2014/12/31

明治維新、昭和維新と三島由紀夫の ナショナリズム













 西欧の世界支配がアジアに及んだとき、日本は明治維新で国内の革命を行い、産業技術の西欧化で対抗した。この明治維新を推進した薩長の尊王攘夷、王制復古は国学を源流とする。

 国学は賀茂真淵が万葉集を研究し万葉時代の和歌をよみがえらせ、本居宣長は古事記を検討し、儒教や仏教伝来以前の人々のことば,心を読み解き、からこころに対するやまとこころを発見した。
 「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定し、考え方、思考方法の儒教的なもの、からこころとは規範主義であり、一方、やまとこころは「うまれながらの真心、善くも悪しくも、生まれつきたるままの心をいふ。」おしつけではなく自分の心に従って内側からとらえるものであるとし、外来思想の輸入される以前の日本古来の自然のままのすなおなこころを見いだした。

 さらに宣長は日本の天皇統治ついて「皇国は天照大御神の授け賜へる皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私という事はなき事なり」とした。その後継者の平田篤胤はよりこの理論をファナティックに体系つけ尊王思想をとなえた、幕末の平田篤胤の一門は王制を復古し、古代のように天皇のもと祭政一致の国家を夢みた。

 この国学思想に「知行一致」死をも恐れぬ行動理論の日本的陽明学、後期水戸学の過激主義が相まって尊王攘夷のかけ声のもと、武力により明治維新は実現し、徳川幕府は滅びた。


  一方、再び国外からの圧力に直面した昭和時代に、昭和維新をかかげ国内の武力行動がひきおこされた。これらの理論は、天皇親政のもとの万民平等を実現することが理想で、天皇は特権階級、貴族的軍閥を排除する直接行動の変革の象徴となり、日本を混乱悪化させた側近を排除し、天皇と陛下の赤子としての国民による、国民のための国家を夢みた。

 1906年(明治39年)北一輝22才の時「国体および純正社会主義」を書き上げ自費出版する。この中で,『生きるとより死に至るまで脱する能わざる永続的飢餓の地獄は富豪の天国の隣にて存する』と書き天皇制の歴史と役割を分析し、平等社会すなわち純粋の社会主義を提唱する。
 
 清朝は1911年(明治44年)の辛亥革命で滅亡し、1912年(大正1年)中華民国が建国された。その革命に、北一輝は理論的支柱として参画し、国民党の最有力者宋教仁を通して中国革命を動かしていた。しかし、その盟友宗教仁が翌年暗殺される。

  その後、北は中国を去り日本に帰る決意をする。それは「十数年間に特に加速度的に腐敗堕落した本国をあのままにしておいては対世界策も対支那策も日本本国もあきらかに破滅であると見た。」その後、軍事クーデターの理論『国家改造案原理大綱』を1919年(大正8年)上海で書き上げた。

 この中で北一輝の中心理念は、アジアの独立、支那の保全を求めた大アジア主義であり、日本においては天皇のもと、国民が国家への忠誠を尽くす平等主義を構想し、私有財産の制限や土地の国有化をする明治維新に次ぐ第二の武力による革命、昭和維新が必要であるとした国家改造論であった。 

  1972年(昭和47年)三島由紀夫の自殺もまた、国家改造を夢想した。
 その実行のもとになる理論は陽明学にあった。陽明学は朱子学と同じ時期に日本に紹介され、中江藤樹などが広めた。朱子学の机上の論理と異なり、知行合一を主張し行動の学問であった。善もなく悪もないのが心の本体であり、その混沌からほとばしるものが真の善ある。純粋であるか否かが問題で、「至良知」とは天理が自然に発現したものであるとした。
 この中国における陽明学は日本において変質し、生死を超脱し変革を実行する、より精神主義的に変貌をとげ、実践の理論となった。また武士の理想は、君主の下、与えられた責任を果たすため、必要があれば命をかける覚悟でこれに臨み、私的利害にとらわれないことを理想とした。この極論が「葉隠れ」でやはり三島由紀夫の座右の書であった。

