2014/01/01

パレスチナの赤軍派


また見つかったよ
何がさ?永遠。
太陽に
とろける海さ。

ランボー
       

 パレスチナのPFLP(パレスチナ解放人民戦線)は1968年、はじめてハイジャックをおこなった。彼らはその後も戦術として、航空機のハイジャックや空港襲撃事件を幾度かおこしていた。
 1972年5月30日パリ発エール フランス機がテルアビブ空港(リッダ)空港に到着し、奥平 剛士、安田 安之、岡本 公三が作戦行動を開始した。当日深夜BBC Three gunmen attacked Tel Aviv Airportと放送し、はじめてテル アビブ空港襲撃事件が世界に知らされた。
 銃撃戦の結果、空港内警備員や一般市民26名,アメリカ人17人、イスラエル人8人、カナダ人1人が死亡し負傷者は73名のぼった。奥平、安田の2名はその場で死亡し、岡本公三はイスラエルに囚われの身となり、軍事裁判で終身刑の判決をうけた。国内の日本赤軍派の事件に引き続きおこったこの衝撃的行動を契機に彼らの支持者は国内ではほとんどいなくなった。

 彼らの行動を支える思想は様々な種類の共産主義であった。時代はカストロとゲバラの革命軍がバチスタ政権を倒し、1959年キューバの社会主義革命に成功し、チリにも社会主義政権がうまれ、アジアではベトナム戦争が闘われ、世界は2大陣営に分かれ対立していた。そしてパレスチナでは過激な政治集団PFLP(パレスチナ解放人民戦線)が結成された。

 西欧諸国ではベトナムの反戦運動が盛り上がり、日本も反政府運動が全国で起っていた。しかし、1972年の日本の連合赤軍事件は、自由な表現がゆるされる場のある日本で、山にこもり孤立し武装しなければならない理由もなく、まして敵とした相手ではなく仲間を殺してしまう必要はどこにも見いだせない事件であった。又,PFLPの指揮のもとでのテルアビブ(リッダ)空港の民間人の殺害事件は、その後の世界的な政治的テロリズムのさきがけとなった。戦後、平和主義と人命尊重の世界観が主流の日本国内ではきびしい批判的見方がほとんどで、政治的に同情的であった人々の離反をまねいた。

  彼ら3人の日本人がなぜ自爆テロにも似たこの空港襲撃事件を起こしたのか。チェ ゲバラの「世界のどこかで誰かが被っている不正を心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての,一番美しい資質なのだから」といった言葉を本当に信じたのか。人はなにかを思い込みたい本能があり、信じやすい心を持っている。ときには事実を思い込みに置き換えてしまう事がある。そして、ランボーの詩を愛誦し,天空に輝くオリオンの星になりたい心情をいだいて、現実社会で実行してしまったのか。

 パレスチナ問題は,長い物語にたとえられる複雑な歴史の産物で,物語の最初は紀元前のパレスチナの地に山岳民族のヘブライ王国が建国された時代にさかのぼる。王国は滅び、ユダヤ民族はローマ軍にこの地を奪われ,世界に放浪することになる。その後この土地はアラブの人々の定住地となった。
 パレスチナとは地中海とヨルダン川の間の狭い土地で,イスラエル、パレスチナ自治政府のヨルダン川西岸地区、ガザ地区を含む。アラブ人イスラエル人あわせて現在1200万人が住んでいる。

 第一次世界大戦後はイギリスが委任統治し、ヨーロッパの第2次大戦中にホロコーストがおこり、ユダヤ人の国家建設がすすめられた。そして、パレスチナの地にイスラエルが建国された。
 1948年イスラエル建国時、アラブ側とイスラエル側の土地の配分をめぐって第1次中東戦争が勃発する。アラブの占有する土地面積が少ないことに不満をもったアラブ側がイスラエルに攻撃をしかけるもイスラエル側の勝利に終わった。その後第2次中東戦争が勃発し、1967年には第3次中東戦争(6日間戦争)で3たびイスラエルが勝利し,アラブ諸国の大量の地域、シナイ半島、シリアのゴラン高原、ヨルダン川西岸地区を占領した。これに対する反撃の行動部隊として、過激なPFLPがうまれ、航空機ハイジャックなどのテロリズムを実行した。1973年には第4次中東戦争、その後1993年にヨルダン川西岸地区とガザ地区がパレスチナ人の治める自治区となった。

