2015/05/17

ニューサイエンス


    
                   

 1960年代アメリカは世界の富の50%以上が集中し、平均的な男性で彼らの祖父の2倍以上の収入があり,労働時間は3分の2程度で,終身雇用や年金を提供する企業に所属していた。この時代、豊かな物質文化、消費社会に対して,カリフォルニアから質素な生活を実践するヒッピーの文化、対抗文化が生まれた。そして,レイチェルカールソンが「沈黙の春」で残留性化学物質が自然界を汚染し、人体に蓄積される危険を警告した。

 1970年代にはいるとアメリカの経済は停滞期に入り、1974年には第1次のオイルショックがおこった。これに対して1980年代レーガン大統領の時代に2つの方法で解決がはかられた。
 企業の利益に結びつかないコストの削減を行なったこと。会社を買収して再生させる、構造の改革株主革命が起ったこと。このもとになる思想は、企業は従業員や社会に対して何の義務もおわない、企業は経営によって利益を増加させることが社会的責任であるするもので、株価を上げるための効率的な方法は大規模なレイオフによる経費削減であるとされた。こうして、会社人間の時代は終わりを迎えた。

 この時代、西欧社会に対する近代文明の批判としてアメリカではニューサイエンスが出現した。「1980年の始めにあたって、人類はかつてない世界的危機を向かえている。
 この危機は複雑で多面的で私たちの生活のあらゆる面に関係してくる。 物質と精神世界を分けたデカルトの世界観、すなわち世界は人間が造り出した機械のように部分に還元され、そして理解されるというのはまちがいで,世界における一切の存在は可変的で無常であるという東洋思想が物理の世界では現実に近いものであることが証明され、社会もまたデカルト的心身を2分するのではなく、有機的で全体的である、エコロジーアプローチが必要である。」という思想だった。この世界観の転換により世界は持続可能な社会に変化すると語られた。


 ベルリンの壁の崩壊により、1990年代以降、世界はアメリカの一極体制「市場経済と民主主義の時代」になった。さらに、IT革命によるオートメーション化と安価な人件費の地域に生産場所を求める、グローバル化から経済はさらに効率化し富を生み出した。

 21世紀にはいると市場は新しい金融テクノロジー使って住宅ローンを買い集め、それをまとめて債務担保証券を発行して、年金基金などに販売した。これがアメリカなどで住宅バブルをひきおこし、リーマンショックをもたらした。
 この恐慌を乗り切るため、アメリカは貨幣を増刷し中央銀行が国債を買い、経済を支えた。世界中で人生の目的は目先の物質的豊かさ、高収入となり、この近視眼的衝動が世界にまんえんした。
 人々は貧乏になることを恐れ、経済の成長なくして幸せはないと信じて、生産性のさらなる向上をめざし、さらなるエネルギーを消費し、膨大な物を買うよき消費者となった。

 現在、人々の消費が社会を豊かにし、経済を成長させ、GDPをふやし、国力を増強させる。この考えはほんとうに正しいのか、再び疑問視されるようになり始めた。1930年年代世界中の人口は20億人であった。今はその4倍以上になり日々増加している。海面が上昇し南の島々は水没の危機が迫り、アラル海は干上がり、世界中の氷河は消えつつあり、気候は荒々しくなった。地球上に生活する人々が豊かな生活を送るのに消費するエネルギーを地球は十分供給できるのか、豊かな環境は保全できるのか、あるいは多様な生物との共存が出来るのかといった地球環境の問題が人々の眼にみえる形で現れ解決をせまられる問題となりつつある。

 1972年のローマクラブの警告、成長の限界は、緑の革命で克服され、医療の進歩で人々の寿命は伸びカタストロフィーは回避された。 無限のクリーンエネルギーを生み出すはずの原子力は人々のコントロールー不能の放射能汚染をもたらし、熱エネルギーの消費が地球温暖化、気候の大変動をもたらしている。成長が永遠に続く経済成長至上主義にかわる経済学はないのか、地球温暖化を防ぐエネルギーの使い方はないのか、放射能に汚染されることのない今以上に住みやすい気候や環境は手に入るのか。今後の地球環境の未来は、現在の人々の選択に委ねられている。