 天皇は国体であり、神勅を奉じて祭祀を司り、国軍の栄誉の源であるとして祭政一致の日本をつくる維新法案をつくった。そして行動にうつした。


 国粋主義の国学は明治維新の原動力となり、明治政府を樹立した。一方、同じ天皇の下での臣民国家の構想は昭和の時代、軍の暴走の象徴となり、クーデターの恐怖を植え付けて、鎮圧された。また経済的繁栄にむかう時代の三島由紀夫の檄文は時代を1世紀逆行させる復古主義のマヌカンととらえられた。

 
  
  

2014/08/16

ブルーノ タウトと日本の美


宇宙建築士 ブルーノ タウト

 ブルーノ タウトは昭和8年(1933年)から昭和11年(1936年)まで日本に滞在し、西欧建築家による日本美の再発見、芸術論、工芸品、住宅を残し現在に至るまで多大な影響力を与えた。

 日本の各地を旅行し、貧とさえいえるほどの簡素こそ日本美学の基礎であるとして茅葺きの農家、あるいは飛騨、白川郷の60度の急勾配の藁葺き屋根の古い民家、戦前各地にあった農村地帯の家々、簡素なそれらの農家に日本の建築の美しさを見いだした。 

  奈良をつつむ雰囲気に宿る魅力は、この都が日本仏教の初期を代表しているところにある。当時、日本人は自由清新な気宇をもってシナの思潮を摂取し、しかも豊かな創造力によってこれに改良を加えた。

 新薬師寺に赴いて、何よりもまずそこの門や塀、植え込みなどのもつえもいわれぬ自然的な美しさを仔細に眺めてみなければならぬ、すべて簡素な美しさである。それはあくまでも清新純雅であると述べている。

 そして桂離宮を「発見」した。
Katsura.hier bin ich quasi sein Entdecker.
 また、伊勢神宮をアクロポリスにも比類するとしてみなし、日本のまったく独自の文化の鍵であるとして絶賛した。

 タウトの建築論は日本における建築の様式を2つに分け、この伊勢神宮、白川郷から桂離宮につながる建築の系譜を本物(オーセンティック)と評価し、一方、日光東照宮は様式は中国の明、清の悪趣味の模倣でありいかもの(キッチュ)と呼んだ。

 タウトの最も好んだ建築芸術は大和文化に始まる、伊勢、桂の系譜で、大陸文化の日本的にしたもの、明治以降の欧米文化の影響したものより遥かに高く評価した。

 ブルーノ タウトは1880年ドイツのケー二ヒスベルグに生まれ、若き日々ドイツを席巻した工芸技術と芸術を結びつけるジャポニズムやアールヌーボーにつながる「青春様式」ユーゲントシュテールの時代に青春時代をすごした。
 ベルリンに建築事務所の拠点をつくり、鉄の記念塔(1913年)やガラスの家(1914年)で表現主義建築家として有名になった。

 ドイツは第一次世界大戦の敗北で、帝国が崩壊し、ワイマール共和国が成立。同時に芸術のための労働者評議会が結成され、労働者の為の建築を目ざして、タウトや、グロピウスなどが建築家の集まり〔ガラスの鍵〕をつくり、バウハウスがこの時期誕生。その後の装飾を排した普通の素材を用いたドイツモダニズム建築を主導した。
 タウトは建築家として、働く人々の住居の設計にかかわって多くの田園都市、住宅団地を建設した。そしてベルリン工科大学教授になる。 しかし、ナチスが政権をとると左翼主義者として、職を追われ、日本に亡命することとなる。

 戦前の日本に昭和8年から3年間滞在し、伊勢神宮から桂離宮につながる系譜を日本文化の精華とし、将軍的装飾主義とは対極の天皇芸術を賞賛した。そして、皇国史観の強まる日本で多くの共感を得た。ドイツでの工芸と芸術の融合運動を日本でもおこし高崎市で日本の自然素材である竹,和紙,漆器を用いた工芸品を指導し製作し,芸術運動をはじめた。しかし、総力戦にむかう日本ではその活動は広がらず、1936年(昭和11年)、近代化を推進するケマル アタチュルクのトルコに教授として招聘され、日本を去った。

