2014/07/02

流行作家 渡辺 淳一


 昭和35年(1960)6月山崎豊子の白い巨塔が連載小説で発表された。
旧帝国大学医学部教授の椅子をめぐる壮絶な権力争い。外科教授の手術能力の過信と、その治療をめぐって対立する2人の医師財前五郎と里見修二の生き方をドラマッチックに描き上げ、社会派小説として日本中で評判となった。
 昭和44年(1969年)「続白い巨塔」が単行本として出版された。小説は、「医療は神の祈りであることを忘れ、権力や名声などの白い巨塔の野望に破れた財前の魂を洗い浄め、鎮めるような荘厳ミサが、夜明けの清明澄な光の一つに溶け合って、里見の心を揺り動かした。里見の胸に初めて、財前の死を弔う心が強く深く湧き上がってきた。」で幕を閉じている。


 昭和42年(1967年)札幌医大で和田寿郎教授による、日本で初めての心臓移植手術が行われた。これを題材として、渡辺淳一氏は手術に対する批判的小説を発表した。日本におけるドイツを模範とした医局講座制は,依然として強固であった。和田教授はアメリカの医療を身につけ、アメリカで学んだ卓越した心臓手術の技術を駆使して、移植手術は成功した、しかし拒否反応の合併症のためその後患者は死亡。そして手術の適応と脳死判定をめぐり社会問題となった。ドイツ医療がアメリカ医療に変わりつつある時代であったが、教授の権力はいまだ絶大であった。

 当時札幌医大の講師であった渡辺淳一氏はこの経緯を「白い宴」でドキュメント風に描き、「ダブルハート」ではフィクションの世界で術者の野望、医局の人々、患者家族を描き北国の白い巨塔ともいえる短編小説を世に出した。野心家野津教授、主治医で心臓の摘出を担当する殿村医師のむなしさを通して、移植手術への懐疑を色濃く表現した内容となった。これを契機に渡辺淳一氏は札幌の大学をやめ、東京で小説家となる。和田寿郎教授もまた東京で心臓外科の教授として手術に邁進する。

 渡辺淳一氏は、それ以前から医療を題材に多くの小説を発表している。昭和40年(1965年)に「死化粧」、昭和42年(1967年)には「霙」で重症身体障害者の現実の世界と医療従事者、親や家族の微妙な心の動きを描き、後の「雪舞」や「神々の夕映え」につながる。霙では北国の季節の移ろいと、人間社会の不条理、人の心の複雑さを描いた。主人公の柏木に「5ヶ月の胎児なら町の病院で堂々と堕せるんだけども、7ヶ月の未熟児なら夜も寝ないでつききりで助けなければならない。変な話でしょう」と語らせ、「分裂病などどうせ治らないんだろ」と主人公の虚無感を吐露させ、現在の障害児の胎児診断につながる問題、消極的安楽死の問題、医療技術の進歩では解決できない複雑な感情と社会をテーマに小説化した。

 昭和45年(1970年)には「光と影」で直木賞を受賞、1980年代「遠き落日」や「長崎ロシア遊女館」でも吉川英治文学賞を受賞、流行作家となる。
 その後「ひとひらの雪」や日本経済新聞社の連載小説「失楽園」で時代の尖端を行く作家として、題材は医療から男と女の世界の小説家としての評価が定着し鈍感力の流行語も生みだした。現代の近松門左衛門や谷崎潤一郎を目ざし、川端康成の「眠れる美女」を超えるのが目標と語った。