 現在宗教を至上のものとするイスラム諸国と、世俗的経済を至上とし民主主義をかかげる西欧諸国との対立は続き,共産主義が消滅しても宗教的原理主義を掲げたテロ事件はおさまるどころか、より広い地域にひろがり、自爆テロも頻発している。

 








 

2013/11/04

プーシキンとサンクトペテルブルグ





人々のために昼のざわめきが静まり 
ひっそりとした町の広場に
ほのかに白い夜の影と
昼のわずらいをなぐさめる
眠りとがよこたわるとき 
わたしはひとりしじまのなかに
くるしい不眠のときをすごす。
なすこともないまよなかに 
悔恨のへびがこころを咬む。
あまたの夢がうずをまき
うれいにみちたこころのなかに 
おもくるしい思いがひしめく。
おもいでが 音もなく
ながい巻物をくりひろげる。
わたしは嫌悪のこころをもって
おのれの生涯を読みかえし
身をおののかせ のろいの声をあげ
なげきつつ にがいなみだを流す。
けれども悲しい記録のかずかずは
もはや消し去るよしもない。          

                            思いで   プーシキン

 19世紀のロシア文学は世界に多くの影響を与え、特に日本では明治、大正時代の文学者にとって、その文学は宗教にも近い人間の魂や精神の深い部分を描いた教科書として読まれていた。プーシキンはその先駆者でロシア文学におけるシェイクスピアの立場をしめる。その後ドストエフスキーやトルストイが日本語に翻訳され最も大きなインパクトをあたえることになる。

 1799年貴族の家に生まれ、幼少時よりフランス語を学びフランス語で芝居を書き上げる。ナポレオンのロシア遠征軍を撃退したのは17才になった時で、フランスを中心にした西欧風の自由民権の思想がロシアにも入ってきた。

 ロシア平原は長い間,遊牧民族モンゴルの支配のため,国家をつくる事が出来ず、15から16世紀にかけてようやくロシア人の国家ができた。17世紀にはいりロマノフ王朝が誕生し、皇帝が地上の神となり専制政治を行い、農民は共同体の精神の中心にあるギリシア正教の信仰の下に生活し、個人主義のない,調和的農村共同体をつくり支配されていた。ロシアロマノフ王朝でも長く続いたこの専制支配に対する批判は19世紀にはいるとしだいに高まってきた。 19世紀前半いまだ皇帝の栄光が強固な時代にプーシキンは多くの詩や小説を生み出した。
 プーシキンはサンクトペテルブルグの街を愛し次の時代のドストエフスキーやトルストイなどの罪、信仰、愛などの人間の魂の深層を描き出した小説とは違った作風でロシア文学の基礎をつくり、いまでも国民的人気が高い。
 
 1933年長編叙事詩「青銅の騎士」を書く。

 私はおまえが好きだ,ピョートルの建築物よ、
 おまえの厳格な、均整の取れた景色が好きだ、
 ネヴァ川のゆるやかな流れが、
 町の大理石を洗う

 青銅の騎士とはピョートル大帝で,彼がフィンランド湾にそそぐネヴァ川に沿って1703年から膨大な資金をかけ多大な人力で新しく美しい都市を建築し,1712年遷都した。そのときの大洪水を題材にした物語が青銅の騎士でこの像はデカブリスト広場にある。
 
  叙事詩「エヴァゲーニ オネーギン」はサンクトペテルブルグの貴族社会の物語でタチアーナのネオーギンに対する勝利は、信仰と確信の喪失から生まれる空虚さに対する,ロシア人の正義感の勝利の象徴と評され、チャイコフスキーの有名なオペラとなり、 もう一つのオペラ「スペードの女王」とともに世界中で公演されている。スペードの女王は、エカテリーナ時代のサンクトペテルブルグを舞台に、ナポレオン的性格の主人公ゲルマンがトランプ賭博から老婆殺害、最後にスペードの女王が微笑する、鮮やかな幕切れのサスペンスである。また、プーシキンの短篇小説「モーツアルトとサリエリ」で、神がモーツアルトに与えた音楽の才能とそれを理解する能力を持ちながら曲をつくる才能を自身に与えなかった神の不公平さをサリエリがうらやみ嘆く心のうちを描き出した。これを原題に映画アマデウスが製作された。

