2018/09/11

地球温暖化の夏 関空の水没

 今年の夏は3ヶ月にわたる猛暑を記録し、9月になっても終わらない夏が続いている。
6月hot7hotter8月hottestでブーゲンビリアやハイビスカスなど熱帯原産植物が生命を謳歌していた。さらには、台風が日本列島を直撃し、高潮と猛烈な風で甚大な被害を及ぼした。今年9月、台風21号の高潮のため、ダッカ空港ではなく、関西空港が水没する情景は、台風の猛威を見せつけた。

 過去数十億年で見れば、気候は大きく変動していて、地球全体が熱帯で、北極にヤシが生えたていた時代もあり、逆に地球全体が完全に凍っていたこともあった。その時の海面は100メートル以上低く、また温暖期には今より180メートル高かった。
 そして、人類誕生以来文明も気候の変動や、人間の活動により、消滅した例も見られる。太平洋上のイースター島は森林の伐採によって文化をつくっていた、しかし気温と降水量が森林の再生に不向きな環境の島であり、また土壌が豊かでなく、山の低い孤立した島であったため、森林の消滅と共にポリネシアの社会を崩壊させた。

 マヤ文明もまた水不足から滅亡した。レバノンは緑豊かな国土でレバノン杉を国旗に用いている。その大地は乾燥し、大量の伐採のため、今では杉は絶滅寸前となる。またアラル海は灌漑用水の使いすぎで消滅し、アフリカのチャド湖も消滅寸前となった。
過去の歴史は、気候と場所、そして人間の営みで文明が滅亡したことを物語っている。

 現在地球上でおこっていることは、周期的気候の変化の一部分なのか、人間の活動の結果なのか。この状況に対して「成長の限界」が1972年にローマクラブから報告された。世界は近い将来に資源の枯渇と汚染排出による環境の変化から成長不可能な状況に直面する。全地球のシステムをコンピューターでモデル化して、100年にわたって推定し、物理的な成長の制約は21世紀の世界政治の重要な課題となるとした。
 地球は有限であり、人口増加と人々の活動により、石油枯渇 、オゾン層破壊、地球温暖化 、有害物質の処理不能、 種の絶滅、 森林の消失の危機が起こり、そのままの経済成長は不可能で、限界に達する。地球の資源には限りがあり、持続可能な経済成長の必要性を訴え反響をよんだ。その20年後に新しい情報を加えて「限界を超えて」ですでに、人類は地球の能力の限界を超えたのではないかと述べた。さらに10年後の2005年「成長の限界人類の選択」を出した。

 その後、資源については、石油の枯渇はなかったものの、人口の増加は70億を超え、二酸化炭素は自然の吸収力の2倍を超え、地球温暖化など予想が妥当だったものが多い。
 まず第一に地球の温暖化による海面の上昇。
1900年から2000年の100年間で地球上の平均気温は0.6度上昇した。この上昇は21世紀になり加速している。パリ協定で1.5度Cを目標にしたのは、根拠のあることで、全体としてわずかな変化でも、地球上の局所では多大な変化をもたらした。
 地球温暖化のため、北極の氷は溶けてしだいに海面を上昇させ、世界中で氷河は消失しつつある。現在では海水面の上昇からモルディブやツバル、キリバスは水没の危険があり、バングラデシュやオランダは水没の危険は高く、他の国では低高度の地域はやはり、水没、高波浸水の危険は高くなる。もし、地球の平均気温が2度上昇すれば、海面は36センチ上昇すると推定される。
 さらに、氷河は世界の大河に水を供給している、もしそれが減少すれば深刻な水不足をきたす。ヒマラヤ氷河はアジアの大河のすべての源で、黄河、長江、メコン川、サルウイン川、ガンジス川、インダス川、プラウトプトラ川の水源になっている。そして、北半球の中高緯度の地帯では雨量は増加し、他の地域では降水量は減少して、砂漠化が進行している。
 第二にハリケーンや台風の強大化は地球温暖化の影響を確実に受け、人の管理不可能なシステムである。海水温の上昇はハリケーンや台風やサイクロンを巨大化させ、 今後どれほど強大化し、どれほどの被害を及ぼすかは不明である。
 ハリケーン カトリーナなど21世紀の台風やハリケーンは世界中で、甚大な被害を及ぼすようになってきた。猛烈な風の脅威とともに沿岸地域の高潮の被害浸水も増加し、アメリカでは1970年に比較して10倍以上の経済的な損害を出している。2005年のハリケーンはメキシコ湾の海上石油生産施設を壊滅させ、橋桁に衝突した施設で、橋の通行は停止した。 今後は沿岸地域のハリケーンや台風のさらなる強大化にともなう海面上昇対策が必要となってくる。 
 今後の対策として、アメリカのハリケーン地帯の海抜10メートル以下の地域では、住宅、道路、病院を安全な場所に移動させた方が、沿岸部でハリケーン被害を受け続けるより、はるかに経済的には有効であるという報告もされいる。しかし合理的計画はあっても、実現には多くの困難がある。

 第三は海洋の酸性化が進み海中の珊瑚を死滅させつつある。そして牡蠣、プランクトン、骨格類に被害を与える。
 そして第4には生態系の崩壊。気候の変動により陸上の植生を変化させる。それとともに野生生物と消失絶滅する種が急速に増えてくる。さらには、寒い地方の蚊などの感染症媒介生物の北上をもたらしている。 


