2017/07/09

フランスの風、遠い海 堀口 大学


私の耳は貝のから
海の響きをなつかしむ

                     ジャンコクトー  堀口大学訳

 ヨーロッパ大陸におけるフランスはルイ王朝の終焉フランス革命以後も文化の発信地として耀きをたもっていた。19世紀の末から20世紀にかけてのベルエッポック期フランス文化はもっとも豊かで爛熟していた。1900年にパリ万博が開かれ,地下鉄が開通した。日本でそのフランス文化は1920年代から1970年代にかけて人気が最も高く、フランスの詩、文学、絵画、音楽あるいは思想も日本に紹介されその流行は50年以上も続いた。
 
 最初にフランスの詩を日本にもたらしたのは上田敏の「海潮音」であった。明星にフランスの象徴詩を掲載、訳詩ヴェルレーヌの「落葉」は明治30年代にフランス世紀末の風を運んだ。 そしてフランスブームに火をつけたのは堀口大学の詩集「月下の一群」だった。

 時代の流行は人々のこころのなかの夢や新しいものへの憧れに共振した時ブームとなる。

 大正時代は都市の生活者が増え高等遊民と呼ばれるひとびとが詩や小説をつくり、新しいものを求めていた。大正時代の文化人にとって西欧の文化を語り,ヒューマニズムを語り、教養をつけることが人生でもっとも大切なことだった。

 その時代1924年(大正13年)に堀口大学はフランスのボール モオランの「夜ひらく」「夜とざす」を翻訳した。これはフランスモダニズムの始まりで新感覚派と呼ばれる作家たちの文体に大きな影響与えた。そして翌年1925年(大正14年)あたらしい日本語をつかって豪華な訳詩集「月下の一群」が出版された。


 月下の一群の新しさについて「堀口さんの詩は伝統からの解放をまず私どもに意味した。それ以前の曖昧さ回りくどさのもうろう世界から私どもを解放した。」と三好達治が評している。 

「郷愁」

遠い海よ
と私は紙にしたためる
海よ 僕らの使う文字では
お前の中に母がいる
そして母よ
フランス人の言葉では
あなたの中に海がある

                      
                               三好達治


 堀口大学は有名な外交官 堀口九萬一の息子で20才の時大学を中退し日本を離れ父の任地のメキシコからベルギー,スペイン、ブラジルと30才までほとんど海外での生活を送る。
 父親の堀口は外交官試験の第1回の合格者で補官時代朝鮮半島の閔妃暗殺事件に関与し与謝野鉄幹とともに送還された。この与謝野鉄幹の新詩社に18歳の時加わった。

 与謝鉄幹の明星に、ジャン ククトーの私の耳は貝の殻の詩や「海の風景」をのせた。そしての最初の詩集「月光とピエロ」で象徴派の詩人として認められる。

「海の風景」

空の石盤に
かもめがABCを書く
海は灰色の牧場です
白波は綿羊の群れであらう
船が散歩する
煙草を吸いながら
船が散歩する
口笛を吹きながら

                         


 海外生活の長い堀口にとって日本の文壇とは無縁で自由で心のおもむくままに生活を送り、第一次世界大戦まえにドイツ伯爵と結婚し亡命生活をおくっていたマリーローランサンと1924年(大正13年)にパリで再会。多くのフランスの詩人を紹介された。その詩はリズムのある簡潔な文体でモダニズムを代表する詩人たちであった。
 かれらの近代フランス詩を翻訳したのが「月下の一群」で、日本の詩や小説には無いエスプリやリズムをもつこの詩集は人々に熱狂的に受け入れられた。やがて、ジャンコクトーやアポリネールなどの 短く、軽く、リズムのあるしゃれた詩がその時代に流行した。
そしてフランスのモードや海辺の薫り、モダニズムのいっぱいつまった西欧の風を日本にもたらし、その後の社会生活にも影響をあたえた。

「シャボン玉」

シャボン玉の中へは
庭は入れません
まはりをくるくる回っています

                           ジャンコクトー

「ミラボー橋」 

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る


                    ギイヨオム アポリネエル 

「孔雀」

地面に垂れるほど長い羽を持った
この鳥は、尾羽円く展げた時に
一層すばらしく見えます、
尤もお尻はまる出しです。

                     ギイヨオム アポリネエル

 アポリネエルの動物の詩などは、江戸時代の蕪村の俳句や川柳の諧謔にちかい感覚を感じる。しかし、当時の文壇では詩魂なき詩人 学的洞察なき詩人といわれ批判され孤立していった。

