2016/02/01

「siri」と「中国語の部屋」


人工知能と進化 

長安一片月 
萬戸打衣聲 
秋風吹不尽 
總是玉關情 
何日平胡虜 
良人罷遠征                  李白



 ヘイsiri 「中国語の部屋」とはなんですか。      
 それはジョン サールと言う哲学者が1980年に考えた思考実験の物語です。
 人工知能のプログラムされた中国語の部屋、そこには小さな人間が入っているとします。外の人が小窓から中国語の文を手渡すと、意味が分からなくてもプログラムされた辞書を必死に調べながら、この小さな人は返事を外に投げ返します。
 この部屋の中の小さな賢人は返事はしますが、中国語が解っていません、またこの作業の意味も理解していません、当然考えているとも言えません。 していることは、多くの事例からいかに正しい返事をするかをマニュアルどおりくり返しているだけです。
 外にいる人間はこの部屋には、中国語を理解している小さな人がいて、中国語の返事をしていると理解し、その返答が洗練されればされるほど小さな賢人は確実に中にいると思えてくるのです。

 しかし、人工知能は人間と同じ漢詩を読んでも、月を見ても、砧を打つ音を聞いても彼の意識に像は浮かばず、こころが揺さぶられることはありません。

 動物は進化の過程で外の世界を認識する能力を獲得してきました。 カエルの目は外の景色のうち、動いているものだけとらえます。もし好物のハエでも動かなければ見えないし、カエルにとってこの世に存在しません。ハエも動いてはじめてカエルの世界にあらわれます。また、カエルの目は空から多いかぶさるものにも反応します。これは鳥などの敵の来襲を知るためです。カエルにとって,宇宙は動くものの明暗のパターンだけでできています。
 は虫類も目の網膜で光を感じる能力はあるものの,脳での解析はおそまつで、敵を遠くまで追いかけたり、夕暮れ時には役のたたないものでした。    その後の進化で2つの目が物を立体的にキャチし,3次元の空間で、きっちりとらえるようになります。

 ほ乳類が最初に生きた時代、地上は昼間は虫類や恐竜に支配され、夜しか安全に活動できませんでした。そのため敵をみつけるのに匂いと音にたよっていました。この時期、とくに聞く能力が発達し、いままでバラバラの雑音であった音を頭の中で組み立て、意味のあるメロディーや叫び声ととらえるような仕組み、時間の感覚がうまれました。

 遠くに生き物がいるか判断するのに、感覚からはいってくる多くの情報にいちいち反応しないで、必要なものだけとりいれます。ばらばらにやってくる光の中から目が色と形をとらえ、耳は多くの空気の振動にまぎれている音をとらえます。この形や色、音をブロックのようなまとまりに分解し、頭の中で処理をして、空間と時間の枠の中でそのブロックをくみたてなおします。そして、敵がうなり声をあげておそってくるかどうかを一瞬のうちに判断します。こうして、こまぎれのシーンはひとつにつながり、世界は動く画像として理解され始めました。

 人間になると記憶が脳に貯えられ、こころの中のイメージがさらに豊かになり、時間は空間とおなじような感じであつかえるようになりました。そして過去や未来が生まれ空想し、文字をつらねて言葉がうまれました。それらをくみあわせて詩や物語を生み出しました。

 人が言語を覚える様子は特性があって、2才前後の言葉の爆発期があります,ものの名前を覚える時,自分の見た視覚情報や聞こえてくる聴覚情報などを時間と空間の中で統合して、さらに自分自身のデーターから予測する。
 この自分自身のデーターが重要で、表層の情報のくみあわせの深部にある意味を持つ塊をドンンドンつくっていき、急速に言語を覚え文法をつくるしくみです。今これが何であるかを機械に学習させるディープラーニングというアルゴリズムの研究が急速に進みつつある。
 コンピュータは単語レヴェルでの言葉の頻度分析や解析は得意で、今でも事実を記述することはかなりできるようになってた。しかし、小説を書いたり詩をつくったりはなかなか機械にはできません。
 これは人間の言語能力の根幹にかかわることで、同じ花でも、バラは西欧の文化的背景をもち、牡丹は東洋の文化的背景をもち、この隠喩を使い、他の領域の知識パターンを使い、抽象化をして物語をつくる。この文化的、歴史的背景などの組み合わせる能力はコンピューターにとってはまだ獲得できていません。

