2022/05/29

日本とロシアの戦争と平和

日露戦争


 「画面の丁度中央に、小さく、白木の墓標と白布をひるがえした祭壇と、その上に置かれた花々が見える。

 そのほかはみんな兵隊、何千という兵隊だ。全景の兵隊はことごとく、軍帽から垂れた白い覆布と、肩から掛けた斜めの革紐を見せて背を向け、きちんとした列を作らずに、乱れて、群がって、うなだれている。わずかに左隅の前景の数人の兵士が、ルネッサンス画中の人のように、こちらへ半ば暗い顔を向けている。そして左奥には、野の果てまで巨大な半円をえがく無数の兵士たち、もちろん一人一人と識別もできぬほどの夥しい人数が、木の間に遠く群がってつづいている。」

      

                               三島由紀夫 豊饒の海 


 経済的つながりが深まれば平和が訪れるというリベラルな理想主義的考えは、国と国の関係は力と力のぶつかり合いで決まるという現実主義に取って代わった。全ての権力はより大きな帝国に集中する方向に向かっており、進歩に遅れた国は二流の属国の地位に滑り落ちる。19世紀のヨーロッパ大国間の争いは、1860年代には世界の秩序を支配する原理となり、その後世界はこの強国の合従連衡による覇権争いから、戦争を繰り返す時代に突入する。


 日本は1853年、徳川幕藩政治による鎖国政策がアメリカのペリー艦隊が江戸湾に入港し、開国に向かい、徳川政権は崩壊し、明治時代の近代化が始まる。

 一方ロシアは1853年にロマノフ王朝の時代にトルコ支配下のドナウ公国に侵攻しクリミア戦争を起こし、英仏軍に敗北し、帝国の近代化を迫られ、欧州から、アジアにその勢力を伸ばし始める。このアジアでの領土拡張政策は、日本の大陸侵攻政策と衝突し、日露戦争となった。日本海と中国の東北区で激戦となり日本はこの戦いで8万4000人の死者と14万3000人の戦傷者が出た。


 三島由紀夫の豊饒の海、第一部「春の雪」は冒頭に日露戦争の戦没者のセピア色の写真、得利寺付近の戦死者の弔祭の日露戦争戦没写真集の場面から始まる。

 明治政府は1900年清朝末期の義和団の乱に対し、多くの軍を送り、ロシアもまた西欧の11カ国連合軍に加わり、乱を鎮圧した。ロシア軍はその後も中国の満州地域にとどまった。そして満州全体を自らの勢力圏とし、朝鮮北部を緩衝地帯とし、南部を一定の制限のもとに日本の領域とすることを求めた。日本はこれを拒否し、1904年開戦に踏み切った。日本海軍はロシアのバルチック艦隊を打ち破り海戦に勝利し、陸軍も旅順の要塞を突破し、奉天で勝利した。アメリカの仲介で停戦が成立し、ポーツマス条約が締結された。日本は遼東半島の先端の租借権を得、ロシアから樺太の南半分と東清鉄道の南満州支線を日本に割譲し、日本とロシアは満州から両国が撤兵し、清に返還することになった。


 1911年に清朝は崩壊し、1914年から18年までヨーロッパの5つの大国は覇権を争い第一次世界大戦に衝突した。その結果、多くの帝政国家は消滅した。ロシアのロマノフ王朝も1917年の革命で、社会主義政権に変わり、スターリンが政権の座につき、1928年から5カ年計画で農業の集団化と急速な工業化を進めた。

 ヨーロッパの大国が第一次世界大戦で疲弊し、アジアでの影響力がなくなり権力の空白が生まれた。戦場とならなかった日本はその空白を埋める行動を起こしていった。1910年代に中国への対華21ヶ条の要求や、ソ連に対するシベリア出兵などを実行した。

 第一次大戦後も戦場とならなかったアメリカ、日本は国力を蓄え、戦火を交えたドイツ帝国はオーストリアハンガリー帝国とともに解体し、フランスは国の立て直しを迫られ、イギリスは覇権国の地位から滑り落ちた。ロマノフ王朝の解体したロシアは帝制からソビエト連邦となり社会主義国として国を立て直した。 ベルサイユ条約が結ばれ、国際連盟が誕生し、1928年にはパリ不戦条約が結ばれた。その後、生き残った大国は再び武力による国際秩序の変更をめぐって全面戦争に向かう。


 ノモンハン事件


1931年日本の関東軍が満州事変を起こし、満州全土を軍事支配下に置いて、翌年満州国を成立せせた。次第に満州における日本のプレゼンスはソ連政府によって脅威となり、極東の軍備強化は重要課題となった。一方、極東におけるソ連軍の強化は日本にとって脅威であり、満州における日本の軍事力強化は正当化された。ソ連は極東に57万人を動員し、2200台の戦車と2500機の軍用機を送り、一方満州の日本軍は27万人の兵隊を配備し、200台の戦車と560機の軍用機を備えた。


 モンゴルと満州国の国境線をめぐって、対立していた両軍は1939年5月に本格的軍事衝突に至る。装甲車両はソ連が6倍であったが、5月の限られた軍事衝突から次第に戦争は拡大し、6月には120機の日本の空有軍の奇襲作戦でソ連の空軍に大打撃与える、その後は戦車や装甲車、対戦車砲と歩兵の戦闘で、火炎瓶や砲撃で多くの戦車を破壊されたものの、ソ連は物量と火力が大幅に増強させ、空軍と歩兵、戦車、自動機械部隊を組み合わせて、起伏の少ない広大な平原での戦争を進めていった。


 ノモンハンでの戦闘は局地戦であったにも関わらずその後の世界を動かすことになる。スターリンは1939年8月ノモンハン事件と時を同じくして、西のドイツ東の日本との2正面作戦を避けるためと独ソ不可侵条約を締結する。こうして西側でのドイツの脅威をなくし、すぐに日本軍に対して戦っているジューコフ率いるソ連軍にヨーロッパから大部隊の援軍を送った。そして関東軍は軍事的に敗北し9月25日に停戦に合意した。両軍とも2万人近く死者が出た。この独ソ不可侵条約では、ポーランドの分割やバルト3国フィンランドの勢力圏に関する密約があり、ドイツは9月にポーランドに侵攻し第二次大戦は始まった。ノモンハン事件の解決の後にソ連も極東の軍をヨーロッパに戻し、ポーランドに侵攻した。

