2014/04/08

イギリス保守主義と皇国史観日本


  しきしまの 大和心を人とはば 朝日に匂ふ 山桜花


  昭和にはいると日本社会も、不安の時代となり国全体が政治思想にのみこまれていく。当時大国は戦争を手段として生き残りをかけた総力戦を繰り広げ、この総力戦の時代に日本はどう生き残り、国を発展させるかが死活の問題となってくる。そして、日本とはなにかというアイデンティティーの問題にぶつかり、日本を再構築しようとする様々な思想があらわれる。

 共産主義、反帝国主義、無政府主義思想、国家社会主義、民本主義などが海外から紹介され、国内でも影響力をもってくる。なかでも民本主義は民衆の利福のために、民意に沿って政策は決定され、議会中心主義的要素を取入れ、天皇主権と矛盾しないものとして吉野作造らによって唱えられ、大正デモクラシーを主導した。しかし時代はすでにロシア革命がおこりソヴィエト連邦が樹立され、ドイツ革命でドイツ皇帝も、オーストリア皇帝も退位し社会主義、共産主義が時代を動かすようになってきた。

 
 この時代の荒波、国外の圧力から国を守るために、不安と恐怖に打ち勝つために、外来思想ではない日本古来からの思想、国学をもとにした日本主義思想がしだいに力をもってくる。日本を腐敗させた財閥、既成政党を倒すため反資本主義、反議会主義の改革派の軍が力を持つようになり、皇国史観が主流となり、日本を引っ張っていく事になった。

 本来(Fundamental character)国体とは国家の性格、国柄を表すばくぜんとしたものであった、それがしだいに、本居宣長の「皇国は天照大御神の授け賜える皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私のという事はなき事なり」「ひたふるに畏こみ敬ひて従ひ奉れ」とする伝統的権威としての天皇支配の正統性のをもとにして、日本は天皇中心の一君万民、挙国一致の総合家族国家であるとした。
 
 外国の思想や物質的、精神的実力を蔑視し、ものが足りない分は精神で補うという日本精神論が独善性をもって広がっていく。  さらには徳川時代末期の尊王攘夷、清朝末期の扶清洋滅に近い排外主義、国粋主義に近くなってしまった、そしてまた理性的判断より感性が尊ばれ、客観性を無視した愛国主義になっていき市民の自由は消え去ってしまった。
   


    
四月はもっとも残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と欲望をないまぜにし、
春の雨で生気のない根をふるいたたせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた。

                      荒地  T.Sエリオット

 19世紀はイギリスの時代であり、とくに一国で世界を支配したヴィクトリア時代は安定した物質主義的、合理主義の時代、楽観主義の時代であった。世紀末から20世紀のはじめにかけてヴィクトリア時代の合理主義が権威を失いつつあった。そして、ある根本的不安の時代となり、その不安の結果として社会主義運動もおこった。そしてヨーロッパは帝国主義列強の時代になり各国が勢力を競い合うことになった。

 しかし、第一次大戦はヨーロッパ世界とその文明そのものを破壊し,帝国が解体消滅する国もできてしまった。1922年 T.Sエリオットは「荒地」で当時の人々の精神状境を描き、荒地のように荒廃した世界を描き、そこからの再生を語った。
 エリオットは詩の起源は伝統にあり、さらにその伝統をさかのぼるとキリスト教、イギリス国教にある。生きる事の支えとなる智慧をこのキリスト教の伝統の中にみいだした。超越的神の存在を認め、神に救われた状態を通してながめられた人間世界、ヨーロッパの伝統とともにある神の存在を根底にした保守思想を打ち立てた。

 イギリスでは、この歴史や伝統によりつくられれた社会的秩序を重視し,フランス革命に始まる設計主義的合理主義すなわち人間の知識、構想により理想的社会をつくる思想,共産主義とファシズムに対立する立場をとった。そして、議会制民主主義は定着していた。民主主義は、自立した個人は重要なものであって,一つの文明を形成するにはあらゆるタイプの人間が必要だということを前提にし、さらには批判が許されることを制度として保障している。