 視覚に関しても、進化の過程で、人間の脳は不要な情報は一気に捨ててしまい、必要な情報だけを時間空間の位相空間に配置し、画像を一瞬見て認識する能力が発達してきた。
 人間は顔の表情に対して非常に感度が高く、少しの唇の動き、少しの目の動き、少しの目尻のしわから相手が喜んでいるのか,悲しんでいるのか、恐れているのかを読み取る。これを人工知能がいかに学んで使えるようになるのかが重要で、この機能を待たせるためには、コンピューターでは顔などの画像を数多く教えこんで、どの画像に近似するかを判断できるようにし、さらにその画像の特定の部位に注目して特徴量をつくり出すことが行われています。
 
 アイフォーン のsiri はヘイ シリーといって話しかければ中に入った人工知能が相手をしてくれるのは、すでに日常化している光景です。これは最近のウェッブが急速に発達し人の声や行動がデータとして、蓄積され、しだいに箱の中の小さい人は賢くなってきています。人工知能の最近の進化は急速で、人間の機能に近づく日は遠くない気がします。


 

                         

2016/01/09

観光立国


 昨年、国外からの観光客が1900万人を超えた。中国からの観光客が爆買いする姿は何度も放送され、東京、大阪、北海道、九州が主な観光地で今年は2000万人を超える予想で、これらの観光客が地方にも多く訪れることが期待されている。

 一方、40年ぶりに田舎の温泉街に日曜の午後に訪れ昔からお気に入りの海の見えるコーヒー店を探した。その店の旅館は廃業し、まわりには朽ちそうな閉店した店、シャッターをおろした店、そしてふるびた自動販売機ばかり目について、観光客らしい人影は殆ど見当たらず、一件の真新しいホテルにかわっていた。

 かつて日本が経済を成長させた1960年代から1980年代にかけて、その温泉街は会社の社員など団体観光客を対象にしてたくさん人を集めにぎわっていた。 日本中、どの温泉でも大広間にみんなで浴衣に着替えて宴会を楽しみ、ゆかたのまま、街に出て散策する。それが、バブルの時代に頂点をむかえる。  日本の観光地である温泉宿も自然や土地の風物が目的ではない、年に1度か2度のゴールデンウイークやお盆、正月のはれの場所を提供していた。 
 その時代は過ぎ去り、若者や家族が、温泉を自然を癒しの場として利用するようになり、しだいにこの会社ぐるみの集団行動は時代遅れになっていった。そして、今では、外国の旅行客がこの日本人のみの嗜好と思われていた温泉にも訪れるようになってきた。

 時代は確実に変化をしているのに、観光を提供する側が、この時代の変遷に気がつかず、白浜の美しかった海岸はテトラポッドの山になり、海岸はコンクリートの護岸堤防となっていた。海はかつての青い海ではなく、生活排水でよどみ、海岸線の松並木は手入れも行き届かない貧相な緑になってしまっていた。昔の温泉は河や山や海と一体になったくつろぎの世界であった。温泉旅館の中をかざりたてても、まわりの景色が破壊されてしまえばくつろぎの場所ではなくなってしまうことを忘れ、経済の発展とともに、このまわりの海岸の自然は変貌をとげ、新しいコンクリートにかわってしまった。

 一部の特殊な場所以外、日本の多くの地域で、なぜこういったことになったのか。これを分析したのがアレックス カーで2001年に Dogs and Demonsをアメリカで出版し翌年2002年日本語の「犬と鬼」を出版した。その文化論は今でも正鵠を射ている。