 日本は、対中戦争にめどをつけ、対ソ戦備に転向し、北辺の安定力を充実して世界の変動に備えるとした戦略と外交を変更し、ソ連と停戦後、1941年に日ソ中立条約を結び、南方へ戦力を向け、イギリス、アメリカと対立する。

 

 第二次大戦終戦の直前にソ連は日ソ中立条約を破棄し日本に侵攻。日本は敗戦し大戦は終わった。


 その後大国同士が直接武力を使って領土に侵犯し戦争になることは過去のものとなり、経済的繁栄とグローバル化が進み、マクドナルドのある国同士の戦争はもはや起こらないと言われた。今年2月に始まったウクライナ平原での戦車、歩兵、対戦車砲や榴弾砲を使った戦争はエッシャーの絵のように世界は、反転し、誰も想像しなかった80年前と同じ世界が現実であることを思い知らされた。



2022/04/29

武士の子正岡子規と畏友夏目漱石

  くれないの 二尺伸びたる薔薇の芽の 針やはらかに春雨のふる

                                   正岡子規



 正岡子規は江戸幕府最後の年1867年(慶応3年)松山藩士の長男として生まれる。17才の時叔父の加藤拓川を頼って上京し、第一高等学校に入学、1889年(明治22年)に詩文集「七草集」を書き上げる。漢文、漢詩、和歌、俳句、地誌、小説の七巻からなるもので、当時友人に読ませ、その批評を夏目漱石が好意的に書き、これが二人の出会いのきっかけとなる。


 帝大を中退、1892年(明治25年)新聞日本に入社。古来の俳句を技法や用語で分類し、洋画の技法を俳句にも取り入れ、自分で観察した風景を句とすることによって、月並み俳句から写生の俳句への変革を始めた。

 住まいを日本新聞社社主陸羯南の家の隣に定め、文明開化の象徴である情報の発信の中心メディア、新聞「日本」に「獺祭書屋俳話」を連載し、俳句革新運動を広げていった。1889年(明治22年)に創刊された新聞「日本」は、政府の欧化主義に反対し、日本の国民精神を回復発揚することを目的としていた、保守的革新主義のメディアであった。文芸では和歌の入った紀行文、そして子規は俳句でその一翼を担った。


 当時の日本は西欧の列強にならって、強国をめざして、産業を興し、教育の充実をはかった。軍隊も英国の海軍から専門家を招き助言を求め、近代的な艦隊をつくり、プロイセンの参謀将校が陸軍の近代化を助けた。明治政府になった日本は戦略的な安全保障を求めて、朝鮮半島に進出して、権益をめぐって清国と争いが起こり、1894年(明治27年)日清戦争となる。陸でも海でも数は劣っていたものの、訓練と装備に優っていた日本軍が勝利し、大陸まで突き進む。そして休戦協定の結ばれた11日後の1895年(明治28年)子規にも従軍記者として中国大陸の遼東半島に渡る許可が出る。広島から出発する前に松山によって「父の墓」という新体詩を残している。


父の御墓に詣でんと 

末広町に来て見れば

鉄軌寺内をよこぎりて

墓場に近く汽車走る。

石塔倒れ花委む

露の小道の奥深く

小笹まじりの草の中に

荒れて御墓ぞ立ちたまふ。

見れば囲ひの垣破れて

一歩の外は畠なり。

石鉄颪来るなへに

粟穂御墓に触れんとす。

胸つぶれつつ見るからに、

あわてて草をむしり取る

わが手の上に頬の上に

飢えたる藪蚊群れて刺す。


 父の墓を詣で、最初は武人として、従軍記者として気負って、広島から船に乗り込む。

     

 いくさかな我もいでたつ花に剣


 野に山に進むや月の三万騎


 蛙はや日本の歌を詠めにけり


 大連から金州、旅順と移動ししだいに、移動する中で、大陸の自然風景や人々の生活、そして戦争を漢詩や新体詩として写生して表現していくようになる。


 わがすめらぎの春四月、

 金州城に来て見れば、

 戦のあとの家荒れて、

 杏の花ぞさかりなる。


 


 1895年(明治28年)春28才の夏目漱石は松山中学の英語教師として着任し、愚陀仏庵と名ずけた家に下宿した。大陸から戻り、神戸で入院していた正岡子規も病気静養のため松山に帰って、愚陀仏庵の一階に居候する。正岡子規の周りにはその地の俳句の愛好家が集まり、句会が開かれ、地方新聞に掲載された。この50日の間に、2階に住んでいた漱石も、その仲間に加わり多くの俳句を作っている。


 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺             夏目漱石



 松山での病気静養を終えて、東京に戻った子規は俳句の革新で、与謝蕪村を発見し、高い評価をした。俳句の革新を次の短歌でも行い、1898年(明治31年)「歌よみに与ふる書」の連載を「日本」で開始した。そこで古今和歌集の紀貫之を否定し、万葉集を高く評価し、定型化し月並みの和歌を再生し、現実離れした空想的なものから、写実短歌と変えていった。


 当時、子規より6才若い、与謝野鉄幹もまた新詩社をつくり和歌の革新を始めていた。今までの型にはまった和歌を自己表現の短歌に変え、心情を歌にして女学生ブームをつくり、「明星」誌上で与謝野晶子などの多くのスターを送り出した。「明星」は新しい装丁の雑誌で、その表紙は一条成美のフランス絵画を思わせる乙女を載せ、短歌などの文学と新進の洋画家美術を斬新なレイアウトで融合させ、華やかな新時代の象徴となる。


 1901年(明治34年)1月の日本の「墨汁一滴」誌上で「去年の夏頃ある雑誌に短歌の事を論じて鉄幹子規と併記し両者同一趣味なるかの如くいへり。吾おもへらく両者の短歌全く標準を異にす、鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり、鉄幹と子規とは並称すべき者にあらずと。」批判した。


 正岡子規の気質は、大将的で、彼は自分が中心に立つことでなければ何事に対しても興味を見いだすことが出来なかった。漢詩や絵画のイメージを俳句として表現し、和歌も同じように変革し新しい短歌の世界を切り開き、敵対する相手と論戦を戦わせた。

 しかし、病気によって心身が疲労してくると、「さすがに人間を小さいと感じることが多くなり、極めて柔軟で少しも彼の意に逆らわない天然界の王者になることを望んだ。」そして印象派の絵画のように自然を陽光の下で観察し、筆で言葉にした。子規は病床にあっても生涯「日本」の社員として作品を連載し、1902年(明治34年)に「墨汁一滴」1903年(明治35年)には「病床六尺」を連載した。そのなかで「草花のひと枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密がだんだん分かって来るような気がする。」と語っている。その年の9月に「糸瓜」の句を最後に母と妹に看取られ35歳で夭折する。