2015/05/03

日本の大学教育


日本の教育

 明治政府は国立大学を設立にあたってアメリカやイギリスと異なり100%国の予算でまかなうシステムをつくり、学問の自由は、財政の制約のもとにおかれた。明治の初期にも、教育ファンドをつくる案や、文部省から独立した特別会計の案もだされた。しかしいずれの案も明治政府は取入れることなく文部省の権限のもとにおかれ、それが現在も続いている。

 そして、日本の高等教育は、各省庁が帝国大学の法学部卒業生を中心に人材を養成し中央の官庁や地方に行政官を送り、省庁の中に科学技術を取り込む技官制度を作った。頂点には5つの帝国大学、台湾,朝鮮の台北帝国大学,京城帝国大学さらに昭和に入り、大阪、名古屋の合計9帝国大学を作り旧制高等学校からの入学生が日本のエリ−トとして養成された。この旧制高校の割合は国民の1%以下であった。その他のコースとして,専門学校があった。さらに、教師のための師範学校、女子高等師範学校があった。

 第二次大戦後は、すべての高等教育を大学として一本化した。旧制高校は廃止され、大学に再編された。
 戦後初期は一部の人が大学進学し、多くの人は早くから職業につき、日本の高度経済成長を支えた。その後は昭和38年(1963年)大学入学12.1%に昭和40年(1965年)17%、昭和50年(1975年)には37.8%と増えさらに、その動きは加速し大学全入化の動きに乗って、現在50%以上の若者が大学に進学している。

 国立大学は約100校、私立大学は約500校におよび、多くの定員に満たない大学や、日本の最高といわれる大学も世界的には何の変哲もない大学となりつつある。
 日本の大学の特徴は、25才以上の割合が2%以下で,他の先進国とは大きくかけ離れていること。一斉入学,一斉就職が今でも大多数を占めていること。これは、戦後に一時期大学などの教育機関が不十分で,入社した若者を自前で教育し,終身雇用、年功序列が会社にとって合理的な時代があった。

 企業が世界競争を強いられる中、人材の流動性が高まり、実際は1980年代には会社共同体に取り込み会社で0から教育するシステムはコストにあわなくなっている。現在実社会と大学の関係がミスマッチをおこしていることが誰の眼にも明らかになり大学で何を学ぶかが再び問い直されることとなった。

  1980年以降、様々な教育改革が試みられた。大学における教養教育は形骸化しているとして,1991年には教養学部が解体された。専門教育も戦後の大学進学が例外的であった時代の研究者養成プログラムの延長で,研究もそれぞれの専門がたこ壷化していて何を学生に教えるのかがあいまいになり、勉強もきびしくなく、脱落することなく遊んで卒業できる。大学の教育の充実がいわれつつなかなか変革にはむすびついていない。そして,大学卒業だけでは国際的にはイニシアチブをとるのが不十分で大学院教育が必要とのかけ声で、多くの大学院がつくられ多くの博士が誕生した。2006年には博士過程卒業生の就職率が57%となり、就職難の時代となった。
 
 2004年4月から国立大学の法人化がはじまる。これは目的として大学間の競争を促し,競争的起業的な文化を生む目的であったが、実情はあまり大きな変革はなされていない。さらには国際的に通用するトップ30校に資金の配分を多くする構想も実行されている。

 一方入学試験についても、一点をあらそうセンター試験はよくないとして数年後に廃止され新たなアメリカ型の習熟度をはかる入試システムに変更される予定となった。しかし今の日本の中学,高校では受け身の受験のための勉強と長時間の部活という内向きのグループ活動に時間を費やされ,職業に就いて学んだり考えたりする時間はほとんどない。この高校卒業までの教育をどうするのか、大学入学後の教育をどうするのかはっきりとした目標がより重要だと思われる。

 大学では、現在実学の学部は受験倍率が増えているのは、目的が明確で、卒業後試験の関門があるため勉強せざるを得ない環境であることがおおきい。戦後の総合大学指向から再度、実践的職業訓練を目的とした大学と研究やアカデミズムの大学を別々に充実させることも必要な時かもしれません。

2014/12/31

明治維新、昭和維新と三島由紀夫の ナショナリズム













 西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、産業技術の西欧化で対抗した。この明治維新を推進した薩長の尊王攘夷、王制復古は国学を源流とする。

