2010/07/11

医療観光


 20年以上前,中東、インド、東南アジアとりわけネパールやバングラディシュ、パキスタンなど医療設備の不十分な国で、在留邦人など外国の人びとは病気になったら,安全で清潔で医療レベルの高いシンガポールかバンコクを目ざし治療に行っていました。

 また、世界各国とりわけ中東から富裕層を中心に、ドイツやアメリカの高度医療を受けに海を渡っていました。日本人も多くの移植希望患者がアメリカに渡航していました。

 最近では、その流れが変化し,欧米並みの先進的で高度な医療サービスが自国よりはるかに安くうけられるアジア地域に、医療目的の観光旅行者が増えてきました。かつての先進医療を先進国で受ける目的から,逆に先進国から安価で良質な医療を観光をかねてアジアの都市で受けるのが現在いわれているメディカル ツーリズムです。

 その背景にはアメリカでは,コスト削減を目的にマネジドケアがこのメディカルトラベルを推奨し、9.11以降にアメリカの入国が困難になった中東の富裕な人びとの医療の受け皿になってからです。

 バンコクでは2004年には私立病院で治療を受けた外国人は100万人を超え、タイ最大のバムルンラート病院は2006年、40万人の国外患者を引き受け、53%が国外からの患者がしめています。

 これらの病院では主にアメリカでトレーニングし医療技術を見に付けた医師が治療にあたり,アメリカの外科系専門医資格を持つ医師は200人以上にのぼります。今年、タイ全国で国外の患者数は200万人以上になり、アラブ人の富裕層が最大の顧客で、以前より性転換手術を目的とした日本人の間ではタイの医療は有名でしたが、現在はそれ以外の医療が主で年間25万人以上の人が治療を受けています。

 シンガポールは2003年にSingapore Medicine構想を建て,政府が海外からの外国人患者受け入れを拡大すべく医療拠点つくりをすすめ2012年には100万人の受け入れ計画を建てています。

 7年前,作家の石川好氏がインド医療の水準が高い事や海外からの患者の多いことを文章にしていました。日本の国内では、インドの医療が日本や欧米並みなどとは想像さえされない時代で、あまり多くの反響はありませんでした。その後経済の急速な発展に伴いインドでも国外患者を多く診る政策を打ち出し2006年には年間約15万人の外国の患者を診ています。

 さらに,韓国は美容整形と整形外科が有名で,昨年は4万人以上の国外患者を受け入れています。

 日本では、癌研有明病院でガン患者の治療を、冠動脈疾患を小倉記念病院で、また亀田メディカルセンターがJCIを取得し、海外の患者治療をしています。その他に検診ツアーをしている病院が全国で数カ所ありますが、今後この医療観光をどうするか議論中で今後の動向は?です。