「敵」

赤門城にたてこもる
敵は大勢
身はひとり
しかも病身
弱法師

堪えて
忍んで
我慢して
命の長さで戦う以外
生き残る手はないと見た
40だった

 時代は次第に戦時色を強めそして戦争中は新潟県の妙高や上越市に疎開した。そこで郷里の人良寛の歌に出会い自らも良寛になった。

花はいろ そして匂い
あなたはこころ
そしてやさしさ

1950年(昭和25)年疎開から引き上げ湘南の葉山に移り住みボードレールの悪の華の翻訳などをし、詩作を続けた。

 第二次大戦後もシャンソンが流行し,新しいヌーベルバーグのフランス映画や思想家サルトルやボーボワールあるいはミシェルフーコは日本でも大きな影響を持った。
 そして1970年の始めの頃、中国では毛沢東の大文化革命が起こっていた。フランス知識人は輝かしいユートピアの幻想を見て評価した。同じように日本にもフランス知識人の影響は強くまた文化大革命を支持する文化人も多かった。

「毛沢東」

  いなずまが愛している丘
  夜明けのかめに

  ひとすじの苦しい光のように
  同士毛は立っている


                    谷川 雁

この頃を境にして,フランス文化はしだいに日本での影響力、魅力を失っていった。









2017/06/01

タワーマンションの歴史


 1987年(昭和62年)黒川紀章は東京2025年計画を発表した。その一つに東京湾に人工の島を作り、その人工の島にサラリーマン300万人のための住宅を建設するというものだった。さらに環境との共生をはかり東京湾の水をきれいにし、そこで船を運行し、武蔵野の森を復元するという構想だった。

 現在、東京湾岸の島,豊洲や晴海地区にはタワーマンションが林立し多くの住民が住み、東京2025年計画とは形はちがうものの高層住宅はますます増えている。技術の進歩による耐震性や、眺めの良さ、周辺の緑地化やマンション内施設の充実でホテル暮しに近い暮らしができ、しかも職場や都心に近く利便性から憧れの住まいとなった。

 タワーマンションとは高さが20階以上、60メートル以上で、共有の施設が緑地や空間を広くもうける建物を総称している。
 そもそもマンションという日本語は鉄筋コンクリートつくりの集合住宅をいう。1960年頃に,業者がマンションと呼んで売り出したことからはじまる。
 バブル期には呼び名がハウスやハイムにそして最近ではレジデンスに変わってきた。1970年代はじめてタワーマンションが建てられそれ以来超高層の住宅にはマンションの名前が残っている。首都圏には1976年から2016年までに695棟のタワーマンションが建てられ、特に東京では湾岸地域に6割が集中している。その他の都市大阪などの大都市を中心に高層のマンションは続々と建てられ、最近では地方都市にもみられるようになってきた。

 黒川紀章は1960年代の日本で起こった近代化の後(ポスト モダニズム)に登場した運動であるメタボリズムを主導した。建築物は完成後に住民のライフスタイルに合わせて新陳代謝するように増築され成長し、成長とともに新しい街に姿を変えていくことを願って設計した。しかしこの構想のもとに建てられた中銀カプセルタワーはうまくいかなかった建物の代表となった。メタボリズム理論で構想した東京湾埋め立てと住宅群の構想も実現はちがう方向からの展開となった。

 どんな偉大な構想のもとの都市計画でも、その街にひとが住まなければ破綻する。その代表が北京から500キロ西にいった内モンゴル自治区に2004年にはじまったカンバシ新区とよばれるオルドス市の100万人の住む都市計画がある。壮大な夢の跡、廃墟となって未完のメガロポリスとして世界的に有名になっている。
 またアフリカの産油国アンゴラのキランバ新都市構想も50万人以上の住民が生活できる学校や商業用地も整備されたものの無人の都市、廃墟となっている。 さらに朝鮮民主主義人民共和国に1980年世界一の高さの超高層ホテル、柳京ホテルが建設開始した。現在も未完成で廃墟となった。
 
 人間の想像力は無限であり、どんな荒唐無稽な計画もたて得る。 廃墟となった大都市は、ひとの生活の必然性からうまれたものではなく,構想は財政的な理由あるいは政治的あるいは指導者の権威のための建造物であった。

 1970年頃に経済企画庁の委託で日本列島における人口分布の長期の分析が黒川紀章らの社会工学研究所で発表された。
 平安時代500万人ぐらいの人口があった日本の人口は江戸の初期あたりまでまだ900万人ちょっとである。そして江戸の初期から吉宗の時代100年間で3倍に増え、その後ほとんど人口は変わっていない。明治に入ってから再び人口は3倍に増えた。日本では歴史上2度の人口爆発を起こしている。この研究をもとに日本の将来人口を予想した。その結果は2017年で人口はピークになりそれからまた人口が減少していくことになると推定した。

 この予想どおり日本は人口減少社会になった、しかも長寿社会となり、今では世帯の数を大幅に上まわる数の住宅が供給され続け、住宅の10軒に1件はお年寄りのひとりすまいになった。そして2013年には820万以上の空き屋が全国にあり、今後さらに増えていく。いずれにしても今日本の街はいたるところでゆっくり静かにさびれつつある。