 漱石は熊本の第5高等学校の講師として赴任し、離れ離れに暮らした。その後も子規は漱石に100通ほどの手紙を書き、冗談話や文学論などをやりとりしている。 漱石は1900年(明治33年)33才の時英国に留学する。その時も病床の正岡子規は多くの手紙をロンドンに書き送った。

1903年(明治36年)帰国し、亡き正岡子規のところを訪れ、「霜白く空重き日なりき。我西土より帰りて、始めて汝が墓門に入る。 爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり。われこの棒杭を周る事三度、花も捧げず水も手向けず、只この棒杭を周る事三度にして去れり。我は只汝の土臭き影をかぎて、汝の定かならぬ影と較べんと思ひしのみ。」と書き残した。



 いちはつの 花咲きいでて我が目には 今年ばかりの春ゆかんとす



 若い日に正岡子規と出会った夏目漱石、2人は畏友として互の文学に影響を与え、日本文学を変革し、日本の文化を豊かにした。

2022/03/15

プーチン政権の源流


 勝利と敗北を自分で見分けるなどということは、すべきではない

                                パステルナーク




 1980年代アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相の主導した自由主義経済やグローバル経済がソビエト共産主義の指導経済を切り崩しつつあった。この行きづまった計画経済、古い体制を変えるために若い指導者ゴルバチョフが政権についた。情報公開(グラスノスチ)とペレストロイカ(立て直し)政策を進めた。そしてソ連の15共和国の権限を拡大する方針に反対した共産党保守派が1991年8月クーデターを起こした。 この時、ロシア共和国大統領のボリス エリチェンは装甲車によじ登りクーデターは違法だと大声をあげ、モスクワ市民はこれを支持し、新たな国を誕生させた。ソ連は崩壊し、資本主義を取り入れ、民主主義を取り入れた新生ロシアが誕生しエリチェンが大統領として指導者の座に着いた。


 ボリス エリチェンはウラルの重工業地帯スベルドロフスク州の共産党第一書記になり、ゴルバチョフ時代に党の中央委員会に登ようされ、やがてモスクワ市の第一書記になる。エリチェンは「ロシアで喧嘩に勝とうと思ったら、決して屈服してはいけない。どこまでも論をエスカレートさせることだ。」の信奉者でエリチェンにとって権力こそが愛着と情熱と奉仕の対象であった。

 そのエリッチェンが1991年秋に急進的経済政策を進める、若い改革派を抜擢した。その中心がガイダールでそれをチュバイスが実行した。革命的私有化プログラムのもとで民営化進めた。輸入は自由になり、個人の小売業も自由化した。モスクワにはドイツの高級車販売店ができ、高級ブランド店には憧れの品々が並べられた。

 グローバル資本主義の波がロシア国内にも及んだ。しかし政府の銀行口座や、輸出品の許可、天然資源など、ロシアという国家は国家資産が市場価値をを持ちことを正しく認識できなかった。そうしてソ連を支えた背骨の官僚組織はなくなり、一部の超富裕層と数千万の超貧困層を生み出した。


 頭が切れ、コネをたくさん持っている事業家が権力志向と闘争本能をむきだしにして、政府の無知につけこんでその利益の受益者になり、のちにオルガルヒと呼ばれる寡頭資本家が生まれる。 オルガルヒと呼ばれる人々。1964年生まれのミハイル フリードマンはウクライナ出身のユダヤ系でゴルバチョフ時代に起業し、エリチェン時代に石油輸出業に進出。1963年生まれのミハイル ホドルコフスキーはやはりユダヤ系の企業かで銀行業からやがてユーコスというシベリアの巨大石油企業を所有する。そして1961年生まれのロシア人ウラジミール ポターニンは銀行家となって税関のお金を管理し、やがてノリスク ニッケル社を手に入れた。ボリス ベレゾフスキーは1946年生まれ航空会社アエロ フロート航空を支配し、ロシアメディアORTテレビを獲得した。その後石油会社ジブネフチー社を手に入れた。


 ロシア政府は経済の民営化のため有数の国営の巨大企業をいくつも売却し私有とした。これは共産党時代の赤い支配人から会社を取り上げ、台頭しつつあったこれらの起業家に世紀の大安売りを行なったことになる。その中には、ロシアの天然ガスを独占する「ガス ブロム社」や二大石油会社「ループ オイル社」「スルグトネフチュガス社」などが含まれていた。 結局若手改革派による市場経済維持のためのインサイダー取り引きで、オルガルヒのやりたい放題によって堂々とこれらの国有資産は売り渡され、ロシアは彼らに強奪された。



 ソ連が解体し、ロシア共和国となり、1995年12月に議会選挙と1996年に大統領選挙が行われる。そこにはボリスエリチェン、共産党のジュガーノフ、そしてゴルバチョフも立候補して選挙戦が戦われた。 当時エリチェンの体調はすぐれず、彼を支持する改革派、新興財閥(オルガルヒ)と対立るするゴルジャコフなどと内輪もめし、一時は共産党のジュガーノフが優位に立っていた。

 結果はエリチェン53%、ジュガーノフ40%、ゴルバチョフは2%以下の支持であった。エリチェンはオルガルヒから莫大な選挙資金を手に入れ、メディアを支配し、活力のある改革派の大統領を演じ、次第に多くの支持を集めていった。エリチェンの対抗馬は、地方メディアから締め出されたり、国立機関での演説を急にキャンセルされたり、直前にホテルの予約が取り消されたりした。そしてエリチェンは大統領選挙で勝利した。


 ジュガーノフは共産党の信奉者に語りかけた。彼らはロシア市場経済移行における敗者、軍人、科学研究者、年金受給者であった。ソ連時代のエリートは同じ地位にとどまっていた。エリチェンの批判はソ連が偉大な国家で、ロシアが偉大な民族であるという感覚を剥奪してしまったと訴え中高年の支持者に共感された。しかし変革を求める若者にはその声は届かなかった。


 ゴルバチョフは民主主義を礼賛したが、専制を熱望する一般大衆の壁にぶち当たった。演説で人々に「共産党に権力を返上すべきだろうか」と問いかけると「そうだ返上すべきだ。あの頃の方が良かった。」「あんたは国を売った。ロシアは強力な統制が必要だ。」と人々は答えた。


 エリチェンの政権下1997年資本主義革命後、ようやく豊かな時代が訪れるかと人々は思った。しかしロシア国家は弱体化し、市民社会は堕落し、職業的、倫理的規範は消え、なんでも売買の対象となり、賄賂が横行した。