 国学は賀茂真淵が万葉集を研究し万葉時代の和歌をよみがえらせ、本居宣長は古事記を検討し、儒教や仏教伝来以前の人々のことば,心を読み解き、からこころに対するやまとこころを発見した。
 「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定し、考え方、思考方法の儒教的なもの、からこころとは規範主義であり、一方、やまとこころは「うまれながらの真心、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心をいふ。」おしつけではなく自分の心に従って内側からとらえるものであるとし、外来思想の輸入される以前の日本古来の自然のままのすなおなこころを見いだした。

 さらに宣長は日本の天皇統治ついて「皇国は天照大御神の授け賜へる皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私という事はなき事なり」とした。その後継者の平田篤胤はよりこの理論をファナティックに体系つけ尊王思想をとなえた、幕末の平田篤胤の一門は王制を復古し、古代のように天皇のもと祭政一致の国家を夢みた。

 この国学思想に「知行一致」死をも恐れぬ行動理論の日本的陽明学、後期水戸学の過激主義が相まって尊王攘夷のかけ声のもと、武力により明治維新は実現し、徳川幕府は滅びた。


  一方、再び国外からの圧力に直面した昭和時代に、昭和維新をかかげ国内の武力行動がひきおこされた。これらの理論は、天皇親政のもとの万民平等を実現することが理想で、天皇は特権階級、貴族的軍閥を排除する直接行動の変革の象徴となり、日本を混乱悪化させた側近を排除し、天皇と陛下の赤子としての国民による、国民のための国家を夢みた。

 1906年(明治39年)北一輝22才の時「国体および純正社会主義」を書き上げ自費出版する。この中で,『生きるとより死に至るまで脱する能わざる永続的飢餓の地獄は富豪の天国の隣にて存する』と書き天皇制の歴史と役割を分析し、平等社会すなわち純粋の社会主義を提唱する。
 
 清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、1912年(大正1年)中華民国が建国された。その革命に、北一輝は理論的支柱として参画し、国民党の最有力者宋教仁を通して中国革命を動かしていた。しかし、その盟友宗教仁が翌年暗殺される。

  その後、北は中国を去り日本に帰る決意をする。それは「十数年間に特に加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにしておいては対世界策も対支那策も日本本国もあきらかに破滅であると見た。」その後、軍事クーデターの理論『国家改造案原理大綱』を1919年(大正8年)上海で書き上げた。

 この中で北一輝の中心理念は、アジアの独立、支那の保全を求めた大アジア主義であり、日本においては天皇のもと、国民が国家への忠誠を尽くす平等主義を構想し、私有財産の制限や土地の国有化をする明治維新に次ぐ第二の武力による革命、昭和維新が必要であるとした国家改造論であった。 

  1972年(昭和47年)三島由紀夫の自殺もまた、国家改造を夢想した。
 その実行のもとになる理論は陽明学にあった。陽明学は朱子学と同じ時期に日本に紹介され、中江藤樹などが広めた。朱子学の机上の論理と異なり、知行合一を主張し行動の学問であった。善もなく悪もないのが心の本体であり、その混沌からほとばしるものが真の善ある。純粋であるか否かが問題で、「至良知」とは天理が自然に発現したものであるとした。
 この中国における陽明学は日本において変質し、生死を超脱し変革を実行する、より精神主義的に変貌をとげ、実践の理論となった。また武士の理想は、君主の下、与えられた責任を果たすため、必要があれば命をかける覚悟でこれに臨み、私的利害にとらわれないことを理想とした。この極論が「葉隠れ」でやはり三島由紀夫の座右の書であった。

 天皇は国体であり、神勅を奉じて祭祀を司り、国軍の栄誉の源であるとして祭政一致の日本をつくる維新法案をつくった。そして行動にうつした。


 国粋主義の国学は明治維新の原動力となり、明治政府を樹立した。一方、同じ天皇の下での臣民国家の構想は昭和の時代、軍の暴走の象徴となり、クーデターの恐怖を植え付けて、鎮圧された。また経済的繁栄にむかう時代の三島由紀夫の檄文は時代を1世紀逆行させる復古主義のマヌカンととらえられた。

 
  
  

2014/08/16

ブルーノ タウトと日本の美


宇宙建築士 ブルーノ タウト

 ブルーノ タウトは昭和8年(1933年)から昭和11年(1936年)まで日本に滞在し、西欧建築家による日本美の再発見、芸術論、工芸品、住宅を残し現在に至るまで多大な影響力を与えた。

 日本の各地を旅行し、貧とさえいえるほどの簡素こそ日本美学の基礎であるとして茅葺きの農家、あるいは飛騨、白川郷の60度の急勾配の藁葺き屋根の古い民家、戦前各地にあった農村地帯の家々、簡素なそれらの農家に日本の建築の美しさを見いだした。 