 日本は第二次大戦後の急速な若者人口の増加、工業化に対応して、住宅団地をつくりニュータウンを造成したそしてタワーマンションがブームとなった。
  今の日本人口の減少する時代になった日本にはメタボリズムの思想、人口増加時代とは逆の大胆で壮大な都市縮小プランが重要になる。 

2017/05/05

ユーラシア1000年の歴史 テムジンとレーニン


 ユーラシア1000年の歴史は2回にわたる歴史的断層を経験した。

 13世紀に始まるモンゴル帝国は武力、その残虐なまでの暴力で周りの国々を次々と倒し支配下に入れた。東の端の日本と西の端の西洋はその支配を免れた。
そして20世紀になるとロマノフ王朝を倒したソビエト連邦を中心とした共産主義国家がユーラシア大陸の中央部を支配した。

 遊牧社会は馬や羊を飼育し,牧草をもとめて移動した。中国北部からハンガリーまで 7000キロメートルはこの草原が続いている。13世紀バイカル湖の南に住んでいたモンゴル族のテムジンはモンゴル族を纏め上げその長になった。
この地から見る世界は、左側に大興安嶺があり、向こうは遼東遼河の平原がありその先に中華の平原、黄河それよりとおくは南宋。右側にはアルタイ山脈、そのさきにウイグル、西遼、ホラズム帝国それより彼方の西方にイラン南方にアフガニスタン、インドが連なる。 
 1167年頃みずからが部族の伝説「上天より命ありてうまれたる蒼き狼ありき、その妻なる慘白いき牝鹿ありき。」その子孫としてモンゴル部の一首長の子としてテムジンが生まれる。やがてジンギスカン「二つの大洋の間の全土の帝王」と名乗り草原の天幕の中で壮大な世界制覇の第一歩をふみだした。

 人間に差なし、地上に境界なしの思想で中央アジアの北辺のモンゴル族を糾合した。大聖典をつくり、罪を定め、懲罰における連座制をとりいれた司法を徹底させた。信仰は自由にし、聖職者は税を納めることもなくまた兵役もなくした。さらに統治機構を整備し,世襲ではなく首長は部族集会で選ぶ制度にした。家畜や商業による租税は軽くし財政官が担当した。そうして世界帝国へのきばんをつくった。

 彼等は乗馬に長け、革製の鎧をつけ、弓を馬上から射る名手であった。それにくわえ軍備の近代化と大量報復の戦略を実行した。帝国の安定と平和維持の目的で敵対するものは容赦なく残虐に殺害した。イギリスの「大年代記」にモンゴル人はひとでなく獣である,血をすする怪物であるとしるされている。

 ジンギスカンには4人の後継ぎがいた。長男ジョチはカスピ海の北、ヨーロッパの地でロシアを破り,ドイツポーランド連合軍を破り,現在のロシアから東欧にキプチャク汗国をつくり支配した。キエフ公国は1240年に滅ぼされ、タタールのくびきの時代が1488年まで続いた。
 次男チャガタイはアフガニスタやガザフスタンなどのイスラム諸国を支配した。このユーラシアの南の肥沃な三か月地帯地帯をふくむアラブ、イスラム世界はイル汗国の支配下に置かれた。
 第3子オゴタイはアルタイ山と天山山地の間を支配し、チンギスハンのあとモンゴル帝国を継いだ。4男トルイ家はその後、東方にある西夏を倒し、万里の長城を超え金を3たび襲い、1215年フビライの時代に北京を落し中国を支配した。
 朝鮮半島では1231年以来30年にわたり高麗にモンゴル軍は攻め入り、1260年以降高麗を属国とした。
 そして日本には2度の侵攻を試みた。1274年モンゴルのフビライ帝の時代に高麗軍を中心にして3万人軍勢で九州に来襲した。その途中に暴風により撤退した。それが第一回の元寇で文永の役とよばれる。
 1279年南宗を滅ぼし、1281年第二回目の弘安の役とよばれる日本攻撃をおこなった。この戦いには降伏した宗の兵士と高麗の兵士あわせて14万人を動員し、その兵を満載した軍艦を使って日本に侵攻した。鎌倉幕府は北九州に防壁を、築き、鎌倉武士もよく戦い、再び暴風いわゆる神風が吹いたためもありモンゴルに征服されることはなかった。

 結局13世紀に始まるモンゴル帝国の暴力の支配を免れたのは東の端の日本と西の端の西ヨーロッパだけであった。そして20世紀になるとロシアでロマノフ王朝を倒したソビエト連邦ができ、ふたたびユーラシア大陸は共産主義に席巻される。

 1927年2月首都のサンクトペテルブルグで工場の人々が街頭に出て食料を求め「パンを」と叫んでたちまち9万人の人々のデモになった。翌日には
デモの数は膨れ上がり、軍と衝突し、その後軍も反乱し皇帝打倒に向った。