 「1993年には、全海岸の55%が完全にコンクリート ブロックやテトラポットで固められた。落ち葉が汚いからといって、紅葉の木々は剪定され、河の自然はコンクリートで美しく整備され、きれいになった。
 この文化の根源は、日本の自然に対する放任ではなくコントロールの思想に求められる。盆栽、生け花、石庭といった日本の伝統芸術は、自然を自然のままにではなく、人の手できれいに仕立てる技が重視される。」
 「犬は難く、鬼は易し、ここで言う犬とはゾーニングであり、広告の規制であり、樹木の管理、電線の埋没、歴史的景観の保護、 鬼は文化ホールや、博物館、モニュメントの建築であり、高速道路である。」戦後の荒廃からの復興は、近代的な工業製品に代表されるピカピカの真新しいものがもてはやされ、歴史的な物は古くさいものとして捨て去られてしまった。その結果、この40年間で日本の自然はかなり劣化してしまい、日本の歴史や、伝統文化も開発によって衰退した。それを国をあげて推進し暴走し、だれも抑制することができなかった。
 
 最近ようやくみなおされつつあるように、かつての日本列島は火山国であり、敷島のみどりなす千路の島々は,海岸は波が岩をあらい、白い砂浜を形つくっていた。 現在人気の日本食や日本の製品の他に、その海や山や川、林、などの自然を回復すれば、日本の全国の古都や歴史的な建物や文化が街全体として世界中の観光客にとって魅力的になれば、そして日本の文化遺産を国際的に高く評価されるようにすれば、世界有数の観光立国は夢ではなくなる。

 たとえばタイには年間400万人以上のアメリカヨーロッパの観光客がバンコクだけでなく、チェンマイやアユタヤをおとずれ、合計2500万人以上の観光客をうけいれている。日本と同様に多くの国民はタイ語しか話せません、しかし30年以上前から、伝統文化、その土地の特有の竹や木材を使ったホテルをつくり、遺跡など観光資源を大切にし、パタヤビーチも新たな発想を取入れ、世界中の観光客の滞在するリゾート地となり環境やホテルも世界標準に達している。

 時代は工業化によるコンクリートや真新しいプラスチックの石油大量の石油生品の近代主義から、より自然で環境にあった古来からの素材を使い、風景をより新しい技術で復活させる脱工業化(ポスト モダン)の時代になりつつある。これが実現できれば、夢は現実となる。

2016/01/01

閉塞の時代の石川啄木


  日本では古来より歌が詠まれ、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集など和歌の伝統が脈々と続いていた。明治時代に正岡子規が、俳句を革新し現在につながる現代俳句を復活したように、和歌、短歌の革新を子規より20才若い石川啄木はおこなった。1886年(明治19年)生まれの啄木は、子規が日清戦争に従軍し戦争の勝利に喜びを隠せなかったのと同じように10年後1904年(明治37年)日露戦争が始まると日記に「予かん喜にたへず、真に骨鳴り、肉踊るの慨あり」とやはり国民の戦勝気分に共鳴した。翌年1905年(明治38年)詩集「あこがれ」を刊行し文壇に明星派詩人として登場した。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

はたらけどはたらけど猶わが生活
楽にならざり 
じっと手を見る

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ


 1910年(明治43年)石川啄木は短歌集「一握の砂」で海と砂と東京での生活を歌によんで注目され、北原白秋と並び称されるほどになった。神童と自負して少年時代をすごした啄木は社会の荒波の中、赤貧生活を余儀なくされ、才を認められぬ憤懣、こころの内のうっ屈を短歌にたくして表現した。短歌が花鳥風月の定形に堕して、実生活や社会から遊離してしまっていた。これを現代人的感覚であらたな価値を短歌で表現した。

 同じ年、幸徳秋水らの大逆事件が起きている。天皇暗殺をくわだてたとして、死刑24人、有期刑2人が有罪となった。この事件の公判記録を読み、秋水の「陳弁書」を読み、彼等に同調し,社会主義に傾倒していく。そして、「日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」を書く。