  奈良をつつむ雰囲気に宿る魅力は、この都が日本仏教の初期を代表しているところにある。当時、日本人は自由清新な気宇をもってシナの思潮を摂取し、しかも豊かな創造力によってこれに改良を加えた。

 新薬師寺に赴いて、何よりもまずそこの門や塀、植え込みなどのもつえもいわれぬ自然的な美しさを仔細に眺めてみなければならぬ、すべて簡素な美しさである。それはあくまでも清新純雅であると述べている。

 そして桂離宮を「発見」した。
Katsura.hier bin ich quasi sein Entdecker.
 また、伊勢神宮をアクロポリスにも比類するとしてみなし、日本のまったく独自の文化の鍵であるとして絶賛した。

 タウトの建築論は日本における建築の様式を2つに分け、この伊勢神宮、白川郷から桂離宮につながる建築の系譜を本物(オーセンティック)と評価し、一方、日光東照宮は様式は中国の明、清の悪趣味の模倣でありいかもの(キッチュ)と呼んだ。

 タウトの最も好んだ建築芸術は大和文化に始まる、伊勢、桂の系譜で、大陸文化の日本的にしたもの、明治以降の欧米文化の影響したものより遥かに高く評価した。

 ブルーノ タウトは1880年ドイツのケー二ヒスベルグに生まれ、若き日々ドイツを席巻した工芸技術と芸術を結びつけるジャポニズムやアールヌーボーにつながる「青春様式」ユーゲントシュテールの時代に青春時代をすごした。
 ベルリンに建築事務所の拠点をつくり、鉄の記念塔(1913年)やガラスの家(1914年)で表現主義建築家として有名になった。

 ドイツは第一次世界大戦の敗北で、帝国が崩壊し、ワイマール共和国が成立。同時に芸術のための労働者評議会が結成され、労働者の為の建築を目ざして、タウトや、グロピウスなどが建築家の集まり〔ガラスの鍵〕をつくり、バウハウスがこの時期誕生。その後の装飾を排した普通の素材を用いたドイツモダニズム建築を主導した。
 タウトは建築家として、働く人々の住居の設計にかかわって多くの田園都市、住宅団地を建設した。そしてベルリン工科大学教授になる。 しかし、ナチスが政権をとると左翼主義者として、職を追われ、日本に亡命することとなる。

 戦前の日本に昭和8年から3年間滞在し、伊勢神宮から桂離宮につながる系譜を日本文化の精華とし、将軍的装飾主義とは対極の天皇芸術を賞賛した。そして、皇国史観の強まる日本で多くの共感を得た。ドイツでの工芸と芸術の融合運動を日本でもおこし高崎市で日本の自然素材である竹,和紙,漆器を用いた工芸品を指導し製作し,芸術運動をはじめた。しかし、総力戦にむかう日本ではその活動は広がらず、1936年(昭和11年)、近代化を推進するケマル アタチュルクのトルコに教授として招聘され、日本を去った。

 戦後、日本の近代化は、天然、自然の素材をを捨て去り、安価でキッチュなプラスチックとアルミとコンクリートを偏愛し、タウトの目にした昭和初期まで残っていた芸術的な木造建築は跡形もなくなった。今こそ、伝統素材を見直し,日本の美を再構築し、タウトの夢見た、工芸、絵画、建築の統合された、キチュではない本物のアーツ アンド クラフト運動が必要な時代といえる。









 

2014/07/02

流行作家 渡辺 淳一


 昭和35年(1960)6月山崎豊子の白い巨塔が連載小説で発表された。
旧帝国大学医学部教授の椅子をめぐる壮絶な権力争い。外科教授の手術能力の過信と、その治療をめぐって対立する2人の医師財前五郎と里見修二の生き方をドラマッチックに描き上げ、社会派小説として日本中で評判となった。
 昭和44年(1969年)「続白い巨塔」が単行本として出版された。小説は、「医療は神の祈りであることを忘れ、権力や名声などの白い巨塔の野望に破れた財前の魂を洗い浄め、鎮めるような荘厳ミサが、夜明けの清明澄な光の一つに溶け合って、里見の心を揺り動かした。里見の胸に初めて、財前の死を弔う心が強く深く湧き上がってきた。」で幕を閉じている。


