2016/01/01

閉塞の時代の石川啄木


  日本では古来より歌が詠まれ、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集など和歌の伝統が脈々と続いていた。明治時代に正岡子規が、俳句を革新し現在につながる現代俳句を復活したように、和歌、短歌の革新を子規より20才若い石川啄木はおこなった。1886年(明治19年)生まれの啄木は、子規が日清戦争に従軍し戦争の勝利に喜びを隠せなかったのと同じように10年後1904年(明治37年)日露戦争が始まると日記に「予かん喜にたへず、真に骨鳴り、肉踊るの慨あり」とやはり国民の戦勝気分に共鳴した。翌年1905年(明治38年)詩集「あこがれ」を刊行し文壇に明星派詩人として登場した。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

はたらけどはたらけど猶わが生活
楽にならざり 
じっと手を見る

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ


 1910年(明治43年)石川啄木は短歌集「一握の砂」で海と砂と東京での生活を歌によんで注目され、北原白秋と並び称されるほどになった。神童と自負して少年時代をすごした啄木は社会の荒波の中、赤貧生活を余儀なくされ、才を認められぬ憤懣、こころの内のうっ屈を短歌にたくして表現した。短歌が花鳥風月の定形に堕して、実生活や社会から遊離してしまっていた。これを現代人的感覚であらたな価値を短歌で表現した。

 同じ年、幸徳秋水らの大逆事件が起きている。天皇暗殺をくわだてたとして、死刑24人、有期刑2人が有罪となった。この事件の公判記録を読み、秋水の「陳弁書」を読み、彼等に同調し,社会主義に傾倒していく。そして、「日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」を書く。

秋の風 我等明治の青年の
危機を悲しむ
顔撫でて吹く

 
 明治維新から、近代国家に変貌をとげた日本は2度の戦争にも勝利し、東洋の大国の地位を築きつつあった。しかし、日露戦争後の日本は、戦後の恐慌と物価高がおそい、大学を卒業しても職がなく、国民生活は苦しくなり、明治40年頃には足尾銅山の暴動や炭坑でのストライキが頻発し社会主義は明治の日本をゆるがしていた。

 文学の世界では自然主義が最も多くの国民に支持されていた時代であった。それに対して明治政府はこの反政府の社会主義運動を押さえ込もうとしていた。一部の過激主義者が明治天皇を暗殺を計画したとして、多数の社会主義者や無政府主義者らが検挙され、幸徳秋水が首謀者とされ処刑された。しかしこれは明らかにえん罪であり、処刑は政府の強権によるものであった。



 1910年(明治43年)「我々青年を囲む空気は今やもう少しも流動しなくなった」という明治時代の終わりの社会の様相を論評「時代閉塞の現状」で描く。
 文学では強権の壁にさえぎられ、自然主義の文学は主流から外れ、白樺派と新ロマーン主義に取って代わられる。当時自然主義的な描写は政府のとりしまりの対象になり、この制約をすりぬけて個人の自己を表現する方向に進まざるをえなかった。
 「我々は一斉に起って先ずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧をやめて全精神を明日の考察我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならないである。」と主張し、自然主義から社会主義に向うべきとよびかけた。


 

 はじめて労働運動とか社会主義的な背景を詩に取り込み、生活の一面を切りとった短歌は、それに日本的メンタリティーである酒と泪とこころの内の哀しみをこめた短歌にして表出した

 啄木は結核のため27才で「悲しき玩具」を残してこの世を去り、明治も時代閉塞のまま、大正をむかえた。
 






2015/11/17

パリの異邦人 高村 光太郎


秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水心に流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまって思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣の嬉々として奔るを見
飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見
かくの如き因果歴々の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責を思い
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る

         
秋の祈り 高村光太郎


  高村光太郎は、1883年(明治16年)江戸下町の庶民、彫もの師高村光雲の長男として東京に生まれる。24才で、アメリカに旅立ち、そしてフランスに留学し27才で帰国。西欧の詩や絵画、彫刻を学び、とりわけロダンの作品に響鳴しロダン的西欧彫刻を目ざした。「彫刻には独創はいらない、生命がいる。そこには理想主義はありません。メチエ(手仕事)しかありません。メチエがすべてです。」