 1836年には「そのとき古風な小説が,私の陽気な晩年をしめることになるだろう。もっとも悪業の陰微な責苦を、物凄く描いて見せようというのではなく、ただロシアの家庭の言い伝えや、うっとりするような恋の夢や、わが国の古代の習俗などを、語り伝えるにすぎないのだが。」と予言した「大尉の娘」を世に送り出し、翌年37才にして決闘で死亡した。




 


2013/10/13

風立ちぬの世界 堀辰雄と四季


「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」

堀辰雄は、1930年(昭和6年)「聖家族」で文壇に登場した。

 1933年(昭和8年)軽井沢を舞台に「私の心はさつき霧の中から私を訴へるやうな眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽみしなかったけれど 」と恋物語「美しい村」を発表した。

 同じ年に、三好達治、丸山薫、津村信夫と詩の雑誌四季を発刊した。この年、共産党の指導部の佐野、鍋山転向事件から共産党は壊滅し、日本でも一時的に流行した国際主義的色彩の強いプロレタリア文学も国家の敵とみなされ消滅させられていった。そして、旧文壇の高村光太郎や萩原朔太郎の復活と若い世代の文芸復興がおこった。
  

 堀辰雄は有名な「風立ちぬ」を2.26事件のおきた1936年(昭和11年)と盧溝橋事件で日中戦争の始まる翌年1937(昭和12年)にかけて書き上げた。「それは,私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何ということもなしに口ずさむことを好んでいた、風立ちぬ、いざいきめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、」

 古典復興と内向的、求心的、叙情的な詩を集めた雑誌で四季派とよばれる詩人たちが昭和の始めに活躍した。このなかには中原中也、草野心平、金子光晴、立原道造も含まれている。四季は1933年(昭和8年)から1942年(昭和19年)まで81冊続いた。

 堀辰雄の分身的存在だった詩人は立原道造で,彼は10才年上の堀辰夫と同じように府立三中、一高を卒業し1934年(昭和9年)東京帝大に入学、四季の編集同人となり、繊細で透明な空気を代表する作品を生み出している。

 「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかえった午さがりの村道を」(のちのおもひに) 

 「暁と夕の詩」の覚え書きで「失はれたものへの哀傷といひ、何かしら疲れた悲哀といひ、僕の住んでいたのは、光りと闇の中間であり、暁と夕との中間であった。生きたるものと死したるものの中間者として漂ふ。死が生をひたし、僕の生の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。すべてのものは壊されつくしている、果敢ない清らかな冒険を言ひながら、僕がすべてのものを壊しつくしてその上に漂った、と僕の心がささやく」

 建築家としても嘱望されつつ1939年(昭和14年)24才で死亡。

 昭和初期1930年まではプロレタリア文学は大きな社会的影響力をもち、太陽のない街の徳永直や蟹工船の小林多喜二、詩人の中野重治たちが活躍した。しかし、しだいに時代の重圧の中で敗北していった。同時にモダニズム文学や詩も消滅した。

 現在にも読み継がれ人気のある詩は,その後も残った日本的叙情詩を描いた四季派の詩人たちである。四季派の特徴は日本古来の詩人たちのように日本の自然と心の内的世界とのかかわりあいを詩の目的にしたことにある。
 これらは季語や花鳥風月につながる、自然を直感的にとらえ表現することを重視しすぎ、社会的視野のなさ、芸術のみが至上で、現実より遊離している、あるいは近代社会のメカニズムとしての戦争を分析することはなく、戦争そのものを自然災害と同じようとらえていたといったという批判にもつながる。彼らの文学の舞台となった信濃追分や軽井沢のある長野県はまた最も多くの開拓移民を満州に送り出していた所だった。

