2022/03/15

プーチン政権の源流


 勝利と敗北を自分で見分けるなどということは、すべきではない

                                パステルナーク




 1980年代アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相の主導した自由主義経済やグローバル経済がソビエト共産主義の指導経済を切り崩しつつあった。この行きづまった計画経済、古い体制を変えるために若い指導者ゴルバチョフが政権についた。情報公開(グラスノスチ)とペレストロイカ(立て直し)政策を進めた。そしてソ連の15共和国の権限を拡大する方針に反対した共産党保守派が1991年8月クーデターを起こした。 この時、ロシア共和国大統領のボリス エリチェンは装甲車によじ登りクーデターは違法だと大声をあげ、モスクワ市民はこれを支持し、新たな国を誕生させた。ソ連は崩壊し、資本主義を取り入れ、民主主義を取り入れた新生ロシアが誕生しエリチェンが大統領として指導者の座に着いた。


 ボリス エリチェンはウラルの重工業地帯スベルドロフスク州の共産党第一書記になり、ゴルバチョフ時代に党の中央委員会に登ようされ、やがてモスクワ市の第一書記になる。エリチェンは「ロシアで喧嘩に勝とうと思ったら、決して屈服してはいけない。どこまでも論をエスカレートさせることだ。」の信奉者でエリチェンにとって権力こそが愛着と情熱と奉仕の対象であった。

 そのエリッチェンが1991年秋に急進的経済政策を進める、若い改革派を抜擢した。その中心がガイダールでそれをチュバイスが実行した。革命的私有化プログラムのもとで民営化進めた。輸入は自由になり、個人の小売業も自由化した。モスクワにはドイツの高級車販売店ができ、高級ブランド店には憧れの品々が並べられた。

 グローバル資本主義の波がロシア国内にも及んだ。しかし政府の銀行口座や、輸出品の許可、天然資源など、ロシアという国家は国家資産が市場価値をを持ちことを正しく認識できなかった。そうしてソ連を支えた背骨の官僚組織はなくなり、一部の超富裕層と数千万の超貧困層を生み出した。


 頭が切れ、コネをたくさん持っている事業家が権力志向と闘争本能をむきだしにして、政府の無知につけこんでその利益の受益者になり、のちにオルガルヒと呼ばれる寡頭資本家が生まれる。 オルガルヒと呼ばれる人々。1964年生まれのミハイル フリードマンはウクライナ出身のユダヤ系でゴルバチョフ時代に起業し、エリチェン時代に石油輸出業に進出。1963年生まれのミハイル ホドルコフスキーはやはりユダヤ系の企業かで銀行業からやがてユーコスというシベリアの巨大石油企業を所有する。そして1961年生まれのロシア人ウラジミール ポターニンは銀行家となって税関のお金を管理し、やがてノリスク ニッケル社を手に入れた。ボリス ベレゾフスキーは1946年生まれ航空会社アエロ フロート航空を支配し、ロシアメディアORTテレビを獲得した。その後石油会社ジブネフチー社を手に入れた。


 ロシア政府は経済の民営化のため有数の国営の巨大企業をいくつも売却し私有とした。これは共産党時代の赤い支配人から会社を取り上げ、台頭しつつあったこれらの起業家に世紀の大安売りを行なったことになる。その中には、ロシアの天然ガスを独占する「ガス ブロム社」や二大石油会社「ループ オイル社」「スルグトネフチュガス社」などが含まれていた。 結局若手改革派による市場経済維持のためのインサイダー取り引きで、オルガルヒのやりたい放題によって堂々とこれらの国有資産は売り渡され、ロシアは彼らに強奪された。



 ソ連が解体し、ロシア共和国となり、1995年12月に議会選挙と1996年に大統領選挙が行われる。そこにはボリスエリチェン、共産党のジュガーノフ、そしてゴルバチョフも立候補して選挙戦が戦われた。 当時エリチェンの体調はすぐれず、彼を支持する改革派、新興財閥(オルガルヒ)と対立るするゴルジャコフなどと内輪もめし、一時は共産党のジュガーノフが優位に立っていた。

 結果はエリチェン53%、ジュガーノフ40%、ゴルバチョフは2%以下の支持であった。エリチェンはオルガルヒから莫大な選挙資金を手に入れ、メディアを支配し、活力のある改革派の大統領を演じ、次第に多くの支持を集めていった。エリチェンの対抗馬は、地方メディアから締め出されたり、国立機関での演説を急にキャンセルされたり、直前にホテルの予約が取り消されたりした。そしてエリチェンは大統領選挙で勝利した。


 ジュガーノフは共産党の信奉者に語りかけた。彼らはロシア市場経済移行における敗者、軍人、科学研究者、年金受給者であった。ソ連時代のエリートは同じ地位にとどまっていた。エリチェンの批判はソ連が偉大な国家で、ロシアが偉大な民族であるという感覚を剥奪してしまったと訴え中高年の支持者に共感された。しかし変革を求める若者にはその声は届かなかった。


 ゴルバチョフは民主主義を礼賛したが、専制を熱望する一般大衆の壁にぶち当たった。演説で人々に「共産党に権力を返上すべきだろうか」と問いかけると「そうだ返上すべきだ。あの頃の方が良かった。」「あんたは国を売った。ロシアは強力な統制が必要だ。」と人々は答えた。


 エリチェンの政権下1997年資本主義革命後、ようやく豊かな時代が訪れるかと人々は思った。しかしロシア国家は弱体化し、市民社会は堕落し、職業的、倫理的規範は消え、なんでも売買の対象となり、賄賂が横行した。