 1972年当時の心配は杞憂で 技術の進歩で解決できるのか、まだ結論は出ていない。しかし地球温暖化は世界中で共通の認識になった。京都議定書に続き2015年パリ協定で、二酸化炭素の排出は吸収を上まらないようにする。そして世界共通の長期目標として
産業革命前からの平均気温の上昇を2度より十分下方に保持、1.5度Cに抑える努力を追求することが批准された。

 今後問題となるのは、環境を悪化させない成長ができるようにすること。省エネルギー生活に切り替え、二酸化炭素を出さないエネルギー源に変更すること。各国、アメリカ、ヨーロッパ、中国は2、30年後に再生可能エネルギーを全エネルギーの60から80%に増やす目標を立てている。2030年には40から50%を目標にしている。日本は2030年に2224%を目標にしている。

 台風の強大化や高潮の被害を防ぐ対策も必要で、伊勢湾台風、第二室戸台風、今年の台風21号以上の台風は毎年のように発生し、熱波もさらにひどくなると予想される。
 人口減少社会で、10年先あるいはさらなる将来を想定した、今後起こりうる自然災害に対応する都市の再設計が必要になる。

 人間は現状維持を好み将来のことよりも現在を重視する傾向がある。イギリス植民地相ジョセフチェンバレンは19世紀の終わりころ「私に言わせれば時代の流れは全ての権力がより大きな帝国に集中する方向に向かっております。そして、力の小さい王国すなわち進歩の遅れた国は、2流の属国の地位に滑り落ちることでしょう。進歩しないものは取り残される。」と言った世界観は21世紀の今も主張する国がある。
 さらに、もし経済成長が停止たら、地球の気温上昇は止められるものの、世界の多くの人々は貧困と病の中に残される。
 一般に人々は目の前にある経済成長、短期的な消費 雇用などの経済問題、あるいは安全保障の問題を優先的に追求するもので 、議定書が実行され温暖化が本当に防止できるか、今後、長期的危機は手遅れになるまで放置されてしまうのかはわかりません。




2018/08/01

井伏鱒二の「黒い雨」と野坂昭如の「火垂るの墓」

 

1966年(昭和41年)井伏鱒二の代表作「黒い雨」は連載小説として発表された。画期的戦争の記録小説として、日本でも評価され、海外にも翻訳され紹介され、映画化もされた。黒い雨は雑誌新潮に1967年(昭和40年)1月号から最初は「姪の結婚」と言う題名で連載が始められ、その後題名を「黒い雨」とかえ重松氏の日記に重点を置き広島の原爆惨禍を抑えた筆致で描き、翌年の9月号で連載を終わっている。野間文芸賞を受賞し大江健三郎、江藤純氏ら多くの人々も絶賛し文化勲章も受けた作品だった。

 特に山本健吉氏は文化勲章にちなんだ記事で、「黒い雨は近来の傑作と思うが、この本を書いた動機は、あの毎年の原水爆反対集会のお祭騒ぎが悲しくて、あの作品を書いたという。あまりに政治の手に汚されすぎた。あまりに安易な符牒で呼ばれ過ぎた。井伏さんがこれを書いてくれなかったら、私は日本人として、何時までもやりきれない思いを消すことはできなかっただろう。」

 
 最初は巨大なクラゲのやうな原爆雲が刻々と赤、紫、黄、緑などに色をかへながら、廃墟となった広島市街を上から舐めるやうにユックリと動いて行く。そして人々を焼き尽くした灼熱の環境で郊外の竹藪のそばの溝の流れには目高が群れて遊んでいるという描写、あるいは死亡した子供をおんぶした母親、そして原爆爆心地の近くで、植物の新芽が徒長する様相。 「正しい戦争より最も不正な平和を選ぶ」というローマの政治家キケロの言葉ををかみしめている。それら重松日記に記されている文を取り入れ小説化した。


 この作品は全ページの約半分に重松日記や岩竹日記、他の資料とか報告書や資料を引用して小説に使った。重松静馬氏の日記は広島における原爆投下という過酷な力が加わった時、部外者ではなく、罹災者でしか感じられない生身の体験であり、その場の人々の様相であり自然の変容の目撃者である。その現実をそのまま記録し、みごとなドキュメンタリー小説になっている。

 著者自身が黒い雨は小説ではなくルポルタージュであるとのちに語っているように、戦争と平和の物語を題材にして最初は姪の結婚を主題にした世間の人情ものにしようとして連載小説は始まった。その後、 事実の重みから日記の描写の記述がそのまま文章として はめ込まれ 物語は完成した。
 



 井伏鱒二は1898年(明治31年)の生まれで、戦前より多くの作品を書いている。1929年(昭和4年)「山椒魚」「屋根の上のサワン」を発表。 1934年(昭和9年)「青ヶ島大概記」を書き上げた。この製作の過程を太宰治は打ち明けている。24歳の太宰治が早稲田大学近くの井伏鱒二宅で下宿しているときだった。江戸時代、近藤富蔵
という武士が八丈島に流された時記録された「八丈実記」のなかの八丈島持青ヶ島大概記のリメイク版であった。
 井伏鱒二の小説は村の出来事や、民話を素材にしてそれの端々に井伏風の創作を、人情味を加えて書いた作品が多い。1939年(昭和14年)ジョン万次郎漂流記で直木賞を受賞した。これもまた、明治の少年読本シリーズで石井研堂作の中浜万次郎をテキストにしている。