 1998年ロシア経済は崩壊した。そして首相がコロコロ変わり最後に、エリチェンはウラジミール プーチンを首相に指名し、年末の12月31日にみずからは辞任し、プーチンを大統領代行に据えた。顔のない魔術師と呼ばれた男が、翌年3月26日の選挙でやはりオルガルヒの資金と若手改革派の協力を得て大統領になった。


 プーチンは大統領になると、1999年にソ連時代の官僚「シロヴィキ」(内務省、軍、旧KGBなどの武力省庁の当局者)などの協力を得てオルガルヒを政治の舞台から追いやった。当時80億ドルの個人資産を持ち、クエート一国を上回る産油量の石油企業の所有者ボドルコフスキーを逮捕し投獄した。そして、ベレゾフスキーはロンドンに逃亡し、グシンスキーはニューヨークに逃亡した。ポターニンも事業を縮小し、政界から消えた。

 2004年までに、プーチン大統領は民主的市民社会の制度の多くを意図的にたたきつぶした。たとえば全国ネットのテレビ放送局は、全て国家の支配下に引き戻された。地方の公選知事は骨抜きにされ、政権に反対する事業家は国外追放されたり投獄されたりした。 そのかわりにソ連時代からの官僚とくに「シロヴィキ」が権力の中枢を握った。その数はゴルバチョフ時代の4.7%から58.3%になった。彼らは自分たちが国家の利益のために行動していると考えており、ロシアが再び恐れられる存在となることを狙いとしている。

 そして何よりも厄介なのは、彼らの心の中で強い国家という概念が恐怖感をかもしだすことと 結びついていることにあった。プーチン政権の周りにはかつての帝政の官吏でだったアパラチキもまた、装いを改め公僕として使え政権を支えている。


 ソ連崩壊の後あまりに急進的な資本主義化、資産の民営化が進められ、その過程でロシアの富は一部の人に奪われることを許し、エリチェン時代の社会の混乱からロシアに集団的秩序願望が生まれた。知性的で微温的なゴルバチョフと対照的なエリチェン大統領の急進改革の混乱から、さらに独裁的なストロングマンのプーチン氏がロシア国民によって大統領に選ばれた。



「さまざまな一党が玉座に近づき、戦利品の分配を始める。その後、彼らはその場を追われ、代わりに別の連中が入ってくる。寵臣は絶えず入れ替わる。これがロシアの伝統だ。」





 参考 第二のロシア革命の内幕 世紀の売却 クリスティア フリーランド 著



  


2022/02/23

生態系、地理から地政学へ

 ユーラシア草原地帯の生態と騎馬民族

 

地形や植生が生物の生態系をつくる。人類の歴史もまた、地球環境によってつくられる。


 赤道付近では、太陽による蒸発が上昇気流を生み、大量の雨が降る。それが熱帯雨林をつくりだす。この空気が高い高度を移動して、北緯30度付近と南緯30度の位置で下降し、砂漠地帯を生み出す。ユーラシア大陸ではチベット高原とヒマラヤ山脈とパミール、崑崙、天山山脈などがインド洋からの水分の多い空気を遮る壁となり、 その結果ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠はさらに北にまでひろがる。

 この砂漠地帯と北の寒い針葉樹の森の間には広大な草原ステップ地帯がある。そこでは降水量が少なく、樹木が育つには乾燥しすぎ、植生は耐寒性のある草になる。西は黒海、カスピ海ステップで、現在のウクライナさらに西にはハンガリー大平原になる。中央にはカザフステップがありその北側にウラル山脈とアルタイ山脈その東にはモンゴルまでゴビ砂漠の北に草原が広がっている。


 砂漠の生態に適応した生物はラクダで、厚いクッションを足の裏に持ち、砂漠を歩き、水分を最小にして活動できる。一方ステップ地帯の草原では馬にとって最適の生息空間となる。牛は雪の下の草は喰まない、馬は雪や氷の下の草もヒズメで割って、食べる。この地域では夏は乾燥して気温が40度を超え、冬は零下20度まで下がり、地面は雪に覆われる。この環境でも馬は草を食べ生活する。

 ステップの地形は陸上は平らな平原で、山脈も湿地も大森林もなく移動の障害物は何もない。わずかにウラル山脈が南北に伸びカスピ海ステップとカザフステップの界を作っている。この乾燥した草原地帯に住む放牧の民は草原を馬で迅速に移動し、草原は数十万の馬の食糧を供給する。このステップ地帯の民族と周りの農耕地帯である東の中国、南のインド、中東、西のヨーロッパ、ロシアの民族は歴史上幾多の武力衝突の歴史を繰り返してきた。いったん草原地帯から侵入した騎馬民族は耕作地帯の土地では馬を養う牧草地が不足し、再び大陸のステップの草原地帯に帰っていく。


 この騎馬民族国家で周辺の国との戦争が歴史上何度も起こされ、最初に記録されているのが、スキタイで、ヘロドトスの「歴史」に残されている。紀元前7、8世紀カフカス、黒海の北側、現在のウクライナから起こり、紀元前1世紀までステップの大半を支配下に置き、遊牧国家を形成し、ギリシャやペルシャと対峙していた。ペルシャは100万の軍隊でスキタイに侵攻し敗北したと記録されている。

 紀元前3世紀の末になると、中央アジアの東に匈奴が勢力を増してきた。三国志の項羽と劉邦と匈奴の鼎立時代から、やがて劉邦の漢帝国ができ、匈奴と漢の間の50戦争がおこる。ここでも統一した遊牧国家と統一した農耕国家の衝突が起こった。


 ステップの匈奴の活躍と時を同じくして、ステップの西側では、気候変動で寒冷化した地球はステップに干ばつをもたらし、そのためフン族が4世紀の後半にローマ帝国の境界地帯にやってきた。フン族の移動によりギリシャやバルカン半島は荒廃し、フン族はその後解体したものの、西ローマ帝国も次第に弱体化し、移住した移民とステップからの遊牧民の大移動によって最終的に崩壊した。


 13世紀になると、モンゴルのチンギス カンが東の中国から黒海までのユーラシアの過半を支配下に置いた。何千年にもわたり、ステップ地帯の遊牧民は大軍を支える牧草地から周辺の農耕社会を打ち破り、支配した。その後ヨーロッパの国家とロシアと中国は中央集権体制を確立し、技術の進歩とその軍事力への利用によって力は逆転し、ユーラシア大陸の中央まで領土を広げランドパワーの中心となった。


