2012/08/16

8月15日 日本の戦争


 清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、1912年(大正1年)中華民国が建国された。しかしその後、中国は袁世凱に政権を奪われ、各地に軍閥が割拠して、長い混乱期になった。中国特に農村地帯は当時魯迅が吶喊で画いた、荒廃し、寂寞感に覆われ、経済的には貧しく自給生活に近い状態が続いていた。

 第一次大戦によって、ドイツ帝国とロシア帝国は滅亡し、イギリス、フランスも大きな損害をうけた。開戦の翌年1915年(大正4年)大隈内閣のとき,袁世凱に日本は対中21か条の要求を突きつけ,権益を拡張しようとし、それに対してして中国国内で広範な排日運動がおこった。 
 
 1931年(昭和6年)陸軍内での協調意見も無視し、軍の一部は満州事変をおこし満州を独立させた。その頃イギリスは揚子江を中心とした地域を経済的に支配し、アメリカは門戸開放を唱え中国進出をはかり、ドイツも中国の蒋介石軍を援助した。ソ連もまた蒋介石軍と同盟し、中国共産党もしだいに勢力を拡大し、東アジア誰にも将来は見通すことの出来ない、混沌状態におちいっていた。

 1936年(昭和11年)中国は西安事件により国共合作。中華民国の蒋介石は日本の侵略を四億人の中国人をまとめ常識化することによって対日融和派は力を失い全中国に抗日の信念が生まれ、また中国共産党も国民に武力と思想で浸透していった。 同じ年日本国内は2.26の軍事クーデターがおこされ,その後日本は革新官僚と陸軍統制派が権力を握る。

 1937年(昭和12年)盧溝橋事件をきっかけに北支,上海へと戦火は拡大し、南京、漢口を日本軍が陥落占領し、蒋介石は重慶に首都を遷す。

 日本国内は国家総動員法を成立させ、大本営をつくった。両国の民族主義の激突が小競り合い、地域の小さな軍事事件を頻発させた。日本は支那事変の解決、和平を願い幾度も試みられたもののうまくいかず、蒋介石の実力を過小評価し、陸軍と海軍の方針が一致せず不仲のままであり、また陸軍内部も対外戦略路線を廻って、対立し一方内閣は頻繁に交代し、方針は定まらず国民やマスコミは軍部内の方針さえも乗り越え、熱狂が対中国強硬路線へと駆り立てて行った。参謀本部は本格的な日支戦争の起ることさえ想定していなかった。


 1939年(昭和14年)ノモンハン事件、独ソ不可侵条約締結。国内ではこれにたいして平沼内閣は欧州情勢は複雑怪奇として総辞職。

 1940年(昭和15年)日独伊三国同盟締結。近衛内閣は大東亜共栄圏構想を発表。日中戦争は長期戦となり、日本の南方進出は、イギリスと鋭く対立することとなり、アメリカの対日経済措置から大東亜戦争へと突入していくことになる。

 この年、日本の戦死者は中国戦線で10万人に達した。同年2月民政党の斉藤隆夫は聖戦の美名のもとに国民に犠牲を強い、戦争終結の具体策を示さない政府を批判した。答弁にたった畑陸軍大臣は「日中戦争はまさしく聖戦である。」と答えた。聖戦以外何のために闘ったのか方針のはっきりしないまま敗戦をむかえ,中国大陸には100万人の日本軍と50万人の日本人が残された。


 われわれの父親世代は10年以上におよぶ中国戦線での戦争に従軍。戦後多くを語らず、どの時代にどこで間違った選択をしたのか、他の方法はなかったのか責任はどこにあるのか、8月15日敗戦に至る歴史に結論は出ていません。
  

  

2012/07/16

オーム真理教とカルト


 80年代、日本のバブルと呼ばれた時代、人々は豊かな都会の生活を求め、自然から離れた人工的な世界、ブランド化したより高級な物にあこがれた。テレビや雑誌でもこの世界を報道し、日本中に広まった過剰な豊かさ、金ぴか時代でした。