 白い巨塔の話題になっている頃、田中角栄首相の1県1大学構想の下で新設された秋田大学に入学し、後に「ダイアモンドダスト」で芥川賞を受賞する医師、南木佳士氏がいる。その時代、いまだ医局講座制度は確固として残り,医学部のヒエラルキーは揺るぎないものであった。「冬への順応」の中で当時の受験生活と地方医大入学時の複雑な心境、その後の人生を私小説ふうに描き、また「医学生」の中で、地方の学生生活を主人公4人の姿を通して描いた。どちらも、実際の日常生活を淡々とした筆致で、私小説風のフィクションにしたものであった。
 そして、昭和56年(1981年)カンボジア国境のタイの難民キャンプでの経験を素材にした小説がある。当時日本は初めて海外での難民救援医療で、日本のチームは外科病棟を担当した。限られた医療資源で救急治療をするとき必要なトリアージの考えが当時はなく、地雷や銃創患者に対応していた。これらの異国での診療の日々をやはり淡々とルポルタージュ風に小説化した「長い影」などの作品がある。


 渡辺淳一小説のもつ,非日常的な鋭さとか、医療の根源的問題を取りあげることはなく、死と生の状況を日本の一地方の病院の日常として書き上げたのが「ダイアモンド ダスト」。ありふれた人々の生涯とその死の時にダイアモンドダストが舞って終わる物語で芥川賞を受賞した。
 
 小説は、社会の中の人間像を描いた、山崎豊子の作品にみられる、社会的小説。人間の思想や人の心の複雑さ、恐怖、不安あるいは心の成長といったことを主題としたもの、そして,楽しみとしての物語、娯楽小説などがある。
 渡辺淳一氏の初期の作品は、社会と人間、安楽死や生死にまつわる重いテーマを北国の風土とともに提示して、時代を先取りしていた。その後は、しだいに娯楽的流行作家の第一人者となる。南木作品は、娯楽とか社会問題とは無縁に医療を舞台にした小説を多く書いている。医療小説は生や死をあまりドラマッチックに描けば、虚構になる、社会問題が絡めば複雑になる。南木氏の作品は流行や波瀾万丈の人生や思想とは無関係のありふれた地方の日常の人々の生活を描き出した。そしてその文芸的純文学性に対して芥川賞を受賞した。
 


 
 

2014/05/06

クリミア戦争 トルストイのセヴァストポリ


セヴァストポリ物語

 1783年エカテリーナ2世の時代、黒海北部の沿岸地方はロシアの領土となった。現在のウクライナの土地の東側80%がロシア帝国の支配下におかれ,西部の土地20%がオーストリア帝国の支配下におかれ。そして、ウクライナ南部黒海に突き出たクリミア半島に黒海艦隊の停泊港セヴァストーポリが建設された。

 
 「戦争と平和」に描かれた1815年のナポレオン敗北後のヨーロッパは圧倒的な海軍力をほこるイギリスに対し、大陸ではロシアが80万人を超える最大の陸軍をもち、当時GDPでも、イギリス、フランスをうわまわっていた。ロシアの南部に勢力を誇っていたトルコは弱体化しつつあり、その空白を埋めるようにロシア帝国は南下し、カフカス、トルキスタンもロシアの領土になり、ダーダネルスとボスポラス海峡の通行権と通商権を手に入れた。その結果ロシアの穀物は黒海経由でヨーロッパ各国に輸出されるようになった。ロシアは南下政策によって勢力をさらに地中海にまで伸ばしつつあった。

 クリミア戦争は1953年ロシアのトルコに対する宣戦布告で始まり、ロシアの南下を恐れたイギリス、フランスがトルコに援軍を送り両軍で20万人以上の戦死者を出し、3年後に停戦した。停戦後この要塞からロシア軍は撤退し黒海艦隊は無力化され、イギリスとフランスの連合側が黒海の制海権を得た。

トルストイは26才の時、このクリミア戦争に従軍し、最大の激戦地セヴァストーポリ要塞の籠城戦の経験を小説にした。
この「セヴァストーポリ」は3部作からなり、第一部は1854年 12月のセヴァストーポリ 、第2部は1855年5月のセヴァストーポリで、これを雑誌「現代人」に投稿した。第一部で当時の街や人々の生活の様子,ロシア軍を生き生きとした文章で写生した。そして、第二部でこの激戦地の状況を感情を抑えた筆致で描き出し、戦場の兵士の勇気、愛国、悲惨さや戦場の陸軍将校の様々な情感、性格、思想といった心のうちまでを浮かび上がらせ、戦場の小説家として一躍トルストイの名声をロシア中にひろげた。