 井伏文学の特徴は、ありふれた日常生活を市民的日常を、観察して文章にする。そこに生の声ではない人間模様を描き出す方法とっている。描写技術がうまくないと古びた花鳥風月、凡庸な人情話になってしまう。
 センセーショナルな作家太宰治ほど有名でなかった井伏鱒二は、戦後この作品は自分の創作でなく人から聞いたものであるとした「駅前旅館」で番頭の日常些事を書き、「本日休診」もまた当時の産婦人科医院の日常を面白おかしくして描いて読売文学賞を受賞した。

 1966年(昭和41年)68才の時、それらとは異色の作品黒い雨で一躍国民的作家として文化勲章を受け、海外にも翻訳され反響をよんだ。「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」の一行に象徴される最も重要なものに注目し、この作品を書き上げた井伏氏の真実の姿勢を感じた。と船橋氏は評している。これは戦後まもなく書かれた「遥拝隊長」の戦争批判と同じ理念を表現していた。
 

 翌1967年(昭和42年)野坂昭如が短編小説「火垂るの墓」を発表した。神戸大空襲の後孤児となった14歳と4歳の兄妹の物語。戦争による爆撃で焼け出され、幼い妹を餓死させた想いを小説化したもので、冒頭の、餓死した少年のドロップの缶、その中に入っていたのは妹の灰と骨のかけらだった。その缶は投げ捨てられ、空に向かった清太の魂は、4歳の妹節子の魂と再会する。スタジオジブリの高畑勲監督のアニメ映画化して世界的に評価される。

 タレントであり作詞家であり歌手であった野坂昭如は「おもちゃのチャチャチャ」を作詞し、「黒の舟歌」を歌って人気を集め、あふれる反抗精神で世間の常識を突き崩す小説で、人の心模様を描き、ある時は江戸時代の戯作者になり、またある時は人の欲望心のやるせなさを描き出そうとした。
 火垂るの墓は文字にしたとたんに嘘が混じる。と自らが語っているとおり自分の経験した事実を創作し物語にしたものだった。
そして、卑怯者の思想を持つ、焼跡闇市派を自称し、文を書き、政治家にもなった。「正しい戦争より最も不正な平和を選ぶ」というローマの政治家キケロの言葉を体現して実行しようとした。


 小説はありふれた退屈な話とあまりに現実離れした突飛な物語その間にある。そして、小説は文章の技術だけではない、歴史に対する理解や人間の心の深層に迫る見方が反映される。そして、題材とする資料や日記の事実と創作との間の虚構と真実の兼ね合いでその作品の価値は決まる。

 今コンピューターに小説が書けるかが話題になっている。多くの文章を簡単にコピーできる。そして災害や事件の記事や、そのほかのルポルタージュ記事はかなり機械でも描きやすいタイプの文章で、すでに人間の記者と区別できないレベルに達している。日本では、昨年星新一に応募したコンピューターのショートストーリーが一次選考を突破した。

 今後、コンピューターを使い、資料を読み込ませ、それぞれの作家らしい文章を学習させて面白い小説にしたり、昔の物語を下敷きにして、機械による新たな小説が生まれる時代がすぐにやって来る気がします。しかし、心の叫びを表現した詩や小説はアンドロイド文学には無縁の世界です。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

・・・


                           峠三吉



2018/07/03

岡本太郎の父一平


           梅咲くやえらく儲けた製材所                                                       一平

 

 岡本一平は1886年(明治19年)函館で生まれ、江戸情緒を残す東京で、5歳から生活する。一平は、美貌のおしゃれな都会っ子で、東京の下町育ちで洒脱で野暮の嫌いな江戸っ子気質をもち、東京美術学校西洋画科に入り、大地主の娘大貫かの子と結婚する。
 かの子は1899年(明治32年)生まれ、明星で短歌発表しその常連となっている。
2人は美術学校の主任教授の仲人で1910年(明治43年)に挙式した。翌年二人の間に長男太郎が生まれた。岡本かの子は、のちに女流作家として有名になり、また長男岡本太郎は戦後、日本美術の革命児となる。

 岡本一平は大正から昭和初期にかけて、朝日新聞に漫画にちょっと洒落た文章をつける漫画漫文を連載、大ヒットし一躍有名漫画家になった。
 夏目漱石は朝日新聞の1912年(大正1年)8月から翌大正2年12月の掲載作品をまとめた「探訪画趣」の序文で、一平の時事漫画とその洒脱な文章を「私はこの絵と文とをうまく調和させる力をいっそう拡大して大正の風俗とか東京名所とかいう大きな書物を、あなたに書いていただきたいような気がするのです。」と絶賛。
 その後、映画小説と名ずけ、ストーリー性のある漫画を創作した「映画小説 女百面相」を単行本として出版し、さらに子供向けの連載漫画「平気の平太郎」を発表。 風俗漫画、政治漫画、似顔絵漫画、人生漫画と幅広い漫画の世界を開拓し大正期大衆漫画時代を作り出した。