 人々が特異な世界観に惹かれるのは、現実社会に対する不満であることが多く、物質的欠乏状況では、心は当然なんらかの救いを求めたためと考えられます。
 日本が豊かになり、こうした現実的不満が解消され、物質が充足しても心の欠落感、不安や満たされ無い気持ち、空虚感は解消されません。この物を持つこと以外の何かを達成したい気持ちを持ったり、欠落感を抱いた心の持ち主が普通の人とは異なる道を選びオウムに入信しました。
 

 最初わずか15人でオウム神仙の会をはじめた麻原は、1987年にオウム真理教と名乗り、 この年には、ハルマゲドンを唱え、オウムに入らないと生き残れないといって信者を誘い、その後、原始仏教を取り入れ、ヨーガの修行や神秘体験によって現実を超越する世界に達する方法で信者を獲得し、資金を集めていきました。2年後に宗教法人となり、仏教の修行の基礎はヨーガにありとして、修行し、極限の状態を体験し,このヨーガの階梯を一歩一歩上る。この秘技瞑想を通じて、クンダリー ヨーガを成就し、さらにマハー ムドラーを成就する方法を使って信者を増やしてきました。そして、最大1 万2000人人以上の信者を集めたことになります。

 しかし、 これらの、ヨーガ道場での布教では飽き足らず政治で権力を得るために選挙に出馬し落選。この政治権力を握る方法がだめなら次は武力で政権を攻撃するとして、様々の兵器をつくり、買い集めテロ集団に変貌してくる。
 人の心は移ろいやすく確信や信念も永遠には続かない。何が本物で何が偽物かを見極めるのはむつかしい。平安時代、空海は既心成仏を唱え、最澄は道心が大切と言い,鎌倉時代の明恵は菩薩心を語り、親鸞は深心を阿弥陀如来を信じる心とした。これらの先達による宗教としての仏教と、カルト集団オウム真理教の根本的な違いはどこにあるのか。

 大脳には理性や言葉を司る新皮質と感情や潜在意識や深層意識に関与する旧皮質がある。密教はこの2つの意識をうまく扱い、修行を通じて抑圧されたエネルギーを解放する技術を身につけられるとした。この密教の方法を使い、仏教用語を用い、迷いや悩みを直ちに解決したり、ヨーガの修行を通じて悟りに至ることができるとして、信じやすい心に入り込んでいった。

 マインドコントロールを薬物を用いて行い、宗教のおとぎ話化、デズニーランド化が行なわれ,ポアという仏教用語を使い、現実観の希薄なまま殺人を次々と実行して行った。最初はヨーガの指導者先生と呼ばれていたものが、大師と呼ばれる宗教団体の教祖になり、最後には尊師と呼ばれる絶対的グルへと変貌していった。

 このグルの心の中は何であったのか。 
 大江健三郎は小説「宙返り」の中で、教団の一部の急進派が原子力発電所を占拠し、爆発させる計画を立て、実行に移しかけた。それに対して、教祖はこの計画を中止させるために全国にテレビ中継で、これまでの教義は、冗談であり悪ふざけだった。ただちに、原発占拠を作戦を中止してほしいという声明を出した。

 連合赤軍事件から25年後の1995年再びセクト集団による大量殺人、政権支配を目ざしたテロ事件が起きたことになります。1991年から、フランスではすでに反カルトの法律が制定されています。


2012/07/02

2012/07/01


梅雨

 日本はアジアモンスーン地帯に属し、湿潤な気候で,特に夏は高温で南方と同じ暑さの3ヶ月が続く。冬もまた,日本海を渡る北風は大雪を列島にもたらし、やがて、春の雪解け水と豊かな地下の水脈をつくる。
 日本の海は太平洋からの、海流が太平洋側と日本海側に流れこみ、北からの海流と沖合でぶつかり合い、豊かな漁場をつくるとともにこの海の湿度が日本の山脈に出会うと、雨や雪を降らせ、乾燥地帯では、考えられない植物の成長をもたらし山々は豊かな森林を形成する。現在でも日本の国土の67パーセントは森林に覆われ、世界の国の中で最も森林面積の多い国です。