 昭和42年(1967年)札幌医大で和田寿郎教授による、日本で初めての心臓移植手術が行われた。これを題材として、渡辺淳一氏は手術に対する批判的小説を発表した。日本におけるドイツを模範とした医局講座制は,依然として強固であった。和田教授はアメリカの医療を身につけ、アメリカで学んだ卓越した心臓手術の技術を駆使して、移植手術は成功した、しかし拒否反応の合併症のためその後患者は死亡。そして手術の適応と脳死判定をめぐり社会問題となった。ドイツ医療がアメリカ医療に変わりつつある時代であったが、教授の権力はいまだ絶大であった。

 当時札幌医大の講師であった渡辺淳一氏はこの経緯を「白い宴」でドキュメント風に描き、「ダブルハート」ではフィクションの世界で術者の野望、医局の人々、患者家族を描き北国の白い巨塔ともいえる短編小説を世に出した。野心家野津教授、主治医で心臓の摘出を担当する殿村医師のむなしさを通して、移植手術への懐疑を色濃く表現した内容となった。これを契機に渡辺淳一氏は札幌の大学をやめ、東京で小説家となる。和田寿郎教授もまた東京で心臓外科の教授として手術に邁進する。

 渡辺淳一氏は、それ以前から医療を題材に多くの小説を発表している。昭和40年(1965年)に「死化粧」、昭和42年(1967年)には「霙」で重症身体障害者の現実の世界と医療従事者、親や家族の微妙な心の動きを描き、後の「雪舞」や「神々の夕映え」につながる。霙では北国の季節の移ろいと、人間社会の不条理、人の心の複雑さを描いた。主人公の柏木に「5ヶ月の胎児なら町の病院で堂々と堕せるんだけども、7ヶ月の未熟児なら夜も寝ないでつききりで助けなければならない。変な話でしょう」と語らせ、「分裂病などどうせ治らないんだろ」と主人公の虚無感を吐露させ、現在の障害児の胎児診断につながる問題、消極的安楽死の問題、医療技術の進歩では解決できない複雑な感情と社会をテーマに小説化した。

 昭和45年(1970年)には「光と影」で直木賞を受賞、1980年代「遠き落日」や「長崎ロシア遊女館」でも吉川英治文学賞を受賞、流行作家となる。
 その後「ひとひらの雪」や日本経済新聞社の連載小説「失楽園」で時代の尖端を行く作家として、題材は医療から男と女の世界の小説家としての評価が定着し鈍感力の流行語も生みだした。現代の近松門左衛門や谷崎潤一郎を目ざし、川端康成の「眠れる美女」を超えるのが目標と語った。


 白い巨塔の話題になっている頃、田中角栄首相の1県1大学構想の下で新設された秋田大学に入学し、後に「ダイアモンドダスト」で芥川賞を受賞する医師、南木佳士氏がいる。その時代、いまだ医局講座制度は確固として残り,医学部のヒエラルキーは揺るぎないものであった。「冬への順応」の中で当時の受験生活と地方医大入学時の複雑な心境、その後の人生を私小説ふうに描き、また「医学生」の中で、地方の学生生活を主人公4人の姿を通して描いた。どちらも、実際の日常生活を淡々とした筆致で、私小説風のフィクションにしたものであった。
 そして、昭和56年(1981年)カンボジア国境のタイの難民キャンプでの経験を素材にした小説がある。当時日本は初めて海外での難民救援医療で、日本のチームは外科病棟を担当した。限られた医療資源で救急治療をするとき必要なトリアージの考えが当時はなく、地雷や銃創患者に対応していた。これらの異国での診療の日々をやはり淡々とルポルタージュ風に小説化した「長い影」などの作品がある。


 渡辺淳一小説のもつ,非日常的な鋭さとか、医療の根源的問題を取りあげることはなく、死と生の状況を日本の一地方の病院の日常として書き上げたのが「ダイアモンド ダスト」。ありふれた人々の生涯とその死の時にダイアモンドダストが舞って終わる物語で芥川賞を受賞した。
 