 1921年(大正10年)東京美術学校の古き良き学生時代の恋物語「へぼ胡瓜」
と大正13年「どじょう地獄」を講談社から発表。実生活では一途すぎる性格のかの子と衝突し、一時は梅坊主の一座に弟子入りし、ばか囃子やかっぽれを踊り浅草の舞台に上がる日々を送った。その後家庭生活の葛藤を乗り越えるため、宗教に救いを求め、二人でキリスト教の信仰に入り、やがて大乗仏教信者となった。
 
 漫画においては漫画漫文スタイルを確立し、超多忙な生活を送っていた一平は、1922年(大正11年)新たな飛躍を求めて、一度めのアメリカ、ヨーロッパの旅行に旅立った。アメリカ、イギリス、フランスの政治漫画雑誌の現場を実感し、東京美術学校時代の同級生藤田嗣治とも再会し、ヨーロッパ近代絵画の知識を身につけ、それを漫画の世界に反映させた。これは、しんぷりしちずむと題した8コマ漫画漫画など新たな漫画の手法に反映されている。
 
 
 1929年(昭和4年)ロンドン軍縮会議を朝日新聞特派員として取材のため出発。
ロンドン、パリ、ベルリンと1932年(昭和7年)まで3年間ヨーロッパに滞在し、息子の岡本太郎は1940年(昭和15年)までずっとパリで暮らした。

 政治まんが時事まんがも一平流をつらぬいた。政治に対する激しい怒りや批判をストレートにすることはしなかった。底流には江戸時代の俳画作品に通じる、洒脱と笑いと粋な姿勢があった。政治的にはあまり先鋭にはならず、批判は後からクスリと笑う、ペーソスに包まれていた。

 そして「漫画にもやはり歴史もあれば世界的情勢といふものもある。これらを腹に置いてかからないと論に権威が足りないし、確たる想も建てにくい」と技術だけではない漫画での知性、歴史観にうらずけられた表現を大切にした。  

 林陸相(議会印象評)大臣席の1ばん端で深沈寡黙を守っている将軍がムクムクキリッとなった。演壇に出ての語気が荒い。「好戦的態度で国民を煽るという事実は全くありません。軍部としては甚だ迷惑です」将軍の虎ヒゲに触れていいところと触るるとべからざるところがある。
 一平の政治漫画はやはり、夏目漱石が評したように、「あるものになると、画よりも文章の方が優っているように思われるものさえあった。」
 また「漫画を3つの起源に分け、ナンセンス漫画、諷刺漫画、リアリズム漫画で、時局漫画の如きにおいても風刺の実効よりも機智の興味に力を移してきた。時局風刺画は性能不足の時代となった。大衆はこの絢爛なる時局の動きに対して、漫画家に別の注文を求めている。それは時局に就ての挿画であり、ユーモアであり、機智であり、余裕である。」

 その頃1929年(昭和4年)に、一平は江戸時代の俳優絵帳の現代版「新水や空」と題した、俳優や政治家の似顔絵を新聞で連載し、毛筆で人物の性格まで表現した。かの子は一時期隣に住んでいた芥川龍之介をモデルにした「鶴は病みき」で小説家としての一歩を踏み出し、認められる。一平はそのプロデューサーを務め、かの子は次々と小説を発表し女性流行作家となる。その絶頂期、1939年(昭和14年)の冬にかの子は亡くなる。その遺稿の小説「生々流転」などを出版し、自らは、漫画界の第一線から退いていった。

 戦時体制になる中、翌年1940年(昭和15年)トントントンカラリと隣組と全国で歌われた隣組の作詞をして、再び脚光を浴びる。戦争の激化とともに東京の空襲が激しくなり、1944年(昭和19年)には浜松に、その後岐阜県に疎開した。 


ちいもははも猫もしゃくしもおとりかな
たもとして払ふ夏書の机かな 
          与謝蕪村

気に入らぬ婆アと並び田植え歌 
風流も用事も一つ机かな  
          岡本一平。




 大正時代から昭和の初期にかけて、新聞、雑誌の漫画漫文で一時代を築き、漫画にヨーロッパ美術の新たな手法を取り入れ、革新し、先端を疾走した岡本一平。晩年は江戸時代の与謝蕪村の俳画の伝統にもどり、戦争中、疎開先の木曽川沿いの田舎で小さな子供たちと生活し、漫俳を作り出した。
 そして、へぼより野暮を嫌った粋で、洒脱な人生を終生貫き、1948年(昭和23年)62才で幼い4人の子供を残して亡くなる。


秋晴れや映画の景色ゆく心地


菊の香やなにを今更諸慾ぞも

2018/06/11

草野心平と詩人黄瀛

川面に春の光はまぶしく溢れ。
そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ葦の葉のささやき。
行行子は鳴く。行行子の舌にも春のひかり。

土堤の下のうまごやしの原に。
自分の顔は両掌のなかに。
ふりそそぐ春の光に却って物憂く。
眺めていた。

少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花環をつくる。
それをなわにして縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはいる。
その度に富士は近ずき。とおくに坐る。