秋の風 我等明治の青年の
危機を悲しむ
顔撫でて吹く

 
 明治維新から、近代国家に変貌をとげた日本は2度の戦争にも勝利し、東洋の大国の地位を築きつつあった。しかし、日露戦争後の日本は、戦後の恐慌と物価高がおそい、大学を卒業しても職がなく、国民生活は苦しくなり、明治40年頃には足尾銅山の暴動や炭坑でのストライキが頻発し社会主義は明治の日本をゆるがしていた。

 文学の世界では自然主義が最も多くの国民に支持されていた時代であった。それに対して明治政府はこの反政府の社会主義運動を押さえ込もうとしていた。一部の過激主義者が明治天皇を暗殺を計画したとして、多数の社会主義者や無政府主義者らが検挙され、幸徳秋水が首謀者とされ処刑された。しかしこれは明らかにえん罪であり、処刑は政府の強権によるものであった。



 1910年(明治43年)「我々青年を囲む空気は今やもう少しも流動しなくなった」という明治時代の終わりの社会の様相を論評「時代閉塞の現状」で描く。
 文学では強権の壁にさえぎられ、自然主義の文学は主流から外れ、白樺派と新ロマーン主義に取って代わられる。当時自然主義的な描写は政府のとりしまりの対象になり、この制約をすりぬけて個人の自己を表現する方向に進まざるをえなかった。
 「我々は一斉に起って先ずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧をやめて全精神を明日の考察我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならないである。」と主張し、自然主義から社会主義に向うべきとよびかけた。


 

 はじめて労働運動とか社会主義的な背景を詩に取り込み、生活の一面を切りとった短歌は、それに日本的メンタリティーである酒と泪とこころの内の哀しみをこめた短歌にして表出した

 啄木は結核のため27才で「悲しき玩具」を残してこの世を去り、明治も時代閉塞のまま、大正をむかえた。
 






2015/11/17

パリの異邦人 高村 光太郎


秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水心に流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまって思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣の嬉々として奔るを見
飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見
かくの如き因果歴々の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責を思い
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る

         
秋の祈り 高村光太郎


  高村光太郎は、1883年(明治16年)江戸下町の庶民、彫もの師高村光雲の長男として東京に生まれる。24才で、アメリカに旅立ち、そしてフランスに留学し27才で帰国。西欧の詩や絵画、彫刻を学び、とりわけロダンの作品に響鳴しロダン的西欧彫刻を目ざした。「彫刻には独創はいらない、生命がいる。そこには理想主義はありません。メチエ(手仕事)しかありません。メチエがすべてです。」

 留学で芸術の世界性の感覚を学ぶと同時にこころの中に超えがたい人種の壁が刻みこまれた。

 ロダンの彫刻は日本では白樺派の自然調和の芸術運動に影響を与えていた。高村光太郎もパンの会の仲間たちとふるくさい日本を打破し、芸術界に反旗をかかげ、日本的なもの、盆栽的技巧の芸を否定し、江戸時代から続く彫りもの師から脱出し「根付けの国」の文化も否定し、本物の芸術をめざした。

 そして「道程」などの詩を発表し、その後「智恵子抄」を生み出した。世間を省みず世間に反発し、心のおもむくままに2人の孤立した生活送り続けた。
 
   高村光太郎の父、高村光雲は「幕末維新懐古談」でその時代を語っている。
1852年江戸時代の生まれの江戸育ち。江戸下町の庶民、木彫師であった。その江戸時代には木彫は決まりきった種類の小さい作品ばかりになっていたものが、明治時代になり、国外からの注文もあり、しだいに大型の彫り物そして仏像をつくるようになり彫刻を家業としていた。明治10年頃の排仏棄しゃくの運動で仏師は苦境にたたされた。
 1887年(明治20年)になり東京美術学校ができ、彫刻科は木彫が主流で光雲はその教師となる。その後楠公像西郷隆盛像の木型製作主任となり、銅像制作に加わる。木彫の狆や矮鶏、老猿は代表作として現在も残っている。