 この2月革命で300年続いたロマノフ王朝が倒される。そして自由主義者などエリート層が中心になって臨時政府が作られ権力を握った。この時の革命では共和制もあるいは立憲君主政もありえた。しかしロシア民衆に支持されたのはポルシェビキの率いる共産主義であった。
 4月にスイスからレーニンが帰り「人民は平和を欲している。人民はパンを欲している。人民は土地を欲している。」この過激な主張ははじめの頃は一部の賛同しかえられなかった。しかしレーニンは一貫してこのスローガンくり返し、広め、民衆の支持をあつめ、11月にはソヴィエトの名で権力を奪取した。翌年ソヴィエト社会主義連邦共和国ができた。

 ロシア革命でロマノフ王朝時代のポーランドやフィンランドなど東ヨーロッパの多くの土地をなくした。 その後、第二次大戦でかつての列強が凋落し,ソヴィエトという軍事大国が独裁指導者スターリンのもとユーラシア大陸の中核地域の資源を支配し、さらにその周辺地域にまで拡大した。
 ヨーロッパではポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、アルバニア、ブルガリアがソ連の同盟国となった。
 中国は清帝国が滅びた後、一時共和制になった。その後軍閥の乱立と日中戦争により混乱が続き、戦後ようやく毛沢東が政権を取り中華人民共和国を建国した。韓半島の北半分は朝鮮民主主義人民共和国、東南アジアではベトナム、ラオス、カンボジアに共産党政権ができた。
 
 レーニンの手法は中央集権の一党独裁制度と情報統制による表現の自由の制限。土地の私有は禁止され、経済的は計画経済であった。それが後にスターリンによる独裁政治のもと、軍事力を強化し、ユーラシア大陸の多くを支配することになる。

 結局70年後ソ連などの共産主義のシステムは崩壊した。エリート官僚の特権と硬直化、さらに防衛費の過剰が誘因となった。そのため経済が低迷し、生活の水準の低下と平均寿命の低下、乳児死亡率の上昇をきたした。そしてエマニュエール トッドの予想通りソ連は崩壊し、共産主義の世界は終了した。現在残っている国は世襲制で3代目になる金王朝(朝鮮民主主義人民共和国)のみとなった。ソ連はロシアと東欧諸国、大統領制のイスラム諸国そしてアジアは資本主義の中国,ヴェトナムになった。中国とロシアはふたたび大国になる努力をしている。周辺の国々はこの力のバランスの変化に対応しなけらばならなくなっている。

 共産主義国家の広がりはかつてモンゴル帝国の支配した領域とほとんどかさなりあう。モンゴルの支配から西の端西欧と東の端の日本が免れたのは地政学的僥倖に恵まれたことそして指導者の気まぐれによる。
 そしてソ連の共産主義化はやはりユーラシア半島の西と東の端の民主主義国家の防衛力と共通価値をもつアメリカを中心とした自由主義国の理念と経済力と国民の選択によって防がれたことになる。
 
 

 


 

2017/04/02

春色 春はあけぼのと江南の春


春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる。


 「枕草子」は清少納言の日本で最も有名な随筆集である。
6世紀から9世紀中頃までの期間に中国大陸から日本は精力的にいろいろなシステム、法律、建築、文学、宗教などを取り入れた。
 そして漢字も大陸由来で移入した。最初、漢字のもじをつかいながら、その意味はすてて音をとりいれ日本語にした。これが万葉仮名で7世紀から8世紀につかわれはじめた。万葉仮名を用いて古事記、日本書紀、万葉集が書かれ残された。そして760年頃できた万葉集につかわれたかなの始めが万葉仮名で、しだいに簡略化されてひらがなとなった。ひらがなは9世紀中頃に使われ始めた。

 平安時代に書かれた源氏物語と並ぶ日本の文学の名著が枕の草子で、ひらがなを用いたこれらの平安時代の作品は唐の影響を脱し日本独自のものであった。しかしその中には中国の文学や書物の影響は見られる。

 枕の草子の「書は」の段で、「文集 文選 新賦 史記 五帝本紀 願文 表 博士の申文」のなかで文集は白楽天の詩であり、白楽天の詩をめぐる「二月つもごり頃に」の段に「すこし春あるここちこそすれ」の返歌に「空寒み花にまがへて散る雪に」もあり、 教養としての書物は大陸の文化にあった。

 中国大陸では,7世紀に唐が建国され、都を長安に定め、当時世界でもっとも栄え、100万人の人口をかかえる国際都市となった。300年間帝国は繁栄し、まわりの国々におおきな影響を与えた。白楽天は長恨歌で有名な詩人で、
日本でも,枕の草子だけでなく,源氏ものがたりにもその影響が見られる。そのほかに多くの詩人李白、杜甫あるいは唐の後半には杜牧、や李商隠などが活躍した。