耳には行行子。
頬にはひかり。


 草野心平は1921(大正10年)年1月、日本を出て、中国広東にあった嶺南大学に入学した。1903年(明治36年)512日生まれの心平、18歳の時であった。嶺南大学はアメリカ型のミッションスクールで、外国人が経営する学校で独自のカリキュラムで運営されていた。教員の4割は中国人、残りの多くはアメリカ人の教師であった。

 この頃中国では五-四運動が始まった。これは日本の対華21箇条の要求を中国政府が受け入れたことに反対する反日運動であった。

1923年(大正12年)はじめての詩集「廃園の喇叭」を発表する。中国の広州にいて、1925年(大正14年)もっとも中国らしい名前の同人誌「銅羅」を発刊した。
 当時草野心平は無名であった。「春と修羅」の詩を読み、それに感動し「銅羅」に、やはり無名の宮沢賢治の作品も載せた。その詩を「表現過程においていつの間にか、天然自然が濾過器としての彼を透って、賢治的な心象風景を描いた」と評して高く評価した。この「銅羅」には草野心平を中心に黄瀛、宮沢賢治、高橋清吉、三好十郎など多くの詩人が参加した

 この中で、当時は黄瀛が詩人としてもっとも有名だった。黄瀛は中国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、中国の青島日本中学校時代、多くの日本語の詩を発表し、日本でも認められていた。その後、進学のため日本にわたり、高村光太郎のアトリエで多くの時間をすごしていた。その頃草野心平を光太郎に紹介した。
 そして高村光太郎のもとに黄瀛、賢治、心平は私淑することになる。
 その後、黄瀛は文化学院に在籍した後、陸軍士官学校に入学、2年後に卒業する。1931年(昭和6年)南京にわたり蒋介石の国民党に参加する。

1928年(昭和3年)に「銅羅」は廃刊、草野心平は同年11月「第百階級」を出版、生活に苦しみながら詩を創作する。そして1935年(昭和10年)には歴程を創刊する。

秋の夜の会話
 
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だろうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。


 1937年(昭和12年)盧溝橋事件から、日中の全面戦争になる。その後、蒋介石の国民党とドイツの仲介により日本との和解が進められた。それに対し、日本の陸軍参謀本部は現実的判断から和平を求めた。一方近衛内閣は国民の熱気におされ、賠償責任が必要であると主張し和解交渉は決裂した。1938年(昭和13年)、近衛内閣が国民政府を相手にせずと声明を出し、日本は汪兆銘を担ぎ出し南京政府を作った。
 中国には共産党の延安政権 、蒋介石の指揮する国民党の重慶政権そして南京にそれらに対抗するための日本が支える汪兆銘の南京政府が併立する状態になった。

 草野心平の大学時代の同級生は延安の共産党、重慶の国民党そして南京の汪兆銘政権に別れた。草野心平は、林柏生にさそわれ 1940年(昭和15年)汪兆銘の南京政府宣伝部顧問として南京に向かった
  1942年(昭和17年)には日本政府の支援のもと、第一回大東亜文学者大会が開催された。中華民国から草野心平が文学者の代表として出席し、1944年(昭和19年)には第3回目の大東亞文学者大会が開かれた。しかし、汪兆銘は病死し次第に色あせた会議になってしまった。

1945年(昭和20年)日本は敗戰、草野心平は、国民党軍軍人として接収のため南京に来た黄瀛と再会した。

一つのふるさとからいつのまにかおれにも一つのふるさとが出来。
二つが別別の二つでありさうして一つであることの希願から。
大きな亜細亜の命運のなかで。
けれどもおれがみたものは。
いまはまさしく敗亡のみじめなざまだ。
中国なくして日本なく日本なくして中国なし。の系譜を正しく踏もうとして。
けれども夢は阿修羅になって迫るいま。
生ま身をひきさく別離の胸にやぶける金属音。

 敗戦後の1946年(昭和21年)3月草野心平は中国から帰り福島県の阿武隈山脈の下の生家に帰った、そして歴程を復刊する。
 黄瀛は1949年(昭和24年)国民党の将校として中国共産党に囚われ入獄、1962年(昭和37年)出獄。1966年(昭和41年)文化大革命で獄中の人となり、  11年後に解放され、四川外語学院で日本語と日本文学を教える、そして教授になる。

生きていれば きっといい時世が
来るにちがいない
こんな時はかなさは
すっかり取り除かれて
いるにちがいない
高い梢の桐の花
石垣一ぱいの
明るい金色の名なし草
夏の早い雲足さっときてさっと戻る
さんさ時雨

後来有期


 草野心平の尊敬する師は高村光太郎であり、大いなる影響を受けた詩人は天上の作家
宮沢賢治で、自らは地上の詩人であった。そして黄瀛は自分の存在自体が詩でありたいと願い終生詩を書き続けた。