 
 大正から昭和にかけ、人生そのものが平均的日本庶民を代表し、その気持ちを先取りして、実行した人物がいる。平凡社の下中弥三郎で、1878年(明治11年)生まれ,教育者として人生をスタートし、1914年(大正3年)出版社平凡をつくり、その後雑誌「平凡」を発刊する。
 下中の主張は次々と変遷していく。初期は教育者として子供至上主義、女性礼賛を主張し、大正自由主義として大正デモクラシー、労働運動にかかわり活躍する。さらに昭和にはいり農本主義から国家社会主義、戦時にはアジア主義者として、1933年(昭和8年)には大亜細亜協会を設立し、超国家主義へと変貌を遂げていく。日本の大正から昭和にかけての流行思想そのものを体現したかのような人生をおくった。


 高村光太郎は彫刻を作り、絵を画き、詩を書いた。やがて、父親が亡くなり智恵子と死別し、時代は戦争に進みつつあった。1938年(昭和13年)生活そのものが芸術作品のような人の生活が終わり、日本の社会に直面した高村光太郎の近代意識、個人の確立に辛苦し到達した芸術家としての矜持は、一気に崩れ去った。芸術の世界性は忘れ去られ、下中流庶民的流行主義者と同じ地点、古い日本の村落共同体を支えていた昔を思い出しその心情にもどった。留学時代の西欧に憧れつつ同化できない東洋の異邦人、極東の日本人に回帰した。

日支事変について

 長い間支那南北を争わせて
 漁夫の利をせしめていたのは誰だ
 今又日本と支那とを喧嘩させて
 同じ利をせしめようとしたのは誰だ

 わが日本は先生の国を滅ぼすにあらず、
 ただ抗日の思想をほろぼすのみだ。

と書いて中国大陸における事変は米英とそれに後押しされた南京政府との戦いであり、アジアでの戦いは、主観的には西欧に対するアジアの解放、反撃の戦いと描きアジア主義者と同じ地点にいた。

そして「天皇あやふし。ただこの一語が 私の一切を決定した。」と多くのモダニズム作家やプロレタリア作家と同様に庶民的天皇主義と共鳴しあう地点へと収斂していく。

 記憶せよ、12月8日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジャパン、
 眇たる東海の国にして、
 また神の国たる日本なり。
 そを治しめしたまふ明津御神なり。
 世界の富を襲断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

 敗戦後、下中は公職を追放。その解除後,平凡社の世界大百科事典など多くの事典の出版を続けながらふたたび社会運動にのりだしていく。世界国家運動で、軍備を放棄し、世界国家をつくろうとするものだった。
 
 高村光太郎は岩手県花巻市の郊外の山小屋で、一人で自給自足の生活を始めた。人間社会から隔絶し自然のなかの独居生活を送った。その痛恨の心情を「暗愚小伝」や「脱却の歌」に吐露し、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかをみた。」と自責。人とのかかわりを拒否し、自然の偉容を感じ、自然と一体化し宗教家のような生活を送り、美の、芸術の製作に再び没頭した。

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。
 時間の果つるところ即ちねはん
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の物ことごとく光る。

とうたいこの世を去った。

2015/10/25

アジア主義と帝国


 1900年この時代を、ギルバート マレーは「どの国もわれわれこそ国家の中の精神であり花である。そして,何よりも他を支配すべき資質を備えている国家であると考えていた。」と表現しています。イギリス一国支配は終わりを告げた1885年以降、世界は多極的世界となり欧米帝国主義列強の争いの場になった。
 こうして ドイツ、フランス、ロシア、オーストリア ハンガリー帝国、イタリア各国は植民地を求めアフリカやアジアに進出してきた。アメリカもまた門戸開放をかかげてこの競争に加わった。アジアの各国はこの強大な圧力に対して対抗した。しかし、エジプト、印度、中国そして東南アジアやフィリピンは列強の支配下におかれた。

 日本は天皇を神格化し、神道を国家宗教としたが、実務は西欧的規範を取入れ近代的国民国家をつくりあげ植民地化をまぬがれた。 1894年に日清戦争に勝利し、地域の覇権を確立したあと、1904年に、大国間の政治の延長としての戦いである日露戦争に勝利した。この2つの戦争により、日本はアジアの強国の地位を固め、侵略併合をされる危険は当分なくなり、群雄割拠する世界にどう対応するかが問題となった。


