斉藤茂吉と宗吉(北杜夫)
明治時代 斉藤紀一は精神科の医師としてドイツに留学し一代で大病院,青山脳病院を築きあげた。帝国議会の代議員にもなり、同郷の蔵王の近くの出身であった斉藤茂吉を養子として迎えた。
正岡子規をうけつぐ根岸短歌会から派生したアララギが創刊され、斉藤茂吉はこのアララギに1913年(大正2年)赤光を発表。写生主義を唱え大正時代から昭和初期に万葉風の短歌を数多く残した。「死にたまふ母」など仏教的無常観を底流にした日本古来からのこころを唱い日本短歌を主導した。芥川龍之介はこの連作された短歌は物語性をもった短歌で小説に近い文学となったと高く評価している。
星のいる夜空のもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
斉藤茂吉の奥さんとなる輝子は養父紀一の次女であった。進取の精神に富んだ華やかな舞台がよく似合う女性で、猛女とよばれたモダンガールだった。
1914年(大正3年)13歳年下のその輝子と結婚した。茂吉32歳の時だった。
をさな妻こころに持ちてあり経れば赤小蜻蛉の飛ぶもかなしき
茂吉は、 長崎医学専門学校教授をつとめ、1921年(大正10年)横浜を出港し、敗戦後のウィーンに到着した。1922年(大正11年)このウイーンの神経学研究所で5人の日本人の留学生とともに研究をし「麻痺性痴呆者の脳カルテ」の論文を書き上げた。 その後1923年(大正12年)から1925年(大正14年)までミュンヘンのクレッぺリンのもとで研究生活を始めた。
精神医学の登場する以前、精神病患者は狂人として、施設に隔離されていた。19世紀のすえに精神病は脳の病気であるわかり、このクレッペリンによりようやく早発生痴呆すなわち精神分裂病(現在の統合失調症)は他の精神疾患から区別され分類された。そして、躁うつ病も彼によってはじめて定義されるようになった。その脳の病理と病気との因果関係の研究が当時最も重要視されていた。
帰国後主治医として薬の処方を行った芥川龍之介の死、アララギ派詩人島木赤彦の死にあう。さらに青山脳病院が火災で消失、その院長になり病院再建を行い、アララギ派短歌を担うことになった。
1933年(昭和8年)銀座のダンスホールで有閑マダムらが遊びを繰り返していて警視庁により検挙された、その中に青山病院長夫人の斉藤輝子がいた。大正時代のモダンガール輝子は昭和に入り有閑マダムとよばれ、ダンスホール事件で非国民となった。このために一時2人は別居する。
その偉大な父親斎藤茂吉の次男斉藤宗吉は東北大学在学中、「幽霊」を北杜夫のペンネームで1953年(昭和28年)文芸首都に投稿し、それを自費出版した。
「人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中なかに姿を失うように見える 。」
「人はそんな反芻をまったく無意識に続けながらなぜかふと目ざめることがある。」
「わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気ずいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。」
「あかるく華やかな洋間で、硝子器のかちあう音、けだるい甘美な旋律。幼い日に家をでていった母親や死にわかれた姉の一言、ママの幽霊。そして本棚一杯の父親の書斎。そして原っぱと墓場。」
青年期にむかうころ、「ふりそそぐ盛夏のひかりの下、むせるような植物の匂いと、媚びにあふれた虻の羽音、底のしれぬ大地のぬくもり。アルプスをのぞむ大自然のまどろみのなかで、珍しい昆虫や蝶と出会った幼い心の恍惚を感じた。」
幼年期におし隠され無意識世界にひそんでいた過去の記憶をたぐり、子供時代の内的世界をみずみずしく描いた。
精神医学は20世紀になりフロイトが人間にはふだん意識している世界の奥に広大な無意識世界があることを発見した。 ユングは無意識を個人無意識と集合無意識にわけた この集合無意識は人類の祖先からの神話であるとした。この無意識の世界、忘れてしまった記憶や抑圧された記憶、それを明らかにする精神分析が治療法として登場した。
1958年(昭和33年)水産庁の漁業調査船でマグロ漁をしながら6か月におよぶアフリカ、ヨーロッパの船旅を船医として経験し「ドクトルまんぼう航海記」を1960年(昭和35年)に出版し、肩の力の抜けたユーモアと軽いエッセイ風の文章でベストセラー作家となった。
ナチス政権による断種法、遺伝病子孫防止法が1933年(昭和8年)ドイツに制定された。精神病の遺伝子を持つ人々を健全な社会を作るために抹殺するという法律ができそれを実行する根拠となった。ドイツを舞台に、ナチス政権の精神病患者に対するあつかいとそれに対して苦闘する精神科医の心を分析的に描いた物語「夜と霧の隅で」は1960年(昭和35年)の芥川賞受賞作品となった。
当時の精神病治療は電気ショック療法、インスリン注射法やロボトミーが主流で、ほとんど有効な治療法がなかった。薬物治療が可能になったのは戦後のことだった。1950年代になってからクロルプロマジンができ、抗うつ剤イミグラミンなどは1958年(昭和33年)にはじめて合成された。現在では薬物療法と精神療法が治療法として確立している。
1964年(昭和39年)には、「楡家の人々」で明治以来の有産階級の世界、精神科医3代の斉藤家の歴史を題材にした長編小説を、そして翌年にはカラコルム遠征隊に加わり、それを題材とした「白きたおやかな峰」などの作品を世に送り出した。
北杜夫の母輝子は斉藤茂吉の晩年、再び同居し死をみとる。茂吉の死後は持ち前の進取の精神を失うことなく、世界中を旅する旅行家として有名で80才を過ぎてもの南極旅行などに出かけ、生涯で地球上100カ国以上を訪れている。
一方北杜夫はそううつ病にかかり、それを題材にした小説や父親斎藤茂吉の生涯を後年書き上げた。小説やエッセイは「船乗りくぷくぷの冒険」に見られるように現実が小説で小説が現実の入り組んだ世界をあるいはコミカルにあるいは重々しく書き続けた。


