「閉ざされ、人々が近づくことの難しいサンタ マリアの谷に、ユンタの伝説が生き続けている。静かな夕べに、ふだんは寡黙な山の農夫たちが、青い光の物語を語る。その光は、はるかな昔に消え失せた。
だが今日もなお、月の光がほのかに輝きを放つ晩には、美しきユンタの秘密が孤独な登山者をモンテ クリスタルの絶壁へと誘う。」
レニ リーフェンシュタール監督 「青の光」
明治政府は近代国家をつくり,国の形を作るため西欧とりわけ近代国家として勃興したドイツを手本にした。明治時代ドイツオーストリアに合計552人の留学生を送り出し、イギリスへはその半分の253人、アメリカやフランスはさらに少ない留学先だった。 初期は医学,軍事の研究が主であったが、のちに近代国家ドイツ文化を総合的に日本に移植した。彼等は帰国すると文部省、陸軍省、内務省、司法省、大蔵省の要職につき明治政府を動かす。 その代表が森鴎外で1884年から4年間陸軍省から衛生制度および軍陣衛生学研究のためドイツに留学し、のち陸軍軍医長になる。
ドイツは第一次大戦で敗北した。その後再び力を得たドイツにおいて、神秘主義とロマン主義は国民の意識を覚醒するための有効な手段となった。このドイツ民族主義であるロマン主義は思考や論理の世界よりも内なる感情や情動に忠実であろうとし、大地と森林,自然を崇拝した。世俗からはなれ放浪する遍歴学生を模した自然への回帰、ワンダーフォーゲルの運動が盛んになってきた。
レニ リーフェンシュタール監督の「青の光」は1932年(昭和7年)神秘的な水晶の山を舞台に、自然への憧憬、崇高さを求めるドイツロマン主義的伝説を映画化して熱狂的に支持された。
1934年(昭和9年)レニ リーフェンシュタール監督の「意志の勝利」が上演された。ワーグナーの曲にのってヒットラーが登場し、人びとの姿、パレード、集会が写され編集された。古都ニュルンベルグで開催されたナチス党大会の4日間は青の光と共通する、斬新なアングルのショットをかさねる方法で芸術化された記録映画となった。そしてドイツで国家映画賞を、パリ万国博覧会の映画祭で金賞を受賞した。
1936年(昭和11年)8月1日オリンピック開会式がグリュネヴァルトのメインスタジアムで開かれた。そこに49カ国3980人の選手が世界中から集まり行進した。日本選手は179人女子17人であった。
このベルリンオリンピックの取材に日本から、各新聞社の特派員として横光利一や西条八十、武者小路実篤らの有名作家が競って日本に記事を送っていた。そしてラジオの実況放送がされた。
横光利一はオリンピックの取材のためパリ経由で訪れたベルリンの街について「どこもかしこもこれほど掃除の行き届いた町は無い、人間の心もこのように清潔になれば戦争するより希望はなくなるのかもしれない。」とナチス政権下の清潔の国ドイツの弱者排除の予感を日記に記し、それと比較して雑然たる東京でのオリンピック開催を心配していた。そして新聞報道やラジオ放送の前畑がんばれの実況中継で日本でもベルリンオリンピックは人びとの関心を高めた。
レニ リーフェンシュタール監督の映画「オリンピア」は1938年(昭和13年)に公開された。
第一部の民族の祭典は古代におけるギリシャ思想を賛美して始まる。まずカメラはギリシャの遺跡の間を移動する。そしてギリシャ神話に由来する彫刻群にうつり、ギリシャ神殿の映像、その後に円盤投げをする男性の彫刻から人間に移行する。これはギリシャの神々の魂が現代のスポーツに再現され、10種競技の有名選手フーバーは動く彫刻となった。
膨大な記録を編集し直し、第2部の美の祭典とともに自然と大地と美しい肉体を持った人々の躍動、より美しいもの、より力強いものより健全なものをたたえた映像を作り上げた。当然、無秩序、混沌,弱さや醜さは画面のなかには見つけることはできない。
日本では日中戦争中、同盟国ドイツの秀作映画として20名の宣伝部員をつけて宣伝され公演された。日本もこの大会で活躍し、第一位のドイツ、第二位アメリカそしてハンガリーやイタリアなどに次いで7番めの金メダル獲得国となった。
棒高跳びでは西田大江選手が銀と銅を分け合い、マラソンでは孫選手が優勝し、地面にうつる選手の影、音楽のリズムにあわせひた走る映像となって記録された。
当時日本でも外国映画は多くの映画館で上演されていた。このベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」は日本中で絶賛され、ひとびとをドイツびいきにした。同時期のジョンウエン主演のアメリカ映画「駅馬車」はその影響であまり話題にならなかったほどだった。
ドイツはヒットラーが新たな枠組みで古い価値を突き崩す勢力としてヨーロッパを席巻した。 日本国内では反米英、親ドイツの国民の声、陸軍の方針がしだいに力を持ち、山本五十六など海軍の反対派を押し切って、1940年(昭和15年)日独伊三国軍事同盟を締結。東京での開催予定のオリンピックは中止された。
1945年(昭和20年)ドイツは敗戦。戦後レニは連合国軍に「意志の勝利」と「オリンピア」がナチスのプロパガンダ映画であったとして逮捕拘束されるも起訴はされなかった。
戦後、1962年(昭和36年)アフリカのスーダンの中央部に住むヌバ族と10年にわたり生活を共にし彼等を撮影した。1973年(昭和48年)「ヌバ」写真集を世界で出版する。大地の鼓動と自然のなかの褐色の美しい肉体と装飾をほどこした生命あふれる姿を映像にし、世界各国でセンセーションを巻き起こした。
レニ リーフェンシュタールはドイツロマン主義の憧憬と神秘的映像、水晶山の少女、ギリシャの大地と均整のとれた肉体の映像、アフリカの大地と躍動するヌバ族の魅力、これら自然と人間を映像化し、20世紀を代表する映像美の表現者となった。 終生変わることのなかった自然の美と肉体の美の表現者レニは、晩年にはスキューバーダイビングをして海中の美をとらえた「水中の驚異」を88才の時発表している。