 第3部の8月のセヴァストーポリはサンクトペテルブルグで書き上げた。コゼリツオーフとウオロージャ兄弟が物語の主人公に、要塞陥落のフランス軍とロシア軍の戦闘場面を映像的に描き出し、彼らの死を通して人間の宗教的運命を表現した。

 弟のウオロージャはセヴァストーポリに着任、彼の心の動きを「子供らしい、脅かされやすい、狭い心は、急に大人らしくなり、明るくなって、ひろびろとした明るい世界をそこに認めた。  偉大なる主よ、ただなんじのみ聴きかつ知り給う。この単純であるが熱烈な、懸命な無知の祈り、漠然たる悔悟の祈りを。」そして、すぐにフランス軍との戦闘で死ぬ。生き残り要塞を後にする最後の場面でウラングは号泣する。彼の若い兵士に対する悲しみがその後トルストイの唱える非戦思想につながる。

 この小説は後のナポレオンとの祖国防衛戦を題材とした「戦争と平和」のボロジノやモスクワ戦場における映像的な戦場の描写やアンドレイやまわりの将兵の人間描写、英雄主義の下での恐怖心、虚栄心、名誉心,などの人間描写でさらに洗練されたものとなってくる。

 その後,ウクライナ地方はロマノフ王朝が第一次大戦とロシアのボルシェヴィキ革命によって滅亡し、短い期間ウクライナ国民共和国が生まれた。しかし最終的にはソビエト社会主義連邦共和国連邦の一部となり実質的に70年間ロシアの政治支配の下におかれた。
 

2014/04/08

イギリス保守主義と皇国史観日本


  しきしまの 大和心を人とはば 朝日に匂ふ 山桜花


  昭和にはいると日本社会も、不安の時代となり国全体が政治思想にのみこまれていく。当時大国は戦争を手段として生き残りをかけた総力戦を繰り広げ、この総力戦の時代に日本はどう生き残り、国を発展させるかが死活の問題となってくる。そして、日本とはなにかというアイデンティティーの問題にぶつかり、日本を再構築しようとする様々な思想があらわれる。

 共産主義、反帝国主義、無政府主義思想、国家社会主義、民本主義などが海外から紹介され、国内でも影響力をもってくる。なかでも民本主義は民衆の利福のために、民意に沿って政策は決定され、議会中心主義的要素を取入れ、天皇主権と矛盾しないものとして吉野作造らによって唱えられ、大正デモクラシーを主導した。しかし時代はすでにロシア革命がおこりソヴィエト連邦が樹立され、ドイツ革命でドイツ皇帝も、オーストリア皇帝も退位し社会主義、共産主義が時代を動かすようになってきた。

 
 この時代の荒波、国外の圧力から国を守るために、不安と恐怖に打ち勝つために、外来思想ではない日本古来からの思想、国学をもとにした日本主義思想がしだいに力をもってくる。日本を腐敗させた財閥、既成政党を倒すため反資本主義、反議会主義の改革派の軍が力を持つようになり、皇国史観が主流となり、日本を引っ張っていく事になった。

 本来(Fundamental character)国体とは国家の性格、国柄を表すばくぜんとしたものであった、それがしだいに、本居宣長の「皇国は天照大御神の授け賜える皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私のという事はなき事なり」「ひたふるに畏こみ敬ひて従ひ奉れ」とする伝統的権威としての天皇支配の正統性のをもとにして、日本は天皇中心の一君万民、挙国一致の総合家族国家であるとした。
 
 外国の思想や物質的、精神的実力を蔑視し、ものが足りない分は精神で補うという日本精神論が独善性をもって広がっていく。  さらには徳川時代末期の尊王攘夷、清朝末期の扶清洋滅に近い排外主義、国粋主義に近くなってしまった、そしてまた理性的判断より感性が尊ばれ、客観性を無視した愛国主義になっていき市民の自由は消え去ってしまった。
   


