2020/04/17

パンデミックの記憶


 概して我々は、死亡率は低いが早晩自分たちが関わることになるはずの現実的な病気より、自分たちがほとんど罹りそうにもない高い死亡率を持つ病気の方にずっと恐怖を抱くものである。

            史上最悪のインフルエンザ   アルフレッド w  クロスビー

 人類は、動物から人間に感染するようになった病気の影響を、長い歴史の過程で幾度も受けてきた。約1万年前に、犬を飼い、犬とともに暮らし始め、豚を飼い、牛や羊を飼い、それによって動物の病原菌であったヴィールスは変化し、人間だけが罹患する病原菌になった。新型インフルエンザは豚の体内で変異し、人に感染し流行した。

 生物は進化の過程で自分の子孫をばら撒き、生き残るため、様々な形態を生み出した。病原菌にとっては自分の子孫をばら撒き、生きながらえるには、どれくらい多くの人間に次から次へと感染できるかにかかっている。罹患者がどのくらい長い間感染源としていられるのかと、病原菌がどのくらい効率よく感染するかによって決まる。あまりに強毒性のものは、病気が広がる前に、宿主がすぐに死亡し、かえって感染は広がりにくい。

 インフルエンザ、風邪や百日咳は個体に咳やくしゃみをさせ新たな犠牲者に移っていく。コレラ、ノロウィルスはひどい下痢をさせそれによって感染が拡大する。咳は人間から見れば病気の症状である、しかし病原菌から見れば進化の過程を通じて獲得した生存のための策略である。病原菌は動物を病気にすることによって個体を増やし、生き延びるための環境を作りだす。病原菌が有効に伝搬するために、下痢を起こさせたり咳をしたりといった様々な方法をとりウィルスを拡散させ人から人へとその住みかを広げていく。

 それに対して人間は体温を上げて菌を殺す、あるいは免疫システムを使って菌を殺す。
風疹やマシンは一度かかると一生かからなくなる終生免疫を獲得する。ところが病原菌よっては抗体に認識されないように抗原部分を次々と変化させる作戦を取る。インフルエンザは変異を起こし新型のインフルエンザが次々と登場することのよって毎年生き延び活動する。
 
 パンデミックを起こしたインフルエンザは、突然流行し始め短期間の間に集団全体が病原菌にさらされてしまう。そして一部の人は死亡し、多くの人は回復し抗体を作る。感染者の数の減少とともに、ウィルスは人の体内でしか生き残れないので流行は終息する。ウィルスもまた進化の過程でより多くの子孫を残すことができるウィルスが生き残る。


 1918年から19年にかけてスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザがパンデミックをおこした。アメリカでは1000人あたり280人が罹患し、全人口の25%、アメリカ全土で2500万人がかかり死者は60万人以上に登ると推定された。
 
 1918年春に悪性の風邪が流行し始め、第一次世界大戦の最中、アメリカから大部隊の兵員が船で次々と、ヨーロッパ戦線に渡った。そしてヨーロッパの戦士から市民にこのインフルエンザは蔓延し、世界中に広がっていった。8月の後半になって、アフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスは変異し、強毒性のインフルエンザとなり、9月はじめに、アメリカ東部の地域からこの流行が再び始まった。
 アメリカ東海岸の170万都市のフィラデルフィアの当時の記録がある。
 最初の頃、インフルエンザの流行はわかっていたが、余計な恐れは必要ないとする論説が米国医師会雑誌に載せられていた。しかし、9月29日からこのインフルエンザで死亡する人は急速に増え、一週間で706人になった。10月3日の夜、市はすべての学校、教会、劇場その他の大衆娯楽施設に閉鎖命令を出した。その後も死者は急速に増えて、第二週には2600人、第三週には4500人以上が亡くなった。、人々は病院に殺到し、それらの人々で溢れた病院は機能麻痺に陥った。公的施設も機能しなくなり、公共サービスは大混乱に陥った。公共サービスのうちとりわけ深刻だったのは遺体の埋葬作業だった。埋葬できない死体がたまって人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせることになった。10月10日で759人の市民の死亡数に達した後に次第に流行は下火に向かった。10月の末にはしだいに学校や教会、劇場やサロンが再開されていった。
 11月11日第一次世界大戦は終結した。その後一週間の死亡者数は164人、次の週は103人、次は93人と減少し、流行は終息した。アメリカでの死者は68万人にも及んだ。
 一般の感染症と異なり、このインフルエンザは子供や老人の死亡率より、20才台30才台の元気な人々の死亡率が非常に高かった。「ミラボー橋」で有名なフランスの詩人アポリネールとオーストリアの画家クリムトはインフルエンザにかかり死亡し、アメリカの小説家フィッツジェラルドはインフルエンザの流行のためヨーロッパ戦線には参加しなかった。そしてニューヨークヤンキースのベーブルースはインフルエンザにかかるも生還した。

 大正時代、白樺派の代表作家武者小路実篤の小説「愛と死」の中で、主人公の婚約者がフランス留学から帰る船の途中、スペイン風邪で亡くなる場面がある。当時人々は船に乗り国外に行き来し、インフルエンザは瞬く間に世界中に広まっていった。太平洋上の島々でも船による人の移動で、このインフルエンザは蔓延した。
 サモアの島々でも広がったこのパンデミックは、統治国の対応で明らかな死者の差が生まれた。西サモアではインフルエンザが蔓延し多くの死者を出したにも関わらず、アメリカンサモアでは死者は出なかった。当時その島の統治をしていたボイヤー知事は強力なインフルエンザ対策を徹底した。外からやってくるすべての船舶の検疫を強化し、インフルエンザにかかった患者が治って10日経過しなければ入港を拒否し、他に海岸でボートでの着岸を禁止した。郵便物は2時間の燻蒸消毒を行い、荷を扱う人にはマスク着用を義務ずけ、アメリカ海軍からインフルエンザワクチンも入手した。このワクチンは結局無効であったが、この検疫は1920年の中ごろまで維持された。