 この時代中国を支配していた清王朝は、儒教で国を治めていた。儒教では徳のある皇帝は絶対的権力者であり、君臣、父子、夫婦間の上下関係をなにより重んじた。4000年前より文明が続く中国は宇宙の中心であり、その他の辺境は夷狄である。この華夷思想で対外政策をすすめ、科挙で官僚制度をつくった。西欧列強に遭遇した清朝は改革に失敗し西欧の技術、武力に敗北した。それにたいし、康有為は儒教を新たに解釈し直して孔教として広めようとした。一方広州の農民出身の孫文は満州族の君主制を倒し、共和制をめざした。

 欧米列強の進出とともにアジアの平和は崩れた。汎アジア主義は、この西欧列強の進出に対抗する思想で、日本の脱亜入欧は西欧列強の人種差別の壁にぶつかり、汎アジア主義の思想が生まれた。 アジア主義は多様でアジア諸国の連帯をどうするかで意見はさまざまであった。その一部には中国、朝鮮も日本に支配されるべきとする軍国主義者いたが、多くは隣国と協調し西欧に対抗しようとして多くの政治亡命者を温かくもてなした。
 20世紀はじめ東京はアジアの活動家の中心地となった。孫文、魯迅、梁啓超などは中国から、またベトナムからファン ボイ チャウ、その他印度、フィリピンやイスラム圏から多くの亡命者が集まってきた。

 海外の帝国主義者に対抗するために中国の強化に協力した。かれらは明治維新時代の無私無欲の理想家をめざし、夢見た。宮崎滔天は孫文を支援し、北一輝は宋教仁を支えた。そして1911年辛亥革命で清帝国は滅亡した。しかし、中国の辛亥革命は頓挫し、儒教の復活と帝国の再来をねらう軍閥袁世凱に政権を移譲した。その後のアジアは混乱した中国の安定が最重要の課題となった。

 日本の民間では孫文と辛亥革命への共感が広がっていた。ところが時の政府と外交官僚による対支21箇条要求を袁世凱の中華民国に突きつけ、中国の反帝国運動の矛先は日本にむかった。その後、孫文はロシアへの期待を強め、そして中国共産党も成立した。

 日本が強大になってくるとともに、拡張支配の欲望と、アジア諸国との連帯の間にしだいに矛盾がでてくる。1924年(大正13年)孫文は神戸において有名な演説をする。「日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持っている。今後日本が世界の文化に対し,西欧覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべき問題であります。」と述べた。

 
 その後アジア主義は時代とともに変化し、偏狭な日本主義陥ってしまう。日本国内では腐敗した政党政治を打破し、資本主義をやめ、天皇親政を目ざす国民運動がおこりこの国家主義の賛同者は増え、天皇の下に挙国一致して、軍と一体化し欧米列強をアジアから駆逐しようと訴えた。そして大東亜共栄圏の思想にまで行き着く。

 やがて中国大陸での日本と中国の事変は、太平洋戦争となり、日本の敗戦により内戦から中国共産党が政権をとった。

 中国はマルクス主義の理想とした平等社会を実現したかにみえた。しかし、その後の文化大革命、天安門事件をへて、しだいに昔の中華帝国を思わせる強勢大国に変貌していった。
 左翼が弱者救済、平等社会を目ざすとすればその定義にはあてはまらない富みの偏在と、弱者の無権利状態を生み出している現在の中国は、強権国家であり、儒教主義的華夷思想の中華帝国にもどりつつある観さえする。

2015/09/21

明治維新の源流 島崎 藤村の夜明け前


  