 1998年ロシア経済は崩壊した。そして首相がコロコロ変わり最後に、エリチェンはウラジミール プーチンを首相に指名し、年末の12月31日にみずからは辞任し、プーチンを大統領代行に据えた。顔のない魔術師と呼ばれた男が、翌年3月26日の選挙でやはりオルガルヒの資金と若手改革派の協力を得て大統領になった。


 プーチンは大統領になると、1999年にソ連時代の官僚「シロヴィキ」(内務省、軍、旧KGBなどの武力省庁の当局者)などの協力を得てオルガルヒを政治の舞台から追いやった。当時80億ドルの個人資産を持ち、クエート一国を上回る産油量の石油企業の所有者ボドルコフスキーを逮捕し投獄した。そして、ベレゾフスキーはロンドンに逃亡し、グシンスキーはニューヨークに逃亡した。ポターニンも事業を縮小し、政界から消えた。

 2004年までに、プーチン大統領は民主的市民社会の制度の多くを意図的にたたきつぶした。たとえば全国ネットのテレビ放送局は、全て国家の支配下に引き戻された。地方の公選知事は骨抜きにされ、政権に反対する事業家は国外追放されたり投獄されたりした。 そのかわりにソ連時代からの官僚とくに「シロヴィキ」が権力の中枢を握った。その数はゴルバチョフ時代の4.7%から58.3%になった。彼らは自分たちが国家の利益のために行動していると考えており、ロシアが再び恐れられる存在となることを狙いとしている。

 そして何よりも厄介なのは、彼らの心の中で強い国家という概念が恐怖感をかもしだすことと 結びついていることにあった。プーチン政権の周りにはかつての帝政の官吏でだったアパラチキもまた、装いを改め公僕として使え政権を支えている。


 ソ連崩壊の後あまりに急進的な資本主義化、資産の民営化が進められ、その過程でロシアの富は一部の人に奪われることを許し、エリチェン時代の社会の混乱からロシアに集団的秩序願望が生まれた。知性的で微温的なゴルバチョフと対照的なエリチェン大統領の急進改革の混乱から、さらに独裁的なストロングマンのプーチン氏がロシア国民によって大統領に選ばれた。



「さまざまな一党が玉座に近づき、戦利品の分配を始める。その後、彼らはその場を追われ、代わりに別の連中が入ってくる。寵臣は絶えず入れ替わる。これがロシアの伝統だ。」





 参考 第二のロシア革命の内幕 世紀の売却 クリスティア フリーランド 著



  


2022/02/23

生態系、地理から地政学へ

 ユーラシア草原地帯の生態と騎馬民族

 

地形や植生が生物の生態系をつくる。人類の歴史もまた、地球環境によってつくられる。


 赤道付近では、太陽による蒸発が上昇気流を生み、大量の雨が降る。それが熱帯雨林をつくりだす。この空気が高い高度を移動して、北緯30度付近と南緯30度の位置で下降し、砂漠地帯を生み出す。ユーラシア大陸ではチベット高原とヒマラヤ山脈とパミール、崑崙、天山山脈などがインド洋からの水分の多い空気を遮る壁となり、 その結果ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠はさらに北にまでひろがる。

 この砂漠地帯と北の寒い針葉樹の森の間には広大な草原ステップ地帯がある。そこでは降水量が少なく、樹木が育つには乾燥しすぎ、植生は耐寒性のある草になる。西は黒海、カスピ海ステップで、現在のウクライナさらに西にはハンガリー大平原になる。中央にはカザフステップがありその北側にウラル山脈とアルタイ山脈その東にはモンゴルまでゴビ砂漠の北に草原が広がっている。


 砂漠の生態に適応した生物はラクダで、厚いクッションを足の裏に持ち、砂漠を歩き、水分を最小にして活動できる。一方ステップ地帯の草原では馬にとって最適の生息空間となる。牛は雪の下の草は喰まない、馬は雪や氷の下の草もヒズメで割って、食べる。この地域では夏は乾燥して気温が40度を超え、冬は零下20度まで下がり、地面は雪に覆われる。この環境でも馬は草を食べ生活する。

 ステップの地形は陸上は平らな平原で、山脈も湿地も大森林もなく移動の障害物は何もない。わずかにウラル山脈が南北に伸びカスピ海ステップとカザフステップの界を作っている。この乾燥した草原地帯に住む放牧の民は草原を馬で迅速に移動し、草原は数十万の馬の食糧を供給する。このステップ地帯の民族と周りの農耕地帯である東の中国、南のインド、中東、西のヨーロッパ、ロシアの民族は歴史上幾多の武力衝突の歴史を繰り返してきた。いったん草原地帯から侵入した騎馬民族は耕作地帯の土地では馬を養う牧草地が不足し、再び大陸のステップの草原地帯に帰っていく。


 この騎馬民族国家で周辺の国との戦争が歴史上何度も起こされ、最初に記録されているのが、スキタイで、ヘロドトスの「歴史」に残されている。紀元前7、8世紀カフカス、黒海の北側、現在のウクライナから起こり、紀元前1世紀までステップの大半を支配下に置き、遊牧国家を形成し、ギリシャやペルシャと対峙していた。ペルシャは100万の軍隊でスキタイに侵攻し敗北したと記録されている。

 紀元前3世紀の末になると、中央アジアの東に匈奴が勢力を増してきた。三国志の項羽と劉邦と匈奴の鼎立時代から、やがて劉邦の漢帝国ができ、匈奴と漢の間の50戦争がおこる。ここでも統一した遊牧国家と統一した農耕国家の衝突が起こった。