 この頃の時代について金子光晴は「2.26事件につづいて、弾圧された筈の右翼勢力が,地下根をひろげ、着々とその地盤をつくり、満州事変上海事変等の民族的エゴイズムの発露となり、遂に中日戦争への追い込みというかたちになった。昭和6、7年あたりの自由主義の華やかさは皮相的なものであって、筋金になって国民を率いる思想の正体は、日本主義的ファシズムにほかならなかった。そして、国民の大多数は、それを支持した.それには,明治維新の皇道精神を基本とした子女教育がものをいっていた。」

2013/09/16

20年代新興芸術文学 吉行エイスケと川端康成


「米良は空中滑走する、戦い疲れた陳独秀とビクトリア カップよりセント ジョウジ プレースに至る山頂火車のなかで彼等は力なく握手して、空中の鏡の上にモーニング姿の印度人のイサックを発見するのであった。」「フィリッピン人のジャズ バンドが大広間で演奏を始めると、酒杯の味覚が米良を興奮さし、踊り子の赤いエナメルの靴尖に打ちつづく自己の災難を忘れて、断髪した朝鮮女と、口唇を馬のように開いて笑う日本女、猫背の支那女,目脂のでたロシア女、シミーダンス得意なマレー女、計算を爪のなかにかくした独逸女の腕から腕を地球を周遊するように廻りながら、マダム レムブルグの華美な安衣装から透いて見える胴体に潜む夜の唱歌隊を懐かしい逃亡者の国土にするのであった。」

 吉行エイスケの小説「地図に出てくる男女」は1928年から1931年にかけて上海、北京、大連を舞台にした謎の女性シー ファンユーを主人公にした清朝末期から中国革命期までの超近代小説で、この饒舌で装飾的な文章で当時の支那軍閥、国民党、共産党の戦乱の様相や植民地主義者の活劇を描いている。

 「地図に出てくる男女」の他「張作霖の死ぬ迄」「大統領戴冠式」「喇嘛寺付近」 「革命後の2人のモダンガール」「Filipino 瑪麗の愛」の5部作は国際的な都市の、政治的混迷と、各国の様々な人種の政治家から娼婦までを極彩色のスピーディーな文章で新興芸術家として吉行エイスケを有名にした作品であった。


 日本でも、大正末期から昭和初期にかけてはプロレタリア文学と並立して、モダニズム文学とよばれる新しい新興芸術派あるいは新感覚派が誕生した。この中に都市の幻想や犯罪を描いたモダーン都市文学やパリ、ニューヨーク、上海を舞台にした異国の物語あるいは自動車、列車、地下鉄、飛行機などの機械文明を題材にした文学が流行した。この新感覚派の文学「新興芸術派倶楽部」には吉川エイスケの他に川端康成、船橋聖一、阿部知二、井伏鱒二、小林秀雄、堀辰夫なども名を連ねている。彼らの主張は文学は政治や党派から自由な芸術でありたいという目的でつくられた団体であった。

 掘辰雄は1920年代モダン都市小説「水族館」で新興芸術派作家として出発した。しかし,1930年代には方向転換し「風立ちぬ」「美しい村」「菜穂子」の作家として名を残すことになる。川端康成も1930年(昭和5年)「浅草紅団」で新興都市東京を感覚的表現でルポルタージュ風に書き上げたモダニズム文芸作品をつくっている。
 これを読んで吉行エイスケが書評を書いている。「1920年代の都会の地図に無造作にばらまかれた人類と、機械と、建築と、塵埃と、科学的な色彩と、動物と、娯楽そのたのあらゆる万物の事物を熟練した装飾かのごとく並列して、そこから読者に近代をパノラマ風にうつしだした。」 
 その後の都市小説風作品は実験的小説「水晶幻想」を1931年(昭和6年)発表し、「末期の眼」1933年(昭和8年)のなかでは、これらの新規な作風に対して、奇術師と評された事に反論を書いている。感覚的で冷酷な心を描いた「禽獣」を1934年(昭和9年)に発表し、その後しだいに人の心の深層を描いたり、作品のなかで哲学を語ることはなくなり眼前の美しいものを繊細な表現で描いていく作風に転換していった。

 そして1937年(昭和12年)に「雪国」を発表した。1961年(昭和36年)には形式的完成美を保ちつつ,熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である、真の退廃が横溢している作品と三島由紀夫に評された「眠れる美女」を発表した。続いて、1963年(昭和38年)にはグロテスクスさを精緻な文章で書き上げた「片腕」を発表している。川端康成64才の時であった。