  小諸なる古城のほとり

   雲白く遊子悲しむ

  緑なすはこべは萌えず
  若草も藉くによしなし
  しろがねのふすまの岡辺
  日に溶けて淡雪流る
                  島崎 藤村


 島崎藤村は20代に、若菜集などの詩集で、明治時代を代表する詩人となる。椰子の実や初恋はいまでも多くの人に知られている。その詩は、新しい近代的感覚を古典的な美文、品格のある古語で表現した。その後「破戒」で始めての小説を発表し、代表作の「家」や「春」を新聞の連載小説で社会とその中に生きる人間性、自己の生涯を物語として描き自然主義の作家として確固たる地位を築いた。その後、50歳代の昭和4年から7年の歳月をかけて、自身の父親の生きた時代、現実を素材にした生涯の大作「夜明け前」を執筆した。

 幕末から明治に日本が変動する様を、木曽の山中の旅籠屋での生活者、半蔵の眼を通し、その生涯の思いを描くことで浮かび上がらせた。誇張や思い入れのない穏やかな時代の流れを、京都と江戸の間の街道を行き交う人々からの伝え聞く話、馬籠の人々の会話によって、幕末から明治初期の30年の歴史を浮かび上がらせ、その意味を問いかけ、日本に残る歴史小説の代表作となった。

  「江戸の世は、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威として、それを子の前にも神聖なものとして、譲っていきたかった。しかし、時代は混沌とし、大義名分を正そうとした水戸の大日本史などにより、中世の否定から、しだいに帝を求め奉るようになってきた。」そして攘夷の名によって倒幕に向う尊王攘夷は力を増していった。

 まず先陣をきって水戸藩が倒幕の行動を起こした。初期の水戸学は、朱子学をもとにして、歴史を編纂し日本における天皇を正しく評価する作業を行った。後期には、徳川斉昭が尊王敬幕を唱え、その後、国体を主張する藤田東湖などが尊王攘夷を先導する思想となり、後期水戸学とよばれ過激化し、井伊直弼暗殺や安藤信正襲撃を実行した。

 そして、水戸藩士1000人以上の天狗党が倒幕のため、京都に向うも目的をはたせず加賀藩に降伏した。この天狗党の木曽路での姿は規律正しい人々であったことは、その後の幕府の多くの者に切腹を命ずる重い懲罰が逆に幕府を追いつめていくことを暗示している。 
 倒幕の急先鋒水戸藩は内紛から自壊し、かわって薩摩と長州が倒幕を主導した。そして徳川慶喜は大政を奉還し江戸時代は幕を閉じる。


 倒幕を主導した国学は加茂馬渕の万葉集研究から始まり、本居宣長の「あはれ 上つ代は人の心ひたぶるに直くぞありける」「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定した。この後継者が平田篤胤で、半蔵の信奉する平田学派は幕末武士階級以外の信奉者が多く、庄屋、本陣,問屋医者もしくは百姓町民に広がっていった。理想とする社会は、「建武の中興の昔に帰ることではない、神武の創業ににまで帰っていくことである」として、下々にある人々の心から起った運動に支えられ、600年来の武家政治を終らせ帝の国をつくった。

 人生をかけ、平田学を信奉した半蔵は、望み実現した帝の国、新政府のため、民人のために奔走する日々を送る。 しかし、理想は現実とはちがった、人々はいにしえの世よりも西洋の文物を取入れるのに急で、民人は新しい時代を歓迎せず、いくたの争う姿を目にするようになる。何かが違う、半蔵はしだいに深い心底からの違和感にさいなまれることになる。そして心の平衡を失いはじめる。

 そして民は喜ばず、国学は国を動かせぬ、辞世の句「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」を詠んで半蔵は亡くなる。

 半蔵の娘お粂にも、夢多く生真面目で、一途な気質が色濃くひきつがれていた。この気質は、平田学派と親和性が強く、多くの共鳴者、信奉者を生みだした。そして、「夜明け前」を発表した昭和になり、西欧化に対抗する国粋主義や国学が日本を動かし始めた。