 海 貿易風と大航海時代


 ユーラシア大陸の陸地での民族の興亡とは別の海の航路が開かれる大航海時代がユーラシアの西の端イベリア半島のポルトガルとスペインから始まった。ユーラシア大陸の西の端イベリア半島から14世紀から15世紀にかけて大西洋に船で乗り出した冒険者たちがいた。大西洋の東に位置するカナリア諸島にはアフリカからすでに渡ってきた部族が住み着いていた。その先のアゾレス諸島は無人島であった。その島を経由して、ポルトガルの船乗りは、手漕ぎから風を受ける帆船に乗り、貿易風に乗って、しだいにアフリカ西岸を南下し、ついに最南端の喜望峰に達した。やがてユーロッパからアフリカ大陸の周りを回って、アジアに至る航路が出来上がった。一方、その頃スペインの宮廷の援助でコロンブスは1492年5週間の航海の後に、バハマ諸島に達し、四ヶ月間の探索ののち、北に進路を変え、中緯度まで来て偏西風に乗って、スペインまで帰還した。それによって新大陸アメリカは発見された。その30年後にはヨーロッパの船乗りたちは、世界一周の航海に成功した。 こうして始まった海洋航海術の発達によって、アフリカの沿岸に沿ってインドへの回路と大西洋を超えてアメリカへの航路が開かれた。この海洋の機動力によって、ヨーロッパの国々は最初はポルトガルとスペインその後オランダそしてイギリスが海外に植民地を作り、貿易を通して、海上権力(シーパワー)を握った。


 地政学の誕生


 1904年イギリスの地理学者ハルフォード マッキンダーはユーラシア大陸の中心には遊牧民が住み、沿岸地方の国家に対して強烈な軍事圧力をかけていた。これをハートランド(heart land)と呼び、周りの国を内側のみかずき型地形(innner crescent)と呼びさらに外側の島や大陸を外側の三日月地帯(outer  crescent)と呼んだ。そしてシーパワーとしてのイギリスとアメリカとランドパワーとしてのユーラシアを想定した。


 その後ドイツの地政学者ハウスホーファーが、ドイツでこのハートランドの地政学を打ち立てた。第一次世界大戦に敗れ、植民地と領土の一部を失ったドイツは敵対国に対する憎悪と失地回復の機運がドイツを覆い、ナショナリズムと地政学の勃興を促した。その時代、ハウスホッファーは1923年は「民族自決の地政学に向けて」を発刊。しだいに彼の地政学がナチス政権にも、影響力を持ちイタリア、日本にも影響力を持った。第二次大戦後アメリカの新聞によるとハウスホッファー教授と地政学協会がナチスドイツ(ハートランド)の世界支配の計画をたてそれを基にドイツ帝国の生存圏を広げていったと報道している。

 

 その後アメリカでも国家の独立と安全のための国家の力における地形や気候の持つ効果を考慮に入れる必要があり、国土のサイズや位置あるいは天然資源の存在、と言った地理的な面からの安全保障問題を考慮する地政学が採用されている。ドイツの領土拡大のための歴史哲学的な解釈とは違って、ある地理的な状況があった場合、どのような政策を採用すれば国家の安全が確保することができるのかを地理とパワーの視点から研究されてきた。


 第二次世界大戦前、1941年アメリカのスパイクマンによる地政学では、アメリカの2.5倍の広さと10倍の人口を持つユーラシア大陸、その中心にハートランドがあり、その周りにリムランドがありここには中国、インド、西ヨーロッパが含まれアメリカ、日本、イギリスなどはこれらの地域のさらに外縁を形成する。 その中で、リムランドを支配するものがユーラシアを制し、ユーラシアを支配するものが世界の運命を制すると述べている。

 その後、戦後のアメリカの対外戦略ケナンのソ連封じ込め政策や、ブレジンスキーの危機の弧や、現在のアメリカの対外戦略に大きな影響力を与えてきた。

 何より、その後イデオロギーや宗教ではないスパイクマン達の地理を中心とした地政学的分析の予想が現実化していった。現在もその理論の延長上に、ロシアの脅威が起こり、中国の支配国家への成長、リムランド内での紛争、そして世界の多極化が進んでいる。








2022/02/06

環境の世紀、生態系の保護 アマゾン セレゲンティー カラハリ

 

 アメリカ大陸、とりわけ南米のアマゾンには広大な熱帯雨林が広がり、多様な生命が複雑に絡み合った生態系が動物や植物に見られる。多くの鳥類、昆虫類が植物を食べ、多くの哺乳類は樹上の生活をし、植物、昆虫、動物を食べ、草食動物を餌にする肉食動物の頂点には巨大なへび、アナゴンダ以外は天敵はいないジャガーがいる。へびも多くの種類がすみ、イグアナやトカゲ類もまた多くの種類が生息し、爬虫類や両生類の王国と言える。


 生物の個体群の大きさは、天候などの環境に大きく依存している。熱帯雨林では植物は繁茂し、植物など生産者とその分解者はありあまるほど豊かに存在している。熱帯サバンナでは雨量が少なく、草食動物の数は植物の量に左右される。さらに雨量の少ない砂漠のような気候では、雨水と植生によって生物の生存はさらに大きな影響を受け、生物の種類は減る。


 この個体群の数をコントロールしている、地上の生態系の調節はどのようになされているのか、さまざまな動物や植物、あるいは人類社会の影響が研究され、生態系のコントロールシステムはかなり解明されてきた。環境のおよぼす影響、草食動物と植生、肉食動物など生物のコミュニティーで全ての動植物が同じように個体数の調節に関与しているわけではないっことがわかってきた。


 熱帯雨林とは異なるサバンナでは、また生物の生態は異なった様相を見せる。熱帯気候で定期的に乾期が訪れ、丈の高い草木と不連続な低木層からなる安定した生態をつくる地域で、大型哺乳類の像やキリン、ライオンの生息地で、東アフリカのセレゲンティ国立公園がその代表である。

 ボロゴンジャ川から、エメラルドのような緑色したなだらかな丘が、一定の間隔で生えた木々とともに広がっている。地平線まで一望できるが、いたるところに木々が小さな木立をなして点在している。草原はこれ以上ないほどに緑色に染まっている。動物たちはあらゆる丘を覆い、一頭で、あるいは群れをなして平原に立ち、木立を出たり入ったりし、低地ではエサを食べている。