 日本では、このスペイン風邪による死亡者数は1918年6万9820人、1919年4万1986人、1920年10万8428人にのぼった。1度目の流行では、10月に急速に死者が増え、そのピークは1918年の11月そして、2度目のピークは1920年の1月だった。1回目の流行時全国民の37.3%がかかりその死亡率は1.22%、2回目は患者数は10分の1と少なかったものの死亡率は5.29%と高く、ウィルスの変異による悪性化が原因と推定される。流行の4週間で患者数はピークに達し、4週間で流行は終息している。

 内務省衛生局は「全世界を風靡したる流行性感冒は大正七年秋期以来本邦に波及し爾来大正十年の春期に亘り継続的に三回の流行を来し総計二千三百八十余万人の患者と約三十八万八千人余の死者とを出し疫学上稀に見るの惨状を呈したり。」と報告している。
 

 このスペイン風邪は、第1波がおさまった後、強毒性となった第2波、第3波と世界中に広がり、世界のすべての大陸、太平洋上の島々や極地にも拡散した。ワクチンも有効な薬もなく世界で2000万人以上の死者を出して、集団の多くの人が感染し、抗体をつくり集団免疫を獲得して終息した。

2020/03/22

イギリス中世の森



汽車に乗って、
アイルランドのようないなかへ行こう。
人々が祭りの日がさを くるくるまわし、
日が照りながら雨の降る、
アイルランドのようないなかへ行こう。
まどにうつった自分の顔を道づれにして、
湖水をわたりトンネルをくぐり、
めずらしい顔のおとめや牛の歩いている、
アイルアンドのような田舎へ行こう。
                                丸山 薫



 アイルランドの島の大部分はかつて巨大なトチノキ、ナラ、カエデの広大な原生林に覆われていた。山岳は急峻でなく、標高1000メートル程で、現在は、泥炭地や低潅木のヒースに覆われる。古来原生林の中は一つの生態系をつくり、枯れた木もまた甲虫類の生活の場となりウサギなどの小動物の住処となり、枝は枯れて地面に落ち、枯葉と共に木々に栄養を与えていた。

 アイルランドと同じように、イギリス本島は、大西洋からの西風を受け、湿った空気が嵐となり、丘に吹きつける。急な山がないため平らな土地は、低潅木のヒースの茂みを作り、ひらけた場所に立つ野生のオークなどの木があり、家畜がすむ牧草地になった。排水の悪い多くの場所は湿地帯となった。
 17世紀には、造船の為にオークやもみの木は大量に伐採された。1000トンの大型軍艦一隻を造るのに、樹齢100年のオークの木が2000本必要とされた。オーク材は腐りにくく、自然にカーブしているものもあって、船体用の板材として最適であった。さらに、鉄やガラス、あるいは陶磁器、塩の製造にも木材が大量に使われた。こうして、アイルランドもイングランドも古代からの森林は消えていった。

 18世紀のイギリスは、国土の多くに水路が造られ、そこを船で木材や穀物さらには塩などを運ぶ、物流の主役は水運だった。1840年から50年にかけて、鉄道が全国に広がる共に、人口も増え、広範な湿原は、排水され、肥沃な土壌の農地に変えられていった。産業革命以降にイギリス全土から90%の湿地は姿を消し、低地のヒースの原野は80%消えた。

 イギリスは第二次大戦の時、食料確保のために、原野を酪農と耕地にするため、開墾をすすめ、必要な木材を手に入れるためにさらにオークなどの木々を切り倒した。その代わりに麦畑などの穀物が造られ、そして森林と生垣がわずかに残された。その結果、牧草地は38%くらいあるのに比べ、森林は8%と少なくなっている。20世紀の終わり、国が補助し政策的に進められた農業の合理化、近代的工業型農業の方向はいきずまった。世界のグローバル化で小麦や乳製品は、世界の穀物との競争にさらされ、国の補助金がいくら支えても、将来性の見えない状態になった。

 同じ頃,イギリスでは農地の環境的価値を高める、庭園復元のプロジェクトが始まり、それを受けて、耕作地を野生にもどす、クネックパークの野生化計画が2000年に動き始めた。その土地に自生していた種子を採取して蒔き、自然をなすままにし、そこに動物を放った。ハイイロガンは大量の沼地の植物を食べることによって、葦がはびこり、ヤナギが生えて、沼地が消え去るのを防いだ。さらに草食動物によって自然の植生が低木からやがて高木の密林になるのを防いだ。草食動物の野牛、野生の馬、野ブタをその土地に放ち、開けた場所に立つ野性の木、低木、そのまわりを野生の牛、馬が草をはむ牧草地からなる、中世の森林牧草地を復活させた。ここでは植物と小動物と、昆虫とありとあらゆる生物が生息できるようになり、本来の自然が戻ってきた。
 
 樹木の植生は、寒帯では単調、温帯では複雑な生態系をなし、熱帯は生物の多様性がが見られ、動物植物のありとあらゆる種類の宝庫となっている。氷河期に北半球では、氷が南に進み、多くの植物を枯らした。森林は氷河期の影響を受け、北方の森林はその後、生存に勝ち残ったもののみ構成され、単調で、種類は少なく、多様性は失われている。一方、熱帯の森林はどんどんと多様化していった。この多様性こそ地球上の生命の本来の姿だった。

 この生物の多様化は、有性生殖による。オスの遺伝子とメスの遺伝子が子孫に半分ずつ受け継がれ、その子孫はさらに4分の1の遺伝子が受け継がれ、多様な遺伝子が混じり、生物の多様性が生まれ、生き残ることができる。植物も生き残るために、有性生殖をする、植物は受粉するための花粉を運ぶ動物、昆虫が必要でこれらは共に進化する。植物は甘く、栄養のある花蜜で動物を惹きつけ、昆虫や鳥は植物の色と香りにひかれて集まってくる。動物がいなければ植物は生きられないし、また植物がなければ動物も死に絶える。