 イギリスの立憲君主制は、議会、下院の主導権が強く、その主導のもとの君主制で、いっぽう、明治憲法の立憲君主制は,内閣はこくみんに責任を負うのではなく、天皇に対してのみ,輔弼の責任を負うことになっていた。

 

 

2014/03/23

日本浪漫派 保田與重郎、亀井勝一郎、太宰治


美しい国日本と日本浪漫派

 
幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が 安値いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外は真ッ暗 暗くらの暗 夜は劫々と更けまする落下傘奴のノスタルジアと  

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
中原中也は明治40年(1907年)生まれる。

「いったい私たちの年代の者は,過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。つづいて満州事変。五 十五だの二 二十六だの、何の面白くもないような事ばかり起って、」と太宰治が描いた。

 太宰治は明治42年(1909年)生まれで、東京帝大を中退し、同年代に明治40年(1907年)生まれの親友亀井勝一郎がいる。彼は治安維持法違反により検挙され投獄、東京帝大は退学処分になる。その後古代、中世の仏教を研究し日本人の精神史を出版,日本の文明論を数多く発表している。戦後も、多くの人生論や、恋愛論がベストセラーとなり、無頼派の祈りで太宰治をとりあげ、昭和41年(1966年)まで活躍し多くの愛読者を持っていた。渡辺淳一は「訪れ」で晩年の亀井勝一郎の闘病生活を題材にした小説を描いている。 

 日本浪漫派の代表保田與重郎も同じ頃明治43年(1910年)生まれで、東京帝大卒業。ドイツ浪漫派の影響下に日本の古典文学や古美術を学び亀井勝一郎らとともに日本浪漫派を創刊し、その中心として思想的影響を当時の若者たちに与えた。後に、太宰治も中原中也とともに、この日本浪漫派に加わることとなる。3人とも同じ時期に在学しその後の日本文壇で活躍した。

 彼らの生きた時代は、幕末以来の西欧文明の圧力の下に東アジアで一等国をめざした明治時代の後半に生まれた。大正から昭和初期に成長し幼いころから自由主義的西欧文化にふれ、青年期にマルクス主義に出会った。青春期以降になると経済の破綻から農村を中心に郷土喪失状態となり、思想は抑圧され、軍が国を動かしはじめ、その一部は閉塞を打破する昭和維新を決行した。

 雑誌『日本浪漫派』は保田與重郎,亀井勝一郎らによって昭和10年(1935年)に発刊された。 「満州事変がその世界観的純潔さを以てゆさぶった対象は、我々の同時代の青年たちの一部だった。その時代の一等最後のようなマルクス主義的だった學生は、転向といった形でなく、政治的なもののどんな汚れもうけない形で、もっと素直にこの新しい世界観の表現にうたれた。即ち『満州国』は今なお、フランス共和国、ソヴィエート連邦以降初めての、別個に新しい果敢な文明理想とその世界観の表現である。」と保田は述べ、

「日本は今未曾有の偉大な時期に望んでいる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。
 蒙彊や満州支那の大陸にいる我らの若者は新しい精神を、現実を、倫理を、発想を、感覚を,未形の形式でつくりつつ、その偉大な混沌の中に日常を生きている。

 彼らは剣と詩によって知識と秩序の変革をはじめたのである。生と死が互いのその肌をふれあっている瞬間が彼らの精神の教育であり倫理の生理である。この広大にして深遠な事件の意味は、選ばれた一国の青年大衆を変革しつつあることである。

 戦争は一個の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく叙情詩の一つである。この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に蘇り,個人が国民と英雄を意識し,己の中にみいだす日である。」ドイツロマン主義に日本の古典文学を織り込み熱烈な天皇主義者、国粋主義者として当時の青年たちに強烈な影響をあたえた。

 保田の日本主義、農本主義的神政理論が、なぜ当時の人々を魅了し,青年達は共鳴したのか。国内では、経済は悪化しマルクス思想は取り締まられ、自由主義思想も衰退した。我が国の農村は疲弊し、若者は都会に憧れ、出かけていってしまう。時代は閉塞し、満州国建国は希望となった。古典を復活させ喪失した故郷を回復し、この自然村落共同体からなる美しい日本を復活させようとするものが日本浪漫派の主張にあった。