  日本列島ができ、紀元前3世紀に稲作が始まるまで、日本のほぼ全域は森に覆われていました。この森のうち1/3が開拓され水田となり、稲作が行なわれました。しかし、牧畜は土地の急峻なことや、湿潤な気候の為にわずかにとどまり森林の伐採は免れました。

 暑熱と湿気が必要な様々な諸草木に成長を促し、相互に密接に絡まり合い生い繁り、成熟し、日本の南部では亜熱帯の植生を生み出している。単位面積あたりでは,膨大な植物を中心とした生物のエネルギーを生み出している。
 梅雨と台風を特徴とする日本の気候が豊かな自然をつくり、恵まれた列島「豊葦原の瑞穂の国」として縄文時代からよばれてきました。

 この森の文明、縄文の文化が日本の文化の源にあり、湿潤なモンスーンの気候に適応したものです。稲作がはじめられても森林は多くは伐採されることなく残され、「人も動植物もみな同じ」や八百万の神の思想が生まれました。6世紀の半ば中国を経由して伝来した仏教も,その後、神道と共存し日本の地に定着し平安時代、鎌倉時代になると多くの宗派がうまれさらに発展し「草木国土悉皆成仏」の思想が定着してきました。


  仏教はインドで釈迦の悟りから生まれたもので,この世に生きる限り生老病死から逃れることはできない。諸行無常と悟り,涅槃寂静の境地に達することを説いた。インドの東北部に生まれたこの仏教は6世紀の中国南北朝時代に広がり、やがて日本にも伝来し聖徳太子の時代に仏教国家となりました。インド本国はヒンズー教が主流になり、中国もまた宋の時代から儒教が盛んになり近代ではマルクス主義になり、アジア大陸の東と南の地域、すなわち、日本、カンボジア、タイ、ミャンマー、スリランカが仏教国として現在まで残っています。


 一方、農耕牧畜や砂漠地帯の宗教であるキリスト教は源流のユダヤ教とイスラム教ともに唯一の神をあがめる一神教であり、この思想のもとで都市文明を生み出しました。森の神であるフンババを殺害したギルガメッシュの伝説がこれを物語っています。砂漠の民であるかれらは攻撃性を持ち、自然と戦い、制服する環境から生まれた唯一の神を信じ巨大都市文明を創り出し世界にひろめていきました。

 東南アジアからインドを通り、中東に向かう時,湿度過剰なバングラディッシュから乾燥地帯のパキスタン、アフガニスタンを通りさらに西に進むとイラク,イランと砂漠地帯に気候は変化する。さらに西には地中海がある。地中海の北にはヨーロッパ諸国になる。この地域は、夏の乾燥と、冬の湿潤からなる地中海性の気候で,夏の乾燥で雑草が繁茂することはなく、牧草をつくり、緑の大地は放置されても草原になる。この自然,気候と風土がそれぞれ異なった文化や宗教を生み出し発展させてきたと考えられています。



 戦後はアメリカの高度に発達した資本主義を基にした自由な精神や物質主義が時代精神となり、忍耐とか精進といった戦前からの日本の精神はわすれさられていきました。
 しかし、日本列島をおおうこの湿潤は、自然の猛威となり、大雨、洪水、暴風、旱魃をもたらしています。さらには地球表面のプレートの端に位置する地震国であることは大地震や津波の襲来のたびに日本列島のおかれている事実を思い出させます。われわれは、今後もこの列島に住み、この環境に適した生活をを選ばねばならない運命にあります。