 ステップの匈奴の活躍と時を同じくして、ステップの西側では、気候変動で寒冷化した地球はステップに干ばつをもたらし、そのためフン族が4世紀の後半にローマ帝国の境界地帯にやってきた。フン族の移動によりギリシャやバルカン半島は荒廃し、フン族はその後解体したものの、西ローマ帝国も次第に弱体化し、移住した移民とステップからの遊牧民の大移動によって最終的に崩壊した。


 13世紀になると、モンゴルのチンギス カンが東の中国から黒海までのユーラシアの過半を支配下に置いた。何千年にもわたり、ステップ地帯の遊牧民は大軍を支える牧草地から周辺の農耕社会を打ち破り、支配した。その後ヨーロッパの国家とロシアと中国は中央集権体制を確立し、技術の進歩とその軍事力への利用によって力は逆転し、ユーラシア大陸の中央まで領土を広げランドパワーの中心となった。


 海 貿易風と大航海時代


 ユーラシア大陸の陸地での民族の興亡とは別の海の航路が開かれる大航海時代がユーラシアの西の端イベリア半島のポルトガルとスペインから始まった。ユーラシア大陸の西の端イベリア半島から14世紀から15世紀にかけて大西洋に船で乗り出した冒険者たちがいた。大西洋の東に位置するカナリア諸島にはアフリカからすでに渡ってきた部族が住み着いていた。その先のアゾレス諸島は無人島であった。その島を経由して、ポルトガルの船乗りは、手漕ぎから風を受ける帆船に乗り、貿易風に乗って、しだいにアフリカ西岸を南下し、ついに最南端の喜望峰に達した。やがてユーロッパからアフリカ大陸の周りを回って、アジアに至る航路が出来上がった。一方、その頃スペインの宮廷の援助でコロンブスは1492年5週間の航海の後に、バハマ諸島に達し、四ヶ月間の探索ののち、北に進路を変え、中緯度まで来て偏西風に乗って、スペインまで帰還した。それによって新大陸アメリカは発見された。その30年後にはヨーロッパの船乗りたちは、世界一周の航海に成功した。 こうして始まった海洋航海術の発達によって、アフリカの沿岸に沿ってインドへの回路と大西洋を超えてアメリカへの航路が開かれた。この海洋の機動力によって、ヨーロッパの国々は最初はポルトガルとスペインその後オランダそしてイギリスが海外に植民地を作り、貿易を通して、海上権力(シーパワー)を握った。


 地政学の誕生


 1904年イギリスの地理学者ハルフォード マッキンダーはユーラシア大陸の中心には遊牧民が住み、沿岸地方の国家に対して強烈な軍事圧力をかけていた。これをハートランド(heart land)と呼び、周りの国を内側のみかずき型地形(innner crescent)と呼びさらに外側の島や大陸を外側の三日月地帯(outer  crescent)と呼んだ。そしてシーパワーとしてのイギリスとアメリカとランドパワーとしてのユーラシアを想定した。


 その後ドイツの地政学者ハウスホーファーが、ドイツでこのハートランドの地政学を打ち立てた。第一次世界大戦に敗れ、植民地と領土の一部を失ったドイツは敵対国に対する憎悪と失地回復の機運がドイツを覆い、ナショナリズムと地政学の勃興を促した。その時代、ハウスホッファーは1923年は「民族自決の地政学に向けて」を発刊。しだいに彼の地政学がナチス政権にも、影響力を持ちイタリア、日本にも影響力を持った。第二次大戦後アメリカの新聞によるとハウスホッファー教授と地政学協会がナチスドイツ(ハートランド)の世界支配の計画をたてそれを基にドイツ帝国の生存圏を広げていったと報道している。

 

 その後アメリカでも国家の独立と安全のための国家の力における地形や気候の持つ効果を考慮に入れる必要があり、国土のサイズや位置あるいは天然資源の存在、と言った地理的な面からの安全保障問題を考慮する地政学が採用されている。ドイツの領土拡大のための歴史哲学的な解釈とは違って、ある地理的な状況があった場合、どのような政策を採用すれば国家の安全が確保することができるのかを地理とパワーの視点から研究されてきた。


 第二次世界大戦前、1941年アメリカのスパイクマンによる地政学では、アメリカの2.5倍の広さと10倍の人口を持つユーラシア大陸、その中心にハートランドがあり、その周りにリムランドがありここには中国、インド、西ヨーロッパが含まれアメリカ、日本、イギリスなどはこれらの地域のさらに外縁を形成する。 その中で、リムランドを支配するものがユーラシアを制し、ユーラシアを支配するものが世界の運命を制すると述べている。

 その後、戦後のアメリカの対外戦略ケナンのソ連封じ込め政策や、ブレジンスキーの危機の弧や、現在のアメリカの対外戦略に大きな影響力を与えてきた。

 何より、その後イデオロギーや宗教ではないスパイクマン達の地理を中心とした地政学的分析の予想が現実化していった。現在もその理論の延長上に、ロシアの脅威が起こり、中国の支配国家への成長、リムランド内での紛争、そして世界の多極化が進んでいる。








2022/02/06

環境の世紀、生態系の保護 アマゾン セレゲンティー カラハリ

 

 アメリカ大陸、とりわけ南米のアマゾンには広大な熱帯雨林が広がり、多様な生命が複雑に絡み合った生態系が動物や植物に見られる。多くの鳥類、昆虫類が植物を食べ、多くの哺乳類は樹上の生活をし、植物、昆虫、動物を食べ、草食動物を餌にする肉食動物の頂点には巨大なへび、アナゴンダ以外は天敵はいないジャガーがいる。へびも多くの種類がすみ、イグアナやトカゲ類もまた多くの種類が生息し、爬虫類や両生類の王国と言える。