 戦後、日本の近代化は、天然、自然の素材をを捨て去り、安価でキッチュなプラスチックとアルミとコンクリートを偏愛し、タウトの目にした昭和初期まで残っていた芸術的な木造建築は跡形もなくなった。今こそ、伝統素材を見直し,日本の美を再構築し、タウトの夢見た、工芸、絵画、建築の統合された、キチュではない本物のアーツ アンド クラフト運動が必要な時代といえる。









 

2014/07/02

流行作家 渡辺 淳一


 昭和35年(1960)6月山崎豊子の白い巨塔が連載小説で発表された。
旧帝国大学医学部教授の椅子をめぐる壮絶な権力争い。外科教授の手術能力の過信と、その治療をめぐって対立する2人の医師財前五郎と里見修二の生き方をドラマッチックに描き上げ、社会派小説として日本中で評判となった。
 昭和44年(1969年)「続白い巨塔」が単行本として出版された。小説は、「医療は神の祈りであることを忘れ、権力や名声などの白い巨塔の野望に破れた財前の魂を洗い浄め、鎮めるような荘厳ミサが、夜明けの清明澄な光の一つに溶け合って、里見の心を揺り動かした。里見の胸に初めて、財前の死を弔う心が強く深く湧き上がってきた。」で幕を閉じている。


 昭和42年(1967年)札幌医大で和田寿郎教授による、日本で初めての心臓移植手術が行われた。これを題材として、渡辺淳一氏は手術に対する批判的小説を発表した。日本におけるドイツを模範とした医局講座制は,依然として強固であった。和田教授はアメリカの医療を身につけ、アメリカで学んだ卓越した心臓手術の技術を駆使して、移植手術は成功した、しかし拒否反応の合併症のためその後患者は死亡。そして手術の適応と脳死判定をめぐり社会問題となった。ドイツ医療がアメリカ医療に変わりつつある時代であったが、教授の権力はいまだ絶大であった。

 当時札幌医大の講師であった渡辺淳一氏はこの経緯を「白い宴」でドキュメント風に描き、「ダブルハート」ではフィクションの世界で術者の野望、医局の人々、患者家族を描き北国の白い巨塔ともいえる短編小説を世に出した。野心家野津教授、主治医で心臓の摘出を担当する殿村医師のむなしさを通して、移植手術への懐疑を色濃く表現した内容となった。これを契機に渡辺淳一氏は札幌の大学をやめ、東京で小説家となる。和田寿郎教授もまた東京で心臓外科の教授として手術に邁進する。

 渡辺淳一氏は、それ以前から医療を題材に多くの小説を発表している。昭和40年(1965年)に「死化粧」、昭和42年(1967年)には「霙」で重症身体障害者の現実の世界と医療従事者、親や家族の微妙な心の動きを描き、後の「雪舞」や「神々の夕映え」につながる。霙では北国の季節の移ろいと、人間社会の不条理、人の心の複雑さを描いた。主人公の柏木に「5ヶ月の胎児なら町の病院で堂々と堕せるんだけども、7ヶ月の未熟児なら夜も寝ないでつききりで助けなければならない。変な話でしょう」と語らせ、「分裂病などどうせ治らないんだろ」と主人公の虚無感を吐露させ、現在の障害児の胎児診断につながる問題、消極的安楽死の問題、医療技術の進歩では解決できない複雑な感情と社会をテーマに小説化した。

 昭和45年(1970年)には「光と影」で直木賞を受賞、1980年代「遠き落日」や「長崎ロシア遊女館」でも吉川英治文学賞を受賞、流行作家となる。
 その後「ひとひらの雪」や日本経済新聞社の連載小説「失楽園」で時代の尖端を行く作家として、題材は医療から男と女の世界の小説家としての評価が定着し鈍感力の流行語も生みだした。現代の近松門左衛門や谷崎潤一郎を目ざし、川端康成の「眠れる美女」を超えるのが目標と語った。


