日露戦争
「画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。
そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。全景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がって、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネッサンス画中の人のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がってつづいている。」
三島由紀夫 豊饒の海
経済的つながりが深まれば平和が訪れるというリベラルな理想主義的考えは、国と国の関係は力と力のぶつかり合いで決まるという現実主義に取って代わった。全ての権力はより大きな帝国に集中する方向に向かっており、進歩に遅れた国は二流の属国の地位に滑り落ちる。19世紀のヨーロッパ大国間の争いは、1860年代には世界の秩序を支配する原理となり、その後世界はこの強国の合従連衡による覇権争いから、戦争を繰り返す時代に突入する。
日本は1853年、徳川幕藩政治による鎖国政策がアメリカのペリー艦隊が江戸湾に入港し、開国に向かい、徳川政権は崩壊し、明治時代の近代化が始まる。
一方ロシアは1853年にロマノフ王朝の時代にトルコ支配下のドナウ公国に侵攻しクリミア戦争を起こし、英仏軍に敗北し、帝国の近代化を迫られ、欧州から、アジアにその勢力を伸ばし始める。このアジアでの領土拡張政策は、日本の大陸侵攻政策と衝突し、日露戦争となった。日本海と中国の東北区で激戦となり日本はこの戦いで8万4000人の死者と14万3000人の戦傷者が出た。
三島由紀夫の豊饒の海、第一部「春の雪」は冒頭に日露戦争の戦没者のセピア色の写真、得利寺付近の戦死者の弔祭の日露戦争戦没写真集の場面から始まる。
明治政府は1900年清朝末期の義和団の乱に対し、多くの軍を送り、ロシアもまた西欧の11カ国連合軍に加わり、乱を鎮圧した。ロシア軍はその後も中国の満州地域にとどまった。そして満州全体を自らの勢力圏とし、朝鮮北部を緩衝地帯とし、南部を一定の制限のもとに日本の領域とすることを求めた。日本はこれを拒否し、1904年開戦に踏み切った。日本海軍はロシアのバルチック艦隊を打ち破り海戦に勝利し、陸軍も旅順の要塞を突破し、奉天で勝利した。アメリカの仲介で停戦が成立し、ポーツマス条約が締結された。日本は遼東半島の先端の租借権を得、ロシアから樺太の南半分と東清鉄道の南満州支線を日本に割譲し、日本とロシアは満州から両国が撤兵し、清に返還することになった。
1911年に清朝は崩壊し、1914年から18年までヨーロッパの5つの大国は覇権を争い第一次世界大戦に衝突した。その結果、多くの帝政国家は消滅した。ロシアのロマノフ王朝も1917年の革命で、社会主義政権に変わり、スターリンが政権の座につき、1928年から5カ年計画で農業の集団化と急速な工業化を進めた。
ヨーロッパの大国が第一次世界大戦で疲弊し、アジアでの影響力がなくなり権力の空白が生まれた。戦場とならなかった日本はその空白を埋める行動を起こしていった。1910年代に中国への対華21ヶ条の要求や、ソ連に対するシベリア出兵などを実行した。
第一次大戦後も戦場とならなかったアメリカ、日本は国力を蓄え、戦火を交えたドイツ帝国はオーストリアハンガリー帝国とともに解体し、フランスは国の立て直しを迫られ、イギリスは覇権国の地位から滑り落ちた。ロマノフ王朝の解体したロシアは帝制からソビエト連邦となり社会主義国として国を立て直した。 ベルサイユ条約が結ばれ、国際連盟が誕生し、1928年にはパリ不戦条約が結ばれた。その後、生き残った大国は再び武力による国際秩序の変更をめぐって全面戦争に向かう。
ノモンハン事件
1931年日本の関東軍が満州事変を起こし、満州全土を軍事支配下に置いて、翌年満州国を成立せせた。次第に満州における日本のプレゼンスはソ連政府によって脅威となり、極東の軍備強化は重要課題となった。一方、極東におけるソ連軍の強化は日本にとって脅威であり、満州における日本の軍事力強化は正当化された。ソ連は極東に57万人を動員し、2200台の戦車と2500機の軍用機を送り、一方満州の日本軍は27万人の兵隊を配備し、200台の戦車と560機の軍用機を備えた。
モンゴルと満州国の国境線をめぐって、対立していた両軍は1939年5月に本格的軍事衝突に至る。装甲車両はソ連が6倍であったが、5月の限られた軍事衝突から次第に戦争は拡大し、6月には120機の日本の空有軍の奇襲作戦でソ連の空軍に大打撃与える、その後は戦車や装甲車、対戦車砲と歩兵の戦闘で、火炎瓶や砲撃で多くの戦車を破壊されたものの、ソ連は物量と火力が大幅に増強させ、空軍と歩兵、戦車、自動機械部隊を組み合わせて、起伏の少ない広大な平原での戦争を進めていった。
ノモンハンでの戦闘は局地戦であったにも関わらずその後の世界を動かすことになる。スターリンは1939年8月ノモンハン事件と時を同じくして、西のドイツ東の日本との2正面作戦を避けるためと独ソ不可侵条約を締結する。こうして西側でのドイツの脅威をなくし、すぐに日本軍に対して戦っているジューコフ率いるソ連軍にヨーロッパから大部隊の援軍を送った。そして関東軍は軍事的に敗北し9月25日に停戦に合意した。両軍とも2万人近く死者が出た。この独ソ不可侵条約では、ポーランドの分割やバルト3国フィンランドの勢力圏に関する密約があり、ドイツは9月にポーランドに侵攻し第二次大戦は始まった。ノモンハン事件の解決の後にソ連も極東の軍をヨーロッパに戻し、ポーランドに侵攻した。
日本は、対中戦争にめどをつけ、対ソ戦備に転向し、北辺の安定力を充実して世界の変動に備えるとした戦略と外交を変更し、ソ連と停戦後、1941年に日ソ中立条約を結び、南方へ戦力を向け、イギリス、アメリカと対立する。
第二次大戦終戦の直前にソ連は日ソ中立条約を破棄し日本に侵攻。日本は敗戦し大戦は終わった。
その後大国同士が直接武力を使って領土に侵犯し戦争になることは過去のものとなり、経済的繁栄とグローバル化が進み、マクドナルドのある国同士の戦争はもはや起こらないと言われた。今年2月に始まったウクライナ平原での戦車、歩兵、対戦車砲や榴弾砲を使った戦争はエッシャーの絵のように世界は、反転し、誰も想像しなかった80年前と同じ世界が現実であることを思い知らされた。