 生物の個体群の大きさは、天候などの環境に大きく依存している。熱帯雨林では植物は繁茂し、植物など生産者とその分解者はありあまるほど豊かに存在している。熱帯サバンナでは雨量が少なく、草食動物の数は植物の量に左右される。さらに雨量の少ない砂漠のような気候では、雨水と植生によって生物の生存はさらに大きな影響を受け、生物の種類は減る。


 この個体群の数をコントロールしている、地上の生態系の調節はどのようになされているのか、さまざまな動物や植物、あるいは人類社会の影響が研究され、生態系のコントロールシステムはかなり解明されてきた。環境のおよぼす影響、草食動物と植生、肉食動物など生物のコミュニティーで全ての動植物が同じように個体数の調節に関与しているわけではないっことがわかってきた。


 熱帯雨林とは異なるサバンナでは、また生物の生態は異なった様相を見せる。熱帯気候で定期的に乾期が訪れ、丈の高い草木と不連続な低木層からなる安定した生態をつくる地域で、大型哺乳類の像やキリン、ライオンの生息地で、東アフリカのセレゲンティ国立公園がその代表である。

 ボロゴンジャ川から、エメラルドのような緑色したなだらかな丘が、一定の間隔で生えた木々とともに広がっている。地平線まで一望できるが、いたるところに木々が小さな木立をなして点在している。草原はこれ以上ないほどに緑色に染まっている。動物たちはあらゆる丘を覆い、一頭で、あるいは群れをなして平原に立ち、木立を出たり入ったりし、低地ではエサを食べている。

 この地域は1951年にセレゲンティ国立公園として保護され、大型哺乳類が生態系を構成する地球上に残された特別な場所となった。1958年にこれらの動物の数が調べられた。ヌー9万9481頭、シマウマ5万9481頭、19万4854頭トムソンガゼルとグランドガゼル1717頭のインパラ1813頭の水牛、837頭のキリン、60頭の像を確認した。

 1966年にはセレゲンティで水牛の調査が始められた。1959年から1961年にかけて水牛が多く死亡した。これは捕食者や飢餓ではなく病気、牛の感染症のアウトブレークによるものであることがわかった。このウィルスが東アフリカの動物の生態系に大きな影響を与えた。このウィルスがなくなると1973年にはヌーの数が77万頭に激増した。その後ヌーは増え続け、140万頭にも達し、それを捕食するライオンとハイエナの頭数もやはり増えていた。さらにヌーが大量の草を食べ、乾期の火災が減りその結果草食のキリンの数もまた増加した。

 熱帯サバンナの生態調節の主役は捕食者ライオンではなく、ヌーで、草食動物、肉食動物、樹木の数に影響し生態系を調節していた。実際、1980年に比較して森林密度は30年間で急速に増加し、ヌーが草を食べ、草は豊かに茂り蝶は増え、バッタやイナゴは激減した。そして競合するトムソンガゼルは半減した。


 気候によって、植物が減少すれば、草食動物の数は減り、肉食動物に多く捕食されればやはり数は減少する。 自然界では栄養カスケードに従って生物が階級をつくる。有機物を分解する菌類や蠕虫の仲間、気候などの環境、日光や雨量、土壌の栄養に依存する植物、それを食べる草食動物さらにそれを捕食する肉食動物で成り立っている。その捕食動物の中でも、食肉動物の食糧となる死骸を奪う力は、上からライオン、プチハイエナ、リカオン、褐色ハイエナ、ヒョウ、チーター、ジャッカルの順になる。

 それらに捕食される草食動物は体重150キログラムで明らかに様子が異なる。体重の軽い小型のレイヨウまたはアンテロープ(ウシ科の動物でヌーやオリックス、インパラ、トムソンガゼルなどが含まれる)は多くの捕食動物に食べられ数は調整される。小型草食獣の数が増えれば肉食獣も数が増える。

 しかし水牛やサイ、カバ、象の成獣は捕食されない。これらの大型になり捕食を免れた草食動物の個体数は、捕食者ではなく、生息地の仲間の密度に依存することがわかった。個体数が少なく、食べられる植物が多ければ、群は個体数を急速に増やす。そして必要な空間植物が草食動物の養うだけの量がなくなれば栄養不足で亡くなる成獣が増え、その群の数は減少し始め平衡状態になる。

 サバンナでは乾期、草食動物は移動することで捕食を免れる。セレゲンティには定住するヌーの群と 移動性の群がいる。定住性のヌーは死因の87%はライオンやハイエナの捕食のためで、移動性のヌーはこれが約20%に減り、死因はほとんどが飢え死にになる。比較的身体に小さいオグロヌーは草を求めて一斉に100万頭が移動する、それにシマウマが加わり、ヌーの蹴り上げる昆虫を狙いアマサギが後を追う。この大移動がヌーの生存を保証している。


 セレゲンティより乾燥しているボツワナのカラハリでは8か月も雨が一滴も降らない乾期と1か月から4月の雨季があり、高原地帯のため気温は寒い時には0度近くになる。砂漠とサバンナの中間の植生で、雨季には多くのライオンや草食動物が住み、乾期には移動する。相対湿度が最も低くなる暑い乾季になると野火が砂漠を焼き、木々の葉から最後の水分までも奪って干からびさせる。アンテローブ類は、アカシアの花や野生のメロン食べたり、砂地に深く潜った根を掘り起こし食べて生きている。しかし乾燥して植物が枯れ始めると、多くの草食動物は食物を求めて移動する。その草食動物の後を追って、捕食動物であるリカオンやハイエナ、ライオンもまた移動する。そして9月から翌年の乾期が終わり大粒の雨が大地を潤し、一斉に草が生え、水がたまるとライオンたちも戻り、集団生活を送る。