2010/06/04

Bangladesh



タゴール
 
 バングラディッシュの首都ダッカの空港は、雨期には滑走路はほとんど海の中に浮かんでいる。このあたりはベンガル湾に注ぐガンジス河とプラマプトラ河が多くの支流となって、デルタ地帯に豊かな水をもたらし、肥沃な土穣をつくっている。水田と緑の土地はかつて「黄金のベンガル」といわれ、この国の稲作を支え豊穣をもたらすものの、水害の元にもなっています。
 牛を使って田を耕し、満々と水をたたえた水田には緑の稲穂の間をアヒルが泳ぎ、田舎の道にはバスを待つ人があふれ、懐かしい日本の田園風景、気候も湿潤な日本の盛夏を思わせるものです。6月から9月にはモンスーンが毎年猛威をふるい、この災害のためか世界の最貧国の一つでした。
 このバングラディシュで有名なのは、ルイス カーンの設計による、国会議事堂と国歌の作詞者であるタゴールです。タゴールは植民地下のインドで1861年に生まれ、詩人であり思想家であり、また音楽、絵画にも多くの業績を残し、ノーベル賞を受賞しています。
 1902年岡倉天心がタゴールの家に10ヶ月滞在し,互いに共鳴し、岡倉天心は「東洋の理想」と「東洋の目覚め」を執筆し、アジアは一つを唱え、タゴールもまた、西欧列強に対するアジアの連合、アジア主義を唱えた。タイ、支那、インド、日本は共通の宗教、芸術、哲学がありそれらアジアの国が連合し西欧列強に対抗しようとするものでした。
 タゴールは1916年、1917年と1924年の3度日本を訪問し戦前の日本にも多大の影響を与えました。しかし、しだいに愛国主義、国家主義に傾く日本に対し、同じアジア主義思想であったタゴールは、反ナショナリズムの立場から日本とはしだいに相反するものとなっていきました。
 タゴールの思想は偏狭なナショナリズムではなく、人間ひとりひとりの魂に宇宙の真実、ブラフマンがやどり、世界の人びとは一人として異邦人はなく、一つとして閉ざされた扉はないとするもので、終世、民族、国境を越えた人間愛,時空を超えた永遠、大いなるものの合一を求め続け実践しました。
『この世は味わい深く
大地の塵までが美しい
こんな大いなる賛歌を私は心に唱えてきた
これこそは心に満たされたものの生のメッセージ
日ごと私はなにがしかの真理の贈り物を
受け取ってきたが
その味わいは色あせることはない
そのために黄泉の国への別れの岸辺に立って
なおかのこう歌がこだまする』
『百年後
いまから百年後
わたしの詩の言葉を 心をこめて読んでくれる人
 君はだれか
          』
 
 その百年後の今、世界は変わり、バングラディッシュに世界の縫製場として日本やヨーロッパなど世界中の多くの国の企業が進出し、繊維製品の一大生産地となりました。最近流行の日本の安いジーンズの多くはmade in Bangladeshとなっています。

2010/04/11

水木しげるの昭和


 この春、ゲゲゲの鬼太郎で有名な妖怪作家のふるさと、境港市の水木しげるロードに行きました。神戸から高速道路の中国縦貫道を経由して、米子道を一路北に向かい右手に大山を見、2時間で米子市に到着します。そこからさらに北に20分で日本海につながる境水道の岸壁に到着、漁船や、海上保安庁の船の停泊する岸壁の駐車場に車を置いて、一歩入ったところが水木しげるロードです。1996年にできた人口3万人の街のレトロな商店街がそのまま妖怪のオブジェが立ち並ぶ妖怪ロードとなっていて、ネズミ男の銅像にこども達が手をつないで記念写真をとっていました。

 水木しげるの年代記は昭和史そのものです。大正11年(1922年)生まれ、少年期はのんのんばあに地獄や妖怪の話を聞き育てられ、昭和初期の比較的平和な時代をすごしました。

 その後、日本は国内の混乱から戦争に突入、昭和18年(1943年)召集されラバウルに出兵、戦場の爆撃で左腕を失うも無事に昭和21年(1946年)に帰国。

 戦後の混乱期は、紙芝居作家や貸本漫画家の貧乏な生活を送る。その後、連載漫画がカムイ外伝で有名な『ガロ』や『別冊少年マガジン』に掲載されるようになりました。

 昭和43年(1968年)日本はしだいに豊かになり、学園紛争の年を迎え、ちょうどこの年にはじめて『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメが放送され、テレビが家庭の娯楽の中心になり、日本経済が発展するにつれ、5回にわたりこのシリーズは放送され、有名漫画家の1人となりました。

 昭和45年(1970年)『水木しげる妖怪画集』を出版し、マイナーな妖怪世界をしだいに奥深い水木ワールドとして発展させてきました。1980年以降は合理主義、近代化の高度成長路線が陰りを見せ、明るい世界から追いやられた妖怪が再認識され、「なまけものになりなさい」の水木精神が時代に受け入れられ、しだいにおおくの人たちの興味をひくように時代は変化してきました。

 その後アフリカのドゴン族、マレーシアのセノイ族、オーストラリアのアポリジニ、メキシコのインディォ、アメリカのホビ族などの文化を聞き妖怪世界を広げて行き世界妖怪会議まで開いています。

 今では、境港市は最も有名な観光地として、水木しげるロードが定着し、米子駅の霊番ホームからは、鬼太郎列車が漫画キャラクターで彩色され、JR境線も妖怪鉄道となっていました。