千里鶯啼緑映紅      千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中    
            江南の春           杜牧


春日在天涯      春日 天涯にあり
天涯日又斜      天涯 日又斜めなり
鶯啼如有涙      鶯啼くも涙有るが如く
為濕最高花      為にうるおす最高の花

                           李商隠



  漢字文化圏として中国と周辺の国家である韓国や北朝鮮、ベトナムおよび日本が含まれる。これは地政学的に隣接する中国文化の影響をうけた国々で、ヨーロッパがラテン語に影響を受け,ベトナム以外の東南アジアがインドの影響をうけたのとおなじように文字が伝播した。
 日本は平安時代漢字に代わる新たな文字、ひらがなとカタカナを生み出し使うようになった。
 10世紀の末から日本散文文学がおおくの女性主に宮廷の女性たちによってのこされた。女文字とよばれるかな文字の文学で、清少納言の随筆枕草子、さらには源氏物語などの物語が作られた。その後、日本的な漢文や漢字かなまじり文が普及した。 最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が編纂され、紀貫之が序文を書いている。

  やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける。

 その後、藤原定家による「新古今和歌集」や百人一首の選定など平安文化が花咲く。これらは中国の文学には全くない日本独自の文学作品の傑作であった。こうして、漢字を借用して日本語を表記し、日本の美意識、文学をつくりあげた。

 ひさかたのひかりのどけき春の日にしつ心なく花の散るらむ
                   
                             紀 友則

 一方科挙などの官僚制度による政治の少数者による支配、専有物であった朝鮮王朝はハングルを、べトナムではチュノムをつくるも表音文字の必要は近代になるまでなかったため実用化されなかった。また10から12世紀にかけてできた王国、遼、西夏、金はそれぞれきっ丹文字、西夏文字、女真文字をつくったが消滅し現在は使われていない。

 高麗や朝鮮王朝はにおいては儒教を取入れ、文字は19世紀の中ごろまではすべて漢字のみを使っていた。その後ハングルと漢字が併用され、戦後になってハングル文字になった。またベトナムにおいても長く漢字が使用されていたが1950年に漢文教育が廃止された。

 唐の文化や政治制度や都市計画も奈良平安時代に移入された。征服王朝と天皇のちがいのためか儒教の影響はあまりみられなかった。科挙による官僚制度も取り入れなかった。ましてや宦官は中国独自のものであった。宗教はインドから中国を経由して日本では定着した。唐は衰退ししだいに滅亡にむかい、894年には遣唐使を廃止し、907年唐滅亡。その後大陸の文化の移入は少なくなくなり日本は独自の文明をつくった。

 漢字文化の国による違いは文化の受容のしかた、どの要素がどのように組み合わさってその国のシステムにとりいれられるかによる。さらに地勢上、もし日本がギリシャに近接していればギリシャ系のもじになり、東南アジアのようにインドのとなりであればインド系の文字をつかっていたと想像される。

  今後、漢字文化の伝播のように、文化のつたわりと共同体システムの受容との関係が予想できるようになり,文明の未来が予知可能になるかもしれない。

2017/03/24

予言の書 文明の生態史観


 文明の生態史観
                        梅棹忠夫

 若い日々、中国と北朝鮮の国境の山白頭山に登り、今西錦司のミクロネシアポナベ島調査隊に加わり、また中国の張家口から馬でモンゴル草原地の遊牧民の生態の研究をした。
 
 1955年(昭和30年)カラコルム ヒンズークシ探検隊の一員として5月から11月にかけてアフガニスタン、パキスタン、インドを旅行した。
 13世紀のモンゴル帝国の末裔がアフガニスタンのどこかにいる。 「モゴール族探検紀」はアフガニスタンの山岳地帯の地図にものらないモンゴル時代の末裔が暮している。彼らを探索し発見するまでの記録で,アフガニスタンの乾燥した風土や部族生活がひふ感覚を通して描写されている。

 その後、アフガニスタンのカブールからパキスタンを経てインドに至る途中の人々や社会を「東と西の間」で書いた。ヨーロッパからみたオリエントとは、西欧世界の人の眼にうつるボスフォラス海峡から東の世界をひとくくりにして東洋としたもので、実際は、東と西のあいだが抜け落ちている。
 この抜けている地域にアフガニスタン、パキスタン、インドも含まれる。パシトウン人が支配権を握るアフガニスタンから、北方のアーリア系人種と南インドのドラビダ系の人が混合しているインドまで,インドアーリア系の人種が住み、カルカッタからはじめてモンゴロイド(黄色人種)の東洋は始まる。