 この地域は1951年にセレゲンティ国立公園として保護され、大型哺乳類が生態系を構成する地球上に残された特別な場所となった。1958年にこれらの動物の数が調べられた。ヌー9万9481頭、シマウマ5万9481頭、19万4854頭トムソンガゼルとグランドガゼル1717頭のインパラ1813頭の水牛、837頭のキリン、60頭の像を確認した。

 1966年にはセレゲンティで水牛の調査が始められた。1959年から1961年にかけて水牛が多く死亡した。これは捕食者や飢餓ではなく病気、牛の感染症のアウトブレークによるものであることがわかった。このウィルスが東アフリカの動物の生態系に大きな影響を与えた。このウィルスがなくなると1973年にはヌーの数が77万頭に激増した。その後ヌーは増え続け、140万頭にも達し、それを捕食するライオンとハイエナの頭数もやはり増えていた。さらにヌーが大量の草を食べ、乾期の火災が減りその結果草食のキリンの数もまた増加した。

 熱帯サバンナの生態調節の主役は捕食者ライオンではなく、ヌーで、草食動物、肉食動物、樹木の数に影響し生態系を調節していた。実際、1980年に比較して森林密度は30年間で急速に増加し、ヌーが草を食べ、草は豊かに茂り蝶は増え、バッタやイナゴは激減した。そして競合するトムソンガゼルは半減した。


 気候によって、植物が減少すれば、草食動物の数は減り、肉食動物に多く捕食されればやはり数は減少する。 自然界では栄養カスケードに従って生物が階級をつくる。有機物を分解する菌類や蠕虫の仲間、気候などの環境、日光や雨量、土壌の栄養に依存する植物、それを食べる草食動物さらにそれを捕食する肉食動物で成り立っている。その捕食動物の中でも、食肉動物の食糧となる死骸を奪う力は、上からライオン、プチハイエナ、リカオン、褐色ハイエナ、ヒョウ、チーター、ジャッカルの順になる。

 それらに捕食される草食動物は体重150キログラムで明らかに様子が異なる。体重の軽い小型のレイヨウまたはアンテロープ(ウシ科の動物でヌーやオリックス、インパラ、トムソンガゼルなどが含まれる)は多くの捕食動物に食べられ数は調整される。小型草食獣の数が増えれば肉食獣も数が増える。

 しかし水牛やサイ、カバ、象の成獣は捕食されない。これらの大型になり捕食を免れた草食動物の個体数は、捕食者ではなく、生息地の仲間の密度に依存することがわかった。個体数が少なく、食べられる植物が多ければ、群は個体数を急速に増やす。そして必要な空間植物が草食動物の養うだけの量がなくなれば栄養不足で亡くなる成獣が増え、その群の数は減少し始め平衡状態になる。

 サバンナでは乾期、草食動物は移動することで捕食を免れる。セレゲンティには定住するヌーの群と 移動性の群がいる。定住性のヌーは死因の87%はライオンやハイエナの捕食のためで、移動性のヌーはこれが約20%に減り、死因はほとんどが飢え死にになる。比較的身体に小さいオグロヌーは草を求めて一斉に100万頭が移動する、それにシマウマが加わり、ヌーの蹴り上げる昆虫を狙いアマサギが後を追う。この大移動がヌーの生存を保証している。


 セレゲンティより乾燥しているボツワナのカラハリでは8か月も雨が一滴も降らない乾期と1か月から4月の雨季があり、高原地帯のため気温は寒い時には0度近くになる。砂漠とサバンナの中間の植生で、雨季には多くのライオンや草食動物が住み、乾期には移動する。相対湿度が最も低くなる暑い乾季になると野火が砂漠を焼き、木々の葉から最後の水分までも奪って干からびさせる。アンテローブ類は、アカシアの花や野生のメロン食べたり、砂地に深く潜った根を掘り起こし食べて生きている。しかし乾燥して植物が枯れ始めると、多くの草食動物は食物を求めて移動する。その草食動物の後を追って、捕食動物であるリカオンやハイエナ、ライオンもまた移動する。そして9月から翌年の乾期が終わり大粒の雨が大地を潤し、一斉に草が生え、水がたまるとライオンたちも戻り、集団生活を送る。


 熱帯とは逆に北極に近い島スピッツベルゲン島では生物の種類は極端に少ない。そのためあらゆる生き物の相互関係が網羅できる。1922年にオックスフォード大学の極地探検隊のエルトンによりこの食物連鎖が初めて明らかにされた。プランクトンや魚類は海鳥やアザラシに食べられ、海鳥は北極キツネにアザラシは北極クマに食べられる。こうして生態系の調整の研究が始まった。その後、農薬散布によりウンカの大発生は天敵のクモの死滅によることや、アフリカの猿の被害はライオンやヒョウの減少によること、様々な地域の様々な生物の数はいかに調節されているかが研究されてきた。


 今日、人がこの生態系に関与し、壊して予測不可能な副作用により、人の住む世界が急激に変化し劣化し、荒廃しつつある。20世紀は医療による生活向上の世紀であった。21世紀はこの生物の住む環境を守り緑の平原と豊饒の海を取り戻すことが最重要の課題になった。

2022/01/14

ニュージーランド 氷河スキーと環境


  ニュージーランドの南島には、3000メートルを超える高い山々がそびえ、氷河がある。タスマン氷河は最も大きく氷河をスキーで滑降し、青く輝く氷の洞窟が見られ、北島には樹齢1000年を超えるニュージーランドの固有の樹木カウリの巨大な木々が保護され残っている。

 かつてニュージーランドには哺乳類がいない鳥類の王国であった。大陸から隔絶した環境で動物と植物の生命圏がつくられていたため、キーウイという飛べない鳥も生存できた。8世紀頃に、太平洋の島々ポリネシアからマオリ族が木造船で、ニュージーランドにたどり着くまでは哺乳類と同じように、人類は生息しない世界が続いていた。マオリ族は原生林を開墾して、タロイモ、サツマイモなどを育てて定住していった。狩猟生活から、しだいにイモ類の栽培の農耕生活を始め、カウリなど原生林を使い、木造の大きな集会場を作り、木造の住居に暮らし始めた。


 その後、18世紀頃から、ヨーロッパから人々が移住し、1840年にイギリスがこの島を植民地とし数千人が住み始め、6年後にイギリス人は9000人を超えるようになった。19世紀の後半、ヨーロッパ特にイギリスから木造船、3本マストの帆船に乗ってさらに多くの人々が移住し、原生林を切り倒し、そして焼き払ってマオリ族と同じように木製の住居を作り住むようになった。