 この有性生殖を支える共生の物語は、イチジクとハチの間に見られる。イチジクの若い実の中は、花がうちに向かってついている。その花が受粉すると、成長して種をつくる。これにはイチジクバチの存在が必要になる。雌のハチはイチジクの中に入り実の中の花に卵を産む、そしてそこで雌バチは死んで、卵は幼虫となり、イチジクの実の中でその身を食べて蛹となり成虫になる。そして雄バチはそこから飛び出し雌のいるイチジクに向かう、その時花を受粉させる。

 このように1種類のイチジクには、1種類のイチジクバチが存在する、それを介してイチジクは750種類にもわかれ亜熱帯から熱帯地方に広がり、植物として世界中に広く分布し、4000万年も前から生き残り、繁栄した植物になった。さらにこのイチジクの身をコウモリや鳥やそのほかの生物の食糧となっている。この長い時間をかけて出来上がった地球上の複雑な生態系はハチがいなくなったら瞬く間に地球上から消えてしまう。
 
 同じように、このオークの木はその繁殖をカラス科のカケスに頼っている。オークの実は樹齢20年位なってからどんぐりとなって地上に落ちる。そのほとんどは動物に食べられるか、腐ってしまう。やっと根がついても日光が当たらない木の下では育たない。この実が育つためには、捕食者に食べられないために土の中に埋める必要がある。その役割をカケスが果たす、一ヶ月に7500個以上のドングリを集め、元の木から遠く離れた周りに木のない低木の土の中に、50センチほど話して埋める。これを食料として保管しておく。4月から8月のは他に食べ物がたっぷりあるためこのドングリは5月に芽を出し、6月に葉が開く。カケスはひなにこの幼い葉を食べさせる。こうしてカケスによって植えられた苗木は、多くの子孫を残すことになる。

 オークの木の根は、樹冠よりはるかに大きく広がっていて、広大な木の根の周りにその生命を支える複雑な共生関係にある菌根の世界がある。この糸状の菌根が、オークに水と必要な栄養素を届ける。そのお返しに植物は炭水化物を与える。これは動物が海から陸に上がった時カルシウムを体内にとどめて使っているのと同じように、水中に豊富にあったリン酸を植物が多くの種類の菌根菌類を使って、取り込み、さらに、分子レベルのシグナルを送って他の木々に化学物質を出させる。

 この植物の菌根システムは、動物の体内の免疫系やその他の化学物質の伝達、あるいは腸内細菌の果たす役割に似ている。地球上の生命は、動物も植物も多くの生命体の織りなす非常に複雑で入り組んだシステムでできていて、いまだその全容は解明されていない。自然界には、何百万もの種と相互関係を築いている種が、何百万も存在し、細菌やウイルスも重要な役割を果たしている。この相互依存関係は30億年の年月をかけて作り上げてきたもので、今でも、熱帯雨林や温帯の原生林のちょっとした変化から複雑な変化をきたしうる、その複雑系はそれがどのように変化するか、現在のコンピューターでも描き出せない。この複雑系の中心である森の木がなくなれば生命はすべて消滅する。

 この森の木と野生生物の再野生化がイギリスのクネップ試みられ、中世の森が復活した。






 参考  英国貴族、領地を野生に戻す       イサベラ トウリー著 三木直子訳

2020/02/29

縄文の森


大空は永遠に青く、
大地は長く揺るがず、春に花を咲かせる
だが人間よ、お前はいつまで生きるのか

                            李白

 3億年前地球は、シダ植物に覆われていた。この時期、氷河は縮小し、高温多湿の環境で、シダ植物の大森林が地球上に現れた。それが次の氷河期に土の中に埋もれていた。
 1万年前、最後の氷河期が終わった後、 オーストラリアのクイーンズランドの熱帯雨林は、この時からできはじめ、成長してきた。この熱帯の原生林では50メートル近い巨木がそびえ、その樹冠の下の湿気の多い低木の層では、シダやハンノキ、そしてキノコ類が茂っている。この森の地上には多くの堆積物、朽ちた枝、落ちた葉、多くのキノコ類や地衣類、虫や微生物を養い、多様な生物の住処をつくっている。フンボルトは、同じような南米の熱帯雨林について、「海岸まで続く広大な森林が眼下に広がっていた。樹木には、つる植物が絡みつき、びっしりと花を付けた樹冠部が絨毯のように連なり、その深い緑が光を受けて輝いていた。これが熱帯の植生とのすばらしい出会いだった。」

 ユーラシ大陸ではやはり一万年前、樺の木やハンノキは南の温暖な地帯から、しだいに北半球を北進し広大な樹林をつくりはじめた。
 日本でも縄文時代の初期、9000年前くらいから、氷河期が終わるとともに、気候はしだいに温暖化し、日本列島の南部、九州や南西諸島の暖かい地方にのがれ、生息していた照葉樹林と冬でも葉の茂る常緑広葉樹林が、寒冷地の針葉樹林を北に押しやり、日本列島全土を覆うようになる。 このシイの木、タブノキ、樫の木が、縄文時代以後、日本に自生し、自然植生をつくっていた。
 照葉樹林帯は、九州からしだいに関東地方に、そして縄文の晩期には仙台や新潟の海岸地帯まで回復してくる。縄文人は日本の全土に広がったこの森林の中で木の実を拾い、草を食べ、魚や、貝や、小動物を食べて生活していた、現在と異なり主食の炭水化物は米も麦もなく、塩も作れず、当然砂糖もとに入れることはできなない食生活を送っていた。現在の日本の食生活では、塩分平均10g以上取っているのにくらべ、当時は2g以下で、炭水化物は現在の60%以上に比較してわずか5%であった。

 縄文時代から弥生時代にかけて、大陸から熱帯産の米が、日本列島にも渡って稲作が始まる。そして日本人の食生活もしだいに変化する。弥生時代の後期3世紀ごろの日本について、「魏志倭人伝」には、「倭の地は、温暖、冬夏生菜を食す。」そして木については、タブノキ、トチ、クスノキ、樫などの照葉樹林であったと日本の植生を記している。