 白い巨塔の話題になっている頃、田中角栄首相の1県1大学構想の下で新設された秋田大学に入学し、後に「ダイアモンドダスト」で芥川賞を受賞する医師、南木佳士氏がいる。その時代、いまだ医局講座制度は確固として残り,医学部のヒエラルキーは揺るぎないものであった。「冬への順応」の中で当時の受験生活と地方医大入学時の複雑な心境、その後の人生を私小説ふうに描き、また「医学生」の中で、地方の学生生活を主人公4人の姿を通して描いた。どちらも、実際の日常生活を淡々とした筆致で、私小説風のフィクションにしたものであった。
 そして、昭和56年(1981年)カンボジア国境のタイの難民キャンプでの経験を素材にした小説がある。当時日本は初めて海外での難民救援医療で、日本のチームは外科病棟を担当した。限られた医療資源で救急治療をするとき必要なトリアージの考えが当時はなく、地雷や銃創患者に対応していた。これらの異国での診療の日々をやはり淡々とルポルタージュ風に小説化した「長い影」などの作品がある。


 渡辺淳一小説のもつ,非日常的な鋭さとか、医療の根源的問題を取りあげることはなく、死と生の状況を日本の一地方の病院の日常として書き上げたのが「ダイアモンド ダスト」。ありふれた人々の生涯とその死の時にダイアモンドダストが舞って終わる物語で芥川賞を受賞した。
 
 小説は、社会の中の人間像を描いた、山崎豊子の作品にみられる、社会的小説。人間の思想や人の心の複雑さ、恐怖、不安あるいは心の成長といったことを主題としたもの、そして,楽しみとしての物語、娯楽小説などがある。
 渡辺淳一氏の初期の作品は、社会と人間、安楽死や生死にまつわる重いテーマを北国の風土とともに提示して、時代を先取りしていた。その後は、しだいに娯楽的流行作家の第一人者となる。南木作品は、娯楽とか社会問題とは無縁に医療を舞台にした小説を多く書いている。医療小説は生や死をあまりドラマッチックに描けば、虚構になる、社会問題が絡めば複雑になる。南木氏の作品は流行や波瀾万丈の人生や思想とは無関係のありふれた地方の日常の人々の生活を描き出した。そしてその文芸的純文学性に対して芥川賞を受賞した。
 


 
 

2014/05/06

クリミア戦争 トルストイのセヴァストポリ


セヴァストポリ物語

 1783年エカテリーナ2世の時代、黒海北部の沿岸地方はロシアの領土となった。現在のウクライナの土地の東側80%がロシア帝国の支配下におかれ,西部の土地20%がオーストリア帝国の支配下におかれ。そして、ウクライナ南部黒海に突き出たクリミア半島に黒海艦隊の停泊港セヴァストーポリが建設された。

 
 「戦争と平和」に描かれた1815年のナポレオン敗北後のヨーロッパは圧倒的な海軍力をほこるイギリスに対し、大陸ではロシアが80万人を超える最大の陸軍をもち、当時GDPでも、イギリス、フランスをうわまわっていた。ロシアの南部に勢力を誇っていたトルコは弱体化しつつあり、その空白を埋めるようにロシア帝国は南下し、カフカス、トルキスタンもロシアの領土になり、ダーダネルスとボスポラス海峡の通行権と通商権を手に入れた。その結果ロシアの穀物は黒海経由でヨーロッパ各国に輸出されるようになった。ロシアは南下政策によって勢力をさらに地中海にまで伸ばしつつあった。

 クリミア戦争は1953年ロシアのトルコに対する宣戦布告で始まり、ロシアの南下を恐れたイギリス、フランスがトルコに援軍を送り両軍で20万人以上の戦死者を出し、3年後に停戦した。停戦後この要塞からロシア軍は撤退し黒海艦隊は無力化され、イギリスとフランスの連合側が黒海の制海権を得た。