 小説は、社会の中の人間像を描いた、山崎豊子の作品にみられる、社会的小説。人間の思想や人の心の複雑さ、恐怖、不安あるいは心の成長といったことを主題としたもの、そして,楽しみとしての物語、娯楽小説などがある。
 渡辺淳一氏の初期の作品は、社会と人間、安楽死や生死にまつわる重いテーマを北国の風土とともに提示して、時代を先取りしていた。その後は、しだいに娯楽的流行作家の第一人者となる。南木作品は、娯楽とか社会問題とは無縁に医療を舞台にした小説を多く書いている。医療小説は生や死をあまりドラマッチックに描けば、虚構になる、社会問題が絡めば複雑になる。南木氏の作品は流行や波瀾万丈の人生や思想とは無関係のありふれた地方の日常の人々の生活を描き出した。そしてその文芸的純文学性に対して芥川賞を受賞した。
 


 
 

2014/05/06

クリミア戦争 トルストイのセヴァストポリ


セヴァストポリ物語

 1783年エカテリーナ2世の時代、黒海北部の沿岸地方はロシアの領土となった。現在のウクライナの土地の東側80%がロシア帝国の支配下におかれ,西部の土地20%がオーストリア帝国の支配下におかれ。そして、ウクライナ南部黒海に突き出たクリミア半島に黒海艦隊の停泊港セヴァストーポリが建設された。

 
 「戦争と平和」に描かれた1815年のナポレオン敗北後のヨーロッパは圧倒的な海軍力をほこるイギリスに対し、大陸ではロシアが80万人を超える最大の陸軍をもち、当時GDPでも、イギリス、フランスをうわまわっていた。ロシアの南部に勢力を誇っていたトルコは弱体化しつつあり、その空白を埋めるようにロシア帝国は南下し、カフカス、トルキスタンもロシアの領土になり、ダーダネルスとボスポラス海峡の通行権と通商権を手に入れた。その結果ロシアの穀物は黒海経由でヨーロッパ各国に輸出されるようになった。ロシアは南下政策によって勢力をさらに地中海にまで伸ばしつつあった。

 クリミア戦争は1953年ロシアのトルコに対する宣戦布告で始まり、ロシアの南下を恐れたイギリス、フランスがトルコに援軍を送り両軍で20万人以上の戦死者を出し、3年後に停戦した。停戦後この要塞からロシア軍は撤退し黒海艦隊は無力化され、イギリスとフランスの連合側が黒海の制海権を得た。

トルストイは26才の時、このクリミア戦争に従軍し、最大の激戦地セヴァストーポリ要塞の籠城戦の経験を小説にした。
この「セヴァストーポリ」は3部作からなり、第一部は1854年 12月のセヴァストーポリ 、第2部は1855年5月のセヴァストーポリで、これを雑誌「現代人」に投稿した。第一部で当時の街や人々の生活の様子,ロシア軍を生き生きとした文章で写生した。そして、第二部でこの激戦地の状況を感情を抑えた筆致で描き出し、戦場の兵士の勇気、愛国、悲惨さや戦場の陸軍将校の様々な情感、性格、思想といった心のうちまでを浮かび上がらせ、戦場の小説家として一躍トルストイの名声をロシア中にひろげた。

 第3部の8月のセヴァストーポリはサンクトペテルブルグで書き上げた。コゼリツオーフとウオロージャ兄弟が物語の主人公に、要塞陥落のフランス軍とロシア軍の戦闘場面を映像的に描き出し、彼らの死を通して人間の宗教的運命を表現した。

 弟のウオロージャはセヴァストーポリに着任、彼の心の動きを「子供らしい、脅かされやすい、狭い心は、急に大人らしくなり、明るくなって、ひろびろとした明るい世界をそこに認めた。  偉大なる主よ、ただなんじのみ聴きかつ知り給う。この単純であるが熱烈な、懸命な無知の祈り、漠然たる悔悟の祈りを。」そして、すぐにフランス軍との戦闘で死ぬ。生き残り要塞を後にする最後の場面でウラングは号泣する。彼の若い兵士に対する悲しみがその後トルストイの唱える非戦思想につながる。

 この小説は後のナポレオンとの祖国防衛戦を題材とした「戦争と平和」のボロジノやモスクワ戦場における映像的な戦場の描写やアンドレイやまわりの将兵の人間描写、英雄主義の下での恐怖心、虚栄心、名誉心,などの人間描写でさらに洗練されたものとなってくる。

 その後,ウクライナ地方はロマノフ王朝が第一次大戦とロシアのボルシェヴィキ革命によって滅亡し、短い期間ウクライナ国民共和国が生まれた。しかし最終的にはソビエト社会主義連邦共和国連邦の一部となり実質的に70年間ロシアの政治支配の下におかれた。
 