 
 縄文の森は、照葉樹林であった、しかし人々の生活により、樫の木、椎の木などの原生林が、焼かれたりあるいは苅られて、人の手が加わり落葉広葉樹のクヌギ、コナラ、エゴノキや山桜などの里山の雑木林になる。杉もまた、人々が照葉樹林を切り倒した後に広がり、弥生時代に発掘された板材は杉が多く、また杉花粉もすでに多く見られる。

さらに、時代を経て日本の景観を代表する松林風景は、人間の活動によって消滅した照葉樹林の後の二次林であるマツ林になる。このアカマツに下に、ツツジ、秋の七草のキキョウ、ナデシコ、オミナエシなどが生い茂る。

  日本は、主に農業をを行う里と、都、それとは別世界の山に分けられていた。普通の人々が足を踏み入れることのない、その異界の山と農耕地の里の間、を里山という。
 里山とは集落に近い山の端で、農業や果樹、あるいは林業などの行われている場所。神聖で修験者の住む山と違い、里山にある森林が「里山林」で、里の人々が手を入れ、古くから利用してきた雑木林や竹林、人工林などがある。 
 この雑木林では、スギやヒノキなどの建築資材になる。そして、人々が薪をとったり、炭焼をしたり、農業の材料として木を使ったり、木を小物の工芸品である、小箱ちやそろばん玉、器など工芸品に加工したりして里山の雑木林で行われ、 森林のきれいな水を利用した渓流魚の養殖をしたり、飲み水として使い、や田んぼや畑を潅水し、小枝や落ち葉は肥料として利用され、いわゆる里山がこうしてつくり出された。この里山は、伐採して芽吹きさせることによって再生し、手入れしてできた森林で、利用が遠のいた時、管理されないとすぐに荒れ果てた場所になってしまう。

  森林を伐採して家畜の放牧に使うと、草地になる、そこにはススキやササがその草地に群生する。一方放牧による家畜が、草を食んで、踏みつけると芝型の草地になる。ユーラシア大陸のゴビ砂漠につながる、牧草地帯は、森林の伐採、過放牧による草原の砂漠化がおこって黄砂の原因となっている。
 温帯の雨量の多い日本の広葉樹林帯も鉄や木材の利用で、伐採され、そこにマツ科の植物が代わりに進出し、明治時代には、そのアカマツも枯れてしまった。これによって山は緑のないはげ山になってしまった。

 昭和になると燃料革命によって、里山の炭作りや、芝刈りに変わって石油石炭、あるいはガスに変わる。何億年か地下に埋まっていた生物を掘り出して産業革命が起こり、日本の庶民の生活も一変した。里山は利用価値がなくなり、放置されることになった。

 一方戦後に行われた山林の緑地政策は、本来の日本の植生と異なる、杉やヒノキを植え、山を埋め尽くした。これらの木は根が浅い針葉樹であり、山の斜面に植えられても、土砂崩れを防ぐことはできない。さらに、杉林は50年から60年で、過熟林となり、花を咲かせ、膨大な量の花粉を飛散させ、春になると毎年花粉症を引き起こすことになった。

 イギリスもまた、工業化と農業や放牧で、イギリス本来の植生は破壊された。そのイギリス南部のクネップ城の持ち主貴族が、その土地の元来生息していた、野生動物や近隣種を戻し、生態系が復活した。

 人口の減少と、都市への人々の移動により、日本各地の、山間で生活する人は激減している、生活は変わり燃料や、材料としての木材はあまり使われなくなてきた。再び、この地域を里山として利用するのか、あるいは本来の日本の植生、潜在自然植生である照葉樹林縄文時代の森の復活とその新たな利用を生み出すのか。あるいは農業と林業が融合した、ハイテク技術よるアグロフォレスオリーが進化するのか。
 植生を含めた、新たな日本列島改造論が必要な時代になりました。

2020/01/26

新たな時代と心配性の脳、忘れられたパンデミック


 19世紀はイギリスのビクトリア王朝の時代で、安定した秩序と世界観が支配していた。多くの国は国王が君臨し、その下で強大な帝国をつくっていた。ヨーロッパを中心とてキリスト教が信仰され、そして世界はデカルトとニュートンの科学のもとに組み立てられ、地球は太陽系の周りを周り、規則正しく時を刻み、季節は変わり、時はめぐると理解されていた。
 
 20世紀になると、芸術の基準、その枠組みを壊す芸術が登場した。20世紀にピカソは割れた鏡のような像を絵にした。キュービスムという発想で、何かのものを見るのに、客観的で正しい視点や枠組みはないとする、鏡のように割れた像をキャンパスに描いた。もう一つの芸術もこの時代に流行した。ムンクの「叫び」で、私的な心の風景を表現した。物理の世界ではアインシュタインの相対性理論の正しいことが証明された。
 そしてモダニズムという新しい表現が芸術の世界に起こった。この時代は、同時に科学技術が生活を豊かにした。ラジオが発明され、自動車は普及し、電話で会話し、映画が娯楽の中心になりつつあった。
    
 日本でも新興芸術としてのモダニズムが小説、絵画、音楽あらゆる分野で流行した。その代表が横光利一や芥川龍之介のモダニズム小説だった。そして、芥川龍之介は未来に対するぼんやりした不安を理由に自殺した。時代を研ぎ澄まされた神経で感じ、不安の時代、未来を予兆する出来事だった。

 古典物理学が量子力学に変わり、芸術の世界で起こったモダニズムと時を同じくして、旧い世界秩序が崩壊した。イギリスのヴィクトリア王朝時代は、オスマン帝国が東欧から中東さらにアフリカまで支配し、ヨーロッパの中央はオーストリ ハンガリー帝国、そしてさらに北にはロシア帝国とドイツ帝国、そしてユーラシア大陸の東には清王朝、それらは第一次世界大戦前後、瞬く間に瓦解した。そしてイギリスと日本の皇室は第二次大戦後に政治権力としては無力な存在になった。