トルストイは26才の時、このクリミア戦争に従軍し、最大の激戦地セヴァストーポリ要塞の籠城戦の経験を小説にした。
この「セヴァストーポリ」は3部作からなり、第一部は1854年 12月のセヴァストーポリ 、第2部は1855年5月のセヴァストーポリで、これを雑誌「現代人」に投稿した。第一部で当時の街や人々の生活の様子,ロシア軍を生き生きとした文章で写生した。そして、第二部でこの激戦地の状況を感情を抑えた筆致で描き出し、戦場の兵士の勇気、愛国、悲惨さや戦場の陸軍将校の様々な情感、性格、思想といった心のうちまでを浮かび上がらせ、戦場の小説家として一躍トルストイの名声をロシア中にひろげた。

 第3部の8月のセヴァストーポリはサンクトペテルブルグで書き上げた。コゼリツオーフとウオロージャ兄弟が物語の主人公に、要塞陥落のフランス軍とロシア軍の戦闘場面を映像的に描き出し、彼らの死を通して人間の宗教的運命を表現した。

 弟のウオロージャはセヴァストーポリに着任、彼の心の動きを「子供らしい、脅かされやすい、狭い心は、急に大人らしくなり、明るくなって、ひろびろとした明るい世界をそこに認めた。  偉大なる主よ、ただなんじのみ聴きかつ知り給う。この単純であるが熱烈な、懸命な無知の祈り、漠然たる悔悟の祈りを。」そして、すぐにフランス軍との戦闘で死ぬ。生き残り要塞を後にする最後の場面でウラングは号泣する。彼の若い兵士に対する悲しみがその後トルストイの唱える非戦思想につながる。

 この小説は後のナポレオンとの祖国防衛戦を題材とした「戦争と平和」のボロジノやモスクワ戦場における映像的な戦場の描写やアンドレイやまわりの将兵の人間描写、英雄主義の下での恐怖心、虚栄心、名誉心,などの人間描写でさらに洗練されたものとなってくる。

 その後,ウクライナ地方はロマノフ王朝が第一次大戦とロシアのボルシェヴィキ革命によって滅亡し、短い期間ウクライナ国民共和国が生まれた。しかし最終的にはソビエト社会主義連邦共和国連邦の一部となり実質的に70年間ロシアの政治支配の下におかれた。
 

2014/04/08

イギリス保守主義と皇国史観日本


  しきしまの 大和心を人とはば 朝日に匂ふ 山桜花


  昭和にはいると日本社会も、不安の時代となり国全体が政治思想にのみこまれていく。当時大国は戦争を手段として生き残りをかけた総力戦を繰り広げ、この総力戦の時代に日本はどう生き残り、国を発展させるかが死活の問題となってくる。そして、日本とはなにかというアイデンティティーの問題にぶつかり、日本を再構築しようとする様々な思想があらわれる。

 共産主義、反帝国主義、無政府主義思想、国家社会主義、民本主義などが海外から紹介され、国内でも影響力をもってくる。なかでも民本主義は民衆の利福のために、民意に沿って政策は決定され、議会中心主義的要素を取入れ、天皇主権と矛盾しないものとして吉野作造らによって唱えられ、大正デモクラシーを主導した。しかし時代はすでにロシア革命がおこりソヴィエト連邦が樹立され、ドイツ革命でドイツ皇帝も、オーストリア皇帝も退位し社会主義、共産主義が時代を動かすようになってきた。

 
 この時代の荒波、国外の圧力から国を守るために、不安と恐怖に打ち勝つために、外来思想ではない日本古来からの思想、国学をもとにした日本主義思想がしだいに力をもってくる。日本を腐敗させた財閥、既成政党を倒すため反資本主義、反議会主義の改革派の軍が力を持つようになり、皇国史観が主流となり、日本を引っ張っていく事になった。