 留学で芸術の世界性の感覚を学ぶと同時にこころの中に超えがたい人種の壁が刻みこまれた。

 ロダンの彫刻は日本では白樺派の自然調和の芸術運動に影響を与えていた。高村光太郎もパンの会の仲間たちとふるくさい日本を打破し、芸術界に反旗をかかげ、日本的なもの、盆栽的技巧の芸を否定し、江戸時代から続く彫りもの師から脱出し「根付けの国」の文化も否定し、本物の芸術をめざした。

 そして「道程」などの詩を発表し、その後「智恵子抄」を生み出した。世間を省みず世間に反発し、心のおもむくままに2人の孤立した生活送り続けた。
 
   高村光太郎の父、高村光雲は「幕末維新懐古談」でその時代を語っている。
1852年江戸時代の生まれの江戸育ち。江戸下町の庶民、木彫師であった。その江戸時代には木彫は決まりきった種類の小さい作品ばかりになっていたものが、明治時代になり、国外からの注文もあり、しだいに大型の彫り物そして仏像をつくるようになり彫刻を家業としていた。明治10年頃の排仏棄しゃくの運動で仏師は苦境にたたされた。
 1887年(明治20年)になり東京美術学校ができ、彫刻科は木彫が主流で光雲はその教師となる。その後楠公像西郷隆盛像の木型製作主任となり、銅像制作に加わる。木彫の狆や矮鶏、老猿は代表作として現在も残っている。




 
 大正から昭和にかけ、人生そのものが平均的日本庶民を代表し、その気持ちを先取りして、実行した人物がいる。平凡社の下中弥三郎で、1878年(明治11年)生まれ,教育者として人生をスタートし、1914年(大正3年)出版社平凡をつくり、その後雑誌「平凡」を発刊する。
 下中の主張は次々と変遷していく。初期は教育者として子供至上主義、女性礼賛を主張し、大正自由主義として大正デモクラシー、労働運動にかかわり活躍する。さらに昭和にはいり農本主義から国家社会主義、戦時にはアジア主義者として、1933年(昭和8年)には大亜細亜協会を設立し、超国家主義へと変貌を遂げていく。日本の大正から昭和にかけての流行思想そのものを体現したかのような人生をおくった。


 高村光太郎は彫刻を作り、絵を画き、詩を書いた。やがて、父親が亡くなり智恵子と死別し、時代は戦争に進みつつあった。1938年(昭和13年)生活そのものが芸術作品のような人の生活が終わり、日本の社会に直面した高村光太郎の近代意識、個人の確立に辛苦し到達した芸術家としての矜持は、一気に崩れ去った。芸術の世界性は忘れ去られ、下中流庶民的流行主義者と同じ地点、古い日本の村落共同体を支えていた昔を思い出しその心情にもどった。留学時代の西欧に憧れつつ同化できない東洋の異邦人、極東の日本人に回帰した。

日支事変について

 長い間支那南北を争わせて
 漁夫の利をせしめていたのは誰だ
 今又日本と支那とを喧嘩させて
 同じ利をせしめようとしたのは誰だ

 わが日本は先生の国を滅ぼすにあらず、
 ただ抗日の思想をほろぼすのみだ。

と書いて中国大陸における事変は米英とそれに後押しされた南京政府との戦いであり、アジアでの戦いは、主観的には西欧に対するアジアの解放、反撃の戦いと描きアジア主義者と同じ地点にいた。

そして「天皇あやふし。ただこの一語が 私の一切を決定した。」と多くのモダニズム作家やプロレタリア作家と同様に庶民的天皇主義と共鳴しあう地点へと収斂していく。

 記憶せよ、12月8日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジャパン、
 眇たる東海の国にして、
 また神の国たる日本なり。
 そを治しめしたまふ明津御神なり。
 世界の富を襲断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

 敗戦後、下中は公職を追放。その解除後,平凡社の世界大百科事典など多くの事典の出版を続けながらふたたび社会運動にのりだしていく。世界国家運動で、軍備を放棄し、世界国家をつくろうとするものだった。
 
 高村光太郎は岩手県花巻市の郊外の山小屋で、一人で自給自足の生活を始めた。人間社会から隔絶し自然のなかの独居生活を送った。その痛恨の心情を「暗愚小伝」や「脱却の歌」に吐露し、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかをみた。」と自責。人とのかかわりを拒否し、自然の偉容を感じ、自然と一体化し宗教家のような生活を送り、美の、芸術の製作に再び没頭した。