 漫画の威力恐るべし。

2010/03/29

満州事変後の日本と小林秀雄


 第一次世界大戦のあと、1920年代は大戦の反省から、世界的に平和の時代であり、日本も大正デモクラシーと呼ばれる時代でした。共産主義と民主主義が世界にひろまり、そして,次の1930年代は世界的な大転換がおこり,革命の時代に入ります。

 その頃日本国内でもプロレタリア文学が流行し、学会でも社会主義や無政府主義の紹介がなされるようになってきました。

 小林秀雄は昭和初期の1929年(昭和4年)改造に“様々なる意匠”を発表。そこでのプロレタリア文学批判、その観念性と政治の為の文学に対する批判は、時代の先駆けでした。

 

 一世を風靡したプロレタリア文学も、1930年代前半には共産党員の大量の検挙や、幹部の転向宣言などで人心がはなれ、しだいに日本全体が民族主義的になってきました。右翼の運動はさらに過激な行動主義,テロリズムに走り出します。

 1930年には、後に外務大臣になった松岡洋右が国会で幣原外交の国際協調路線を批判し、経済上、国防上満蒙はわが国の生命線(life line)であると演説し、その頃東京帝国大学での調査でも、学生達の88%が満蒙に対する武力行使は正統であると回答しています。

 1931年に満州事変がおこされ,国内での一般国民の世論は陸軍の主張を圧倒的に支持しました。この背景には、1931年から翌年にかけて、政争に明け暮れる政党ではなく陸軍が“国防思想普及運動”を全国で展開し、その中で、「この生命線を守るため、国民生活の安定を図るを要し、就中、勤労民の生活保障、農山漁村の救済は最も重要。」とし農民救済,国民保健、労働政策を各地で訴えた結果でした。

  また小林秀雄は日中事変の最中の1938年(昭和13年)満州から北京に旅行し、満州の印象で以下のように書いています。

  この年から国策で16から19才の少年達の移民政策が始まり、この満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所の一カ所を見学し、寒さの中、計画が、うまくいっていない様子も描いています,「満州にわたった少年開拓団の子供達について、その表情は奇妙なものであった。まさしく困難な境遇におかれた時の子供の心そのままの顔なのだ。」書いていました。 そして“欠陥は満拓公社という官僚的組織と何をおいても先ず臨機応変の手腕を要するこの新しい仕事の実際との決定的齟齬にあるのではあるまいか”と

 当時日本の政府は国内の閉塞状況を打ち破るため壮大な夢と熱狂のもとで500万人の満州移民計画をたて、その為に、特別助成金や、別途助成金を村や町に出し、道路整備や産業振興に使う政策をすすめ多くの国民を満州へと向かわせさました。

 小林秀雄は亦1939年(昭和14年)“疑惑Ⅱ”では、「国民の大部分が行った事も見た事も無い国で,宣戦もしないで大戦争をやり,新政権の樹立、文化工作、資源開発を同時に行ひ,国内では精神動員をやり経済統制をやり,といふ様な事態は、歴史始まって以来何処の国民も経験した事などありはしない。」と記しています。

 その当時陸軍は、中国の脅威を最初は反日運動、次第に平和を攪乱するする匪賊、最後には、満州を奪おうとする国民党の陰謀と喧伝しました。そして、上海事変、盧溝橋の発砲から、北支事変、南京占領へと突き進んでいき、1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃から対米英蘭に宣戦布告に至ります。

 この事変から戦争にいたる日本の正当性を意義付けるため、昭和17年(1942年)座談会「近代の超克」が13人の学者知識人によって催され、このメンバーの一人として小林秀雄も参加しています。「この戦いは世界史的に見れば、行き詰まった西欧的近代を再定義し、それを超克するものである。」とした内容で、その年の雑誌『文学界』に掲載されました。

 その後の小林秀雄は政治的発言をほとんどせず、西行や実朝の世界を描き戦後、“無常という事”モオツアルト“などを発表することになります。

  