 川端作品は初期の浅草紅団以来多くの作品が映画化され、そのうち「伊豆の踊子」はその時代やスターにあわせてリメイクされ最も多くの映画がつくられている。同年1963年(昭和38年)4度目の映画化となる「伊豆の踊り子」に薫役に18才の吉永さゆりが抜擢されたとき、撮影現場を幾度かおとずれている。
 
 「雪国」やその後の「山の音」、「古都」などで、日本の伝統表現の和歌,伝統園芸の盆栽ににて、こまやかな自然、心のうちの美しいものを小説で表現した。そして、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、叙述の卓越さに対してノーベル賞を受賞することになる。

 急速な機械文明の発達と第一次世界大戦は,マルクス主義国家ソ連を誕生させ、多くの国で皇室が廃止され、その他のヨーロッパ諸国も政治文化の大変動が起った。その結果新たな芸術運動ダダイズム、シュールレアリスム,表現主義などの新興芸術が世界に広まっていった。戦争の反動として起った感覚的な,享楽的退廃的なダダイズムの小説や絵画は混乱した時代を反映し多くの国で流行した。

 日本でも、1920年代プロレタリア文学やモダニズム文学が流行し、30年代にプロレタリア文学が政府によって圧殺されると、モダニズム文学もしだいに自壊し、社会や世界を描く文学から情緒的、内向的文学に戦時下は変貌していった。小林秀雄は「様々なる意匠」のなかで、マルクス主義も第一次大戦の西欧の危機から生まれたモダニズムも西欧文化の移植であり日本では根づかないであろうとのべていた。又,川端小説の論評では「小説の冷たい理智とか美しい叙情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、化かされた阿呆である。」と書いている。

2013/08/17

日本的な庭


 庭は自然の一部であり、風土と感性、美意識を反映したものになる。日本で生まれ日本の風土にあった庭は日本的、和式庭園と呼ばれる。
 日本的なものの源流は足利義政に始まる。京都の戦乱をよそに、東山山荘を築き、連歌、茶の湯、生け花、畳のある家や庭園をつくり出した。
 彼の美意識は幽玄、枯淡にあり、禅寺の庭、枯れ山水を創り上げた。銀閣寺の砂の庭が広がり、すり鉢状の砂山に連なる。砂庭の向こうには、月待山があり、ここから月がのぼり、白砂に反射し幽玄の世界をつくる。月夜に輝く銀砂、この幽玄な一瞬が美学の中心にあった。日本的なものの構造の中心には、簡潔さや自然の素材を生かすことであり、現在まで残る龍安寺の石庭や西芳寺の苔寺の庭は日本的美的感覚の頂点に立つものであった。

 江戸時代の代表的建築と庭は桂離宮で17世紀智仁親王、智忠親王によってつくられ、切り石を使った飛び石、桂垣、簡素で直線的な書院や茶室は現在まで日本的庭園、建物の代表となっている。この世界的評価はブルーノタウトにおうところが多い。タウトは桂離宮は機能主義的でこの世で最も美しいものと評価し、一方、日光東照宮は中国明や清の趣味をまねた華麗で、過剰な装飾として評価しなかった。

 明治時代の和風庭園の担い手は山県有朋で、小川直治(次兵衛)の無隣庵に始まる。彼らは日本の西欧化を強力に推進した明治政府の指導者であり、同時に日本主義的な文化の愛好者であった。

 明治にはいり建築や建物、生活様式に至るまでドラスチックな変化を受け、西洋の文化を導入した。建築では、西洋建築を直輸入したものや、和洋折衷の様式、あるいは家の半分を西洋風もう片方を従来の日本式にした建物もあらわれた。庭もまた西洋風庭園と日本庭園を併設させる技法が流行した。
 無隣庵の庭は山県有朋が日清戦争から帰還して、京都東山を借景に自然を生かし、その山水の美を全うするとの考えのもと禅寺の庭ではない、近代的な日本庭園を造った。明治政府は膨大な土木建築事業により琵琶湖の水を運河とトンネルを造り疎水を造り上げた。小川直治はこの疎水から引き込まれた水を利用して瀧をつくり渓流や湖を庭に増設して、苔ではなく高麗芝で傾斜地を埋めた。岩石は横に寝かせ、湖に配置し、植栽は低く刈り込み広々とした空間を新たにつくり出した。その後豪商住友家の庭も小川直治(治兵衛)の手でつくられることとなった。彼の手による庭園は、実業家のステータスシンボルとしての庭となり全国に広まっていった。明治から昭和初期まで広大な日本庭園は彼の手によるものが多くを占めている。
 