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。
 時間の果つるところ即ちねはん
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の物ことごとく光る。

とうたいこの世を去った。

2015/10/25

アジア主義と帝国


 1900年この時代を、ギルバート マレーは「どの国もわれわれこそ国家の中の精神であり花である。そして,何よりも他を支配すべき資質を備えている国家であると考えていた。」と表現しています。イギリス一国支配は終わりを告げた1885年以降、世界は多極的世界となり欧米帝国主義列強の争いの場になった。
 こうして ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア ハンガリー帝国、イタリア各国は植民地を求めアフリカやアジアに進出してきた。アメリカもまた門戸開放をかかげてこの競争に加わった。アジアの各国はこの強大な圧力に対して対抗した。しかし、エジプト、印度、中国そして東南アジアやフィリピンは列強の支配下におかれた。

 日本は天皇を神格化し、神道を国家宗教としたが、実務は西欧的規範を取入れ近代的国民国家をつくりあげ植民地化をまぬがれた。 1894年に日清戦争に勝利し、地域の覇権を確立したあと、1904年に、大国間の政治の延長としての戦いである日露戦争に勝利した。この2つの戦争により、日本はアジアの強国の地位を固め、侵略併合をされる危険は当分なくなり、群雄割拠する世界にどう対応するかが問題となった。


 この時代中国を支配していた清王朝は、儒教で国を治めていた。儒教では徳のある皇帝は絶対的権力者であり、君臣、父子、夫婦間の上下関係をなにより重んじた。4000年前より文明が続く中国は宇宙の中心であり、その他の辺境は夷狄である。この華夷思想で対外政策をすすめ、科挙で官僚制度をつくった。西欧列強に遭遇した清朝は改革に失敗し西欧の技術、武力に敗北した。それにたいし、康有為は儒教を新たに解釈し直して孔教として広めようとした。一方広州の農民出身の孫文は満州族の君主制を倒し、共和制をめざした。

 欧米列強の進出とともにアジアの平和は崩れた。汎アジア主義は、この西欧列強の進出に対抗する思想で、日本の脱亜入欧は西欧列強の人種差別の壁にぶつかり、汎アジア主義の思想が生まれた。 アジア主義は多様でアジア諸国の連帯をどうするかで意見はさまざまであった。その一部には中国、朝鮮も日本に支配されるべきとする軍国主義者いたが、多くは隣国と協調し西欧に対抗しようとして多くの政治亡命者を温かくもてなした。
 20世紀はじめ東京はアジアの活動家の中心地となった。孫文、魯迅、梁啓超などは中国から、またベトナムからファン ボイ チャウ、その他印度、フィリピンやイスラム圏から多くの亡命者が集まってきた。

 海外の帝国主義者に対抗するために中国の強化に協力した。かれらは明治維新時代の無私無欲の理想家をめざし、夢見た。宮崎滔天は孫文を支援し、北一輝は宋教仁を支えた。そして1911年辛亥革命で清帝国は滅亡した。しかし、中国の辛亥革命は頓挫し、儒教の復活と帝国の再来をねらう軍閥袁世凱に政権を移譲した。その後のアジアは混乱した中国の安定が最重要の課題となった。

 日本の民間では孫文と辛亥革命への共感が広がっていた。ところが時の政府と外交官僚による対支21箇条要求を袁世凱の中華民国に突きつけ、中国の反帝国運動の矛先は日本にむかった。その後、孫文はロシアへの期待を強め、そして中国共産党も成立した。

 日本が強大になってくるとともに、拡張支配の欲望と、アジア諸国との連帯の間にしだいに矛盾がでてくる。1924年(大正13年)孫文は神戸において有名な演説をする。「日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持っている。今後日本が世界の文化に対し,西欧覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべき問題であります。」と述べた。

 
 その後アジア主義は時代とともに変化し、偏狭な日本主義陥ってしまう。日本国内では腐敗した政党政治を打破し、資本主義をやめ、天皇親政を目ざす国民運動がおこりこの国家主義の賛同者は増え、天皇の下に挙国一致して、軍と一体化し欧米列強をアジアから駆逐しようと訴えた。そして大東亜共栄圏の思想にまで行き着く。