    
四月はもっとも残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と欲望をないまぜにし、
春の雨で生気のない根をふるいたたせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた。

                      荒地  T.Sエリオット

 19世紀はイギリスの時代であり、とくに一国で世界を支配したヴィクトリア時代は安定した物質主義的、合理主義の時代、楽観主義の時代であった。世紀末から20世紀のはじめにかけてヴィクトリア時代の合理主義が権威を失いつつあった。そして、ある根本的不安の時代となり、その不安の結果として社会主義運動もおこった。そしてヨーロッパは帝国主義列強の時代になり各国が勢力を競い合うことになった。

 しかし、第一次大戦はヨーロッパ世界とその文明そのものを破壊し,帝国が解体消滅する国もできてしまった。1922年 T.Sエリオットは「荒地」で当時の人々の精神状境を描き、荒地のように荒廃した世界を描き、そこからの再生を語った。
 エリオットは詩の起源は伝統にあり、さらにその伝統をさかのぼるとキリスト教、イギリス国教にある。生きる事の支えとなる智慧をこのキリスト教の伝統の中にみいだした。超越的神の存在を認め、神に救われた状態を通してながめられた人間世界、ヨーロッパの伝統とともにある神の存在を根底にした保守思想を打ち立てた。

 イギリスでは、この歴史や伝統によりつくられれた社会的秩序を重視し,フランス革命に始まる設計主義的合理主義すなわち人間の知識、構想により理想的社会をつくる思想,共産主義とファシズムに対立する立場をとった。そして、議会制民主主義は定着していた。民主主義は、自立した個人は重要なものであって,一つの文明を形成するにはあらゆるタイプの人間が必要だということを前提にし、さらには批判が許されることを制度として保障している。

 イギリスの立憲君主制は、議会、下院の主導権が強く、その主導のもとの君主制で、いっぽう、明治憲法の立憲君主制は,内閣はこくみんに責任を負うのではなく、天皇に対してのみ,輔弼の責任を負うことになっていた。

 

 

2014/03/23

日本浪漫派 保田與重郎、亀井勝一郎、太宰治


美しい国日本と日本浪漫派

 
幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が 安値いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外は真ッ暗 暗くらの暗 夜は劫々と更けまする落下傘奴のノスタルジアと  

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
中原中也は明治40年(1907年)生まれる。

「いったい私たちの年代の者は,過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。つづいて満州事変。五 十五だの二 二十六だの、何の面白くもないような事ばかり起って、」と太宰治が描いた。

 太宰治は明治42年(1909年)生まれで、東京帝大を中退し、同年代に明治40年(1907年)生まれの親友亀井勝一郎がいる。彼は治安維持法違反により検挙され投獄、東京帝大は退学処分になる。その後古代、中世の仏教を研究し日本人の精神史を出版,日本の文明論を数多く発表している。戦後も、多くの人生論や、恋愛論がベストセラーとなり、無頼派の祈りで太宰治をとりあげ、昭和41年(1966年)まで活躍し多くの愛読者を持っていた。渡辺淳一は「訪れ」で晩年の亀井勝一郎の闘病生活を題材にした小説を描いている。 

 日本浪漫派の代表保田與重郎も同じ頃明治43年(1910年)生まれで、東京帝大卒業。ドイツ浪漫派の影響下に日本の古典文学や古美術を学び亀井勝一郎らとともに日本浪漫派を創刊し、その中心として思想的影響を当時の若者たちに与えた。後に、太宰治も中原中也とともに、この日本浪漫派に加わることとなる。3人とも同じ時期に在学しその後の日本文壇で活躍した。