 一方、この時期、一般の家庭にも庭は普及し、その洗練された典型例が室生犀星の軽井沢の庭にみることが出来る。軽井沢の雑木林の中に、日本的建物と日本的庭園を造り、コウロギ箱のいえと呼んで、多くの時間をこの庭つくりに費やした。

  きりふかき しなののくにに こほろぎの
  あそぶお庭を 我はつくるも

 室生犀星は芥川龍之介と並ぶ大正文壇の重鎮で、また庭をつくる人として有名だった。紅葉や朴の木などの木陰に苔と石を配置し、日々湿度を保つための水やりと雑草取りを楽しむ、戦後まで続いた日本の家の庭の典型だった。

 戦後になると、まがい物とほんものを区別できる目利きのパトロンはいなくなり、歴史に残る庭も新たにつくられにくくなってきた。 さらに日本的なものは古くおくれたものであるとしてしだいに廃れ、近代的、モダンなものとしてアメリカやイギリスの形式が庭園にも取入れられた。さらに京都の東山、比叡山、北山は京都市内からは見えなくなり、借景は近隣のマンションか電線にさえぎられ、不可能になってきた。さらに戦災をまぬがれた京都に東京オリッピックの開かれた1964年京都タワーが建てられ、1997年京都駅がモダン主義の設計家の手で建てられ街全体がフィレンチェやサンクト ペテルブルグやパリにはなり損ねた。ようやく最近になって、個々の建物、庭だけでなくランドスケープや都市景観が重要との意見が日本でもとりいれられるようになってきた。
 名古屋に白鳥公園が出来、景観設計家、造園家吉村氏による「都市に歴史をもった自然をとりもどす庭」がつくられはじめた。
 濃尾平野の木曽川、長良川、揖斐川の3河川が合流して海にそそぐ様を写した水の流れを河床の石を配置して岩場、水郷,海洋とみたて、流水を速く、ゆったり、狭く、広く流し、巧みな造園技術で、公園という名の新たな日本庭園を創り出した。

2013/07/28

寺山修司 時には母のないこのように


   

  少年のわが夏逝けりあこがれしゆえに恐れし海を見ぬまに
 
 戦後、写生を乗り越え、新たな時代精神をになった俳句、短歌の革新派寺山修司が現れた。

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 草餅や故郷出し友の噂もなし

 なまぐさき血縁断たん日あたりにさかさに立ててある冬の斧

 若き日の俳句や短歌から決別し、1967年には芸術の最先端、アヴァンギャルドとしてのアングラ演劇天井桟敷をつくり、見せ物劇「青森県のせむし男」からはじまり「書をすてよ、町へ出よう」であらたな演劇の地平を切り開き「時には母のない子のように」で一躍ミリオンセラーの作詞家となった。この歌の流行は時代そのものを写し出している、しかもこの歌詞の内容は寺山修司の、屈折した母親との心情をあらわし、短歌にも、劇にも,写真にも複雑な親子の葛藤を表出させている。

 その後、劇をこわす劇「邪宗門」は海外で評価され、田中角栄首相の後援をえてミュンヘンでの「走れメロス」の海外公演にこぎつけ、映画、あるいは小説や作詞家として世界的に有名になり、1960年代後半から1970年代の芸能界でももてはやされた。

 戦後、天皇制家族国家は解体され、家父長制の家制度を廃止した。憲法で,アメリカよりはるかに広範な人権が保証された。家族制度が解体されるとともにそれを支える倫理,文化も消滅していった。国家、家族制度がなくなった後、郷里や家族の間にも確固とした枠組みはなく、自由な個人の生き方が最重要となり、個性の発揮のためには何でも許される、反権力,反倫理が時代の先端となっていく。