 やがて中国大陸での日本と中国の事変は、太平洋戦争となり、日本の敗戦により内戦から中国共産党が政権をとった。

 中国はマルクス主義の理想とした平等社会を実現したかにみえた。しかし、その後の文化大革命、天安門事件をへて、しだいに昔の中華帝国を思わせる強勢大国に変貌していった。
 左翼が弱者救済、平等社会を目ざすとすればその定義にはあてはまらない富みの偏在と、弱者の無権利状態を生み出している現在の中国は、強権国家であり、儒教主義的華夷思想の中華帝国にもどりつつある観さえする。

2015/09/21

明治維新の源流 島崎 藤村の夜明け前


  



  小諸なる古城のほとり

   雲白く遊子悲しむ

  緑なすはこべは萌えず
  若草も藉くによしなし
  しろがねのふすまの岡辺
  日に溶けて淡雪流る
                  島崎 藤村


 島崎藤村は20代に、若菜集などの詩集で、明治時代を代表する詩人となる。椰子の実や初恋はいまでも多くの人に知られている。その詩は、新しい近代的感覚を古典的な美文、品格のある古語で表現した。その後「破戒」で始めての小説を発表し、代表作の「家」や「春」を新聞の連載小説で社会とその中に生きる人間性、自己の生涯を物語として描き自然主義の作家として確固たる地位を築いた。その後、50歳代の昭和4年から7年の歳月をかけて、自身の父親の生きた時代、現実を素材にした生涯の大作「夜明け前」を執筆した。

 幕末から明治に日本が変動する様を、木曽の山中の旅籠屋での生活者、半蔵の眼を通し、その生涯の思いを描くことで浮かび上がらせた。誇張や思い入れのない穏やかな時代の流れを、京都と江戸の間の街道を行き交う人々からの伝え聞く話、馬籠の人々の会話によって、幕末から明治初期の30年の歴史を浮かび上がらせ、その意味を問いかけ、日本に残る歴史小説の代表作となった。

  「江戸の世は、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威として、それを子の前にも神聖なものとして、譲っていきたかった。しかし、時代は混沌とし、大義名分を正そうとした水戸の大日本史などにより、中世の否定から、しだいに帝を求め奉るようになってきた。」そして攘夷の名によって倒幕に向う尊王攘夷は力を増していった。

 まず先陣をきって水戸藩が倒幕の行動を起こした。初期の水戸学は、朱子学をもとにして、歴史を編纂し日本における天皇を正しく評価する作業を行った。後期には、徳川斉昭が尊王敬幕を唱え、その後、国体を主張する藤田東湖などが尊王攘夷を先導する思想となり、後期水戸学とよばれ過激化し、井伊直弼暗殺や安藤信正襲撃を実行した。

 そして、水戸藩士1000人以上の天狗党が倒幕のため、京都に向うも目的をはたせず加賀藩に降伏した。この天狗党の木曽路での姿は規律正しい人々であったことは、その後の幕府の多くの者に切腹を命ずる重い懲罰が逆に幕府を追いつめていくことを暗示している。 
 倒幕の急先鋒水戸藩は内紛から自壊し、かわって薩摩と長州が倒幕を主導した。そして徳川慶喜は大政を奉還し江戸時代は幕を閉じる。


 倒幕を主導した国学は加茂馬渕の万葉集研究から始まり、本居宣長の「あはれ 上つ代は人の心ひたぶるに直くぞありける」「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定した。この後継者が平田篤胤で、半蔵の信奉する平田学派は幕末武士階級以外の信奉者が多く、庄屋、本陣,問屋医者もしくは百姓町民に広がっていった。理想とする社会は、「建武の中興の昔に帰ることではない、神武の創業ににまで帰っていくことである」として、下々にある人々の心から起った運動に支えられ、600年来の武家政治を終らせ帝の国をつくった。

 人生をかけ、平田学を信奉した半蔵は、望み実現した帝の国、新政府のため、民人のために奔走する日々を送る。 しかし、理想は現実とはちがった、人々はいにしえの世よりも西洋の文物を取入れるのに急で、民人は新しい時代を歓迎せず、いくたの争う姿を目にするようになる。何かが違う、半蔵はしだいに深い心底からの違和感にさいなまれることになる。そして心の平衡を失いはじめる。

 そして民は喜ばず、国学は国を動かせぬ、辞世の句「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」を詠んで半蔵は亡くなる。