2015/08/06

南総里見八犬伝 徳川時代の倫理


 徳川イデオロギー

 19世紀後期江戸時代の代表的小説 「南総里見八犬伝」は曲亭馬琴の生涯28年かけた長編小説で江戸庶民に大評判をはくした作品であった。 物語は「水滸伝」をならい、15世紀の足利時代南総の地を舞台に展開する。 伏姫の護身の数珠が飛び散り、この霊玉をもった八犬士が活躍するスペクタクル物語で、天守閣での決闘、立ち回り刑場破りなど、その後定番になる活劇の場面を創造した。この数珠玉をもつ八犬士の活躍する勧善懲悪、因果応報の物語の最後は、富山の山中で仙人になりめでたく終わる。

 八犬伝の世界は儒教的倫理をもとにして組み立てられている。儒教の7つの徳目、仁義礼智信は五行の徳であり孝、悌は家族の掟で、この 仁 義 礼 智 忠 信 孝 悌 の八つの霊玉をもつ八犬士がこの倫理を実践し活躍する98巻106冊の大長編読本であった。

 「南総里見八犬伝」は明治から、昭和にかけて読みつがれ正岡 子規も八犬伝の漢詩をのこしている。山田風太郎の「南総里見八犬伝」は馬琴の原作を題材にして、葛飾北斎との江戸での暮らし、娘との家族生活、十返舎一句や歌麿など当時の絵師や物語作家の生活など、文化文政時代の庶民生活を描いた場面、実と、戦国時代を舞台にした八犬伝の物語、虚を並列して小説にした。


  家康は、若い城主となったとき,一向一揆に苦しめられた。幕府を開いた時、この仏教による反乱を防ぐため、仏教を無力化した。また、幕府の存立を脅かすことを恐れ、キリスト教はキリシタン禁止令と鎖国により完全に排除した。

 こうして 徳川幕府は、国をおさめるため朱子学を主とした儒教を取入れ、文治政策をとった。各藩もこれにならって学問所で教学振興をはかった。そして寺子屋で読み書きが教えられ、それが庶民への儒教普及をうながした。

 江戸幕府として藩として統治の原理徳川イデオロギーの主流に朱子学はなるとともに、自然や、世間を見る世界像もまたこの朱子学により組み立てられた。そして、儒教は江戸庶民の世間常識のもととなった。

 明治の時代においても、家族の関係、世間の常識すなわち親に対する孝、夫婦男女の別、長幼の序、友達との交わりなどの倫理は江戸時代から続き、昭和の時代にも生き残ることとなった。しかし国を治める原理としての儒教は消滅した。



  江戸時代の国家統治の原理は儒教による修身斉家治国平天下であった。
「武家諸法度」で各大名を統治し、「禁中並公家法度」で朝廷を幕府の法の下において支配した。

 徳川の世も、時代とともに変わり、幕府の正統とした朱子学思想の見直しをせまる様々な思想が広まった。

 1758年朱子学を神道と結びつけた闇斎学を信奉する竹内式部が追放され、1766年には山県大弐が処刑された。彼らの主張は、尊王の思想とともに、倒幕思想を含んでいた。
これに対して、幕府は体制の立て直しをはかり1790年「寛政異学の禁」で朱子学を幕府の生学とした。それとともに湯島の昌平坂を幕府の学問所として公認した。
 
 知行合一を主張し行動を重視する陽明学の信奉者、大塩平八郎は大阪で1837年に乱をおこした。
 朱子学を背景に幕藩体制を立て直す水戸学がしだいに先鋭化し水戸浪士により、桜田門外の変がひきおこされた。
 さらに仁義礼譲孝悌忠信などはもろこしの聖人と呼ばれる人々がつくり、人間をしばりつけてしまったものであるとし、儒教をまっこうから否定する国学なども人々の間に広まってくる。幕末にはこれらの思想が王政復古、尊王攘夷の錦の御旗となり時代を動かすことになる。

 徳川イデオロギーは、未だにその実態や役割について議論され、明治から昭和にかけての影響についても結論はでていない。

 儒教の分派や国学は江戸時代にうまれ、時代とともに変化し、倒幕、明治維新の理論となってくる。さらに1890年(明治23年)明治憲法のもとでだされた教育勅語や1930年代の昭和時代の日本帝国の国策として持ち出された国体論や国体の明徴はこれらのイデオロギーを再構築したものであった。