2010/02/21

住処

 THE NOTEBOOCK『きみに読む物語』2004年ベストセラーのアメリカ映画です。

 療養施設に一人暮し、過去の思い出も相手もわからない認知症になっている初老の女性とそこにいつも通い、本を読んで聞かせるやはり年老いた男性の青春時代と2人の物語。


 1940年、渡り鳥と陽光のきらめく、美しい河の有る保養地ノースカロライナ州シーブルックでのノアとアリーの初恋物語。この物語はかつての2人の青春の思い出そのものであることを一瞬奇跡的に思い出し、やがて静かに亡くなっていく2人の愛情と絆を描きだしています。 

 その頃のアメリカは豊かで、主人公ノアが1772年に建てられた家を自分一人で改築した住居も広く美しい建物であり、医療施設も充実し、認知症の人もゆったりきれいな環境で療養生活が送られていた情景が描かれています。強い心の絆とともに,自然に囲まれた環境の美しさ、清潔な場所で静かに息をひきとる場面が多くの人に感動を与えました。


 戦後の日本では,病院も住居も粗末なもので、しかも多くは空襲で消失してしまっていました。住まいは、1951年度に51Cといわれるコンクリートの住宅建築が始まりました。これは公営住宅標準設計の名称で,そのうちの最も小さいタイプのものがCタイプで,わずか12坪しか無かったのは、戦後、資材の無い時代住まいをともかく造る必要があり、小さいながら地方では木造ではないはじめての鉄筋コンクリートによる公営住宅でした。この住宅ではじめて食事の出来る台所、ダイニングキッッチンの発想が取り入れられた。


 その5年後には日本住宅公団に受け継がれ何DKの個室とダイニングキッチンの定型住宅が出来上がり、高度経済成長の始まる時期で、都市に流入する若い世代、ニューファミリーの住処となりました。そして,子供達には個室があたえられ、戦前からの雑居生活は消えプライバシーが家庭内にも持ち込まれ,自立と孤独の訓練の場所と考えられていました。


 その後,日本が1960年台から,経済が急速に拡大する1980年にかけて、ニューファミリーが子供を育てるための住まいとして大量に住居が供給された。多くの都心部に団地が出来、それが次第に郊外に広がり、ニュータウンが建設され,庭付きの住宅が全国で建てられた。その後家庭はしだい変容し,さまざまな形の家族ができ、現在では高齢者や子供の介護ケアの場所としての住居と変化しています。


 一方,介護はさらに他の場所社会的介護施設へと移動しつつあります。最期の住処としてアメリカ映画のような舞台は夢かもしれません。

  

2010/02/14

小田実


小田実とベトナム戦争

「何でもみてやろう」を1961年、27才のとき発表。

1958年にアメリカからヨーロッパを通り、インド、バンコック、香港から帰国した青春放浪記の一冊で、第二次大戦後豊かなアメリカと復興しつつあるヨーロッパ、貧困のアジアを放浪し、そして高度経済成長期に入る日本に帰国した。

 10年後に描いた藤原新也は豊かになってきた日本を脱出し、インドを放浪し人間の存在,人間の生と死のあり方を語った。小田実は貧困社会インドでの人びとの生きる社会を描いた。2人の出発点の違い、インド放浪の視点の差は、大きな構造としての社会のあり方から世界を描くのか、人間存在そのものを写すかの視点のちがいであり、日本の豊かさの質的違いだった。

 

 その後、1960年代の日本では,新幹線が走り,高速道路が出来、1964年には東京オリンピックが開かれ、高度経済成長期が始まる時期でした。

 アメリカはフランスが撤退するとベトナムに介入し,1965年2月には北ベトナム爆撃が開始され、国内では学園紛争と反戦運動が起こり、ベトナム戦争の後方基地となっている日本とアメリカの戦争に反対する運動がしだいに盛り上がり、全国に広がっていきました

 1965年にはベトナムに平和を掲げたベ平連(ベトナムに平和を 市民連合)運動が小田実を中心にできあがり、開高 健,小中陽太郎たちも参加。八百屋さんも花屋さんもと呼びかけ,貧しい農業国の独立運動に近代的武力で侵攻するアメリカに反対する新しい形の市民運動を創り上げました。