 日本から海を通って中国、シンガポールそしてインド経由でヨーロッパに向かう南回りの航路からアジアをみる視点とは逆に,大陸の中央からまわりをみわたすとまったく世界は異なって見える。
 アジアの内陸部はただ均質的な場所で東北アジアの西満州(戦前の)から、西南アジアのアラビアまでユーラシア大陸を斜めに横断して走る大乾燥地帯がある。それは際限もなくひろがる砂漠と草原の世界であり、それをつらぬいて点々と連なるオアシスの世界である。この道を通って、中国から三蔵法師が、ヨーロッパから商人がオアシスつたいに容易に行き来できた。
 
  

 
 梅棹忠夫の生態史観では、大陸の広大な乾燥地帯を中心に、そのまわりの第二地域、さらにそのまわりを第一地域とした。

 ユーラシア大陸の中央に位置する乾燥地帯は悪魔の巣だ。乾燥地帯の真ん中から現れてくる人間の集団はどうしてあれほど激しい破壊力を示すことができるのだろうか。北方では匈奴、モンゴル、ツングース。南方ではイスラム社会そのものが暴力の源泉の1つになる。

 その周りの第二地域の歴史は大体において破壊と征服の歴史である。王朝は暴力を有効に排除しえた時だけうまく栄える。たとえばインドは何度も西から侵略され、破壊されている。その歴史は主として外部からの力で動かされている。中国もまた、幾度ともなく草原の民族に破壊され支配されている。ロシアはモンゴルの支配から脱するのに何世紀もかかった。近世になり遊牧的暴力はほぼ鎮圧された。この地域の特徴は建設と破壊のたえざるくりかえしで、内部からの成熟の余裕がなかった。

 現在は第二地域の勃興期だ。おそらくまだ革命の波は続くだろう。そして次々強力に近代化文明化の方向に進んでいくだろう。帝国は潰れても共同体は全部健在である。第二地域は将来4つの巨大なブロックの並立状態に入る可能性がかなり多いと思う。中国ブロック、ソ連ブロック、インドブロック、イスラムブロックである。
 これは社会主義革命によって   破壊された所の昔の帝国の亡霊でありえないだろうか。この地域は革命まえは専制君主制か植民地体制であり,革命によってもたらされたのは独裁者体制であった。

 この第二地域のさらに西に西欧、東に日本は位置する。そこでは近代文化の並行進化がおきた。この地域では封建制がありブルジョアを養成し、革命によって彼らが支配権をにぎった。この中央アジアの破壊の影響をうけなかった地域を第一地域とした。東の端の日本や西の端の西洋は封建制からそれに終止符を打ったブルジョワ革命を経験して近代市民社会をつくった。この封建制という社会制度のもとに自立的な共同体の経営、勤勉や誠実の価値がうまれた。

 その後東南アジアの旅行で、これらの国々と東ヨーロッパの国々をこの構想に組み入れ、大帝国のまわりの衛生国家とした、巨大なる帝国、亡霊の懐に飲み込まれた多数の異民族こういう人たちがどんなふうになるのか、これが第二地域の人たちの今後の課題であると予想した。


 1957年(昭和32年)中央公論に発表された。この頃は東西冷戦の時代で、日本も知識階級の主流はマルクス主義で、イデオロギーは民族や宗教を超越する存在であり、世界は進歩し、やがて共産主義社会になると多くの人は信じていた。その時代にロシアと中国が対立すると予想する人はほとんどなかった。ましてソ連の消滅は夢にも思われていなかった。
 やがてこの生態史観が現実のものとなった。さらに,現在もタリバンやISなどの破壊力を目の当たりにし,帝国周辺国家のウクライナや朝鮮半島の金王朝の行方をかだずをのんで見守ることになる。

 生物38億年の進化の過程で人類は生まれ,文化をつくり文明を築きあげた。その文明は,人類の知能と無意識の情念からうまれてきたものが環境に適応したものだった。人類誕生以来人間と自然とでつくりあげた生態系から、やがて道具、巨大な装置と人間との関係システムである文明系に進んでいった。

 生命の誕生を尺度にした壮大な歴史からみた文明の興亡を語るトインビーの公演に刺激をうけ、ユーラシア大陸を探検してさまざまな民族や文化にであい、梅棹氏独自の文明の歴史を組み立て発表した。それが「文明の生態史観」だった。
 ユーラシア大陸における文明の興亡を素材ではなく,その土地でいかにして文化を構築するか、システムとしての文明の変遷をかんがえたのが文明の生態史観であった。そして時代を予言する書となった。

2017/02/26

日本の文明 風土 和辻哲郎


風土 和辻哲郎 

 和辻哲郎は世界秩序のゆらいだ混迷の時代に、アメリカ文化とは異質のドイツ哲学にであい、そこからヒントを得て古来からの日本文化を分析した。

   「古寺巡礼」は30才の時、1919年(大正8年)奈良の近辺の古寺、仏像絵画を見学した印象記で、法隆寺、薬師寺や多くの仏像の中に、はるかギリシア文化の影響を見いだし、印度や大陸の文化を融合した日本古来の精神に触れ、感動した陶酔の気持ちを書き記し、多くの読者を引きつけた。
 奈良時代は歴史上もっとも国際的な時代であった。天平、飛鳥の建築や仏像にヨーロッパ文明、ガンダーラやバラモン文化のインド、中国文明の影響を色濃く反映しているのを発見した。