 彼らの生きた時代は、幕末以来の西欧文明の圧力の下に東アジアで一等国をめざした明治時代の後半に生まれた。大正から昭和初期に成長し幼いころから自由主義的西欧文化にふれ、青年期にマルクス主義に出会った。青春期以降になると経済の破綻から農村を中心に郷土喪失状態となり、思想は抑圧され、軍が国を動かしはじめ、その一部は閉塞を打破する昭和維新を決行した。

 雑誌『日本浪漫派』は保田與重郎,亀井勝一郎らによって昭和10年(1935年)に発刊された。 「満州事変がその世界観的純潔さを以てゆさぶった対象は、我々の同時代の青年たちの一部だった。その時代の一等最後のようなマルクス主義的だった學生は、転向といった形でなく、政治的なもののどんな汚れもうけない形で、もっと素直にこの新しい世界観の表現にうたれた。即ち『満州国』は今なお、フランス共和国、ソヴィエート連邦以降初めての、別個に新しい果敢な文明理想とその世界観の表現である。」と保田は述べ、

「日本は今未曾有の偉大な時期に望んでいる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。
 蒙彊や満州支那の大陸にいる我らの若者は新しい精神を、現実を、倫理を、発想を、感覚を,未形の形式でつくりつつ、その偉大な混沌の中に日常を生きている。

 彼らは剣と詩によって知識と秩序の変革をはじめたのである。生と死が互いのその肌をふれあっている瞬間が彼らの精神の教育であり倫理の生理である。この広大にして深遠な事件の意味は、選ばれた一国の青年大衆を変革しつつあることである。

 戦争は一個の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく叙情詩の一つである。この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に蘇り,個人が国民と英雄を意識し,己の中にみいだす日である。」ドイツロマン主義に日本の古典文学を織り込み熱烈な天皇主義者、国粋主義者として当時の青年たちに強烈な影響をあたえた。

 保田の日本主義、農本主義的神政理論が、なぜ当時の人々を魅了し,青年達は共鳴したのか。国内では、経済は悪化しマルクス思想は取り締まられ、自由主義思想も衰退した。我が国の農村は疲弊し、若者は都会に憧れ、出かけていってしまう。時代は閉塞し、満州国建国は希望となった。古典を復活させ喪失した故郷を回復し、この自然村落共同体からなる美しい日本を復活させようとするものが日本浪漫派の主張にあった。

 太宰治は鎌倉での自殺を題材にした『狂言の神』で「今の私の豊沃をいったい,誰におしへてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮かべなんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のその後ろ姿を思ヘば,こんどは私が泣きたくなって、   だんだん小説がむづかしくなって来て困ります。」と2人のこころの通い合う場面が描かれている。

 気質も天びんもことなる保田と太宰の間の共通点は同じ時代に同じ世界で学び、時代の風をうけた滅びの感覚であり,自暴自棄的な心情であった。いいかえれれば、日本浪漫派が当時の日本人の気持の代表であった。

2014/01/01

パレスチナの赤軍派


また見つかったよ
何がさ?永遠。
太陽に
とろける海さ。

ランボー
       

 パレスチナのPFLP(パレスチナ解放人民戦線)は1968年、はじめてハイジャックをおこなった。彼らはその後も戦術として、航空機のハイジャックや空港襲撃事件を幾度かおこしていた。
 1972年5月30日パリ発エール フランス機がテルアビブ空港(リッダ)空港に到着し、奥平 剛士、安田 安之、岡本 公三が作戦行動を開始した。当日深夜BBC Three gunmen attacked Tel Aviv Airportと放送し、はじめてテル アビブ空港襲撃事件が世界に知らされた。
 銃撃戦の結果、空港内警備員や一般市民26名,アメリカ人17人、イスラエル人8人、カナダ人1人が死亡し負傷者は73名のぼった。奥平、安田の2名はその場で死亡し、岡本公三はイスラエルに囚われの身となり、軍事裁判で終身刑の判決をうけた。国内の日本赤軍派の事件に引き続きおこったこの衝撃的行動を契機に彼らの支持者は国内ではほとんどいなくなった。