 本来(Fundamental character)国体とは国家の性格、国柄を表すばくぜんとしたものであった、それがしだいに、本居宣長の「皇国は天照大御神の授け賜える皇統にして、天壌と無窮にしろしめす大御位に坐ば、君の私のという事はなき事なり」「ひたふるに畏こみ敬ひて従ひ奉れ」とする伝統的権威としての天皇支配の正統性のをもとにして、日本は天皇中心の一君万民、挙国一致の総合家族国家であるとした。
 
 外国の思想や物質的、精神的実力を蔑視し、ものが足りない分は精神で補うという日本精神論が独善性をもって広がっていく。  さらには徳川時代末期の尊王攘夷、清朝末期の扶清洋滅に近い排外主義、国粋主義に近くなってしまった、そしてまた理性的判断より感性が尊ばれ、客観性を無視した愛国主義になっていき市民の自由は消え去ってしまった。
   


    
四月はもっとも残酷な月、死んだ土から
ライラックを目覚めさせ、記憶と欲望をないまぜにし、
春の雨で生気のない根をふるいたたせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた。

                      荒地  T.Sエリオット

 19世紀はイギリスの時代であり、とくに一国で世界を支配したヴィクトリア時代は安定した物質主義的、合理主義の時代、楽観主義の時代であった。世紀末から20世紀のはじめにかけてヴィクトリア時代の合理主義が権威を失いつつあった。そして、ある根本的不安の時代となり、その不安の結果として社会主義運動もおこった。そしてヨーロッパは帝国主義列強の時代になり各国が勢力を競い合うことになった。

 しかし、第一次大戦はヨーロッパ世界とその文明そのものを破壊し,帝国が解体消滅する国もできてしまった。1922年 T.Sエリオットは「荒地」で当時の人々の精神状境を描き、荒地のように荒廃した世界を描き、そこからの再生を語った。
 エリオットは詩の起源は伝統にあり、さらにその伝統をさかのぼるとキリスト教、イギリス国教にある。生きる事の支えとなる智慧をこのキリスト教の伝統の中にみいだした。超越的神の存在を認め、神に救われた状態を通してながめられた人間世界、ヨーロッパの伝統とともにある神の存在を根底にした保守思想を打ち立てた。

 イギリスでは、この歴史や伝統によりつくられれた社会的秩序を重視し,フランス革命に始まる設計主義的合理主義すなわち人間の知識、構想により理想的社会をつくる思想,共産主義とファシズムに対立する立場をとった。そして、議会制民主主義は定着していた。民主主義は、自立した個人は重要なものであって,一つの文明を形成するにはあらゆるタイプの人間が必要だということを前提にし、さらには批判が許されることを制度として保障している。

 イギリスの立憲君主制は、議会、下院の主導権が強く、その主導のもとの君主制で、いっぽう、明治憲法の立憲君主制は,内閣はこくみんに責任を負うのではなく、天皇に対してのみ,輔弼の責任を負うことになっていた。

 

 

2014/03/23

日本浪漫派 保田與重郎、亀井勝一郎、太宰治


美しい国日本と日本浪漫派

 
幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が 安値いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外は真ッ暗 暗くらの暗 夜は劫々と更けまする落下傘奴のノスタルジアと  

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
中原中也は明治40年(1907年)生まれる。

「いったい私たちの年代の者は,過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。つづいて満州事変。五 十五だの二 二十六だの、何の面白くもないような事ばかり起って、」と太宰治が描いた。

 太宰治は明治42年(1909年)生まれで、東京帝大を中退し、同年代に明治40年(1907年)生まれの親友亀井勝一郎がいる。彼は治安維持法違反により検挙され投獄、東京帝大は退学処分になる。その後古代、中世の仏教を研究し日本人の精神史を出版,日本の文明論を数多く発表している。戦後も、多くの人生論や、恋愛論がベストセラーとなり、無頼派の祈りで太宰治をとりあげ、昭和41年(1966年)まで活躍し多くの愛読者を持っていた。渡辺淳一は「訪れ」で晩年の亀井勝一郎の闘病生活を題材にした小説を描いている。 