2018/05/22

日本的医療文化 変わったこと変わらないこと

  • 戦後の日本は、国民皆保険制度を確立し、誰でも、どこでも、同じ治療が安い医療費で受けられる、お任せ型の医療を確立した。
  •  その後、医療の技術は進歩しはじめた。現在使われているCT検査は 1970年代に、またMRIは1980年代に発明された。その頃カテーテルによる心臓治療が始まり、内視鏡も進歩し薬も続々と開発された。 それとともに1980年代には、医療費20兆円越え、医療費亡国論が唱えられた。すでに、日本は少子高齢化に向かっていて、この医療費を放置すると、国の財政が破綻する、特に多くの種類の多くの薬が使われ、薬代が医療費の全体の30パーセントをしめていて、これを削減する必要があると言われた。
 当時先進国では、専門に分化しすぎている臨床医を、専門医と家庭医に分けることが行われていた。1985年(昭和60年)日本でも家庭医に関する懇談会できた。しかし、2年後の1987年(昭和62年)反対に会い、家庭医構想は頓挫した。
  1990年代半ばからデジタル技術の時代がはじまった 。デジタル技術が定型的な仕事、給料の計算や自動車などの溶接作業などを肩代わりし、それを使って人間は判断することに集中でき作業の効率は改善した。
 医療の分野でもこの IT技術の活用が期待された。しかしこの時期のコンピューターシステムは取り入れても、作業の手間は変わらず、業務は効率化しないで、お金だけかかった。

 2000年(平成12年)医療費は約30兆円になり、公的介護保険制度ができる。当時、病院改革すなわち病院の質の向上が、問題となり、また医療の研修が問題になり、高齢者医療費増大が問題になった。
 2004年(平成16年)医局体制を大学病院の独占から、市中病院も加わった研修医制度ができた。それにより医局支配の体制は弱くなった。

 そして2001年(平成13年)小泉内閣になると、財政再建のため医療費の支出に総枠を決めて削減した。この医療費の削減が医療崩壊をもたらしたとして批判され、その後医療費削減は困難になった。

  以前から課題であった、医療情報の開示、医療機関の第三者評価を進めるとともに、ITなども活用しながら、科学的根拠に基づいた医療(エビデンス ベイスド メディシン)を確立していくことが目標となった。多くの医療機関同士で患者の病名や処置のなどの情報の共有を目指した、電子カルテを使った情報化がすすめられた。しかしコストのかかりすぎや、情報流出の懸念からなかなか進歩、普及が見られなかった。
 この頃になると、日本の医療保険制度は世界的に優れていることに疑問符がつきだした。財政的には赤字の先送りによって支えられ、医療関係者の過重労働に支えられ、技術は最先端ではなく、IT化もそれほど進んではいないし、医療のシステムや情報の開示は遅れているのではないかのと。

 2010年(平成22年)医療費は介護を含め約40兆円となる。


 この数年で、医療にもIT技術が急速に取り入れられた。 世界最強の囲碁のチャンピオンを倒したアルファ碁の会社ディープ マインド社はイギリスの公共医療シシテム、国民医療サービス(NHS)と共同でこの技術を医療システムに適用し、新しいシステムを開発しつつある。
  また韓国では医療情報化政策で、今では医療機関のあいだ、医療機関と患者の間の情報共有がITで実現していて、医療機関の質の評価が行われ、各病院の実績が公表されている。そしてアプリ「健康情報」でだれでも見ることができる。さらに、「マイチャート」で診察の時患者が情報共有に同意すれば、クラウド上に検査結果や薬の処方が記録されいつでも見て使うことができる。
 医療技術では機械が視力を獲得し、情報集め、診断をするようになった。医療における画像診断、CT やMRIや、顕微鏡でみる病理診断、あるいは胃カメラや大腸のカメラの画像、心電図や心臓エコーの診断も出来始めた。ディープマインド社は眼球のスキャン画像100万枚を解析して失明経過を明らかにし、ロンドンでは頭頸部のがんCT、MRIの画像から、効果的放射線治療の研究を行なっている。

 さらに機械が耳を持ち音声入力が可能となった。
そして2016年Microsoft社が会話における音声認識で人間と同じ役割を果たすことに成功した。医療や介護の現場で時間がかかり面倒なことは、活動の記録を規則にしたがって正確に書き残す作業で、多くの時間がこの作業に費やされている。電子カルテの方法でかなり改善したもののいまだ手書きの書類作成は必要で、これがすべて音声による正確な記載ができれば本来の医療にもっと集中できる。
 ロボットの進化で手となり足となる機能も進歩した。アメリカの国防高等研究計画局が膨大な予算をつぎ込んで1999年ロボットダヴィンチが完成、世界中で多くの手術に使われている。
 さらには人間の判断、頭脳も機械がかわりにでき始めた。現在IBM社のワトソンを使って病気の診断をし、さらに日本の保険会社がこのワトソンを使って、過去の保険金の支払い例を評価し学習して専門的知識を身につけた。これは健康診断のデーターから将来の病気の可能性を評価する方向に進化する。

 技術は進歩する。この30年間、機械化(コンピュウター化)で病院などの医療システム、教育、治療が大きく変わる時代に入った。一方、日本の医療文化は変わらないことも多かった。

 今後このITを使った技術を日本の医療文化にどのように取り入れて、医療のシステムを変えていくのかが問われている。一方、少子化と高齢化が急速で、そのための財源が問題となっている。高齢者の国日本、働き手の激減する日本社会で、財政問題から日本の医療文化も今後根本的な変更が迫られるかもしれません。

