勝利と敗北を自分で見分けるなどということは、すべきではない
パステルナーク
1980年代アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相の主導した自由主義経済やグローバル経済がソビエト共産主義の指導経済を切り崩しつつあった。この行きづまった計画経済、古い体制を変えるために若い指導者ゴルバチョフが政権についた。情報公開(グラスノスチ)とペレストロイカ(立て直し)政策を進めた。そしてソ連の15共和国の権限を拡大する方針に反対した共産党保守派が1991年8月クーデターを起こした。 この時、ロシア共和国大統領のボリス エリチェンは装甲車によじ登りクーデターは違法だと大声をあげ、モスクワ市民はこれを支持し、新たな国を誕生させた。ソ連は崩壊し、資本主義を取り入れ、民主主義を取り入れた新生ロシアが誕生しエリチェンが大統領として指導者の座に着いた。
ボリス エリチェンはウラルの重工業地帯スベルドロフスク州の共産党第一書記になり、ゴルバチョフ時代に党の中央委員会に登ようされ、やがてモスクワ市の第一書記になる。エリチェンは「ロシアで喧嘩に勝とうと思ったら、決して屈服してはいけない。どこまでも論をエスカレートさせることだ。」の信奉者でエリチェンにとって権力こそが愛着と情熱と奉仕の対象であった。
そのエリッチェンが1991年秋に急進的経済政策を進める、若い改革派を抜擢した。その中心がガイダールでそれをチュバイスが実行した。革命的私有化プログラムのもとで民営化進めた。輸入は自由になり、個人の小売業も自由化した。モスクワにはドイツの高級車販売店ができ、高級ブランド店には憧れの品々が並べられた。
グローバル資本主義の波がロシア国内にも及んだ。しかし政府の銀行口座や、輸出品の許可、天然資源など、ロシアという国家は国家資産が市場価値をを持ちことを正しく認識できなかった。そうしてソ連を支えた背骨の官僚組織はなくなり、一部の超富裕層と数千万の超貧困層を生み出した。
頭が切れ、コネをたくさん持っている事業家が権力志向と闘争本能をむきだしにして、政府の無知につけこんでその利益の受益者になり、のちにオルガルヒと呼ばれる寡頭資本家が生まれる。 オルガルヒと呼ばれる人々。1964年生まれのミハイル フリードマンはウクライナ出身のユダヤ系でゴルバチョフ時代に起業し、エリチェン時代に石油輸出業に進出。1963年生まれのミハイル ホドルコフスキーはやはりユダヤ系の企業かで銀行業からやがてユーコスというシベリアの巨大石油企業を所有する。そして1961年生まれのロシア人ウラジミール ポターニンは銀行家となって税関のお金を管理し、やがてノリスク ニッケル社を手に入れた。ボリス ベレゾフスキーは1946年生まれ航空会社アエロ フロート航空を支配し、ロシアメディアORTテレビを獲得した。その後石油会社ジブネフチー社を手に入れた。
ロシア政府は経済の民営化のため有数の国営の巨大企業をいくつも売却し私有とした。これは共産党時代の赤い支配人から会社を取り上げ、台頭しつつあったこれらの起業家に世紀の大安売りを行なったことになる。その中には、ロシアの天然ガスを独占する「ガス ブロム社」や二大石油会社「ループ オイル社」「スルグトネフチュガス社」などが含まれていた。 結局若手改革派による市場経済維持のためのインサイダー取り引きで、オルガルヒのやりたい放題によって堂々とこれらの国有資産は売り渡され、ロシアは彼らに強奪された。
ソ連が解体し、ロシア共和国となり、1995年12月に議会選挙と1996年に大統領選挙が行われる。そこにはボリスエリチェン、共産党のジュガーノフ、そしてゴルバチョフも立候補して選挙戦が戦われた。 当時エリチェンの体調はすぐれず、彼を支持する改革派、新興財閥(オルガルヒ)と対立るするゴルジャコフなどと内輪もめし、一時は共産党のジュガーノフが優位に立っていた。