 その翌年、1920年(大正9年)には,仏教の影響をうける前の日本のすがたを研究した「日本古代文化」を出版した。人々は民本主義的で原始的な直さや子供らしさを持っていたとその当時を描いている。日本列島の島々では、同一の血族と言うより、さまざまな地域から渡来したさまざまな文化をもった温和な人の住む場所で、信仰や道徳が同一の人びとの集団であった。

 1926年になると「日本精神史研究」で今までの多くの研究を寄せ集め、仏教文化の源流を描き発表した。1934年「続日本精神史研究」を、そして1934年有名な「風土」を発表した。

 第一次世界大戦のあと、1927年ドイツのベルリンに国費で留学。日本から中国、印度、中東、地中海を旅行し、その風土気候の著しい変化を体験しながらその時期のドイツに到着した。敗戦国ドイツは1923年からおきたハイパーインフレによる社会混乱からようやく回復してきた復興の時代だった。

 そこでドイツ哲学者ハイデッカーの名作「存在と時間」にであった。この考えに触発され、自然や気候、ひととひとの間柄などの社会環境をふくむ空間である風土を国民性にあてはめた文化論をくみたてた。こうしてアメリカ、ヨーロッパの個人主義と異なる日本文化の由来を説明した。

 感情と風土をアジアのモンス−ン的風土と砂漠的風土およびヨーロッパの牧場的風土で3つの類型に分けた。モンスーン型の風土では、受容や忍耐が実存の構造をなし,自然のはかり知れない力を前に,仏教やヴェーダの神を生み出した。

 モンスーン的風土の特殊形として中国(シナ)と日本を対比して、中国大陸は単調として空漠でボーボーたる海は我々に本当の海特有の生き生きとした生命感を与えない。その中に立つ者の視野に入るのはその平野のほんの1部分に過ぎずその中をいかに遠く歩いていってもただ同じような小さい部分の繰り返しがあるだけであるこの中にあって人々は受容的忍従的でそして感情は無感動的になる。

 一方日本は、土地が海と平野と山岳地帯が隣接し、四季の変化が激しいため,激情と淡白が始めから混じり合っている。そして,気がかわりやすかったり、あきらめが早かったりする。単に熱帯的あきらめでもなく,単に寒冷的な、気の長い辛抱強さでもない。あきらめでありつつも反抗において変化を通じて気短に辛抱する忍従である。

  砂漠型の気候では,水や植物を手に入れるためには、自然と戦わなければならない。それゆえ戦闘的でかつ対抗的であり,自然との闘争に生きている一方部族の共同性においては服従的である。

 ヨーロッパの風土ヨーロッパは牧場的で、夏は乾燥期で冬は雨期になる。地中海の沿岸のイタリアの半島で海沿いの山野ではほとんど岩山で、植物は育っていない。一方、夏の乾燥は日本やモンスーン地帯で見られる夏草のはんも雑草が見られない。ここでは自然は従順な存在にとどまっている。この全土が牧草のようになるような過度な湿潤や乾燥のない、この気候の下にギリシャローマ時代の合理的文化が生まれた。

さらにギリシアやローマの地中海地方とフランスからさらに北に位置するドイツの陰うつな長い冬の気候が精神主義的キリスト教文化を生み出した。

 このようにしてドイツ哲学の方法を使って日本の独自性を学問的にくみたてる和辻風土学を生み出した。その後,和辻哲郎は生涯の研究「倫理学」3巻を1937年から1949年かかって書き上げ、また戦後、象徴天皇論の理論的支柱となった。

 この文明理論の正当性に関して,今でも議論がある。梅棹忠夫の「文明の生態史観」ではユーラシア大陸の中央に遊牧民の勢力が跋扈しその周辺にロシア、中国、インドなどの強力な帝国でき,興亡をくり返した。さらにその周辺にヨーロッパ、東の周辺には日本が位置する。この地域で封建制から近代国家が生まれたとし、和辻哲郎の考えを否定した。
 1996年にハッチントンは「文明の衝突」で,世界を西欧、イスラム、中国、東方正教会、仏教、日本、ラテンアメリカ、アフリカにわけ、それらの文明は同化しないと説いた。
 またイマヌエール トッドは人口学的手法でソ連解体を予言した「最後の転落」で注目された。そして家族人類学の方法でヨーロッパの国と文化を分析した。

 星占い的な荒唐無稽の文明論なのか根拠のある文明論なのかは今後実証が可能になり,ビッグデーターの解析による文明のモデルシステムが確立すれば、文明社会の未来は予想できる。
 




2017/01/29

男だけの世界 ヘミングウエーの生き方


  

 売ります。赤ん坊の靴。未使用(For sale:baby shoes,never worn.)