2012/02/20

三好達治の世界

 あはれ花びらながれ

 をみなごに花びらながれ

 をみなごしめやかに語らひあゆみ

 うららかのあし音空にながれ

 をりふしに瞳をあげて

 翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり

 み寺の甍みどりにうるほひ

 廂々に

 風鐸のすがたしづかなれば

 ひとりなる

 わが身の影をあゆまするのうへ

 三好達治は1900年(明治33年)生まれ。大阪陸軍地方幼年学校から、東京陸軍幼年学校にすすむ。当時、行動的日蓮主義者であり、西田 税らと幼年学校の二年のとき校内の軟派批判活動で、「文弱淫蕩の俗風己に台上をおかした。質実剛健の意気と正義と今や地に墜ちんとして居る。 休日にはカフェー浅草を彷徨して不純の気に我自ら浸り・・・国家の内外に思いを馳せよ、是くの如くんば大日本帝国滅亡の日思いの外に速く来らん。」と愛国の激文を書いた。

 そして卒業後大陸雄飛の夢をいだいて、朝鮮半島の会寧で仕官候補生の生活を送った。この朝鮮半島生活の印象を「二つの異なる民族によって同時に一つの土地が占められことはできないかもしれない」記している。その後、1920年(大正9年)陸軍士官学校にすすむも、この士官学校を脱走し収監され退校処分となった。こうして軍人になる道は断たれた。

 時代は日露戦争後の大正デモクラシーとよばれる一時期で、ロシア革命が起き、それに対して日本はシベリア出兵を行い、国内ではインフレから米騒動が全国に広がり、当時労働運動と社会主義運動が結びつき、共産党が結成された。一方国粋主義者たちは猶存社を結成し、安田財閥の安田善次郎暗殺事件がおこる。

 軍人になることをやめた三好達治は、21才のとき第三高等学校に入学、そして、東大フランス文学科に進学。在学中の1930年(昭和5年)30才のとき測量船を刊行。 この中には、「春の岬」、「乳母車」、「雪」、「のうへ」などの有名な詩が含まれている。

 その頃に、ヨーロッパの経済の破局とアメリカの恐慌の混乱の最中に満州事変がおこされる。国内では、資本家や政治家に対する暗殺が頻発し、1936年(昭和11年)陸軍皇道派の起こしたクーデター二 二六事件の煽動者として青春時代での同士であり盟友の西田 税が処刑される。

 日中事変後は上海特派員として、「艸千里濱」「列外馬」などを収めた詩集「艸千里」を 1939年(昭和14年)に刊行。その後の日米開戦から敗戦まで、「一點鐘」、「花筐」などの詩とともに愛国的詩集「寒析」「干戈永言」「捷報いたる」などを発表し国民詩人としての地位を確立した。

 

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

 初期の静かな透明感有る叙情は萩原朔太郎のもとで学び、影響を受けさらに研ぎすまされていく。実生活ではその萩原朔太郎の妹と再婚し、三国でしばらく生活をおくった。しかし、美しく静かな詩の表現とは遠くかけ離れた激しさから、生活の破綻を来たした。

 

 星冴え

 山々か黝くたたずみ

 聚落寂寞として

 灯火暗く睡れるに

 丁鼕とはるかに聲あり


 今日の日の凛冽たる意志

「寒折」の中に初期の測量船の「雪」と同じ響きを感じる。フランス文学から得た西欧的知性と日本的叙情の融合した初期の作品から出発し、戦争中は愛国詩を描きそして大戦後の昭和21年には雑誌新潮の「なつかしい日本」で天皇の退位を主張した激文を発表した。

「私は先に陛下の御責任は身自ら陸海軍の大元帥陛下として、名ありてその実のなかりし疎粗慢の点にかかって存することを指摘したが、陛下の御責任は

・・・

 戦後「駱駝の瘤にまたがって」「百たびののち」でふたたび詩集を発表し文壇に復活した。

 