 半蔵の娘お粂にも、夢多く生真面目で、一途な気質が色濃くひきつがれていた。この気質は、平田学派と親和性が強く、多くの共鳴者、信奉者を生みだした。そして、「夜明け前」を発表した昭和になり、西欧化に対抗する国粋主義や国学が日本を動かし始めた。



2015/08/06

南総里見八犬伝 徳川時代の倫理


 徳川イデオロギー

 19世紀後期江戸時代の代表的小説 「南総里見八犬伝」は曲亭馬琴の生涯28年かけた長編小説で江戸庶民に大評判をはくした作品であった。 物語は「水滸伝」をならい、15世紀の足利時代南総の地を舞台に展開する。 伏姫の護身の数珠が飛び散り、この霊玉をもった八犬士が活躍するスペクタクル物語で、天守閣での決闘、立ち回り刑場破りなど、その後定番になる活劇の場面を創造した。この数珠玉をもつ八犬士の活躍する勧善懲悪、因果応報の物語の最後は、富山の山中で仙人になりめでたく終わる。

 八犬伝の世界は儒教的倫理をもとにして組み立てられている。儒教の7つの徳目、仁義礼智信は五行の徳であり孝、悌は家族の掟で、この 仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌 の八つの霊玉をもつ八犬士がこの倫理を実践し活躍する98巻106冊の大長編読本であった。

 「南総里見八犬伝」は明治から、昭和にかけて読みつがれ正岡 子規も八犬伝の漢詩をのこしている。山田風太郎の「南総里見八犬伝」は馬琴の原作を題材にして、葛飾北斎との江戸での暮らし、娘との家族生活、十返舎一句や歌麿など当時の絵師や物語作家の生活など、文化文政時代の庶民生活を描いた場面、実と、戦国時代を舞台にした八犬伝の物語、虚を並列して小説にした。


  家康は、若い城主となったとき,一向一揆に苦しめられた。幕府を開いた時、この仏教による反乱を防ぐため、仏教を無力化した。また、幕府の存立を脅かすことを恐れ、キリスト教はキリシタン禁止令と鎖国により完全に排除した。

 こうして 徳川幕府は、国をおさめるため朱子学を主とした儒教を取入れ、文治政策をとった。各藩もこれにならって学問所で教学振興をはかった。そして寺子屋で読み書きが教えられ、それが庶民への儒教普及をうながした。

 江戸幕府として藩として統治の原理徳川イデオロギーの主流に朱子学はなるとともに、自然や、世間を見る世界像もまたこの朱子学により組み立てられた。そして、儒教は江戸庶民の世間常識のもととなった。

 明治の時代においても、家族の関係、世間の常識すなわち親に対する孝、夫婦男女の別、長幼の序、友達との交わりなどの倫理は江戸時代から続き、昭和の時代にも生き残ることとなった。しかし国を治める原理としての儒教は消滅した。



  江戸時代の国家統治の原理は儒教による修身斉家治国平天下であった。
「武家諸法度」で各大名を統治し、「禁中並公家法度」で朝廷を幕府の法の下において支配した。

 徳川の世も、時代とともに変わり、幕府の正統とした朱子学思想の見直しをせまる様々な思想が広まった。

 1758年朱子学を神道と結びつけた闇斎学を信奉する竹内式部が追放され、1766年には山県大弐が処刑された。彼らの主張は、尊王の思想とともに、倒幕思想を含んでいた。
これに対して、幕府は体制の立て直しをはかり1790年「寛政異学の禁」で朱子学を幕府の生学とした。それとともに湯島の昌平坂を幕府の学問所として公認した。
 
 知行合一を主張し行動を重視する陽明学の信奉者、大塩平八郎は大阪で1837年に乱をおこした。
 朱子学を背景に幕藩体制を立て直す水戸学がしだいに先鋭化し水戸浪士により、桜田門外の変がひきおこされた。
 さらに仁義礼譲孝悌忠信などはもろこしの聖人と呼ばれる人々がつくり、人間をしばりつけてしまったものであるとし、儒教をまっこうから否定する国学なども人々の間に広まってくる。幕末にはこれらの思想が王政復古、尊王攘夷の錦の御旗となり時代を動かすことになる。