結果はエリチェン53%、ジュガーノフ40%、ゴルバチョフは2%以下の支持であった。エリチェンはオルガルヒから莫大な選挙資金を手に入れ、メディアを支配し、活力のある改革派の大統領を演じ、次第に多くの支持を集めていった。エリチェンの対抗馬は、地方メディアから締め出されたり、国立機関での演説を急にキャンセルされたり、直前にホテルの予約が取り消されたりした。そしてエリチェンは大統領選挙で勝利した。
ジュガーノフは共産党の信奉者に語りかけた。彼らはロシア市場経済移行における敗者、軍人、科学研究者、年金受給者であった。ソ連時代のエリートは同じ地位にとどまっていた。エリチェンの批判はソ連が偉大な国家で、ロシアが偉大な民族であるという感覚を剥奪してしまったと訴え中高年の支持者に共感された。しかし変革を求める若者にはその声は届かなかった。
ゴルバチョフは民主主義を礼賛したが、専制を熱望する一般大衆の壁にぶち当たった。演説で人々に「共産党に権力を返上すべきだろうか」と問いかけると「そうだ返上すべきだ。あの頃の方が良かった。」「あんたは国を売った。ロシアは強力な統制が必要だ。」と人々は答えた。
エリチェンの政権下1997年資本主義革命後、ようやく豊かな時代が訪れるかと人々は思った。しかしロシア国家は弱体化し、市民社会は堕落し、職業的、倫理的規範は消え、なんでも売買の対象となり、賄賂が横行した。
1998年ロシア経済は崩壊した。そして首相がコロコロ変わり最後に、エリチェンはウラジミール プーチンを首相に指名し、年末の12月31日にみずからは辞任し、プーチンを大統領代行に据えた。顔のない魔術師と呼ばれた男が、翌年3月26日の選挙でやはりオルガルヒの資金と若手改革派の協力を得て大統領になった。
プーチンは大統領になると、1999年にソ連時代の官僚「シロヴィキ」(内務省、軍、旧KGBなどの武力省庁の当局者)などの協力を得てオルガルヒを政治の舞台から追いやった。当時80億ドルの個人資産を持ち、クエート一国を上回る産油量の石油企業の所有者ボドルコフスキーを逮捕し投獄した。そして、ベレゾフスキーはロンドンに逃亡し、グシンスキーはニューヨークに逃亡した。ポターニンも事業を縮小し、政界から消えた。
2004年までに、プーチン大統領は民主的市民社会の制度の多くを意図的にたたきつぶした。たとえば全国ネットのテレビ放送局は、全て国家の支配下に引き戻された。地方の公選知事は骨抜きにされ、政権に反対する事業家は国外追放されたり投獄されたりした。 そのかわりにソ連時代からの官僚とくに「シロヴィキ」が権力の中枢を握った。その数はゴルバチョフ時代の4.7%から58.3%になった。彼らは自分たちが国家の利益のために行動していると考えており、ロシアが再び恐れられる存在となることを狙いとしている。
そして何よりも厄介なのは、彼らの心の中で強い国家という概念が恐怖感をかもしだすことと 結びついていることにあった。プーチン政権の周りにはかつての帝政の官吏でだったアパラチキもまた、装いを改め公僕として使え政権を支えている。
ソ連崩壊の後あまりに急進的な資本主義化、資産の民営化が進められ、その過程でロシアの富は一部の人に奪われることを許し、エリチェン時代の社会の混乱からロシアに集団的秩序願望が生まれた。知性的で微温的なゴルバチョフと対照的なエリチェン大統領の急進改革の混乱から、さらに独裁的なストロングマンのプーチン氏がロシア国民によって大統領に選ばれた。
「さまざまな一党が玉座に近づき、戦利品の分配を始める。その後、彼らはその場を追われ、代わりに別の連中が入ってくる。寵臣は絶えず入れ替わる。これがロシアの伝統だ。」
参考 第二のロシア革命の内幕 世紀の売却 クリスティア フリーランド 著