 彼らの行動を支える思想は様々な種類の共産主義であった。時代はカストロとゲバラの革命軍がバチスタ政権を倒し、1959年キューバの社会主義革命に成功し、チリにも社会主義政権がうまれ、アジアではベトナム戦争が闘われ、世界は2大陣営に分かれ対立していた。そしてパレスチナでは過激な政治集団PFLP(パレスチナ解放人民戦線)が結成された。

 西欧諸国ではベトナムの反戦運動が盛り上がり、日本も反政府運動が全国で起っていた。しかし、1972年の日本の連合赤軍事件は、自由な表現がゆるされる場のある日本で、山にこもり孤立し武装しなければならない理由もなく、まして敵とした相手ではなく仲間を殺してしまう必要はどこにも見いだせない事件であった。又,PFLPの指揮のもとでのテルアビブ(リッダ)空港の民間人の殺害事件は、その後の世界的な政治的テロリズムのさきがけとなった。戦後、平和主義と人命尊重の世界観が主流の日本国内ではきびしい批判的見方がほとんどで、政治的に同情的であった人々の離反をまねいた。

  彼ら3人の日本人がなぜ自爆テロにも似たこの空港襲撃事件を起こしたのか。チェ ゲバラの「世界のどこかで誰かが被っている不正を心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての,一番美しい資質なのだから」といった言葉を本当に信じたのか。人はなにかを思い込みたい本能があり、信じやすい心を持っている。ときには事実を思い込みに置き換えてしまう事がある。そして、ランボーの詩を愛誦し,天空に輝くオリオンの星になりたい心情をいだいて、現実社会で実行してしまったのか。

 パレスチナ問題は,長い物語にたとえられる複雑な歴史の産物で,物語の最初は紀元前のパレスチナの地に山岳民族のヘブライ王国が建国された時代にさかのぼる。王国は滅び、ユダヤ民族はローマ軍にこの地を奪われ,世界に放浪することになる。その後この土地はアラブの人々の定住地となった。
 パレスチナとは地中海とヨルダン川の間の狭い土地で,イスラエル、パレスチナ自治政府のヨルダン川西岸地区、ガザ地区を含む。アラブ人イスラエル人あわせて現在1200万人が住んでいる。

 第一次世界大戦後はイギリスが委任統治し、ヨーロッパの第2次大戦中にホロコーストがおこり、ユダヤ人の国家建設がすすめられた。そして、パレスチナの地にイスラエルが建国された。
 1948年イスラエル建国時、アラブ側とイスラエル側の土地の配分をめぐって第1次中東戦争が勃発する。アラブの占有する土地面積が少ないことに不満をもったアラブ側がイスラエルに攻撃をしかけるもイスラエル側の勝利に終わった。その後第2次中東戦争が勃発し、1967年には第3次中東戦争(6日間戦争)で3たびイスラエルが勝利し,アラブ諸国の大量の地域、シナイ半島、シリアのゴラン高原、ヨルダン川西岸地区を占領した。これに対する反撃の行動部隊として、過激なPFLPがうまれ、航空機ハイジャックなどのテロリズムを実行した。1973年には第4次中東戦争、その後1993年にヨルダン川西岸地区とガザ地区がパレスチナ人の治める自治区となった。

 現在宗教を至上のものとするイスラム諸国と、世俗的経済を至上とし民主主義をかかげる西欧諸国との対立は続き,共産主義が消滅しても宗教的原理主義を掲げたテロ事件はおさまるどころか、より広い地域にひろがり、自爆テロも頻発している。

 








 