 太宰治は鎌倉での自殺を題材にした『狂言の神』で「今の私の豊沃をいったい,誰におしへてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮かべなんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のその後ろ姿を思ヘば,こんどは私が泣きたくなって、   だんだん小説がむづかしくなって来て困ります。」と2人のこころの通い合う場面が描かれている。

 気質も天びんもことなる保田と太宰の間の共通点は同じ時代に同じ世界で学び、時代の風をうけた滅びの感覚であり,自暴自棄的な心情であった。いいかえれれば、日本浪漫派が当時の日本人の気持の代表であった。

2014/01/01

パレスチナの赤軍派


また見つかったよ
何がさ?永遠。
太陽に
とろける海さ。

ランボー
       

 パレスチナのPFLP(パレスチナ解放人民戦線)は1968年、はじめてハイジャックをおこなった。彼らはその後も戦術として、航空機のハイジャックや空港襲撃事件を幾度かおこしていた。
 1972年5月30日パリ発エール フランス機がテルアビブ空港(リッダ)空港に到着し、奥平 剛士、安田 安之、岡本 公三が作戦行動を開始した。当日深夜BBC Three gunmen attacked Tel Aviv Airportと放送し、はじめてテル アビブ空港襲撃事件が世界に知らされた。
 銃撃戦の結果、空港内警備員や一般市民26名,アメリカ人17人、イスラエル人8人、カナダ人1人が死亡し負傷者は73名のぼった。奥平、安田の2名はその場で死亡し、岡本公三はイスラエルに囚われの身となり、軍事裁判で終身刑の判決をうけた。国内の日本赤軍派の事件に引き続きおこったこの衝撃的行動を契機に彼らの支持者は国内ではほとんどいなくなった。

 彼らの行動を支える思想は様々な種類の共産主義であった。時代はカストロとゲバラの革命軍がバチスタ政権を倒し、1959年キューバの社会主義革命に成功し、チリにも社会主義政権がうまれ、アジアではベトナム戦争が闘われ、世界は2大陣営に分かれ対立していた。そしてパレスチナでは過激な政治集団PFLP(パレスチナ解放人民戦線)が結成された。

 西欧諸国ではベトナムの反戦運動が盛り上がり、日本も反政府運動が全国で起っていた。しかし、1972年の日本の連合赤軍事件は、自由な表現がゆるされる場のある日本で、山にこもり孤立し武装しなければならない理由もなく、まして敵とした相手ではなく仲間を殺してしまう必要はどこにも見いだせない事件であった。又,PFLPの指揮のもとでのテルアビブ(リッダ)空港の民間人の殺害事件は、その後の世界的な政治的テロリズムのさきがけとなった。戦後、平和主義と人命尊重の世界観が主流の日本国内ではきびしい批判的見方がほとんどで、政治的に同情的であった人々の離反をまねいた。

  彼ら3人の日本人がなぜ自爆テロにも似たこの空港襲撃事件を起こしたのか。チェ ゲバラの「世界のどこかで誰かが被っている不正を心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての,一番美しい資質なのだから」といった言葉を本当に信じたのか。人はなにかを思い込みたい本能があり、信じやすい心を持っている。ときには事実を思い込みに置き換えてしまう事がある。そして、ランボーの詩を愛誦し,天空に輝くオリオンの星になりたい心情をいだいて、現実社会で実行してしまったのか。

 パレスチナ問題は,長い物語にたとえられる複雑な歴史の産物で,物語の最初は紀元前のパレスチナの地に山岳民族のヘブライ王国が建国された時代にさかのぼる。王国は滅び、ユダヤ民族はローマ軍にこの地を奪われ,世界に放浪することになる。その後この土地はアラブの人々の定住地となった。
 パレスチナとは地中海とヨルダン川の間の狭い土地で,イスラエル、パレスチナ自治政府のヨルダン川西岸地区、ガザ地区を含む。アラブ人イスラエル人あわせて現在1200万人が住んでいる。