2012/01/29

高橋和己


 団塊の世代とは堺屋太一の造語で、1947年から1949年までに生まれた世代を言う。この世代は、戦争で海外に出征していた人々が、敗戦とともに国内に帰還し、結婚し、生まれた世代で、人口は年間250万人を超え、3年間で980万人になる。
 この世代が青年になる頃、日本の高度成長期がはじまり地方から多くの若者が上京して、職業についた。またベトナム反戦運動や、学園紛争を担った。
  高橋和己は、この世代に圧倒的な支持をうけた作家で、1962年「非の器」でデビューし、精緻な論理を構築した法学者が、権威を失い、しだいに破滅にいたる過程を描き出した。「憂鬱なる党派」は生硬な理論の対話が連続する小説で、イスラム教のスンニ派とシーア派の争いが、日本から見ていると理解しにくいのと同じように、その時代と舞台となった戦後の共産党の歴史を知っているもの以外には,わかりにくい重い響きと内容のドラマで当時の、思想や政治が至上のものであった時代の熱気を感じさせるものでした。
 「邪宗門」は大本教を素材に宗教集団の運命を描いたやはり新興宗教の興勢から崩壊にいたる架空の教団の組織と挫折の歴史を描いた。また「散華」において戦時における日本の精神について語った。
  評論集「孤立無縁の思想」中で政治と文学を語り、戦後民主主義、北一輝や岡倉天心のアジア主義思想について語り、戦争や散華の精神についての埴谷雄高氏との往復書簡も当時の文壇でも論争を呼ぶこととなった。
  戦後民主主義については、「人は、人間社会の歴史を構成するどの単位を自分の準拠する枠にするのかをせまられる。個人か、家族か、地域共同体か、職場か、階層か、階級か、誓約共同体か、国家か、全世界か。個人を重視すればリベラリズム、家族を基本にとれば儒教思想、誓約共同体は宗教や思想的結社、国家に依拠すれば国家主義。従来、人々は個人から全世界にわたる各単位の間の価値を、なんとか撞着することのないように調整しようと努力し世界観をつくってきた。しかし人間の歴史の現実は、これらの価値の衝突と流血の歴史でしかなかった。戦前、戦中の日本は典型的国家主義であり、敗戦はこれが外から崩され、新たに世界を信じ,個人を重視する、自由と民主主義と文化国家がとなえられた。」
 ヨーロッパから近代化革命がアジアに伝搬するとき、帝国主義的侵略という形態をとったゆえに、初元においては共通の危機意識に支えられ、日本、中国、インド等々の知識人の精神に同時に思いおこされ、主張されたナショナリズムがある。岡倉天心や内藤湖南、孫文や章炳麟、そしてガンジー。西洋物質文明に対する東洋の精神文明を説き、あるいは文化的なあるいは政治的な東洋の連帯を夢想した。
 順逆不二の論理 北一輝で中国の辛亥革命,中華民国樹立の過程で、革命を支えた日本人たちの大アジア主義の夢と崩壊。そしてやがて国家主義へと変質していくアジア主義と昭和維新を描き出した。
 戦争もまた政治の破綻ではなく、国家的規模においてなされる持続的な確信的犯罪行為である「戦争というものが、民族的な正義と正義とが真っ向からぶつかりあうもので、それは悪魔と天使、悪と正義の戦いでなく、一つのやむを得ぬ正義と、いまひとつのやむを得ぬ正義の戦いであるとおもっている。」
  さらに悲の器で「今度の戦争では,確かに三つの精神がこの極東でぶつかりあい角逐した。一つは、アメリカの高度に発達した資本主義に基礎をおく、サイバネティックスの理論と大機動部隊による物量作戦。一つは貧しい資源を、人的資源と精神力でおぎなおうとする、日本の特攻精神。そして、もう一つは、広大な土地の上に,忍従する土着の思想と革命思想を結びつけた中国の持久戦論とゲリラ戦術」また「思想的動物である人間は、恥を受ける生よりも信義に死ぬことを選ばねばならないことがある。」と語らせている。
 ウヨクを語り、サヨクを語りそして宗教を考え、そして既成左翼の概念を否定し、よりラジカルに物事を捉える論理を展開し、当時の新サヨクの経典となった。
 1960年代に始まった高度経済成長は1970年には日本列島改造,輸出の激増によって日本の経済は発展し、豊かさが人々の生活を変えた。宗教や思想を語るよりさらに豊かになり、さらに良い生活を求め人々は、走り出した。   高橋和己は甘い夢とか願望、洒脱や軽妙とは無縁の作家のまま1971年に39才の若さで一生を終えました。
 団塊の世代は生まれる前に国家主義は否定され,眼前で階層イデオロギーである共産主義も崩壊しました。日本では平和と民主主義と豊かさの中で、その団塊世代が社会の第一線から退く年齢となってきました。
 