2013/11/04

プーシキンとサンクトペテルブルグ





人々のために昼のざわめきが静まり 
ひっそりとした町の広場に
ほのかに白い夜の影と
昼のわずらいをなぐさめる
眠りとがよこたわるとき 
わたしはひとりしじまのなかに
くるしい不眠のときをすごす。
なすこともないまよなかに 
悔恨のへびがこころを咬む。
あまたの夢がうずをまき
うれいにみちたこころのなかに 
おもくるしい思いがひしめく。
おもいでが 音もなく
ながい巻物をくりひろげる。
わたしは嫌悪のこころをもって
おのれの生涯を読みかえし
身をおののかせ のろいの声をあげ
なげきつつ にがいなみだを流す。
けれども悲しい記録のかずかずは
もはや消し去るよしもない。          

                            思いで   プーシキン

 19世紀のロシア文学は世界に多くの影響を与え、特に日本では明治、大正時代の文学者にとって、その文学は宗教にも近い人間の魂や精神の深い部分を描いた教科書として読まれていた。プーシキンはその先駆者でロシア文学におけるシェイクスピアの立場をしめる。その後ドストエフスキーやトルストイが日本語に翻訳され最も大きなインパクトをあたえることになる。

 1799年貴族の家に生まれ、幼少時よりフランス語を学びフランス語で芝居を書き上げる。ナポレオンのロシア遠征軍を撃退したのは17才になった時で、フランスを中心にした西欧風の自由民権の思想がロシアにも入ってきた。

 ロシア平原は長い間,遊牧民族モンゴルの支配のため,国家をつくる事が出来ず、15から16世紀にかけてようやくロシア人の国家ができた。17世紀にはいりロマノフ王朝が誕生し、皇帝が地上の神となり専制政治を行い、農民は共同体の精神の中心にあるギリシア正教の信仰の下に生活し、個人主義のない,調和的農村共同体をつくり支配されていた。ロシアロマノフ王朝でも長く続いたこの専制支配に対する批判は19世紀にはいるとしだいに高まってきた。 19世紀前半いまだ皇帝の栄光が強固な時代にプーシキンは多くの詩や小説を生み出した。
 プーシキンはサンクトペテルブルグの街を愛し次の時代のドストエフスキーやトルストイなどの罪、信仰、愛などの人間の魂の深層を描き出した小説とは違った作風でロシア文学の基礎をつくり、いまでも国民的人気が高い。
 
 1933年長編叙事詩「青銅の騎士」を書く。

 私はおまえが好きだ,ピョートルの建築物よ、
 おまえの厳格な、均整の取れた景色が好きだ、
 ネヴァ川のゆるやかな流れが、
 町の大理石を洗う

 青銅の騎士とはピョートル大帝で,彼がフィンランド湾にそそぐネヴァ川に沿って1703年から膨大な資金をかけ多大な人力で新しく美しい都市を建築し,1712年遷都した。そのときの大洪水を題材にした物語が青銅の騎士でこの像はデカブリスト広場にある。
 
  叙事詩「エヴァゲーニ オネーギン」はサンクトペテルブルグの貴族社会の物語でタチアーナのネオーギンに対する勝利は、信仰と確信の喪失から生まれる空虚さに対する,ロシア人の正義感の勝利の象徴と評され、チャイコフスキーの有名なオペラとなり、 もう一つのオペラ「スペードの女王」とともに世界中で公演されている。スペードの女王は、エカテリーナ時代のサンクトペテルブルグを舞台に、ナポレオン的性格の主人公ゲルマンがトランプ賭博から老婆殺害、最後にスペードの女王が微笑する、鮮やかな幕切れのサスペンスである。また、プーシキンの短篇小説「モーツアルトとサリエリ」で、神がモーツアルトに与えた音楽の才能とそれを理解する能力を持ちながら曲をつくる才能を自身に与えなかった神の不公平さをサリエリがうらやみ嘆く心のうちを描き出した。これを原題に映画アマデウスが製作された。

 1836年には「そのとき古風な小説が,私の陽気な晩年をしめることになるだろう。もっとも悪業の陰微な責苦を、物凄く描いて見せようというのではなく、ただロシアの家庭の言い伝えや、うっとりするような恋の夢や、わが国の古代の習俗などを、語り伝えるにすぎないのだが。」と予言した「大尉の娘」を世に送り出し、翌年37才にして決闘で死亡した。