 第一次世界大戦後はイギリスが委任統治し、ヨーロッパの第2次大戦中にホロコーストがおこり、ユダヤ人の国家建設がすすめられた。そして、パレスチナの地にイスラエルが建国された。
 1948年イスラエル建国時、アラブ側とイスラエル側の土地の配分をめぐって第1次中東戦争が勃発する。アラブの占有する土地面積が少ないことに不満をもったアラブ側がイスラエルに攻撃をしかけるもイスラエル側の勝利に終わった。その後第2次中東戦争が勃発し、1967年には第3次中東戦争(6日間戦争)で3たびイスラエルが勝利し,アラブ諸国の大量の地域、シナイ半島、シリアのゴラン高原、ヨルダン川西岸地区を占領した。これに対する反撃の行動部隊として、過激なPFLPがうまれ、航空機ハイジャックなどのテロリズムを実行した。1973年には第4次中東戦争、その後1993年にヨルダン川西岸地区とガザ地区がパレスチナ人の治める自治区となった。

 現在宗教を至上のものとするイスラム諸国と、世俗的経済を至上とし民主主義をかかげる西欧諸国との対立は続き,共産主義が消滅しても宗教的原理主義を掲げたテロ事件はおさまるどころか、より広い地域にひろがり、自爆テロも頻発している。

 








 

2013/11/04

プーシキンとサンクトペテルブルグ





人々のために昼のざわめきが静まり 
ひっそりとした町の広場に
ほのかに白い夜の影と
昼のわずらいをなぐさめる
眠りとがよこたわるとき 
わたしはひとりしじまのなかに
くるしい不眠のときをすごす。
なすこともないまよなかに 
悔恨のへびがこころを咬む。
あまたの夢がうずをまき
うれいにみちたこころのなかに 
おもくるしい思いがひしめく。
おもいでが 音もなく
ながい巻物をくりひろげる。
わたしは嫌悪のこころをもって
おのれの生涯を読みかえし
身をおののかせ のろいの声をあげ
なげきつつ にがいなみだを流す。
けれども悲しい記録のかずかずは
もはや消し去るよしもない。          

                            思いで   プーシキン

 19世紀のロシア文学は世界に多くの影響を与え、特に日本では明治、大正時代の文学者にとって、その文学は宗教にも近い人間の魂や精神の深い部分を描いた教科書として読まれていた。プーシキンはその先駆者でロシア文学におけるシェイクスピアの立場をしめる。その後ドストエフスキーやトルストイが日本語に翻訳され最も大きなインパクトをあたえることになる。

 1799年貴族の家に生まれ、幼少時よりフランス語を学びフランス語で芝居を書き上げる。ナポレオンのロシア遠征軍を撃退したのは17才になった時で、フランスを中心にした西欧風の自由民権の思想がロシアにも入ってきた。

 ロシア平原は長い間,遊牧民族モンゴルの支配のため,国家をつくる事が出来ず、15から16世紀にかけてようやくロシア人の国家ができた。17世紀にはいりロマノフ王朝が誕生し、皇帝が地上の神となり専制政治を行い、農民は共同体の精神の中心にあるギリシア正教の信仰の下に生活し、個人主義のない,調和的農村共同体をつくり支配されていた。ロシアロマノフ王朝でも長く続いたこの専制支配に対する批判は19世紀にはいるとしだいに高まってきた。 19世紀前半いまだ皇帝の栄光が強固な時代にプーシキンは多くの詩や小説を生み出した。
 プーシキンはサンクトペテルブルグの街を愛し次の時代のドストエフスキーやトルストイなどの罪、信仰、愛などの人間の魂の深層を描き出した小説とは違った作風でロシア文学の基礎をつくり、いまでも国民的人気が高い。
 