2018/04/22

春と修羅 シャーマン宮沢賢治


わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です

けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません

  • 宮澤賢治は「春と修羅」の中で私とは、映画の画像のように明滅する現象で、また私が感知する人や銀河など宇宙の中の世界も同じであるととらえた。
  • 科学的思考の枠組み、言葉を使って、自分という存在を、また外界の自然や世界を(量子力学のような物質の波動であり粒子であることを)理解し、時間の中の地史、歴史も同じように考え、詩として組み立てようとした。
 また、仏教的世界感で世界を理解し、農芸化学の知識と鉱物学や物理学の言葉を詩にちりばめ、自分の心が感じる風景、心象をスケッチし表現した。
 

 1930年代日本は社会が不安定になり、資本家に対する不満、近代社会に対する不満から、
社会主義や反資本主義の運動が盛んになった。
このなかには北一輝など天皇制を変革のシンボルとする国家主義者や、柳田國男の民俗学者、
あるいは橘孝三郎などの農本主義者たちが社会改革の運動を理論化し展開した。

 宗教では、日蓮を人類救済の唯一の人とし、法華経を信じ、日本の国体を護り立正安国の真の世界を目指す宗教家、田中智学の主催する国柱会はかなりの人々に影響を与えていた。当時、日蓮宗は北一輝、石原莞爾、三好達治らも信奉し、宮沢賢治もこの教えに感動し、「正しくつよく生きるとは、銀河系を自らのなかに意識してこれに応じて生きていくことである。」「春の風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。」と日蓮宗の熱烈な信徒となり、国柱会に参加し社会活動をめざした。
 
 同時に1920年代から1930年代にかけては科学の時代でもあった。アインシュタインの相対性理論が発表され、ハイゼルベルグが不確定性原理を発表、鉱石学、天文学、通信科学などが注目され、多くの雑誌が出された。子供達も顕微鏡や望遠鏡で遊びながら科学者になる夢を見た時代だった。

 また、文学とりわけ詩の世界では北原白秋が詩や短歌から、童謡の作詞家となり、多くの作品を生み出していた。

 宮沢賢治は1896年(明治29年)岩手県に生まれる。父親は熱心な浄土真宗信者で、その家の長男として宗教的家庭で育ち、1920年(大正9年)盛岡高等農林学校研究生を終了し、花巻高等女学校の教師になる。
 翌年1921年(大正10年)家出して日蓮宗の国柱会の奉仕活動を始める。このころ法華文学を目指し童話を書き始める。
1922年(大正11年)に宮澤賢治の良き理解者であった妹としと死別し「永訣の朝」を書き、「春と修羅」を発表した。修羅とは仏教的世界で、六道すなわち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上で人間の一つ下をあらわす。そして自らを修羅と考え悟りの境地を詩の形で表現し、「春と修羅」と名ずけた。
 心の中には言葉になる以上の多くの感覚の集まりがうまれている。
それを表現するために、あるいは理解するために枠組みを作り、童話や詩であらわす。
 宮澤賢治は法華経の宗教的世界観、そして科学的知識とりわけ農芸化学、地質学の概念やイメージをそのなかに取り入れ構成し新しい詩を作った。それが、「春と修羅」だった。
 その後も同じ題名で続編を発表した。
1925年(大正14年)には「注文の多い料理店」を出版し、「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」を書き始める。

「そこでは、あらゆことが可能である。人は一瞬にして氷雲の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅することもあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることもできる。」

 宮沢賢治の生きた昭和時代、恐慌と相次ぐ冷害による凶作で東北地方は飢饉に陥った。
雨ニモマケズ、風ニモマケズの詩はこのときうまれた。その後、詩の世界からしだいに光 風の音が精神を語る、童話作家となっていく。自然の世界をアニミズム、精霊的感覚でとらえ物語とした。

「黄色い枇杷の実吹き飛ばせ
青いどんぐり吹き飛ばせ・・・すっぱいりんごも吹き飛ばせ
どっどど・・・どっどど・・・うみの水も吹き飛ばせ
やまの岩も吹き飛ばせ・・・どっどど・・・どっどど・・・」


 そして社会改革家として、時空を超えた共同体をつくるシャーマンになった。
その共同体イーハトブでは罪や悲しみさえ聖くきれいに輝いている世界だった。
しかしこの社会改革、文学すべて未完のまま、37歳で生涯を閉じた。
 

青ぞらのはてのはて
水素さへあまりに希薄な気圏の上に
「私は世界一切である
世界は打つらふ青い夢の影である」
などこのやうなことすらも
あまりに重くて考へられぬ
永久で透明な生物の群れが棲む



2018/04/03

ソニー ドリームキッズ AIBOとaibo



 1999年(平成11年)人工知能を積んだアイボと言うソニーのロボット犬が大人気だった。感情を組み込まれたロボットとして作られ、放っておくと退屈し、声をかけると喜ぶ精巧さで 当時文化庁から表彰され大人気となっていた。その頃ソニーはアイボとバイオで世界の最先端企業だった。

 「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を原作にした「ブレード ランナー」が1982年(昭和57年)映画化された。2019年環境破壊による荒廃したロサンゼルスを舞台にして、火星から逃亡してきたアンドロイドを処理する人間と感情をもったアンドロイドの悲哀を描くものだった。その世界では、生物は保護され人造人間は廃棄する、ハリソンフォードが主演し、酸性雨のたちこめる舞台は日本の都市がイメージしてつくられた。
 この本物そっくりの機械じかけの生物アンドロイドは感情を持ち、心をもっていた。