 徳川イデオロギーは、未だにその実態や役割について議論され、明治から昭和にかけての影響についても結論はでていない。

 儒教の分派や国学は江戸時代にうまれ、時代とともに変化し、倒幕、明治維新の理論となってくる。さらに1890年(明治23年)明治憲法のもとでだされた教育勅語や1930年代の昭和時代の日本帝国の国策として持ち出された国体論や国体の明徴はこれらのイデオロギーを再構築したものであった。



2015/07/12

忠臣蔵時代の思想







寒月に 木を割る 寺の男かな         蕪村

 1703年に吉良上野介の家に、署名し討ち入りした47士の生き残り寺坂 吉右衞門のその後を詠んだもので、討ち入り後、故郷に帰り、その後83才の死ぬまで寺男として江戸に暮らした。

 赤穂浪士の討ち入りは、平和と安定の200年間に起きた唯一の政治的事件であった。身を捨てて主君への忠誠を果たした四十七士は、国民的英雄となった。これに対して荻生徂徠は「もし、私論をもって公論を害し、情のために法を二三にすれば天下の大法は権威を失う、法が権威を失えば民は拠るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。」とした。 徳川幕府はこれをうけて四十七士に切腹を命じた。


 江戸時代の中期1700年代に入ると,初期の農業中心の経済から、しだいに商業活動が活発化して、文化も新たな転換点をむかえることになる。文学や学問にあたらしい潮流があらわれた。この中に、新思潮をつくり主導した荻生徂徠の古文辞派があった。

 戦国時代に戦国大名の統治の原理、主従関係のもとになる思想が儒教から取入れられた。徳川家康が天下を統一したとき、その政権の正当性を示すため儒教思想を用いた。「天下は天下のための天下なり」とし、将軍もまた,自然的規範、天道のもとに拘束されると考え、諸国の武将を自らの下に平定して支配の機構をつくりあげた。

 徳川時代は儒教思想とりわけ朱子学を統治原理の根幹とした。  朱子学は自然の法則と人間の規範、個人の道徳と社会の秩序を「理」の概念で統一的にとらえた。自然界に上下があるように人間社会にも上下、貴賎がある。個人の修身によって、家の秩序、和はたもたれ、君臣の義によって社会的、政治的秩序はたもたれる。これが自然の摂理とつながる。そして人々はそれぞれの分相応のくらしをすることによって国は治まる、という思想であった。


 この朱子学にたいして、荻生徂徠は、儒学の古典に帰ることを唱えた。
 そして、学問の基礎は古語、古義を正しくは把握することにありとして、中国の文献を正確に読み解き、聖人の聖とは作者であり、社会制度をつくった王たちを示す。道とは天地自然の道ではなく歴史上の事実であるとした。
 さらに、儒教は統治術であり、個人の道徳はべつもので、聖人への道は人々の心の善悪とは関係ないものである。文芸など個人的、私的分野を政治と別なものとしてあつかうこととした。
 このようにして、教条化した儒教を構築しなおし、古文辞学を打ち立てた。

 江戸時代の中期にはこの徂徠の思想が広く芸術界におよんでいった。この影響下に、蕪村が絵画、俳句の革新をおこない,俳画を生み出した。

 与謝蕪村は 1716年うまれる。芭蕉の跡をおって若い日々、東北の旅に出る。その後京都で居をかまえた。
 俳句においては、芭蕉没後低迷していた俳句を芭蕉の道に帰ることで立て直す。絵画では中国の古典を題材にした画を学び山水画で有名になる。その後、夜色桜台図など蕪村独自の新たな絵画を生み出し、池 大雅、丸山 応挙とともに絵画の新たな潮流を京都の地におこした。また、同じ年に生まれた伊藤若冲などと、自由奔放な画風を競うことになる。

 自然を季節をとぎすまされた五感で感じとり、凝集し、絵画であるいは俳句で表現した。やがて絵と句を融合した俳画をつくり、その日本独自の諧謔と情景、情感をあらわす作品をうみだした。代表作「奥の細道図屏風」では奥の細道の書と芭蕉を中心に多くの人物像をえがいた。安永の10年間にわたり同じ題材を10巻以上くりかえしえがいた。
 
釣り上げし 魲の巨口 玉や吐

さみだれや 大河を前に 家二軒

閻王の 口や牡丹を 吐かんとす

 などの絵画を俳句にしたような作品がある。蕪村の中では感じ取られた情景は同じで、表現がときには絵となりときには俳句となる。やがて両者の融合した俳画が生まれる必然があった。俳画では南画でみられる風景は描かず、詩や俳句の文字と人物を軽いタッチで軽妙に描き出した。