  技術の進歩は急速で、第一次大戦には機関銃が発明され、それが戦場で使われ、飛行機や戦車が活躍し、毒ガスも使われ、兵士は塹壕の中で、ほとんど耐え忍ぶ戦場となった。この時期運悪くスペインかぜと呼ばれる新型インフルエンザはこの塹壕の兵士たちにも襲いかかり、多くの病死者を出した。1918年から19年の新型インフルエンザの死者は2500万人以上に達した。

 「塹壕掘りの部隊が仕事にとりかかった時、あと平均どのくらいの寿命があるか知っているかい?」「たぶん、短いんでしょうね」「たったの9分さ」

 A.W クロスビーの「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミックについて」に詳細な記録が分析されている。1918年アメリカで肺炎を伴うインフルエンザが流行し始め、兵員の輸送によりフランス軍そして、ヨーロッパの全域に広がりその夏には一般市民に蔓延した。四ヶ月で南極を除くすべての大陸や孤立した島々など、地球上のすべての国に広がった。この第一波に続いて、8月の後半にアフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスの変異から、強毒性のインフルエンザとなり爆発的流行、パンデミックとなって世界中で多くの死者を出した。そしてアメリカ大統領のウィルソンなどの政治家も重症となりその後の世界の政治も変えた。

 すぐに終わるはずの戦いは、誰も予想しない長期の悲惨な大戦となった。以前は帝国にとって、あるいは軍人にとって悲惨な戦いであっても、勇敢な戦士たちの戦闘は物語となり、ある程度の誇りと利益がもたらされた。しかし第一次世界大戦はかつての戦争と異なり、長期の塹壕戦になり、多くの病死者や戦闘ストレスの兵士を生み出した。そして利益は誰にももたらさなかった。技術が、戦争を変え、人々の予想を超えて世界を変えた。 

 第二次大戦後の日本は、安全で安定した民主主義の国として再生した。戦後民主主義と平和主義は夢と希望をもたらすものだった。戦後高度経済成長期は国内の経済と生活の再建に全力を注ぎ、日本列島を改造し、あるいは田園都市の構想で日本全土を豊かにすることを目的に人々は勤勉に働いた。その後バブル崩壊が起こり、世界やよその国を視野に入れないで、国内のみに目を向けて外の世界を見ないで生活できた時代が終わった。中国は経済大国、軍事大国になり、またアジアの国々は経済的に豊かになってきた。アジアもグローバル化の主役の一員になった。

 20世紀になると科学とテクノロジーは電話、自動車、ラジオを普及させ、第一次世界大戦には飛行機、戦車、化学兵器が戦争に使われた。現在はその時と同じくらいに急速に技術が進歩し、止まることのない時代になった。そして新しい技術は世界を、人々の生活を変えつつある。バイオ技術で病気を治し、人工知能があらゆる分野で進歩して、快適な生活ができるようになり、食料不足もなくなり、クリーンエネルギーで気候変動を抑えるのも技術の開発による。しかしそれと同じ技術は無人兵器、サイバー戦、宇宙戦を可能にしている。イラン革命防衛隊司令官ソレイマ二氏殺害はアメリカのリーバ型無人機にによるものであったことは、あらためて世界に衝撃を与えた。

 今の時代は、比較的安定した時代、第二次世界大戦後の冷戦とその後のアメリカによる平和が終り、資本主義と民主主義に対する信頼が揺らぎ、ちょうどイギリスのヴィクトリア時代が終わりの時代を思い出させる。そして今再び、心配性な脳は、不安を感じることになる。

  今までに、急性の反応として恐怖が脳内で起こるメカニズムはわかってきた。恐怖は感覚の刺激が、脳の原始的な器官である扁桃体に直接伝わる。これによって人々は危険を逃れ、地球上で生き残った。この生存に必要な脳のメカニズムが過剰でそれに耐えられなくなったのが戦場でのストレス症候群で、第一次大戦の時多くの兵士がこの状態になり、入院した。同じ症状は第二次大戦やその後の戦争で見られた。

 一方、将来への漠然とした不安はどこから起こってくるのかは未だわからない。しかし、生存のための必要性から生まれた機能で、人々は安定した世界、安定した日常、安定した生活が変化する時不安におののくことになる。不安は脳の全体が関わる現象で複雑な脳内の活動によって引き起こされる。最初は一部の感覚の鋭敏な芸術家がそれを感じ取り、表現しやがて多くの人々もそれに共振する。

 理性的な判断ではない感情が、理性を狂わせるメカニズムが働き、世界を変えてしまうこと。あるいは、人々の心に、不安がまん延する時代があること。技術の進歩に、人の心はついていけない時があることを歴史は証明している。
 

 安定した社会が失われる時、理性で理解していた世界観が崩れ去るとき、感情が人の判断のよりどころとなる。平静の心を保つのは、生存のために備わった不安がる脳にとって今は大変な時代かもしれません。

2019/12/31

切支丹とアジアの海 

神か天皇か将軍か、誰が支配者になるかの争いが、16世紀の日本で起きた。

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂い鋭きあんじゃべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。


いざさらばわれらに賜え、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊に死すとも
惜しからじ、願うは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を折に身も霊も薫り焦がるる。

                    邪宗門秘曲     北原白秋


 15世紀、世界の文明の中で最も進んでいたのが中国の明王朝で、人口は1億人を超えていた。明王朝は、技術も文化も優れていた。そして巨大な船舶を連ねた大艦隊を鄭和が率いて、南シナ海、ベンガル湾を通り、インド洋からアフリカまで 航海した。しかし明王朝は、強大な官僚体制と極端な保守主義により、その後海外には目を向けず、国内で閉塞していった。彼らの考えは、軍事力が必要になるのは野蛮人が攻撃してくる恐れがあるときと、内乱を収める時だけだとした。そして官僚たちは軍を嫌い、また商人を嫌い、私的な蓄財を嫌った。