 日本浪漫派の代表保田與重郎も同じ頃明治43年(1910年)生まれで、東京帝大卒業。ドイツ浪漫派の影響下に日本の古典文学や古美術を学び亀井勝一郎らとともに日本浪漫派を創刊し、その中心として思想的影響を当時の若者たちに与えた。後に、太宰治も中原中也とともに、この日本浪漫派に加わることとなる。3人とも同じ時期に在学しその後の日本文壇で活躍した。

 彼らの生きた時代は、幕末以来の西欧文明の圧力の下に東アジアで一等国をめざした明治時代の後半に生まれた。大正から昭和初期に成長し幼いころから自由主義的西欧文化にふれ、青年期にマルクス主義に出会った。青春期以降になると経済の破綻から農村を中心に郷土喪失状態となり、思想は抑圧され、軍が国を動かしはじめ、その一部は閉塞を打破する昭和維新を決行した。

 雑誌『日本浪漫派』は保田與重郎,亀井勝一郎らによって昭和10年(1935年)に発刊された。 「満州事変がその世界観的純潔さを以てゆさぶった対象は、我々の同時代の青年たちの一部だった。その時代の一等最後のようなマルクス主義的だった學生は、転向といった形でなく、政治的なもののどんな汚れもうけない形で、もっと素直にこの新しい世界観の表現にうたれた。即ち『満州国』は今なお、フランス共和国、ソヴィエート連邦以降初めての、別個に新しい果敢な文明理想とその世界観の表現である。」と保田は述べ、

「日本は今未曾有の偉大な時期に望んでいる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。
 蒙彊や満州支那の大陸にいる我らの若者は新しい精神を、現実を、倫理を、発想を、感覚を,未形の形式でつくりつつ、その偉大な混沌の中に日常を生きている。

 彼らは剣と詩によって知識と秩序の変革をはじめたのである。生と死が互いのその肌をふれあっている瞬間が彼らの精神の教育であり倫理の生理である。この広大にして深遠な事件の意味は、選ばれた一国の青年大衆を変革しつつあることである。

 戦争は一個の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく叙情詩の一つである。この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に蘇り,個人が国民と英雄を意識し,己の中にみいだす日である。」ドイツロマン主義に日本の古典文学を織り込み熱烈な天皇主義者、国粋主義者として当時の青年たちに強烈な影響をあたえた。

 保田の日本主義、農本主義的神政理論が、なぜ当時の人々を魅了し,青年達は共鳴したのか。国内では、経済は悪化しマルクス思想は取り締まられ、自由主義思想も衰退した。我が国の農村は疲弊し、若者は都会に憧れ、出かけていってしまう。時代は閉塞し、満州国建国は希望となった。古典を復活させ喪失した故郷を回復し、この自然村落共同体からなる美しい日本を復活させようとするものが日本浪漫派の主張にあった。

 太宰治は鎌倉での自殺を題材にした『狂言の神』で「今の私の豊沃をいったい,誰におしへてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮かべなんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のその後ろ姿を思ヘば,こんどは私が泣きたくなって、   だんだん小説がむづかしくなって来て困ります。」と2人のこころの通い合う場面が描かれている。

 気質も天びんもことなる保田と太宰の間の共通点は同じ時代に同じ世界で学び、時代の風をうけた滅びの感覚であり,自暴自棄的な心情であった。いいかえれれば、日本浪漫派が当時の日本人の気持の代表であった。

2014/01/01

パレスチナの赤軍派


また見つかったよ
何がさ?永遠。
太陽に
とろける海さ。

ランボー
       

 パレスチナのPFLP(パレスチナ解放人民戦線)は1968年、はじめてハイジャックをおこなった。彼らはその後も戦術として、航空機のハイジャックや空港襲撃事件を幾度かおこしていた。
 1972年5月30日パリ発エール フランス機がテルアビブ空港(リッダ)空港に到着し、奥平 剛士、安田 安之、岡本 公三が作戦行動を開始した。当日深夜BBC Three gunmen attacked Tel Aviv Airportと放送し、はじめてテル アビブ空港襲撃事件が世界に知らされた。
 銃撃戦の結果、空港内警備員や一般市民26名,アメリカ人17人、イスラエル人8人、カナダ人1人が死亡し負傷者は73名のぼった。奥平、安田の2名はその場で死亡し、岡本公三はイスラエルに囚われの身となり、軍事裁判で終身刑の判決をうけた。国内の日本赤軍派の事件に引き続きおこったこの衝撃的行動を契機に彼らの支持者は国内ではほとんどいなくなった。