 戦後財閥の解体によって、1946年(昭和21年)に井深 大と盛田昭夫が東京通信工業を設立。その会社の設立の目的は「仕事に命を捧げる技術者たちがその技術を高めうる最高のレベルで実現できる目的でダイナミックで喜びにあふれた理想的な仕事場を創造すること。」だった。それが世界のSONYになり、 同じ頃本田宗一郎が1948年(昭和23年)本田技研工業株式会社を創業し、バイクを作りその技術で世界のホンダになった。
 この時代は、敗戦に伴い財閥が解体されると国家統制が緩み、自由な技術者や研究者の時代が訪れ、あらたな起業家たちが世に出るチャンスだった。

 ソニーは創業者の井深氏がまずテープレコーダーを自らの手で創り出して創業された。その後トランジスタラジオを作り、世界中、特にアメリカに爆発的に売れ、続いてトリニトロン技術を使ったテレビでさらにそのブランド力を高めた。そしてウォークマンを作り、新たな音楽を楽しむ携帯の音楽プレーヤーとして世界の音楽ファンを取り込み、コンピューターでは、バイオを持つことがおしゃれで流行の先端を行くことになった。
そしてこれらの家庭電化製品や、コンピューター製品は日本技術の成果であり世界中に売れた。

 井深さんはトランジスターキッズだった、盛田さんはウォークマンキッズだった、大賀さんはCDキッズだった、今われわれはデジタルドリームキッズにならなければならない。20世紀の終わり、新たに会長になった出井氏は世界むけ企業のイメージ作戦で語り、キャッチフレーズは「ソニーで夢を見ませんか」だった。

 出井会長になってソニーの経営を人のつながりによる情の経営から国際照準に合わせた合理的な経営に切り替えた。そしてダボス会議に出席し世界の政界財界の人々と話をし、国際人としてソニーの顔となった。

 1999年(平成11年)10月のタイム誌の別冊デジタル50の特集号がアマゾンのジェフべゾフをあげ 表題は「一位はビルゲイツじゃないよ」だった。そして世界の15位にデジタル時代の影響力のある企業としてソニーの出井会長はランクされていた。
 インターネットはビジネス界に落ちた隕石だ。物作りのみに頼っていてはだめで新たなネットワーク時代のビジネスが必要だとする構想でソニーを変革していった。
 そしてその夢は、時の森首相が2000年(平成12年)9月21日の秋の臨時国会のITインターネットプロトコルバージョン6と言う言葉が入った所信表明演説がなされ、これが実行され、日本がIT先進国になる、世界の先端国家になるかに見えた。
 この構想は前年、出井会長が議長を務めたIT戦略会議で、5年でアメリカを抜くIT大国になるという目標の実現を目指したものだった。
 その当時、アメリカでは情報ハイウエー構想がゴア副大統領によってうたわれ、多くのIT企業が勃興した。しかしそのドットコムブームはテクノロジーに期待されたほどの進歩が見られず希望と構想が先にに進んでしまった。正しい方向に必ずしも進化しないでバブルとして消え去っった。
 日本でも構想では、高速インターネット網を整備して、電子政府をつくり、学校教育のIT化の推進を掲げた。しかし実際にはパソコンを多くの人に支給したり、書類の電子化が一部に行われただけで、2001年(平成13年)9月のITバブル崩壊とともに頓挫した。

 このITバブルの崩壊でソニーもまた隕石による恐竜と化してしまい哺乳類となったのはGoogleとアマゾンであり、鳥類として残ったのがアップルだった。アップルのスティーブン ジョブズは初期のコンピューターで、シンプルな形をした技術と芸術の統合した完成品をつくろうとし、さらにそれを進化させ音楽、映像そして文章全ての作業ができるiPadi phonを完成させて、世界の企業のトップになり、文化や生活までも変えてしまった。

 今は3回目のIT革命の時代で、人工知能AIすべてのものがインターネットにつながるItoTそしてビックデータと言う言葉を聞かない日はないほどのブームを迎えている
  今まで、幾度も迎えたITの流行が、一過性のもので、バブルとなり幾度か崩壊した。 今回も、何が正しい方向であるかはまだ流動的で、アメリカや中国そしてロシアやアジアの各国が、それぞれ、IT大国に方向を定め政策を打ち出している。さらにはこの知的財産に対して、アメリカは国外への技術の流失を防ぐため、かつてのCOCOMに近い政策を打ち出してきた。

  現在世界企業の主役は大手のIT各社が占めている。1番がアップル、2番がGoogleのアルファベット、第3位がAmazon.comなどのインターネットにおけるプラットフォーマーが独占している。概念としての人工知能やIT技術が現実の生活を変えることは確かであるものの、今後いつどんな技術が変革の主役になるかまだ誰にもわかっていません。  


  ブレードランナーで予想された感情をもったロボットは、2019年に誕生することはなく、人工知能やロボットはこの間、違う方向で進歩した。 感情をもったロボット犬というアンドロイドの方向とは違う、機能の向上した犬型ロボットとなって今年アイボが復活した。そしてブレード ランナーも新たに2049年を舞台に復活した。
 誰が未来の覇者になるか興味のつきない時代です。