 一方、当時の西欧には統一ヨーロッパはというものはなく、小さな王国や公国、領主国家、都市国家が乱立していた、スペイン、フランス、イギリスは君主国家の萌芽期であった。15世紀、そのヨーロッパの西の辺境の人口100数10万の小国のポルトガルが大航海時代を切り開いた。まず対岸のアフリカに拠点を築いた。やがて、アフリカ大陸西岸を南下し、バスコダガマが1497年アフリカの南端希望峰からインドのカリカットにたどり着いた。そして次第に、インド洋の要所に要塞を築き、ポルトガルの独占的交易の海にしようとした。インドのゴア、を占領し、マラッカを支配し、インド洋の海上帝国を作り上げた。
 その当時インドには、ムガル帝国を中心に多くの強国が存在した。それにもかかわらず、インドの王国がポルトガルの海上覇権をなぜ許したのか、これは当時インドの帝国にとって、海上の貿易は帝国にとって、商人の問題であり、王の威信とは何らか関係のないと考えていた。

 
 宗教的使命感と物質的利益を求め、集中的に国力を集中したポルトガルはやがてインド洋から南シナ海、東シナ海へ進出した。この海は15世紀、明の海禁政策をによって、琉球王国の船、倭寇と呼ばれる日本の海賊船の活躍の舞台だった。その後ポルトガルが南シナ海、東シナ海の支配者となる。当時ポルトガル国王はローマ教皇庁から、新領地住民のキリスト教徒化、カトリック教の布教を義務ずけられていた。そして、イエズス会がポルトガル植民地の宗教的指導権を握った。

 イグナチウス ロヨラによって創設されたイエズス会は、伝道活動を重視し、人間は神の望むことをこの世に実現する存在であり、あらゆる人々の民族に神の国をつくる。この使命に燃えて世界の各地に会の指導者を育て、派遣した。1529年スペインとポルトガルの間で世界領土を2国で分割支配するサラゴサ条約が結ばれ、アジアはポルトガル勢力圏とされた。

 フランシスコ ザビエルは最初、インドに向かい住民の教化を始めた。しかし、インドや東南アジアでの布教活動に苦闘していた時、薩摩から来ていた日本人に会い、彼とともに1549年8月15日フランシスコ ザビエルは鹿児島につき日本での布教活動の第一歩となった。日本で布教を始めた頃、日本の人々は、キリスト教は異端、あるいは邪宗というより初めは仏教の一派と思い、その教えをきいていた。

 永禄12年(1569年)4月3日織田信長はフロイスと会い、その後朱印状で宣教師が信長の領国に滞在することを認めた。信長は宣教師を厚遇した。時代の創造者としての信長の視線は時代常識を超えていた。信長の新しい日本は、国内だけではなく国際社会の文物や情報を取り入れ、異国の来朝を歓迎し、世界の中の日本にするいう枠組みで捉えていた。

 緋色の外套を身につけ、ビロードの帽子をかぶり、コルトヴァの皮革、日時計や砂時計など南蛮渡来の異国の品々を愛好した。信長は神仏や迷信を信じなかっった。酒は飲まず、食を節制し、合理的で、徹底した行動の人である信長はやがて京を制圧し、将軍義昭を追放した。そしてキリシタン大名高山右近や内藤ジョアンなどにより、京の街にキリスト教の教会が建てられた。

 本能寺の変で信長が、暗殺され、その後秀吉は天下を支配した。当時秀吉を含め、戦国武士達の世界観は、神は仏の化身でありこの神仏への信仰と、正直な行いにより、神明の加護があり天道に見放されることはない、この天の道が世界を決めるというものであった。そして、信長同様キリスト教の布教は許し、臣下にも多くのキリシタン大名を抱えていた。

 秀吉は、天正25年(1587年)九州の島津氏制圧の帰りに、九州の筑前でキリスト教擁護から一転して、禁教令、バテレン追放令を突然を出した。この時九州はキリスト教がかなり浸透し、力を持ち始めた、これを放置する危険を秀吉は実感した。
 第一条では、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ似て然るべからざる候事。第二条では、知行を受けた秀吉の家臣が、領民をキリシタンにして寺社を破壊することを禁じ、第三条では、司祭らが20日以内に日本を待機すべきことを告げ、第四条でポルトガル船が来航して交易することは一向構わぬとし、第五条は、仏法の妨げをせぬならば、商人以下、キリシタン国からの渡来は自由とするとした。
 

 
 1588年スペインは英国、オランダ連合に海戦で敗北。世界の覇権国は南蛮人(スペイン、ポルトガル)から紅毛人(オランダ、イギリス)に変わりつつあった。

  ヨーロッパの君主国家と同じように、秀吉は政権を握ると、フイリッピンではなく朝鮮半島に軍を送る。しかしすぐに撤退し、その後徳川家康が政権を握る。徳川政権はヨーロッパ諸国とは異なる道、しだいに国外には関心を向けず、国内の統治に専念し、キリスト教は禁教策で排除し、海外との貿易も長崎のみとする政策をとった。
 はじめは家康、秀忠ともにキリスト教をうけ入れ難いと思いつつも、貿易は促進したい考えであったためキリスト教の布教を認めた。
 家康は御朱印船という幕府認可の貿易船が東南アジアで貿易することを認め、江戸時代初期から鎖国するまで10万人以上の海外に出て、日本人町をつくった。シャムのアユタヤの日本人町以外にもプノンペンや、マニラの近郊にも日本人は定住していた。しかし、徳川政権は、1614年には「みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城内の政号を改めて己が有となさんと欲す」とした、キリシタンの禁教令を出した。
 イエズス会のキリスト教徒は、邪宗を信ずる民族をキリスト教徒すなわち真の人間にすることであると信じ、世界に宗教戦士を送り出し、そして日本にたどり着き、30万人から40万人の信者を獲得していた。
 さらに、南方の航海に新型の船を造り、多くの日本人は、アジアで貿易を行っていたが、1936年には、遠洋航海用の船の建造が中止され、日本人の海外航海が禁止され、鎖国した。

 その後世界はヨーロッパの国々が支配し、インド洋から太平洋にかけても彼らの海になった。覇権国はポルトガル、スペイン、オランダからイギリス、アメリカと変化した。日本は260年後の幕末、キリスト教の布教ではない、アメリカの黒船、ペリー艦隊という近代化した国家、西欧と再び対面することになる。