 1933年長編叙事詩「青銅の騎士」を書く。

 私はおまえが好きだ,ピョートルの建築物よ、
 おまえの厳格な、均整の取れた景色が好きだ、
 ネヴァ川のゆるやかな流れが、
 町の大理石を洗う

 青銅の騎士とはピョートル大帝で,彼がフィンランド湾にそそぐネヴァ川に沿って1703年から膨大な資金をかけ多大な人力で新しく美しい都市を建築し,1712年遷都した。そのときの大洪水を題材にした物語が青銅の騎士でこの像はデカブリスト広場にある。
 
  叙事詩「エヴァゲーニ オネーギン」はサンクトペテルブルグの貴族社会の物語でタチアーナのネオーギンに対する勝利は、信仰と確信の喪失から生まれる空虚さに対する,ロシア人の正義感の勝利の象徴と評され、チャイコフスキーの有名なオペラとなり、 もう一つのオペラ「スペードの女王」とともに世界中で公演されている。スペードの女王は、エカテリーナ時代のサンクトペテルブルグを舞台に、ナポレオン的性格の主人公ゲルマンがトランプ賭博から老婆殺害、最後にスペードの女王が微笑する、鮮やかな幕切れのサスペンスである。また、プーシキンの短篇小説「モーツアルトとサリエリ」で、神がモーツアルトに与えた音楽の才能とそれを理解する能力を持ちながら曲をつくる才能を自身に与えなかった神の不公平さをサリエリがうらやみ嘆く心のうちを描き出した。これを原題に映画アマデウスが製作された。

 1836年には「そのとき古風な小説が,私の陽気な晩年をしめることになるだろう。もっとも悪業の陰微な責苦を、物凄く描いて見せようというのではなく、ただロシアの家庭の言い伝えや、うっとりするような恋の夢や、わが国の古代の習俗などを、語り伝えるにすぎないのだが。」と予言した「大尉の娘」を世に送り出し、翌年37才にして決闘で死亡した。




 


2013/10/13

風立ちぬの世界 堀辰雄と四季


「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」

堀辰雄は、1930年(昭和6年)「聖家族」で文壇に登場した。

 1933年(昭和8年)軽井沢を舞台に「私の心はさつき霧の中から私を訴へるやうな眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽみしなかったけれど 」と恋物語「美しい村」を発表した。

 同じ年に、三好達治、丸山薫、津村信夫と詩の雑誌四季を発刊した。この年、共産党の指導部の佐野、鍋山転向事件から共産党は壊滅し、日本でも一時的に流行した国際主義的色彩の強いプロレタリア文学も国家の敵とみなされ消滅させられていった。そして、旧文壇の高村光太郎や萩原朔太郎の復活と若い世代の文芸復興がおこった。
  

 堀辰雄は有名な「風立ちぬ」を2.26事件のおきた1936年(昭和11年)と盧溝橋事件で日中戦争の始まる翌年1937(昭和12年)にかけて書き上げた。「それは,私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何ということもなしに口ずさむことを好んでいた、風立ちぬ、いざいきめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、」

 古典復興と内向的、求心的、叙情的な詩を集めた雑誌で四季派とよばれる詩人たちが昭和の始めに活躍した。このなかには中原中也、草野心平、金子光晴、立原道造も含まれている。四季は1933年(昭和8年)から1942年(昭和19年)まで81冊続いた。

 堀辰雄の分身的存在だった詩人は立原道造で,彼は10才年上の堀辰夫と同じように府立三中、一高を卒業し1934年(昭和9年)東京帝大に入学、四季の編集同人となり、繊細で透明な空気を代表する作品を生み出している。

 「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかえった午さがりの村道を」(のちのおもひに) 

 「暁と夕の詩」の覚え書きで「失はれたものへの哀傷といひ、何かしら疲れた悲哀といひ、僕の住んでいたのは、光りと闇の中間であり、暁と夕との中間であった。生きたるものと死したるものの中間者として漂ふ。死が生をひたし、僕の生の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。すべてのものは壊されつくしている、果敢ない清らかな冒険を言ひながら、僕がすべてのものを壊しつくしてその上に漂った、と僕の心がささやく」