 熱帯とは逆に北極に近い島スピッツベルゲン島では生物の種類は極端に少ない。そのためあらゆる生き物の相互関係が網羅できる。1922年にオックスフォード大学の極地探検隊のエルトンによりこの食物連鎖が初めて明らかにされた。プランクトンや魚類は海鳥やアザラシに食べられ、海鳥は北極キツネにアザラシは北極クマに食べられる。こうして生態系の調整の研究が始まった。その後、農薬散布によりウンカの大発生は天敵のクモの死滅によることや、アフリカの猿の被害はライオンやヒョウの減少によること、様々な地域の様々な生物の数はいかに調節されているかが研究されてきた。


 今日、人がこの生態系に関与し、壊して予測不可能な副作用により、人の住む世界が急激に変化し劣化し、荒廃しつつある。20世紀は医療による生活向上の世紀であった。21世紀はこの生物の住む環境を守り緑の平原と豊饒の海を取り戻すことが最重要の課題になった。

2022/01/14

ニュージーランド 氷河スキーと環境


  ニュージーランドの南島には、3000メートルを超える高い山々がそびえ、氷河がある。タスマン氷河は最も大きく氷河をスキーで滑降し、青く輝く氷の洞窟が見られ、北島には樹齢1000年を超えるニュージーランドの固有の樹木カウリの巨大な木々が保護され残っている。

 かつてニュージーランドには哺乳類がいない鳥類の王国であった。大陸から隔絶した環境で動物と植物の生命圏がつくられていたため、キーウイという飛べない鳥も生存できた。8世紀頃に、太平洋の島々ポリネシアからマオリ族が木造船で、ニュージーランドにたどり着くまでは哺乳類と同じように、人類は生息しない世界が続いていた。マオリ族は原生林を開墾して、タロイモ、サツマイモなどを育てて定住していった。狩猟生活から、しだいにイモ類の栽培の農耕生活を始め、カウリなど原生林を使い、木造の大きな集会場を作り、木造の住居に暮らし始めた。


 その後、18世紀頃から、ヨーロッパから人々が移住し、1840年にイギリスがこの島を植民地とし数千人が住み始め、6年後にイギリス人は9000人を超えるようになった。19世紀の後半、ヨーロッパ特にイギリスから木造船、3本マストの帆船に乗ってさらに多くの人々が移住し、原生林を切り倒し、そして焼き払ってマオリ族と同じように木製の住居を作り住むようになった。


 

 19世紀の後半、鉄と石炭の時代が始まり、世界に広がっていった。木炭に代わり、石炭を燃料とした製鉄によって、硬い鉄、鋼鉄ができた。この鋼鉄で大砲をつくり、鉄の建物をつくり、そして橋も、船も鉄製になり、1889年には超高層の建物、エッフェル塔が建てられた。 19世紀の半ばに石灰石と粘土をまぜあわせ1400度以上で加熱し、その塊をすりつぶした粉末セメントこれに砂を入れ混ぜるとコンクリートになる。木や石にかわってコンクリートができ、その硬く可塑性に富んだ性質故に鉄筋コンクリートが大きな建造物主役となる。


 ニュージーランドでも都市には鉄とコンクリートの建物が林立し始め、19世紀後半になると、徒歩か馬と馬車から移動手段としての鉄道が原生林を切り開き、都市をつなぎ、次第に島全体に蒸気機関車が走り始めた。そして馬車に代わってガソリンを燃料とする車が1900年に初めて登場した。現在は飛行機が都市間の主要な移動手段となっている。 


 産業革命以降の生活の進歩は、あまりに急速で、原生林は破壊され鳥類は生息できなくなり、人とともに哺乳類も島に住み始め、今では人口より多いひつじが住んでいる。この急速な自然の破壊を目の当たりにして、その後自然は保護され回復してきた。動物や植物も国外からの持ち込みを規制し島の生態系を守るようになった。そして電力は水力や地熱、潮力が主力で現在も原子力発電はなく,風力や太陽光を含めると80%が自然をエネルギー源として使っている。


 島国ニュージーランドは、近代化の便利さと破壊力の大きさ、地球の未来のための自然の回復のわかりやすい一つのモデルとなる。太平洋を隔て大陸から遠く離れていることと、 国土の広さの割には、人口は500万人と少ないことが幸いし、現代生活をしつつ自然は破壊を免れ保たれている。




 地球規模で見れば、地球上の人口は増え、ますます多くの物を消費するようになった。過去200年でエネルギー消費だけで20倍に増えそれによる二酸化炭素の上昇は未来を危うくし始めた。地球上の森林の伐採により、種の絶滅は毎年4万種になり、地球環境をを変化させ気候変動をもたらしている。


 現在温室ガスの出る量は地球全体で年間510億トンになる。鋼鉄とセメントの製造で出る温暖化ガスは10%を占めている。そのほかのプラスチック製造など製造によるものを含めると製造業全体で合計31%になる。大量に生産された製品は、安価になり大量に消費され世界に広がっていく。より良い電化製品を求めより良い住まいを目指して、最初は先進国やがてBRICSと呼ばれる中国やインドなどがこの隊列に加わって、世界中で経済が発展し、都市には高層の建物が建てられ、21世紀に入ってからも世界では東京都の都市一個分が毎月新たに建てられている。