 彼らの行動を支える思想は様々な種類の共産主義であった。時代はカストロとゲバラの革命軍がバチスタ政権を倒し、1959年キューバの社会主義革命に成功し、チリにも社会主義政権がうまれ、アジアではベトナム戦争が闘われ、世界は2大陣営に分かれ対立していた。そしてパレスチナでは過激な政治集団PFLP(パレスチナ解放人民戦線)が結成された。

 西欧諸国ではベトナムの反戦運動が盛り上がり、日本も反政府運動が全国で起っていた。しかし、1972年の日本の連合赤軍事件は、自由な表現がゆるされる場のある日本で、山にこもり孤立し武装しなければならない理由もなく、まして敵とした相手ではなく仲間を殺してしまう必要はどこにも見いだせない事件であった。又,PFLPの指揮のもとでのテルアビブ(リッダ)空港の民間人の殺害事件は、その後の世界的な政治的テロリズムのさきがけとなった。戦後、平和主義と人命尊重の世界観が主流の日本国内ではきびしい批判的見方がほとんどで、政治的に同情的であった人々の離反をまねいた。

  彼ら3人の日本人がなぜ自爆テロにも似たこの空港襲撃事件を起こしたのか。チェ ゲバラの「世界のどこかで誰かが被っている不正を心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての,一番美しい資質なのだから」といった言葉を本当に信じたのか。人はなにかを思い込みたい本能があり、信じやすい心を持っている。ときには事実を思い込みに置き換えてしまう事がある。そして、ランボーの詩を愛誦し,天空に輝くオリオンの星になりたい心情をいだいて、現実社会で実行してしまったのか。

 パレスチナ問題は,長い物語にたとえられる複雑な歴史の産物で,物語の最初は紀元前のパレスチナの地に山岳民族のヘブライ王国が建国された時代にさかのぼる。王国は滅び、ユダヤ民族はローマ軍にこの地を奪われ,世界に放浪することになる。その後この土地はアラブの人々の定住地となった。
 パレスチナとは地中海とヨルダン川の間の狭い土地で,イスラエル、パレスチナ自治政府のヨルダン川西岸地区、ガザ地区を含む。アラブ人イスラエル人あわせて現在1200万人が住んでいる。

 第一次世界大戦後はイギリスが委任統治し、ヨーロッパの第2次大戦中にホロコーストがおこり、ユダヤ人の国家建設がすすめられた。そして、パレスチナの地にイスラエルが建国された。
 1948年イスラエル建国時、アラブ側とイスラエル側の土地の配分をめぐって第1次中東戦争が勃発する。アラブの占有する土地面積が少ないことに不満をもったアラブ側がイスラエルに攻撃をしかけるもイスラエル側の勝利に終わった。その後第2次中東戦争が勃発し、1967年には第3次中東戦争(6日間戦争)で3たびイスラエルが勝利し,アラブ諸国の大量の地域、シナイ半島、シリアのゴラン高原、ヨルダン川西岸地区を占領した。これに対する反撃の行動部隊として、過激なPFLPがうまれ、航空機ハイジャックなどのテロリズムを実行した。1973年には第4次中東戦争、その後1993年にヨルダン川西岸地区とガザ地区がパレスチナ人の治める自治区となった。

 現在宗教を至上のものとするイスラム諸国と、世俗的経済を至上とし民主主義をかかげる西欧諸国との対立は続き,共産主義が消滅しても宗教的原理主義を掲げたテロ事件はおさまるどころか、より広い地域にひろがり、自爆テロも頻発している。