 これは既製の政党に属する訳ではなく,自分で考え自分で行動する新たな市民運動のかたちでした。既製の左翼運動にあきたりない学生や多くの市民はこの新たな運動組織としてのべ平連に参加し、学生運動とともに1968年には全国に広がり最盛期を向かえました。

 べトナム戦争は、アメリカ国内でも今までの戦争と基本的な違いがありました。国内の人たちは政府の言う民主主義と全体主義の戦いであるという題目を疑い、若者たちはアメリカ国内で反戦を主張し政府を批判しました。

 その後1973年に解放戦線、北ベトナム,南ベトナム、アメリカの間にベトナム和平協定が結ばれ、アメリカ軍撤退とともに、1975年サイゴンは北ベトナム軍によって陥落しました。

  ベ平連運動も1974年に解散、政治の季節は終わり、日本は高度経済成長に突入し、大きな政治の物語がすたれていきました。小田実はこの間も大きな構想の大きな物語を一貫として追求し、またその死生観は大阪大空襲の経験から難死の思想にあり,唯物的であり続けまた視線はアジア、アフリカに向いていました。1988年に『HIROSIMA』でロータス賞を受賞し、1997年「『アボシ』を踏むで川端康成文学賞を受賞。

 阪神大震災以降は西宮に住んで,再び社会変革家としての活動を続け、行動する作家として社会の中の人間を描く全体小説を書き続け、晩年には「終わらない旅」、「河」3部作を書き上げました。

 

 

2010/01/11

藤原 新也


藤原新也

 1960年代以前の日本は、まだあらゆるものの中にアシア的なものを持っていた。それは 金子光晴の描いた、亜細亜、混沌として物質文明以前の世界。まだ貧しさと、飢餓と死が日常の生活の中に自然の暮らしの中にあった。

日本では、1960年代になるとこのアジア的なものがしだいに失われ、社会の近代化が始まり、 経済では高度経済成長期が始まり、物質的豊かさが始まった。この社会の変動に対して、1960年の後半には、学生達の反乱が社会運動となり、政治の季節をむかえた。

ちょうどこの時期1969年に日本を脱出してインドに放浪の旅に出かけ、1972年に著者最初の作品『印度放浪』を23才のとき書き上げた。

この中で自然と人間の生死も自然の一部であるインドを、「物質的貧困と同時に、日本が失いつつある生命の根本である熱をみた。私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生き物の命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の在り場所もはっきり見ることができた。」

そして、熱球の下で「インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。インドという国が国の近代化にいつも失敗するのは、その人びとの頭上の巨大な熱球の主張や、その分子である地上の熱の独自のうごめきや生命の主張というものを法によって規制できないところにある。さらに言えば、この国においては,熱が法にとってかわっているのだ。それが宗教というものだろう。」

 日本では、1960年代から始まった高度成長期は1980年代にはいり絶頂期を向かえつつあった。その1981年に東洋の端、イスタンブールのボスポラス海峡から東に、香港、台湾、朝鮮半島をたどり日本に至る新たな写真による紀行「全東洋街道」を発表。そこには物質的繁栄前のアジアが鮮やかに写し取られ写真による新たな文明紀行,文明論を生み出した。

1983年『東京漂流』を出版。インド、アジア漂流の体験から日本の豊かになる軌跡、繁栄が人々に何をもたらすのか、近代化がなにをもたらすのかを鋭く浮かび上がらせた。『日本人は戦後80年代になるまで自らを物によって救済することのみに奔走してきた。』

 その象徴は1980年東京郊外のベッドタウンおこった金属バット両親殺人事件で、青空の下の何の変哲もない住宅。この郊外の住宅は、高度成長期20年の間営々として築き上げた消費文明の成果であった。その家の完成とともに空疎化し崩壊した家庭の物語を一枚の写真に雄弁に無言のうちに語らせた。

 皮肉なことに、その後この日本が一歩先んじた近代化、物質的豊かさの追求が、アジアにおいては台湾、韓国、シンガポール,香港などで始まり、東南アジア、中国そして、現在では彼の青春の聖地であったインドにおいても起っている。