 温室ガス排出は発電のためのエネルギーが次に多く27%になる。この3分の2は石油、石炭、天然ガスが占めている。 その次が食用の動物や植物で全体の19%で、放牧のために原生林が犠牲になり、世界的規模では牛のゲップと豚の糞からの量が温暖化の主役になっている。車や船、飛行機などの移動する乗り物は排出量が16%で、乗用車はその半分くらいである。そして冷蔵庫やエアコンで7%をしめる。これらは全て便利で豊かな生活を保障するもので、すぐにこれらはやめられない。


 世界中の暮らしを産業革命以前まで戻すことがでいない以上、環境と経済のバランスや各国の発展の様子を見て解決する必要があるものの各国の考えは様々で、国家主権が絡まりこれを解決するのはかなり難しい。地球環境を守るため、1992年環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言が出され、地球環境の保護は大切なことはわかっていても実行までには至らなかった。京都議定書、パリ協定と国際会議は開かれ、経済との折り合いをつけるために、排出の削減や、様々な排出量取引の仕組みがつくられた。昨年COP26で2050年までに世界の二酸化炭素排出をゼロにし、熱帯降雨林の伐採をゼロにする目標が決まった。


 このまま地球環境の劣化が止めれないと、氷河は溶け、気候変動による食料や資源の取り合いで世界は混乱に陥る。様々な手段で今の経済成長を保ちながら環境を保護するには製造、発電、農業、車などの移動手段、住まいあらゆる分野で人々の意識の変化と技術開発が重要になるとの共通の認識になりつつある。


 かつて日本列島も、江戸時代は着物を仕立てなおし、端切れを使い、最後はぞうきんにして使うのは当たり前のリサイクル、リユース文化でした。建物も当然天然の木材と土と石と紙で造られ再利用されていました。19世紀末のエッフェル塔から始まった鉄塔は東京タワーとして日本にも建てられ、20世紀のガラスとコンクリートの近代建築は古都の玄関京都駅にも採用されました。21世紀、東京オリンピックの会場新国立競技場に木の庇の隈研吾氏の設計が採用されたように今後は、環境に負荷をかける巨大建築の時代は終わりグリーンな省エネルギーの建物が建て始められるかもしれません。 昨年アップルは将来全ての製品と容器の包装を100%再生可能なリサイクル材か再生可能な素材にすると発表しました。

2021/12/06

神の国、民の国


 240段の石段を上った山の頂の一番奥の高いところ、家康を讃えて建立された全ての社殿を背後から見下ろすかのごとく、大きな石積みの上に青銅の壺がのる簡素な墓があり、そこに家康の遺骸が眠っているのである。    

                    イサベラバード 「日本奥地紀行 日光東照宮」


 国を支配する権力者は様々な型で国を統治し、歴史的に多くの宗教国家や王国、独裁国家が生まれた。その権力を保ち存続させるためには、その正統性を人々に認められる必要があった。古くは王権神授説で、神に与えられた権力であるとして支配者は権力の正統性を語った。


 日本では、古代は天皇が国を治め、鎌倉時代になって初めて武士が権力を握る。鎌倉幕府が武士の源頼朝によって、開かれ、権力が武士の手に渡った、それに対して後鳥羽上皇が政権奪還を目指して天皇のもとに権力を戻そうとして敗北し、隠岐島に流された。この承久の変の後、武士が権力を完全に握り朝廷は儀式や官位を与える権威の象徴のみになった。


 その鎌倉幕府も、後醍醐天皇に敗れ幕を閉じ、建武の新政と言われる天皇制が復活する。この建武の新政はうまくいかず、新たな天皇をたて、自らは征夷大将軍となった足利尊氏が室町幕府を開く。これが北朝で、一方北朝方の天皇、上皇、と三種の神器共々吉野に撤退した天皇が正統性を主張し南朝の政権をつくり、天皇の並立する南北朝時代となった。


 足利尊氏と対立した南朝の北畠親房は、歴史書「神皇正統記」を書き、南朝の正統性を神道の思想で編纂し残した。日本の国の成立は天照大神が天孫降臨するとき与えた神勅から始まり、後村上天皇の時代までの天皇の万世一系の血統が続く系譜を書き記し、三種の神器、鏡、玉、剣を正直、慈悲、智恵に対応させ、これが正当に受け渡されることが正統の根拠であるとした。さらに、現実の統治には民の安定こそ重要で、初期の鎌倉幕府を支持し、承久の変を不義とした。神の意志は民の安心、仁政安民にありとして、神道でも儒教と同じように統治者の仁を求めた。


 室町幕府は三代目の足利義満の時、権力の証を皇室では満足せず、明の皇帝から国王と称されることを求めた。しかし、その後も権力は日本全土には及ばず、応仁の乱になる。権力と権威は空洞化し、日本全国に群雄が割拠し、戦国時代に突入した。近畿地方と中部の中心を支配した織田信長は室町幕府の将軍義昭を擁立し全国の支配に近ずいた。その後、義昭を追放し自らが武士の頂点に立ち、権力を握り、天皇からの官位を辞した。信長は天皇や将軍の伝統的権威を否定した。自らが統一した日本の皇帝になることを望んだように思われる。しかし、その望みは実現せず、信長は全国制覇の途中で暗殺され、それを引き継いで秀吉が日本を統一した。