2019/11/23

災害は予想できるのか


 家のつくりやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住まひは堪へがたきことなり。深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、はるかに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は蔀の間よりも明かし。天井の高きは、冬寒く、灯暗し。造作は、用なき所をつくりたる、見るも面白く、よろづの用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍り

                    徒然草       吉田兼好

 


 日本は古来から、夏の高温多湿な気候が、豊かな植生をもたらしていた。日本列島は、急峻な山岳地帯が複雑に入り組み、川は狭く急流が多い。火山活動や地震で急な斜面の地形が出来上がり、多量の降水によって、山が崩れ、今の日本の景観を作り出している。  それゆえ地震や火山活動だけでなく、古代から水害は日本の各地で頻発していた。治山治水は政治上の重要課題で、統治者は川を治め、植林し保水により洪水を防ぐべく多大の労力を注いだ。

 12世紀に入ると、樹木の年輪の解析から推定されるように、急激な寒冷化と温暖化が繰り返して起きた。鴨長明が暮らした、平安朝の末期には災害が頻発し、飢饉も繰り返し起こった。1212年(建暦2年)貴族社会が崩壊し、災害も頻発したこの時代の大火、地震、大嵐など多くの災害の事実を鴨長明は記録し、随筆に書き残した。14世紀はやはり、出家遁世した吉田兼好も日本の夏の暑さを記録している。
 
 江戸時代の初期から中期にかけて、森林の伐採や、新田の開発が進み、森林は荒廃した。岡山県では承応3年の備前大洪水に見舞われ、多くの死者を出した。その時の藩の執政をになったのが熊沢蕃山で、 蕃山は、山川は天下の源なり。山は川の本なりとして、100年の仁政によって、もとの山川に戻ると説いた。保水力の強い杉やヒノキを植林し、森林を再生し、雨水を涵養するように植林を実行した。そして寺社などの建築を制限して、森林の伐採をやめ、新田の開発も制限した。こうして山の保水力を回復し、河を改修して水害を防いだ。

 その頃、幕府も新田の乱開発を中止する「山川掟」を出した。そもそも幕府の中心、江戸の町は利根川の流れを変えた、治水工事の賜物であり、濃尾平野も江戸時代に薩摩藩が多大の犠牲者を出して、堤防をつくった。この輪中には敷地を高くして、倉や土蔵を作り、2階には水害時の船を据え付けるところもあった。日本全国の河川は、堤防を整備し洪水を防ぐことが地域の生存に必須の課題であった。水害に対して、昔から人々は、山を治め、河を治め、避難所をつくり、洪水用の船も用意した。

 明治時代に入り、オランダ人の土木建設技師などの新しい技術によって、多くの河川の改修工事が行われ、川の流れを直線化し堤防も強固にされた。戦後になると、山林の杉なとの人工植林は、大規模になされたものの山林の管理は不十分なままで、また住宅地の開発も過去の災害に関係なく、次々と広げられた。
  21世紀になると、以前に経験したことのないの熱帯の豪雨のような短時間の強い雨に遭遇するようになる。そして、土木工事の技術の進歩により、水害は防ぎうると安心していた時期に再び水害が日本の全土で起こった。気候はランダムに変わるものの、2000年以上の間、気候の変動はほんのわずかの変動の間で上下し、極端な振れ幅はなかったと言える。
21世紀に入り、異常事態が当たり前となった。この災害リスクは正規分布の中央に近いものであれば対応できる。しかし、正規分布の端の出来事、今まで起こったことのない気象の変化、100年に一度の異常気象が常態化すれば、国土計画を極端な災害に対応するように再編が必要になる

 今年の秋、規模の大きなカトリーナの台風が関東から東北地方を襲い、広範囲な地域、阿武隈川や千曲川の堤防決壊を多発させた。
 今後台風、ハリケーンそしてサイクロンともに海水温の上昇、地球温暖化によりますます巨大になることが予想され、ますます高頻度に世界の各地で水害が起こる確率は高まってきた。しかし、これが日本のどこにいつ、どのくらいの規模で起こるかは予想ができない。確実なことは、今後は、地球温暖化によって、気象災害は過去の歴史にはなかった 激烈さになることである。 
 1959年の伊勢湾台風や1959年の第二室戸台風は5000人以上の死者を出した。これらは、海上では猛烈な気圧の低下と暴風雨は上陸時には、勢力はかなり衰えていた。しかし、当時の防災能力では、気圧低下と暴風による高潮で多大な被害が出た。

 今年の台風による雨と風広範囲の持続する降水量の量は、現在より地球上の平均気温が4度上昇した時の台風によってもたらされる強度と一致することがコンピューターのシミレーションによってわかった
 21世紀になってから、過去の巨大な台風を上回るスーパー台風 中心気圧は890ヘクトパスカルを記録した2013年のフィリッピンに上陸した台風ハイエンがある。アメリカのハリケーンもカテゴリー5といわれる風速59メートル以上のカトリーナなどの巨大なものが多発している。 昨年の関西空港の水没や、今年の広範囲の長時間の豪雨をもたらしたのは、日本の近海の海水温が低下せず、台風のエネルギーが南海上と同じ強度のまま上陸し、今までの想定以上の災害となった。

 人は、未来は過去と同じようになると想像し、対応する。そのため未経験のことが起こる可能性を軽視する傾向がある。しかし、地球規模で起きている温暖化の影響で、今後、災害の規模は大きくなり、リスクが高まったことは確実になった。しかし、対応に困るのは、このリスク予想が完全にはできないことです。風速は最大何メートルになるのか、降雨はどのくらいまで激しくなるのか、その結果河川の増水がどの程度で、高波は最大何メートルになるのか。これがどこに、いつ起きるのかといったことの予想は今の所不可能です。
  今年の企業の成長に最も脅威をもたらすリスクとして、 サイバーセキュリティーや保護主義より、気候変動リスクをあげた企業が最も多かった。 異常気象がニューノーマルとなれば、屋外の作業を減らしたり、屋外スポーツも制限され、工場の立地や流通を変えたり、住居の移転や災害に強い都市を作ったりする必要が出てきます。しかし、最悪を予想して万全の対策をとるのには膨大な費用と労力が必要になります。