 この時代の風を受け斬新な寺山作品の短歌や俳句、前衛的な演劇があらわれた。しかし「私はヒトラーに、きわめて愛すべき純粋な芸術青年の一生を見ると」書いてヒットラーを讃え、連合赤軍を讃え、森恒夫の自殺を賛美する稚拙な社会評論や時の首相の援助を求めた行動は評価にとまどう。
 寺山修司は意識下のエネルギー、情念を噴出させ、多くの詩、短歌,俳句、演劇,映画などの手段で表現した。言葉の断片は鮮烈だった。しかしそれらを統合する事なく、多重人格者の告白のような言葉を残して47才の若さで亡くなった。

「実在と影とは,同一人のなかで互いに互いを呪縛し合うもののように思える。
自らに終生つきまとう影とは一体何物なのか?」「私はもうひとつの声を聞く他人の口にのりうつった私の声だ。」「人は誰もが彼自身の分身にほかならない」「じぶん,というどくりつした存在がどこにもなく、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。」

 ダリアの蟻灰皿にたどりつくまでをうつくしき嘘まとめつついき



 一方、明治俳句の改革者である正岡子規もまた父と早く死に別れ夭折した。家族観、故郷、世界観の違いは大きい。

   糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

   痰一斗糸瓜の水も間にあはず
   をととひの糸瓜の水も取らざりき

 正岡子規は父親と幼くして死別し、松山から上京し24才で東京帝国大学文学部国文学科に転科進学する。その後、中退して「日本」新聞社に入社した。「日本」は明治政府のすすめる急速な欧化政策に対して、日本固有の伝統文化を重視する立場から反政府的色彩の強い主張を掲げていた。翌年には、松山から母親八重と妹律を呼び,同居することとなる。

 子規の生きた時代、明治政府は、近代化路線を突き進み産業、軍事、経済、教育、文化あらゆる領域で急速な変換を成し遂げた。そして,明治22年(1989年)子規22才の時大日本帝国憲法が発布された。

 この時期の知識人を含めた,国民に共通する考えを子規も記述している。
 小日本の巻頭論文で、「日本は上は仁君たる天皇からその臣下、親、兄弟、夫婦まで,日本人は家族のようにお互いがお互いを慈しみ合う事で皇国を創り上げ,数千年もの長きにわたって、その伝統を保ち続けてきた。それを可能にしたのは、世界に優れた、日本魂である。隣国の中国が儒教の仁義を国家の旨としながら,仁義に欠け、西欧の国々がキリスト教の博愛を国家の理念として掲げながら現実の振る舞いにおいて博愛を欠いているなか、真に仁義と博愛の精神を体現しているのは、天皇を頂点に仰ぐ日本の家族主義的国家とそれを支える日本魂だけである。」

 明治になり、江戸時代からの人形文楽や歌舞伎、花鳥風月をよんだ凡庸な和歌や俳句は、古い時代のものとなり、社会的にはそれほど影響力もなく、重要視もされていなかった。日清戦争後、漢文は衰退し、日本語重視が文芸にもおよび、小説では言文一致体へ転換ししだいに社会的地位を高めていった。時代遅れでほろびつつあった俳句も正岡子規により写生という言文一致へ改革されていった。


 その後、正岡子規は結核のため病床にふし有名な「歌よみに与ふる書」や「病床六尺」を出している。生活は妹、律の看病に支えられ数え36歳の早逝だった。家族に囲まれ、郷里松山の地域共同体に生き,日本という国家に帰属することに精神の安らぎを見いだし、短歌や俳句をつくり添削し言語革命を最後まで続けた。

 故郷はいとこの多し桃の花
 
 
 
 

2013/05/26

登れ,泳げ、走れ




 少年時代から、夢の中で,私は巨大な北面を見てきた。眠れない夜には、
私はあの数々の山腹の峡谷を調べあげ東側の氷壁で浸食された鋭い尾根をはい登り、あらゆる行動を企て,あらゆる手掛かりを予見した。
                             F6 峰登頂
 80才にして、三浦雄一郎がエベレスト登頂に成功した。15年前65才の時体重は増え、筋力は低下し発病寸前の体になっていた。この時点で心のギアを入れ替え、再起のためにエベレスト登頂をめざしてトレーニングを開始した。70才で初登頂に成功し,75才で2度目の登頂に成功した。

