日本では古来より歌が詠まれ、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集など和歌の伝統が脈々と続いていた。明治時代に正岡子規が、俳句を革新し現在につながる現代俳句を復活したように、和歌、短歌の革新を子規より20才若い石川啄木はおこなった。1886年(明治19年)生まれの啄木は、子規が日清戦争に従軍し戦争の勝利に喜びを隠せなかったのと同じように10年後1904年(明治37年)日露戦争が始まると日記に「予かん喜にたへず、真に骨鳴り、肉踊るの慨あり」とやはり国民の戦勝気分に共鳴した。翌年1905年(明治38年)詩集「あこがれ」を刊行し文壇に明星派詩人として登場した。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
はたらけどはたらけど猶わが生活
楽にならざり
じっと手を見る
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ
1910年(明治43年)石川啄木は短歌集「一握の砂」で海と砂と東京での生活を歌によんで注目され、北原白秋と並び称されるほどになった。神童と自負して少年時代をすごした啄木は社会の荒波の中、赤貧生活を余儀なくされ、才を認められぬ憤懣、こころの内のうっ屈を短歌にたくして表現した。短歌が花鳥風月の定形に堕して、実生活や社会から遊離してしまっていた。これを現代人的感覚であらたな価値を短歌で表現した。
同じ年、幸徳秋水らの大逆事件が起きている。天皇暗殺をくわだてたとして、死刑24人、有期刑2人が有罪となった。この事件の公判記録を読み、秋水の「陳弁書」を読み、彼等に同調し,社会主義に傾倒していく。そして、「日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」を書く。
秋の風 我等明治の青年の
危機を悲しむ
顔撫でて吹く
明治維新から、近代国家に変貌をとげた日本は2度の戦争にも勝利し、東洋の大国の地位を築きつつあった。しかし、日露戦争後の日本は、戦後の恐慌と物価高がおそい、大学を卒業しても職がなく、国民生活は苦しくなり、明治40年頃には足尾銅山の暴動や炭坑でのストライキが頻発し社会主義は明治の日本をゆるがしていた。
文学の世界では自然主義が最も多くの国民に支持されていた時代であった。それに対して明治政府はこの反政府の社会主義運動を押さえ込もうとしていた。一部の過激主義者が明治天皇を暗殺を計画したとして、多数の社会主義者や無政府主義者らが検挙され、幸徳秋水が首謀者とされ処刑された。しかしこれは明らかにえん罪であり、処刑は政府の強権によるものであった。
文学の世界では自然主義が最も多くの国民に支持されていた時代であった。それに対して明治政府はこの反政府の社会主義運動を押さえ込もうとしていた。一部の過激主義者が明治天皇を暗殺を計画したとして、多数の社会主義者や無政府主義者らが検挙され、幸徳秋水が首謀者とされ処刑された。しかしこれは明らかにえん罪であり、処刑は政府の強権によるものであった。
1910年(明治43年)「我々青年を囲む空気は今やもう少しも流動しなくなった」という明治時代の終わりの社会の様相を論評「時代閉塞の現状」で描く。
文学では強権の壁にさえぎられ、自然主義の文学は主流から外れ、白樺派と新ロマーン主義に取って代わられる。当時自然主義的な描写は政府のとりしまりの対象になり、この制約をすりぬけて個人の自己を表現する方向に進まざるをえなかった。
「我々は一斉に起って先ずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧をやめて全精神を明日の考察—我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならないである。」と主張し、自然主義から社会主義に向うべきとよびかけた。
文学では強権の壁にさえぎられ、自然主義の文学は主流から外れ、白樺派と新ロマーン主義に取って代わられる。当時自然主義的な描写は政府のとりしまりの対象になり、この制約をすりぬけて個人の自己を表現する方向に進まざるをえなかった。
「我々は一斉に起って先ずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧をやめて全精神を明日の考察—我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならないである。」と主張し、自然主義から社会主義に向うべきとよびかけた。
はじめて労働運動とか社会主義的な背景を詩に取り込み、生活の一面を切りとった短歌は、それに日本的メンタリティーである酒と泪とこころの内の哀しみをこめた短歌にして表出した。
啄木は結核のため27才で「悲しき玩具」を残してこの世を去り、明治も時代閉塞のまま、大正をむかえた。
啄木は結核のため27才で「悲しき玩具」を残してこの世を去り、明治も時代閉塞のまま、大正をむかえた。