 建築家としても嘱望されつつ1939年(昭和14年)24才で死亡。

 昭和初期1930年まではプロレタリア文学は大きな社会的影響力をもち、太陽のない街の徳永直や蟹工船の小林多喜二、詩人の中野重治たちが活躍した。しかし、しだいに時代の重圧の中で敗北していった。同時にモダニズム文学や詩も消滅した。

 現在にも読み継がれ人気のある詩は,その後も残った日本的叙情詩を描いた四季派の詩人たちである。四季派の特徴は日本古来の詩人たちのように日本の自然と心の内的世界とのかかわりあいを詩の目的にしたことにある。
 これらは季語や花鳥風月につながる、自然を直感的にとらえ表現することを重視しすぎ、社会的視野のなさ、芸術のみが至上で、現実より遊離している、あるいは近代社会のメカニズムとしての戦争を分析することはなく、戦争そのものを自然災害と同じようとらえていたといったという批判にもつながる。彼らの文学の舞台となった信濃追分や軽井沢のある長野県はまた最も多くの開拓移民を満州に送り出していた所だった。

 この頃の時代について金子光晴は「2.26事件につづいて、弾圧された筈の右翼勢力が,地下根をひろげ、着々とその地盤をつくり、満州事変上海事変等の民族的エゴイズムの発露となり、遂に中日戦争への追い込みというかたちになった。昭和6、7年あたりの自由主義の華やかさは皮相的なものであって、筋金になって国民を率いる思想の正体は、日本主義的ファシズムにほかならなかった。そして、国民の大多数は、それを支持した.それには,明治維新の皇道精神を基本とした子女教育がものをいっていた。」

2013/09/16

20年代新興芸術文学 吉行エイスケと川端康成


「米良は空中滑走する、戦い疲れた陳独秀とビクトリア カップよりセント ジョウジ プレースに至る山頂火車のなかで彼等は力なく握手して、空中の鏡の上にモーニング姿の印度人のイサックを発見するのであった。」「フィリッピン人のジャズ バンドが大広間で演奏を始めると、酒杯の味覚が米良を興奮さし、踊り子の赤いエナメルの靴尖に打ちつづく自己の災難を忘れて、断髪した朝鮮女と、口唇を馬のように開いて笑う日本女、猫背の支那女,目脂のでたロシア女、シミーダンス得意なマレー女、計算を爪のなかにかくした独逸女の腕から腕を地球を周遊するように廻りながら、マダム レムブルグの華美な安衣装から透いて見える胴体に潜む夜の唱歌隊を懐かしい逃亡者の国土にするのであった。」

 吉行エイスケの小説「地図に出てくる男女」は1928年から1931年にかけて上海、北京、大連を舞台にした謎の女性シー ファンユーを主人公にした清朝末期から中国革命期までの超近代小説で、この饒舌で装飾的な文章で当時の支那軍閥、国民党、共産党の戦乱の様相や植民地主義者の活劇を描いている。

 「地図に出てくる男女」の他「張作霖の死ぬ迄」「大統領戴冠式」「喇嘛寺付近」 「革命後の2人のモダンガール」「Filipino 瑪麗の愛」の5部作は国際的な都市の、政治的混迷と、各国の様々な人種の政治家から娼婦までを極彩色のスピーディーな文章で新興芸術家として吉行エイスケを有名にした作品であった。


 日本でも、大正末期から昭和初期にかけてはプロレタリア文学と並立して、モダニズム文学とよばれる新しい新興芸術派あるいは新感覚派が誕生した。この中に都市の幻想や犯罪を描いたモダーン都市文学やパリ、ニューヨーク、上海を舞台にした異国の物語あるいは自動車、列車、地下鉄、飛行機などの機械文明を題材にした文学が流行した。この新感覚派の文学「新興芸術派倶楽部」には吉川エイスケの他に川端康成、船橋聖一、阿部知二、井伏鱒二、小林秀雄、堀辰夫なども名を連ねている。彼らの主張は文学は政治や党派から自由な芸術でありたいという目的でつくられた団体であった。