 


2013/10/13

風立ちぬの世界 堀辰雄と四季


「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」

堀辰雄は、1930年(昭和6年)「聖家族」で文壇に登場した。

 1933年(昭和8年)軽井沢を舞台に「私の心はさつき霧の中から私を訴へるやうな眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽみしなかったけれど 」と恋物語「美しい村」を発表した。

 同じ年に、三好達治、丸山薫、津村信夫と詩の雑誌四季を発刊した。この年、共産党の指導部の佐野、鍋山転向事件から共産党は壊滅し、日本でも一時的に流行した国際主義的色彩の強いプロレタリア文学も国家の敵とみなされ消滅させられていった。そして、旧文壇の高村光太郎や萩原朔太郎の復活と若い世代の文芸復興がおこった。
  

 堀辰雄は有名な「風立ちぬ」を2.26事件のおきた1936年(昭和11年)と盧溝橋事件で日中戦争の始まる翌年1937(昭和12年)にかけて書き上げた。「それは,私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何ということもなしに口ずさむことを好んでいた、風立ちぬ、いざいきめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、」

 古典復興と内向的、求心的、叙情的な詩を集めた雑誌で四季派とよばれる詩人たちが昭和の始めに活躍した。このなかには中原中也、草野心平、金子光晴、立原道造も含まれている。四季は1933年(昭和8年)から1942年(昭和19年)まで81冊続いた。

 堀辰雄の分身的存在だった詩人は立原道造で,彼は10才年上の堀辰夫と同じように府立三中、一高を卒業し1934年(昭和9年)東京帝大に入学、四季の編集同人となり、繊細で透明な空気を代表する作品を生み出している。

 「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかえった午さがりの村道を」(のちのおもひに) 

 「暁と夕の詩」の覚え書きで「失はれたものへの哀傷といひ、何かしら疲れた悲哀といひ、僕の住んでいたのは、光りと闇の中間であり、暁と夕との中間であった。生きたるものと死したるものの中間者として漂ふ。死が生をひたし、僕の生の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。すべてのものは壊されつくしている、果敢ない清らかな冒険を言ひながら、僕がすべてのものを壊しつくしてその上に漂った、と僕の心がささやく」

 建築家としても嘱望されつつ1939年(昭和14年)24才で死亡。

 昭和初期1930年まではプロレタリア文学は大きな社会的影響力をもち、太陽のない街の徳永直や蟹工船の小林多喜二、詩人の中野重治たちが活躍した。しかし、しだいに時代の重圧の中で敗北していった。同時にモダニズム文学や詩も消滅した。

 現在にも読み継がれ人気のある詩は,その後も残った日本的叙情詩を描いた四季派の詩人たちである。四季派の特徴は日本古来の詩人たちのように日本の自然と心の内的世界とのかかわりあいを詩の目的にしたことにある。
 これらは季語や花鳥風月につながる、自然を直感的にとらえ表現することを重視しすぎ、社会的視野のなさ、芸術のみが至上で、現実より遊離している、あるいは近代社会のメカニズムとしての戦争を分析することはなく、戦争そのものを自然災害と同じようとらえていたといったという批判にもつながる。彼らの文学の舞台となった信濃追分や軽井沢のある長野県はまた最も多くの開拓移民を満州に送り出していた所だった。

 この頃の時代について金子光晴は「2.26事件につづいて、弾圧された筈の右翼勢力が,地下根をひろげ、着々とその地盤をつくり、満州事変上海事変等の民族的エゴイズムの発露となり、遂に中日戦争への追い込みというかたちになった。昭和6、7年あたりの自由主義の華やかさは皮相的なものであって、筋金になって国民を率いる思想の正体は、日本主義的ファシズムにほかならなかった。そして、国民の大多数は、それを支持した.それには,明治維新の皇道精神を基本とした子女教育がものをいっていた。」