 今後は、最適な防災対策を実行するとともに、すべての国が地球温暖化を防ぐ低炭素社会に向かうことが重要になっています。

2019/10/14

「アンドロイドは電気じかけの羊の夢を見るのか」と「私を離さないで」

 「アンドロイドは電気じかけの羊の夢を見るのか」の物語は、主人公のリック デッカードが、気分を調整するムード オルガンを枕元に置いて、目覚める場面で始まる。リックは火星から逃亡し、人間の中に潜伏しているアンドロイドを破壊する仕事を請け負った賞金稼ぎで、この仕事でお金を貯め、昔のように本物の羊を飼う夢を持っていた。今は、死んだ羊の代わり電気じかけの羊を飼っている。
 
 核戦争により、地球上には、生きた動物も、生き残った人間も少数となり、さらに地球上に生き残った人間も適格者の人間と、生殖を許されない特殊者に分けられ、人間そっくりに作られたアンドロイドが地球の外でも働いていた。アンドロイドは、しだいに精巧さを増し、ほとんど人間との区別がつかなくなっていた。そのアンドロイドが火星から逃げ出し地球上に紛れ込んできた。

 このアンドロイドを破壊するためには、人間と識別することが必要になる。それは、人間の感情移入の能力、共感能力が試されるテストをして、感情と共感性の無いアンドロイドと人間を見分ける。アンドロイドは成長した過去を持たない、そのため過去の子供時代の記憶をつくり、それをセットする。アンドロイドはしだいに進化し、人間に近くなり、自分は人間だと思い込むアンドロイドもできる。
 

 人間とアンドロイドを峻別するのは、生物が50億年の進化の過程でつくりあげた子孫をつくり、生存するシステムで、遺伝子のAGCTの連鎖からたんぱく質をつくり、体をつくり、子孫を残す、この過程で感情が生まれた。ここが機械との根本的になる。この物語は、アンドロイドの性能が進化し、人間と外見上は区別がつかなくなり、どこかで、人間的な感情を持つようになれば人間と区別できないことになってしまい、そして、人造のレプリカが子孫をつくれるようになる世界を描いている。

 地球上で適応進化した動物が動物らしく見えるのにはいくつかの根本原理がある。すべての臓器は次第に成長し、協調して活動をする。 筋肉はしだいに強くなり、正確な運動で、手と足、さらには体全体を使って、相手を追いかけ、捕食し生きていく。地球上の荒れた地面でも走り回れなかったら、敵に捕食されてしまい生き残れない。
 機械は、ほとんどの場合平坦な面を進み、荒れた地面でもキャタピラー型の車輪が有効で、足は必要ではなく、車輪が目的にかなっている。ロボットが他のロボットに捕食される事はなく、進化の過程で得られた4足の歩行を真似たロボットは複雑になりコストが高くなってしまう。
 このように、ロボットと動物や人間は全くシステムが違い、目的が違って出来上がっている。 しかし、この全く異なるシステムが急速な機械の進歩で、動物や人間の動作そのもの、あるいは、話しかけたり、ほほ笑みかけたり、共感を示したり、歩き回ったりすることができるようになり、人間に近いアンドロイドとなり人間と共存する世界が近ずいてきました。

 人の声の機械による再生はすでに、完成に近くなり、世界中で、有名な歌手、台湾ではテレサ テン、アメリカではプレスリーの再現が試みられ、今年、日本で、美空ひばりが新しい曲を、AIで歌い、その姿も3次元画像で作り出され、かつての多くのファンや近親者は、その曲に感激した場面が放送されました。
 現在、AIによる声や歌は、もはや実在する人の声や歌との区別がつかないまでに進歩し、フェイクニュースを語らせる時代になっています。

 一方、未だ幾らかの気味の悪さを残しているものの、人間の姿形や動作を酷似させる技術もますます精巧になり、様々なヒューマノイドロボットがつくられています。人間の体を3Dカメラでスキャンし、それにそっくりの体を作り、個人の顔の筋肉を模倣して、感情、喜怒哀楽を表現させる技術で、顔で感情表現をすることが可能になってきました。
 現在、ロボットに感情を持たせたり非常に本物らしい表情をするロボットが香港で開発され、ソフィアとなずけられ、ファッション雑誌で紹介され、サウジアラビアで市民権が与えられる時代になりました。日本でも夏目漱石や実在する俳優のアンドロイドが作られました。技術の進歩はとどまることはありません。どこかでこの両者がかさなりあい生存への欲望、好奇心とか憧れを持つ心を持ったアンドロイドが開発され、ブレードランナーの世界は現実のものになるかも知れません。

 アンドロイド登場すれば、人間とは一体何者かが問われることになる。すべての人間は他者とは異なり特別な存在であり自分なりに考え、感情を持ち他者への共感力を持った存在であり、かけがいの無い存在として生まれてきたものなのか。この人間と非人間の境界はどこにあるのか、そして人間的感情を持った存在との違いは何か。来るべき、近未来はどんな世界になるのか。

 1996年、羊のドリーが遺伝子操作誕生により、技術的には人間でもこのクローン化の実現する未来が近いことが明らかになった。カズオ イシグロ はこれをもとに小説で、遺伝子操作によるもう一人の自分、クローンと共存する世界「私を離さないで」を描いた物語を2005年に出版した。

 物語はキャッシーの子供時代の回想、イギリスの田園の施設を舞台にどこにでもある少年少女のノスタルジーで始まる。やがて、彼らは臓器提供者として、人工的に世に産み出されたクローン人間であることがわかる。この人工的に生まれた人たちの、感情や揺れ動く心と過酷な未来をキャッシーが語る。この世界では、結局激流があまりに強すぎて、それに逆らうことが出来ず、握り合った手を放し、別々に流されてしまう運命の「人びと」を静かに描いている。

 現在クローン技術は、さらに進歩して、羊から始まり、ペット犬、そして、クローン猿までも生み出されている。