 掘辰雄は1920年代モダン都市小説「水族館」で新興芸術派作家として出発した。しかし,1930年代には方向転換し「風立ちぬ」「美しい村」「菜穂子」の作家として名を残すことになる。川端康成も1930年(昭和5年)「浅草紅団」で新興都市東京を感覚的表現でルポルタージュ風に書き上げたモダニズム文芸作品をつくっている。
 これを読んで吉行エイスケが書評を書いている。「1920年代の都会の地図に無造作にばらまかれた人類と、機械と、建築と、塵埃と、科学的な色彩と、動物と、娯楽そのたのあらゆる万物の事物を熟練した装飾かのごとく並列して、そこから読者に近代をパノラマ風にうつしだした。」 
 その後の都市小説風作品は実験的小説「水晶幻想」を1931年(昭和6年)発表し、「末期の眼」1933年(昭和8年)のなかでは、これらの新規な作風に対して、奇術師と評された事に反論を書いている。感覚的で冷酷な心を描いた「禽獣」を1934年(昭和9年)に発表し、その後しだいに人の心の深層を描いたり、作品のなかで哲学を語ることはなくなり眼前の美しいものを繊細な表現で描いていく作風に転換していった。

 そして1937年(昭和12年)に「雪国」を発表した。1961年(昭和36年)には形式的完成美を保ちつつ,熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である、真の退廃が横溢している作品と三島由紀夫に評された「眠れる美女」を発表した。続いて、1963年(昭和38年)にはグロテスクスさを精緻な文章で書き上げた「片腕」を発表している。川端康成64才の時であった。

 川端作品は初期の浅草紅団以来多くの作品が映画化され、そのうち「伊豆の踊子」はその時代やスターにあわせてリメイクされ最も多くの映画がつくられている。同年1963年(昭和38年)4度目の映画化となる「伊豆の踊り子」に薫役に18才の吉永さゆりが抜擢されたとき、撮影現場を幾度かおとずれている。
 
 「雪国」やその後の「山の音」、「古都」などで、日本の伝統表現の和歌,伝統園芸の盆栽ににて、こまやかな自然、心のうちの美しいものを小説で表現した。そして、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、叙述の卓越さに対してノーベル賞を受賞することになる。

 急速な機械文明の発達と第一次世界大戦は,マルクス主義国家ソ連を誕生させ、多くの国で皇室が廃止され、その他のヨーロッパ諸国も政治文化の大変動が起った。その結果新たな芸術運動ダダイズム、シュールレアリスム,表現主義などの新興芸術が世界に広まっていった。戦争の反動として起った感覚的な,享楽的退廃的なダダイズムの小説や絵画は混乱した時代を反映し多くの国で流行した。

 日本でも、1920年代プロレタリア文学やモダニズム文学が流行し、30年代にプロレタリア文学が政府によって圧殺されると、モダニズム文学もしだいに自壊し、社会や世界を描く文学から情緒的、内向的文学に戦時下は変貌していった。小林秀雄は「様々なる意匠」のなかで、マルクス主義も第一次大戦の西欧の危機から生まれたモダニズムも西欧文化の移植であり日本では根づかないであろうとのべていた。又,川端小説の論評では「小説の冷たい理智とか美しい叙情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、化かされた阿呆である。」と書いている。

2013/08/17

日本的な庭


 庭は自然の一部であり、風土と感性、美意識を反映したものになる。日本で生まれ日本の風土にあった庭は日本的、和式庭園と呼ばれる。
 日本的なものの源流は足利義政に始まる。京都の戦乱をよそに、東山山荘を築き、連歌、茶の湯、生け花、畳のある家や庭園をつくり出した。
 彼の美意識は幽玄、枯淡にあり、禅寺の庭、枯れ山水を創り上げた。銀閣寺の砂の庭が広がり、すり鉢状の砂山に連なる。砂庭の向こうには、月待山があり、ここから月がのぼり、白砂に反射し幽玄の世界をつくる。月夜に輝く銀砂、この幽玄な一瞬が美学の中心にあった。日本的なものの構造の中心には、簡潔さや自然の素材を生かすことであり、現在まで残る龍安寺の石庭や西芳寺の苔寺の庭は日本的美的感覚の頂点に立つものであった。