2014/04/08

イギリス保守主義と皇国史観日本


  しきしまの 大和心を人とはば 朝日に匂ふ 山桜花


  昭和にはいると日本社会も、不安の時代となり国全体が政治思想にのみこまれていく。当時大国は戦争を手段として生き残りをかけた総力戦を繰り広げ、この総力戦の時代に日本はどう生き残り、国を発展させるかが死活の問題となってくる。そして、日本とはなにかというアイデンティティーの問題にぶつかり、日本を再構築しようとする様々な思想があらわれる。

 共産主義、反帝国主義、無政府主義思想、国家社会主義、民本主義などが海外から紹介され、国内でも影響力をもってくる。なかでも民本主義は民衆の利福のために、民意に沿って政策は決定され、議会中心主義的要素を取入れ、天皇主権と矛盾しないものとして吉野作造らによって唱えられ、大正デモクラシーを主導した。しかし時代はすでにロシア革命がおこりソヴィエト連邦が樹立され、ドイツ革命でドイツ皇帝も、オーストリア皇帝も退位し社会主義、共産主義が時代を動かすようになってきた。

 
 この時代の荒波、国外の圧力から国を守るために、不安と恐怖に打ち勝つために、外来思想ではない日本古来からの思想、国学をもとにした日本主義思想がしだいに力をもってくる。日本を腐敗させた財閥、既成政党を倒すため反資本主義、反議会主義の改革派の軍が力を持つようになり、皇国史観が主流となり、日本を引っ張っていく事になった。

 本来(Fundamental character)国体とは国家の性格、国柄を表すばくぜんとしたものであった、それがしだいに、本居宣長の「皇国は天照大御神の授け賜える皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私のという事はなき事なり」「ひたふるに畏こみ敬ひて従ひ奉れ」とする伝統的権威としての天皇支配の正統性のをもとにして、日本は天皇中心の一君万民、挙国一致の総合家族国家であるとした。
 
 外国の思想や物質的、精神的実力を蔑視し、ものが足りない分は精神で補うという日本精神論が独善性をもって広がっていく。  さらには徳川時代末期の尊王攘夷、清朝末期の扶清洋滅に近い排外主義、国粋主義に近くなってしまった、そしてまた理性的判断より感性が尊ばれ、客観性を無視した愛国主義になっていき市民の自由は消え去ってしまった。
   


    
四月はもっとも残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と欲望をないまぜにし、
春の雨で生気のない根をふるいたたせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた。

                      荒地  T.Sエリオット

 19世紀はイギリスの時代であり、とくに一国で世界を支配したヴィクトリア時代は安定した物質主義的、合理主義の時代、楽観主義の時代であった。世紀末から20世紀のはじめにかけてヴィクトリア時代の合理主義が権威を失いつつあった。そして、ある根本的不安の時代となり、その不安の結果として社会主義運動もおこった。そしてヨーロッパは帝国主義列強の時代になり各国が勢力を競い合うことになった。

 しかし、第一次大戦はヨーロッパ世界とその文明そのものを破壊し,帝国が解体消滅する国もできてしまった。1922年 T.Sエリオットは「荒地」で当時の人々の精神状境を描き、荒地のように荒廃した世界を描き、そこからの再生を語った。
 エリオットは詩の起源は伝統にあり、さらにその伝統をさかのぼるとキリスト教、イギリス国教にある。生きる事の支えとなる智慧をこのキリスト教の伝統の中にみいだした。超越的神の存在を認め、神に救われた状態を通してながめられた人間世界、ヨーロッパの伝統とともにある神の存在を根底にした保守思想を打ち立てた。

 イギリスでは、この歴史や伝統によりつくられれた社会的秩序を重視し,フランス革命に始まる設計主義的合理主義すなわち人間の知識、構想により理想的社会をつくる思想,共産主義とファシズムに対立する立場をとった。そして、議会制民主主義は定着していた。民主主義は、自立した個人は重要なものであって,一つの文明を形成するにはあらゆるタイプの人間が必要だということを前提にし、さらには批判が許されることを制度として保障している。

 イギリスの立憲君主制は、議会、下院の主導権が強く、その主導のもとの君主制で、いっぽう、明治憲法の立憲君主制は,内閣はこくみんに責任を負うのではなく、天皇に対してのみ,輔弼の責任を負うことになっていた。