度に発達した資本主義を基にした自由な精神や物質主義が時代精神となり、忍耐とか精進といった戦前からの日本の精神はわすれさられていきました。
 しかし、日本列島をおおうこの湿潤は、自然の猛威となり、大雨、洪水、暴風、旱魃をもたらしています。さらには地球表面のプレートの端に位置する地震国であることは大地震や津波の襲来のたびに日本列島のおかれている事実を思い出させます。われわれは、今後もこの列島に住み、この環境に適した生活をを選ばねばならない運命にあります。