 江戸時代の代表的建築と庭は桂離宮で17世紀智仁親王、智忠親王によってつくられ、切り石を使った飛び石、桂垣、簡素で直線的な書院や茶室は現在まで日本的庭園、建物の代表となっている。この世界的評価はブルーノタウトにおうところが多い。タウトは桂離宮は機能主義的でこの世で最も美しいものと評価し、一方、日光東照宮は中国明や清の趣味をまねた華麗で、過剰な装飾として評価しなかった。

 明治時代の和風庭園の担い手は山県有朋で、小川直治(次兵衛)の無隣庵に始まる。彼らは日本の西欧化を強力に推進した明治政府の指導者であり、同時に日本主義的な文化の愛好者であった。

 明治にはいり建築や建物、生活様式に至るまでドラスチックな変化を受け、西洋の文化を導入した。建築では、西洋建築を直輸入したものや、和洋折衷の様式、あるいは家の半分を西洋風もう片方を従来の日本式にした建物もあらわれた。庭もまた西洋風庭園と日本庭園を併設させる技法が流行した。
 無隣庵の庭は山県有朋が日清戦争から帰還して、京都東山を借景に自然を生かし、その山水の美を全うするとの考えのもと禅寺の庭ではない、近代的な日本庭園を造った。明治政府は膨大な土木建築事業により琵琶湖の水を運河とトンネルを造り疎水を造り上げた。小川直治はこの疎水から引き込まれた水を利用して瀧をつくり渓流や湖を庭に増設して、苔ではなく高麗芝で傾斜地を埋めた。岩石は横に寝かせ、湖に配置し、植栽は低く刈り込み広々とした空間を新たにつくり出した。その後豪商住友家の庭も小川直治(治兵衛)の手でつくられることとなった。彼の手による庭園は、実業家のステータスシンボルとしての庭となり全国に広まっていった。明治から昭和初期まで広大な日本庭園は彼の手によるものが多くを占めている。
 
 一方、この時期、一般の家庭にも庭は普及し、その洗練された典型例が室生犀星の軽井沢の庭にみることが出来る。軽井沢の雑木林の中に、日本的建物と日本的庭園を造り、コウロギ箱のいえと呼んで、多くの時間をこの庭つくりに費やした。

  きりふかき しなののくにに こほろぎの
  あそぶお庭を 我はつくるも

 室生犀星は芥川龍之介と並ぶ大正文壇の重鎮で、また庭をつくる人として有名だった。紅葉や朴の木などの木陰に苔と石を配置し、日々湿度を保つための水やりと雑草取りを楽しむ、戦後まで続いた日本の家の庭の典型だった。

 戦後になると、まがい物とほんものを区別できる目利きのパトロンはいなくなり、歴史に残る庭も新たにつくられにくくなってきた。 さらに日本的なものは古くおくれたものであるとしてしだいに廃れ、近代的、モダンなものとしてアメリカやイギリスの形式が庭園にも取入れられた。さらに京都の東山、比叡山、北山は京都市内からは見えなくなり、借景は近隣のマンションか電線にさえぎられ、不可能になってきた。さらに戦災をまぬがれた京都に東京オリッピックの開かれた1964年京都タワーが建てられ、1997年京都駅がモダン主義の設計家の手で建てられ街全体がフィレンチェやサンクト ペテルブルグやパリにはなり損ねた。ようやく最近になって、個々の建物、庭だけでなくランドスケープや都市景観が重要との意見が日本でもとりいれられるようになってきた。
 名古屋に白鳥公園が出来、景観設計家、造園家吉村氏による「都市に歴史をもった自然をとりもどす庭」がつくられはじめた。
 濃尾平野の木曽川、長良川、揖斐川の3河川が合流して海にそそぐ様を写した水の流れを河床の石を配置して岩場、水郷,海洋とみたて、流水を速く、ゆったり、狭く、広く流し、巧みな造園技術で、公園という名の新たな日本庭園を創り出した。