 イギリスの一国支配が終わり1885年以降になると、世界は多極的世界となった。どの国もわれわれこそ国家の中の国家であると主張した。 そして1914年(大正3年)フランス、イギリス、ロシアの協商国とドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入した。
 数週間で終わるはずの大戦は数千万人の死者を出す世界大戦となり、文明をも破壊し,国家そのものを解体することになった。
 ヘミングウエーは19才で、この第一次世界大戦に赤十字の輸送部隊で参加しイタリア戦場で負傷し名誉勲章をうける。

 ヘミングウエーは結婚し、作家で成功するために、まだ歴史の浅いアメリカから文学芸術の源流であるヨーロッパにわたった。 新聞記者として活躍し,ギリシャトルコ戦争の取材や,スペインの闘牛の見学をしたりして短編小説をかきあげた。それが最初の作品「3つの短篇と詩10編」でその文体は装飾的表現を極力排した短いフレーズで構成された簡潔な文体で構成された。

  その年、1923年ムッソリーニはローマに進軍した。彼をインタビューするために外国のジャーナリストたちが大勢集まり、その一人だったヘミングウェイは特派員としてその時の報告を書いている。
 ムッソリーニは会議に貢献するよりも新聞の大見出しになることにはるかに強い関心を抱いている。また、ムッソリーニはこれ見よがしに本を読み続け、集まったジャーナリストたちを無視することで記者会見を始めた。しかしその本はフランス英語辞典でしかも上下逆さまに持っている。

 ムッソリーニの主張は、第一次大戦いらい西洋思想は人間が安楽さや安全を求めて生活を送ることだけを目的として、それ以上のものは何も望まなくなった。しかし、人間はただ安楽な生活だけを望んでいるのではない。人間は少なくとも信仰までは望まなくても戦いや自己犠牲などの精神的けだかさを望むものだ。
 崩壊した国家を立て直すためにイタリアでは民主主義でもなく、共産主義でもない第3の道として国家社会主義が議会で多数派となった。

 

 無頼漢ともおもえるパリでの生活を送り、1924年に短篇集「われらの時代」を刊行。アメリカでも話題となり作家としての成功をおさめる。1926年には初めての長編小説「日はまた昇る」に戦争で負傷し心も体も傷ついた若者の物語、ロストジェネレイションを描いた。

 ロストジェネレーションは広くヨーロッパやアメリカの価値観がこの第一次世界大戦によって崩壊しパラダイムの大転換がおこった時代に青春時代をすごした世代を意味するものとなった。この世代は多くの人々が信じるべき価値を失い、精神的混迷に陥った時代で、この根本的価値の激変した世界にあってヘミングウエーは新たな表現者として、時代の騎手になった。1927年には短編小説「男だけの世界」で闘牛士の戦う男や殺し屋を描き6年半におよぶパリ時代を終えた。

 彼はその後アメリカフロリダの尖端にある離れ島、キーウエストに住んで長編小説「武器よさらば」を書く。この小説は第一第1次大戦中にイタリアで負傷したときの経験を小説にしたもので、この看護婦と負傷兵の恋物語で一流作家の仲間入りをした。

 1930年代の初め、ヘミングウェイは新たな小説スペインの闘牛を主題にした男と牛と血の世界を小説化したり、アフリカのケニアで象やライオンなどの狩猟に熱中し、あるいはキューバでのカジキの釣りをしたりして世界をかけめぐり、男たちの冒険を物語にした。

 1930年代の後半スペインの内戦がおこる。フランコ政権をドイツ、イタリアが支持しフランコ政権と戦う人民戦線をスターリンのソ連が支持した。この戦いに人民戦線側で参加し、長編作品「たがために鐘は鳴る」を書いた。やがて映画化されゲイリークーパーとイングリッド バーグマンが主演、世界中で驚くほどの成功をおさめた。
 大戦後「老人と海」が1952年にライフに掲載され、ピューリッツア賞をさらにはノーベル賞を受賞した。

 人間の本性の一部、男らしさ、戦い、闘争心を文学にした最もアメリカ人らしい小説家。時代の大転換の中、装飾のない簡潔な文体で小説そのものを変革した作家として評価された。

 一方、母親からはその生き方や小説を認められず、4度目の結婚で妻となったメアリーもまた手紙の中でヘミングウェイを薄情で非常識で利己的でエゴイストで評判だけを気にする人と書き、小説についても反知性的で退屈といった評価もあった。

 20世紀を代表するアメリカの小説家マッチヨなナルシスト、アーネスト ヘミングウエーは、彼のよき理解者であった父親と同じように1961年ショットガンで自殺した。