 日本の情景そのものの、春の海 終日のたり のたりかな
 なの花や 月は東に 日は西に などの膨大な俳句そして書、絵画、俳画をのこし 絵画と文学の体現者蕪村は68年の生涯を閉じた。

 








2015/06/07

古田織部の忠誠と千利休の謀反


 美濃の国の輪中地帯は、豪雨に見舞われると水は堤防を超えて、田畑や住居にまで浸水する。それが稲作にとっては、豊かな実りをもたらすこととなる。
 西から揖斐川、長良川、木曽川の3つの河川に囲まれ,さらに西方には関ヶ原,長良川の中流には岐阜城がある。この濃尾平野の輪中地帯の北方、現在の本巣市に古田織部は生まれた。
 1543年(天文12年)古田家の家督を継ぎ山口城主として、戦国領主となる。1567年信長の美濃進駐のとき,織田家の家臣となり,播磨攻めなど各地を転戦し,武将として活躍する。

 一方、堺の商人の子として1522年(大永2年)に生まれた利休は堺を信長が直轄地して支配したときに,茶頭として雇われる。
  利休は茶の湯をとおして、新しい日本文化をつくり出すことになる。
 利休の美意識は自然に、さりげなく、素朴なものをよいとする。無駄を削ぎ、華美を排した、わびの空間、わびの思想であった。茶室を三畳や二畳半という狭小な空間にし、露地を通路ではなく,茶の道への空間とし、さらに茶の湯は禅なりとして、わび茶を完成させた。唐の品、宋の画などの中国文化を否定し、しだいに日本独自の茶道具や装飾品を尊重していくことになる。
 
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長亡き後、秀吉につかえる。天下人となった秀吉の生活を利休の美意識によって助言する文化人になった。
 しだいにその地位は比類のないものとなり 『ないないの儀は利休。公儀の事は秀長』といわれるほどの側近中の側近として秀吉とともに日本を動かすことになった。 
 そして、文化の指南役にとどまらず政治に関しても多大な影響力を持ち、九州平定の際には、秀吉の手紙とともに利休の手紙も副書として出されていた。

 小田原攻めには,秀吉とともに従軍し、織部もまた関東に軍をすすめた。 この頃から、「赤は雑なる心なり,黒は古き心なり」として利休は黒茶碗を偏愛し、2人の間の美意識に微妙な違いを生じた。
 そして、秀吉の北条攻めのさい、「お耳にあたること申して、その罪に耳鼻をそがれ」と利休の20年来の弟子の山上宗二が秀吉に処罰されている。
 朝鮮出兵を前にして、2人の間には、政における考えもしだいに溝ができ、
1591年(天正19年)秀吉は利休に切腹を命じた。

 この時代、封建的忠誠心、主従の関係は絶対的で決して破ってはいけないものであった。この個人的忠誠心は「御恩に対する奉公」であり、忠臣は主人の非に対しては、命をかけて諫言するしか方法がなかった。利休は諌言し秀吉はこれを受け入れなかったと推測される。


 利休亡き後の茶の湯、茶室、庭園の文化は古田織部が引き継いだ。
 織部の茶の湯は「無一物の道理」といわれる道理、すなわち合理的である仕方が大切であるとした。
 また茶室は利休の2畳半からひろげ、採光様の窓を用い、茶室を草庵から書院に切り替えた。そして,禅的で,抑制的な茶道をより開放的なものにした。 形のいびつな茶器をつくり、この瀬戸(美濃)で焼いたひずみのある茶碗、幾何学模様、ハイフォン グリーンを使った緑の茶碗は「ひょうげもの」の綾部焼きとして有名になった。


 大坂夏の陣の前、織部家の家臣木村宗喜が京都を焼き払う計画を立て、家康の本陣を挟み撃ちにした襲う予定であった。この計画は未遂におわり、織部は1615年(慶長20年)自刃に追い込まれた。
 秀吉の死に際して、実父の古田重定は殉死した。織部は徳川秀忠の茶の指南役となり、関ヶ原の戦いでは石田光成には味方しなかった。しかし古田織部は豊臣家の滅亡をまえにして、父親と同様に秀吉にたいする忠誠心を全うしたのかもしれない。