 

2011/12/31

横山 大観








 

 島根県安来市にある足立美術館は日本庭園で有名で、最高の日本庭園としてアメリカで評価されています。この庭園にある美術館は近代日本画が多く展示され、特に横山大観は初期の作品から、晩年まで約130点にのぼる膨大な数が集められています。

 

 明治時代は徳川300年の鎖国が破られ、西欧の文明によって日本は文明開化し、亜細亜的な伝統と日本の文明にかわって欧米の社会システムをグローバルスタンダードとして受け入れることによって近代化した。一方、それに反発する国粋的ナショナリズムもおこった。

  美術においても、日本画は古いものとされ,多くの水墨画、屏風絵、浮世絵などは海外に流失あるいは二足三文で売られていった。 これに対して、岡倉天心はフェノロサとともに日本の伝統的美術品である水墨画、仏像、陶磁器の復権とそれらを守る運動に奔走した。

 1889年(明治22年)東京美術学校が設立され、日本画のみの学校で出発した。その後、黒田清輝を主任に招いて西洋画科が開設された。そして黒田清輝を中心にし、油絵による遠近法を用いた技法をフランスの印象派から学び.日本における西洋画を確立した。この西洋画がしだいに日本での主流となった。

 岡倉天心は途中で東京美術学校の校長をやめざるを得なくなり、日本画の伝統をうけついだ美術を指導する日本美術院を起こした。そこで横山大観や菱田春草は学び、日本画の一潮流を形成して行った。

   岡倉天心は東洋の理想で、「亜細亜は一つである。ニつの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき究極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない。」として西欧文明に対するアジアの文化の優位性を主張した。

 西欧から学び近代化した日本はアジアの大国となっていった。 大正から昭和時代になると西欧デモクラシーに変わってしだいに日本全体が国際主義から国粋主義的になり、軍国化していった。そしてこの反西欧、反資本主義の波は、横山大観の日本の風土や自然、富士山や大海原、桜をえがいた絵画を国家と民族を象徴するものとし、ついには時代精神と共鳴し、彼を第二次大戦時国家の推薦する日本画の代表に押し上げた。

 イタリアでは1922年(大正11年)ムッソリーニが、第一次大戦後社会主義思想による社会の混乱を非共産主義,反資本主義を掲げ大衆の支持を勝ち取り政権の座についた。1930年(昭和5年)横山大観は速水御舟らとそのムッソリーニに会うとともにローマで、1ヶ月の日本美術展を開催し16万人以上の入場者を記録した。

 また、ドイツでは1933年(昭和8年)にヒトラーが政権につき、1939年(昭和14年)スペインではフランコ独裁政権が樹立された。ヨーロッパ大陸はこれらの独裁国家が大きな力を持ちはじめた。このドイツのヒットラー総統に横山大観の画「旭日霊峰」が、また中国の汪兆銘に「昇龍」が日本の芸術の成果として贈呈された。

 この大アジア主義は昭和に入りアジアでの支配、資源獲得へと方向をかえ、大東亜共栄圏の構想となり、その理論的根拠としての近代の超克が語られた。それは、ヨーロッパの帝国主義的原理からなる近代主義、機械主義の世界秩序を転換させアジアはアジアとして新たな道義的秩序からなる世界へ変更させる世界観であった。

 その後,真珠湾攻撃から日米は開戦にいたる。

 横山大観は1943年(昭和18年)には大日本美術報国会の会長になり、多くの戦時中の絵画,戦争絵画を生み出した。そのうちの「海山十題」は日本主義の精華として国民の圧倒的支持をうけた。

 現在、横山大観の絵画に対する評価は定まっていない。

参考 絵筆のナショナリズム 柴崎信三 著