 

 19世紀の後半、鉄と石炭の時代が始まり、世界に広がっていった。木炭に代わり、石炭を燃料とした製鉄によって、硬い鉄、鋼鉄ができた。この鋼鉄で大砲をつくり、鉄の建物をつくり、そして橋も、船も鉄製になり、1889年には超高層の建物、エッフェル塔が建てられた。 19世紀の半ばに石灰石と粘土をまぜあわせ1400度以上で加熱し、その塊をすりつぶした粉末セメントこれに砂を入れ混ぜるとコンクリートになる。木や石にかわってコンクリートができ、その硬く可塑性に富んだ性質故に鉄筋コンクリートが大きな建造物主役となる。


 ニュージーランドでも都市には鉄とコンクリートの建物が林立し始め、19世紀後半になると、徒歩か馬と馬車から移動手段としての鉄道が原生林を切り開き、都市をつなぎ、次第に島全体に蒸気機関車が走り始めた。そして馬車に代わってガソリンを燃料とする車が1900年に初めて登場した。現在は飛行機が都市間の主要な移動手段となっている。 


 産業革命以降の生活の進歩は、あまりに急速で、原生林は破壊され鳥類は生息できなくなり、人とともに哺乳類も島に住み始め、今では人口より多いひつじが住んでいる。この急速な自然の破壊を目の当たりにして、その後自然は保護され回復してきた。動物や植物も国外からの持ち込みを規制し島の生態系を守るようになった。そして電力は水力や地熱、潮力が主力で現在も原子力発電はなく,風力や太陽光を含めると80%が自然をエネルギー源として使っている。


 島国ニュージーランドは、近代化の便利さと破壊力の大きさ、地球の未来のための自然の回復のわかりやすい一つのモデルとなる。太平洋を隔て大陸から遠く離れていることと、 国土の広さの割には、人口は500万人と少ないことが幸いし、現代生活をしつつ自然は破壊を免れ保たれている。




 地球規模で見れば、地球上の人口は増え、ますます多くの物を消費するようになった。過去200年でエネルギー消費だけで20倍に増えそれによる二酸化炭素の上昇は未来を危うくし始めた。地球上の森林の伐採により、種の絶滅は毎年4万種になり、地球環境をを変化させ気候変動をもたらしている。


 現在温室ガスの出る量は地球全体で年間510億トンになる。鋼鉄とセメントの製造で出る温暖化ガスは10%を占めている。そのほかのプラスチック製造など製造によるものを含めると製造業全体で合計31%になる。大量に生産された製品は、安価になり大量に消費され世界に広がっていく。より良い電化製品を求めより良い住まいを目指して、最初は先進国やがてBRICSと呼ばれる中国やインドなどがこの隊列に加わって、世界中で経済が発展し、都市には高層の建物が建てられ、21世紀に入ってからも世界では東京都の都市一個分が毎月新たに建てられている。


 温室ガス排出は発電のためのエネルギーが次に多く27%になる。この3分の2は石油、石炭、天然ガスが占めている。 その次が食用の動物や植物で全体の19%で、放牧のために原生林が犠牲になり、世界的規模では牛のゲップと豚の糞からの量が温暖化の主役になっている。車や船、飛行機などの移動する乗り物は排出量が16%で、乗用車はその半分くらいである。そして冷蔵庫やエアコンで7%をしめる。これらは全て便利で豊かな生活を保障するもので、すぐにこれらはやめられない。


 世界中の暮らしを産業革命以前まで戻すことがでいない以上、環境と経済のバランスや各国の発展の様子を見て解決する必要があるものの各国の考えは様々で、国家主権が絡まりこれを解決するのはかなり難しい。地球環境を守るため、1992年環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言が出され、地球環境の保護は大切なことはわかっていても実行までには至らなかった。京都議定書、パリ協定と国際会議は開かれ、経済との折り合いをつけるために、排出の削減や、様々な排出量取引の仕組みがつくられた。昨年COP26で2050年までに世界の二酸化炭素排出をゼロにし、熱帯降雨林の伐採をゼロにする目標が決まった。


 このまま地球環境の劣化が止めれないと、氷河は溶け、気候変動による食料や資源の取り合いで世界は混乱に陥る。様々な手段で今の経済成長を保ちながら環境を保護するには製造、発電、農業、車などの移動手段、住まいあらゆる分野で人々の意識の変化と技術開発が重要になるとの共通の認識になりつつある。


 かつて日本列島も、江戸時代は着物を仕立てなおし、端切れを使い、最後はぞうきんにして使うのは当たり前のリサイクル、リユース文化でした。建物も当然天然の木材と土と石と紙で造られ再利用されていました。19世紀末のエッフェル塔から始まった鉄塔は東京タワーとして日本にも建てられ、20世紀のガラスとコンクリートの近代建築は古都の玄関京都駅にも採用されました。21世紀、東京オリンピックの会場新国立競技場に木の庇の隈研吾氏の設計が採用されたように今後は、環境に負荷をかける巨大建築の時代は終わりグリーンな省エネルギーの建物が建て始められるかもしれません。 昨年アップルは将来全ての製品と容器の包装を100%再生可能なリサイクル材か再生可能な素材にすると発表しました。

2021/12/06

神の国、民の国


 240段の石段を上った山の頂の一番奥の高いところ、家康を讃えて建立された全ての社殿を背後から見下ろすかのごとく、大きな石積みの上に青銅の壺がのる簡素な墓があり、そこに家康の遺骸が眠っているのである。    

                    イサベラバード 「日本奥地紀行 日光東照宮」


 国を支配する権力者は様々な型で国を統治し、歴史的に多くの宗教国家や王国、独裁国家が生まれた。その権力を保ち存続させるためには、その正統性を人々に認められる必要があった。古くは王権神授説で、神に与えられた権力であるとして支配者は権力の正統性を語った。


 日本では、古代は天皇が国を治め、鎌倉時代になって初めて武士が権力を握る。鎌倉幕府が武士の源頼朝によって、開かれ、権力が武士の手に渡った、それに対して後鳥羽上皇が政権奪還を目指して天皇のもとに権力を戻そうとして敗北し、隠岐島に流された。この承久の変の後、武士が権力を完全に握り朝廷は儀式や官位を与える権威の象徴のみになった。


 その鎌倉幕府も、後醍醐天皇に敗れ幕を閉じ、建武の新政と言われる天皇制が復活する。この建武の新政はうまくいかず、新たな天皇をたて、自らは征夷大将軍となった足利尊氏が室町幕府を開く。これが北朝で、一方北朝方の天皇、上皇、と三種の神器共々吉野に撤退した天皇が正統性を主張し南朝の政権をつくり、天皇の並立する南北朝時代となった。