  秀吉は天皇から関白の称号を得て、朝鮮出兵以後は太閤の称号を得た。農民からついに天皇と並び立つ地位を獲得し、「自分が権力に登るとは、まさに奇跡的なことで、自分自身の力によるものではなく、日本、中国そして遥か西のアジア諸地域をも支配する特別の使命のため天が選んだため」と天道の思想を用いて自らを描き、さらに「わが国は神国である。神は心であり、心は全てを包んでいる。どんな現象も神なくしては存在しない。神なくしては、霊も道もありえない。神は生長の美しき時も衰退の悪しき時も増減しない。そして陰陽不測である。それゆえに万物の根源である。それはインドでは仏法、中国では儒道、日本では神道と呼ばれている。神道を知ればすなわち仏法と儒道を知る。」と語り、死後遺言で、彼をまつる神社を建てることとした。これが「豊国大明神」で神道をもとに秀吉を神格化した。この秀吉を祀る神社はその後各地に建てられた。



 政権を握った家康は「天下は天下のための天下なり」として儒教の天道思想で支配の正統性を語り、大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼした二ヶ月後「武家諸法度」と「禁中並びに公家諸法度」を公布し、家光の時旗本や御家人に対して「諸士法度」を交付して外様大名から旗本御家人庶民を将軍お権力の下に置いた。そして皇室は国政には関与しない体制とした。


 家光の時代になると鎌倉、室町の将軍たちとは全く異質の方法で徳川の権威を高めた。家康を神祖化するため、1934年日光の家康の社を豪華な廟に立て直し、徳川家康が「神君」と称されるようにした。日光の家康を祀った東照宮を建て、東照大権現とした。正直、知恵と共に慈悲が神聖な徳である。これらは万物の根元であり、日本の三つのシンボルの根底によこたわる理であるとして天道をもとにした「東照宮御遺訓」を残した。


 日本の有史以来政治の中心の天皇、都の京都が日本のイデオロギー空間の中心であった。この空間を家康から3代目の家光の時代に、権力の中心に将軍家、都を江戸、家康を祀る東照宮を日光に再配置し江戸幕府も新たなイデオロギーつくり、天皇を国政から遠ざけ、日本を支配し、天下泰平の世をつくりだした。

 

  

 1868年、徳川慶慶は薩摩と長州を中心にした反幕府軍に敗れ、政権を明治天皇に奉還。薩長連合軍はこの時14才の天皇を中心にした政府をつくり年号を明治とした。ここに再び政治の中心に皇室をおく神武以来の王政復古がなされ、それを動かす機構に西欧の中央集権制が採用された。


 権力は長期の武士の政権から、天皇へと再び移った。若い天皇が京都から、東京へ向かう途中、伊勢に立ち寄り、伊勢の内宮に参り天照大御神を拝んだ。各藩は土地や民を国に奉還し、国はこれを新しく県に再編し、武士階級はなくなり、四民平等として、中央政府の軍をつくり、国家の体制を整えていった。

 当時西欧から急速に、新しい思想が国内に流入した。明治憲法を作るにあたり、日本ではこれまでの宗教が国民全体の機軸となるほどの確固たるものはなく、江戸時代の儒教は日常生活の徳目としてのみ残り、仏教もまたその宗教的な影響力はそれほど強固ではなかった。明治憲法では新しい国家体制の機軸とすべきは皇室あるのみとして、天皇制を機軸として1899年明治憲法が制定された。

 国王とは異なる、立憲主義をとり、そこには信教の自由が認められ、天皇の機能を行使するのに、3大臣が輔弼(助言)をするように定め、大権行為は天皇のではなく大臣が最終責任を負うものとした。そのほかに元老も輔弼の役割を果たし、軍事の統帥権については、陸軍参謀総長や海軍軍令部長が輔弼の役割をになった。 


 よく年1890年に教育勅語が発布された。この中で神話、天皇、国家は結びついた。

「朕思うに、わが国は天皇の祖先がつくり、徳をもって国を治め、臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげてきた教育の基づくところもまた実にここにある。」から始まり、儒教の徳目を定め儒教道徳と神道の混合した神話による国家、神の国日本の教育の目標を定めた。そして、一旦急あれば義勇を持って公に奉ずることとした。


 明治維新の後、明治初期の新しい思想の中に自由、民権の思想があり次第に反政府の運動として力を持ってきた。国論は分裂して、国内は流動化しつつあった。時の政府は伊東博文を中心にして、憲法を制定し、教育勅語を発令し、神話教育を進め天皇制の国に作り上げられていった。


 天皇を神格化して現人神となり、日本書紀は神話であったのが、次第に歴史的事実となり、誰も批判できなくなった。そして神道は国家神道となる。


 第二次世界大戦の敗北により、日本は国民が主権者となり象徴天皇制に変わり、平和を求めれば戦争はおこらないものであり、経済のみを重視する価値観が広がり、宗教なき世界になっていった。


2021/11/13

2021/11/11

西行 ブルーノタウトと伊勢

  


その神域の気高さは、すべての人々が思わず拝伏されられてしまう程だ。アクロポリスに世界の建築家が詣でるように、伊勢神宮は建築家の巡礼の最終的到達地点になるだろう。


                               ブルーノ タウト


 伊勢は温暖の地にあり 古くからの鬱蒼たる杉や檜などの針葉樹と楠や榊など広葉樹が混在し、古代からの生態系が残っている。伊勢神宮はその木立の中に多くの素木の神殿が建てられ構築されている。


 伊勢神宮本殿は直線的木材を用い、茅葺の屋根と校倉の積層材で作られ、デザインは渡来建築を模した仏教寺院とは異なる、日本の独自の建築様式であった。しかし明治の初めには西欧の建築を標準としていたため、伊勢神宮は原始的南洋風の建物として、それほど評価はされていなかった。1933年ブルーノタウトが日本を訪れ、カツラとともにイセを発見した。「伊勢神宮は木材をもって最高の醇化に達した本物の日本の独創的な建築である。」と語り、神殿とそれを囲む森そしてその建築の考え方を高く評価した。