 日本人は長寿になり,1950年代100才を超えるのは150人から200人ほどでまれなことでした。昨年2012年にはこの100才以上の人口が2万6000人近くになり、健康寿命も確実にのびています。

 つい最近まで、人類は人生50年の世界に生きていた。人類の歴史をさかのぼり病気や怪我にわれわれの祖先は対応してきたのかをシャレド ダイアモンドの著書「昨日までの世界」で描いている。現存する文明化していない部族の調査から、文明化していない環境での死亡の原因は寄生虫やその他の感染症、人と人の暴力行為、そして事故によるものをあげている。たとえばパラグアイのアチェ族では、事故による死傷の原因の一番目が毒蛇によるもので、次はジャガー、落雷、迷子が続き樹木からの転落、虫さされや傷の化膿,焼死や溺死によるものが死亡の原因としてあげられている。

 これらが文明化によって克服され、とりわけ衛生的な環境と抗生剤による細菌の感染の治療によって多くの病気は死に至る病ではなくなった。それにかわって,十分な食料と座っての生活があらたに高血圧や糖尿病、脂質の増加をもたらし、血管の硬化動脈硬化から心筋梗塞や脳梗塞、じん臓病にかかり病の床にふせる人が多くなった。
 これを防ぐためには、チンパンジーと人類がわかれた600万年前遺伝子に組み込まれた声に耳をかたむける必要がでてきた。それは、毎日活動し、動き回り、食べるものはほどほどにすること。

 とくに食物は何をどれだけ摂るかが重要になってくる。チンパンジーは雑食で、主な食べ物は果実や木の実,花や昆虫など、時にサルやイノシシ、小型の牛の仲間の肉を食べている。人類も最も近い種の動物であるチンパンジーと同じように雑食で、農耕社会になり定住し食料が安定して手に入る1万1000年以上前、狩りと採取の社会では、食べ物が手にはいらず、空腹をかかえ、時には飢餓になる環境に適応して、からだがつくられています。飢餓には耐えられるように適応してきたものの、飽食は想定されて体が出来ていないため、食べ過ぎから病気になる人が多くなりました。


  この便利で豊かな社会になり、病気にならないために、さらなる健康をめざして人々は歩き,走り、泳ぐようになった。最近では若い人に限らず、何才になっても、人々はドーバー海峡やダーダネルス海峡を泳いで渡り、寒い湖や河あるいは海に飛び込み、登山だけでなく水泳もまたは新たな冒険や挑戦の手段となった。

 69才でダーダネルス海峡を泳いで渡ったリン シェールは著書 Swim why we love the water のなかで、水泳の歴史を書いている。

 水泳はエジプトの古代文明の人々にとっては生活の一部であり、東サハラの「泳ぐ人の洞窟」の壁画にすでに河で水泳する人々が描かれている。ギリシアやローマの時代から水泳はあたりまえで、ことわざに「無知な人とは,文字も読めなければ,泳ぐことも出来ないひとである。」 
 中世にはいると、水泳は行われなくなり、ルネッサンス期に復活した。平泳ぎしかなかったヨーロッパにアメリカ大陸の先住民の泳ぎからクロールがもたらされた。19世紀には海水浴がブームとなり、屋内にもプールがつくられるようになった。アメリカでは大統領になったJFケネディーは腰痛を治すためにホワイト ハウスのプールで泳いだ。そして、20世紀のアメリカでは多くの家庭では個人用のプールを自宅につくるようになった。
 
 ピアニストのアンドリュー マクマホンは病気を克服して、swimの曲をつくった。

 泳げ
 つらいときにも、とにかく泳げ
 世界中が見ているよ
 今までがんばってきたのは
 ここで挫折するためじゃない
 そう,泳げ
 沈んじゃだめだ
 ただ地平線を見つけるんだ
 きっと、きみが思っているほど遠くない

現在、健康のため、あるいは人生に挑戦するため登り、泳ぎ、走り,歩く人がふえてきています。