 足利尊氏と対立した南朝の北畠親房は、歴史書「神皇正統記」を書き、南朝の正統性を神道の思想で編纂し残した。日本の国の成立は天照大神が天孫降臨するとき与えた神勅から始まり、後村上天皇の時代までの天皇の万世一系の血統が続く系譜を書き記し、三種の神器、鏡、玉、剣を正直、慈悲、智恵に対応させ、これが正当に受け渡されることが正統の根拠であるとした。さらに、現実の統治には民の安定こそ重要で、初期の鎌倉幕府を支持し、承久の変を不義とした。神の意志は民の安心、仁政安民にありとして、神道でも儒教と同じように統治者の仁を求めた。


 室町幕府は三代目の足利義満の時、権力の証を皇室では満足せず、明の皇帝から国王と称されることを求めた。しかし、その後も権力は日本全土には及ばず、応仁の乱になる。権力と権威は空洞化し、日本全国に群雄が割拠し、戦国時代に突入した。近畿地方と中部の中心を支配した織田信長は室町幕府の将軍義昭を擁立し全国の支配に近ずいた。その後、義昭を追放し自らが武士の頂点に立ち、権力を握り、天皇からの官位を辞した。信長は天皇や将軍の伝統的権威を否定した。自らが統一した日本の皇帝になることを望んだように思われる。しかし、その望みは実現せず、信長は全国制覇の途中で暗殺され、それを引き継いで秀吉が日本を統一した。


  秀吉は天皇から関白の称号を得て、朝鮮出兵以後は太閤の称号を得た。農民からついに天皇と並び立つ地位を獲得し、「自分が権力に登るとは、まさに奇跡的なことで、自分自身の力によるものではなく、日本、中国そして遥か西のアジア諸地域をも支配する特別の使命のため天が選んだため」と天道の思想を用いて自らを描き、さらに「わが国は神国である。神は心であり、心は全てを包んでいる。どんな現象も神なくしては存在しない。神なくしては、霊も道もありえない。神は生長の美しき時も衰退の悪しき時も増減しない。そして陰陽不測である。それゆえに万物の根源である。それはインドでは仏法、中国では儒道、日本では神道と呼ばれている。神道を知ればすなわち仏法と儒道を知る。」と語り、死後遺言で、彼をまつる神社を建てることとした。これが「豊国大明神」で神道をもとに秀吉を神格化した。この秀吉を祀る神社はその後各地に建てられた。



 政権を握った家康は「天下は天下のための天下なり」として儒教の天道思想で支配の正統性を語り、大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼした二ヶ月後「武家諸法度」と「禁中並びに公家諸法度」を公布し、家光の時旗本や御家人に対して「諸士法度」を交付して外様大名から旗本御家人庶民を将軍お権力の下に置いた。そして皇室は国政には関与しない体制とした。


 家光の時代になると鎌倉、室町の将軍たちとは全く異質の方法で徳川の権威を高めた。家康を神祖化するため、1934年日光の家康の社を豪華な廟に立て直し、徳川家康が「神君」と称されるようにした。日光の家康を祀った東照宮を建て、東照大権現とした。正直、知恵と共に慈悲が神聖な徳である。これらは万物の根元であり、日本の三つのシンボルの根底によこたわる理であるとして天道をもとにした「東照宮御遺訓」を残した。


 日本の有史以来政治の中心の天皇、都の京都が日本のイデオロギー空間の中心であった。この空間を家康から3代目の家光の時代に、権力の中心に将軍家、都を江戸、家康を祀る東照宮を日光に再配置し江戸幕府も新たなイデオロギーつくり、天皇を国政から遠ざけ、日本を支配し、天下泰平の世をつくりだした。

 

  

 1868年、徳川慶慶は薩摩と長州を中心にした反幕府軍に敗れ、政権を明治天皇に奉還。薩長連合軍はこの時14才の天皇を中心にした政府をつくり年号を明治とした。ここに再び政治の中心に皇室をおく神武以来の王政復古がなされ、それを動かす機構に西欧の中央集権制が採用された。


 権力は長期の武士の政権から、天皇へと再び移った。若い天皇が京都から、東京へ向かう途中、伊勢に立ち寄り、伊勢の内宮に参り天照大御神を拝んだ。各藩は土地や民を国に奉還し、国はこれを新しく県に再編し、武士階級はなくなり、四民平等として、中央政府の軍をつくり、国家の体制を整えていった。

 当時西欧から急速に、新しい思想が国内に流入した。明治憲法を作るにあたり、日本ではこれまでの宗教が国民全体の機軸となるほどの確固たるものはなく、江戸時代の儒教は日常生活の徳目としてのみ残り、仏教もまたその宗教的な影響力はそれほど強固ではなかった。明治憲法では新しい国家体制の機軸とすべきは皇室あるのみとして、天皇制を機軸として1899年明治憲法が制定された。

 国王とは異なる、立憲主義をとり、そこには信教の自由が認められ、天皇の機能を行使するのに、3大臣が輔弼(助言)をするように定め、大権行為は天皇のではなく大臣が最終責任を負うものとした。そのほかに元老も輔弼の役割を果たし、軍事の統帥権については、陸軍参謀総長や海軍軍令部長が輔弼の役割をになった。 


 よく年1890年に教育勅語が発布された。この中で神話、天皇、国家は結びついた。

「朕思うに、わが国は天皇の祖先がつくり、徳をもって国を治め、臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげてきた教育の基づくところもまた実にここにある。」から始まり、儒教の徳目を定め儒教道徳と神道の混合した神話による国家、神の国日本の教育の目標を定めた。そして、一旦急あれば義勇を持って公に奉ずることとした。


 明治維新の後、明治初期の新しい思想の中に自由、民権の思想があり次第に反政府の運動として力を持ってきた。国論は分裂して、国内は流動化しつつあった。時の政府は伊東博文を中心にして、憲法を制定し、教育勅語を発令し、神話教育を進め天皇制の国に作り上げられていった。


 天皇を神格化して現人神となり、日本書紀は神話であったのが、次第に歴史的事実となり、誰も批判できなくなった。そして神道は国家神道となる。


 第二次世界大戦の敗北により、日本は国民が主権者となり象徴天皇制に変わり、平和を求めれば戦争はおこらないものであり、経済のみを重視する価値観が広がり、宗教なき世界になっていった。