 

 「古代の日本人は、その象徴を自然の中に求めていった。石や木や水のなかに精神の象徴を求め、その神像をみたのである。こうした自然観は、いまなお日本人の精神構造の核心に伝わり残されているところのものである。」

 「こうした象徴が、一つのフオームに昇華した時、伊勢が生まれたのである。伊勢フォームの完成は、同時に日本神話の完成でもあった。と同時に、それは日本民族の形成がほぼ完了する時期でもあった。伊勢のフォームを創造した古代人のたくましい構想力の背後には、民族形成のエネルギーがそれを支えていたのである。この伊勢フォームは日本民族の原質がふくまれている。」

 丹下健三は「日本建築の原型ー伊勢」の中でその建築のデザインはその表層的な形ではなく、その形式が造られるフォームが大切であると述べ伊勢神宮の日本固有の自然から生まれた過程を探ることは日本文化の根底に触れることであろう。と述べている。


 7世紀末から8世紀前半のこの時代に日本独自の文化、土着の文化、ナショナリズムの文化が始まった。建築様式のイセもこのナショナリズムによって基本型はデザインされた。


 伊勢神宮は690年の第一回の遷宮から20年に一回遷宮を繰り返し、現在にも続いている。この初源への回帰によって、形ではなく時代を超えて持続する、文化の構造をつくった。まるで生物が子孫を残すように、茅葺の屋根を葺き替え、木の柱を新たに建てて、同じ形が反復されることによって伊勢神宮のアイデンティティーが保たれ、石造のパルテノンと同じ永続性を獲得した。


    榊葉に心をかけむ木綿垂(ゆふし)でて思へば神も仏なりけり  西行


 神道は儒教や仏教が伝来する以前の日本固有の信仰と言われるが、儒教の経典を基にした治世あるいは倫理としての人の道を教えるものでもなく、世界を理解し人々を救済する仏教のような世界宗教でもなかった。神道はマツリで神々に供物を捧げ、ノリトを申し、お祓いを行う、素朴な自然宗教に基く祭祀の儀式に過ぎなかった。


 平安時代に、儀式のみの神道が仏教と結びつき、神が仏法により悟りを開いて菩薩になる思想が生まれ、鎌倉時代からしだいに神は仏と強く結びつく。西行は1180年(治承4年)63歳の時に高野山を出て、伊勢に移り住んだ。伊勢神宮を訪れ、思へば神も仏なりけりとうたの中で詠んだ。。伊勢神宮はもともと我が国の神である天照をまつるものであったが、実は天照大神は大日如来が人々の救済のため、神という仮の姿で権現したもので、神と仏が一体となったものと理解していた。


 鎌倉時代になると伊勢神道は、渡會氏により教義として確立され、神学が体系化された。

 伊勢外宮の神である豊受大神は、止由気宮(とゆけのみや)儀式帳(804)によると、天照は垂仁帝の御代に伊勢の五十鈴の河上に鎮座されたが、雄略帝の御夢にあらわれて「自分はタカマガハラで静かに坐してはいるが、たったひとりのだけでいるのは何かと不便である。食糧さえ充分でない。そこで丹波国のマナヰにいる食物のカミであるトユケ(豊受)大神を自分の近くに連れてきてほしいと」頼まれこのカミを招いて壮大な社殿をつくり外宮とした。内宮の神である天照に太陽神であるオホヒメノムチの習合した神を祀る、内宮より神格が低かった。


 それを神官の渡會氏は、日本書紀の神代之巻を神典として外宮の神、豊受神を「日本書紀」の天御中主神(あめのみなかぬし)国常立尊と同じとみなし大元神とした。「書紀」では国常立尊が原初神であり、天御中主神(あめのみなかぬし)が天地初発の時に生まれた神である。これらの神々によって国が造られ、天照大神は神世七代ののちにあらわれる。こうして国生み、国つくりの神々により日本は生まれた。そして皇室の統治の由来を日本国の形成と結びつけて日本を神国とした神道の体系伊勢神道が生まれた。


 その神道の中心徳目として、清浄の心「正直」が加わった。すなわちまわりの利害ではなく、純粋に心のうちから生まれるものを大切な倫理項目とした。そして正直のシンボルを三種の神器の鏡に求めた。この動機の純粋性を重視する思想はその後、日本の倫理観の中心になった。

 このようにして神国日本の中で伊勢神宮はその頂点に位置し、全国の神社をその下に系列化した。宮廷や公家、武士の一部のものであった伊勢神道は鎌倉時代から次第に日本中に広まり、江戸時代にはお伊勢参りという集団参拝が全国で行われるようになった。


 神道は時代とともに仏教に変わって儒教の宇宙哲学である天道思想と神道の道が一致するとされ、江戸時代には神儒一致の儒家神道が一般的になる。そして本居宣長などの国学では、儒教とも離れ、日本の道に純化されていく。

 明治維新の後、政府は神社神道と皇室神道を結びつけ国家神道とし、日本の国教として推進した。第二次世界大戦の敗戦によりこれは解体され、天皇は象徴天皇となり、伊勢神宮は信仰の自由のもと国家の庇護はなくなった。

 古くからの大木の樹々に囲まれた神社は、穢れを祓い、清浄の心を取り戻し、願いをかなえる祈願の場所となり、伊勢神宮は日本建築の単純さ素朴さの象徴であり、いまも遷宮が行われている。


 深く入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風       西行