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イギリスの一国支配が終わり1885年以降になると、世界は多極的世界となった。どの国もわれわれこそ国家の中の国家であると主張した。 そして1914年(大正3年)フランス、イギリス、ロシアの協商国とドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入した。
数週間で終わるはずの大戦は数千万人の死者を出す世界大戦となり、文明をも破壊し,国家そのものを解体することになった。
ヘミングウエーは19才で、この第一次世界大戦に赤十字の輸送部隊で参加しイタリア戦場で負傷し名誉勲章をうける。
ヘミングウエーは結婚し、作家で成功するために、まだ歴史の浅いアメリカから文学芸術の源流であるヨーロッパにわたった。 新聞記者として活躍し,ギリシャトルコ戦争の取材や,スペインの闘牛の見学をしたりして短編小説をかきあげた。それが最初の作品「3つの短篇と詩10編」でその文体は装飾的表現を極力排した短いフレーズで構成された簡潔な文体で構成された。
その年、1923年ムッソリーニはローマに進軍した。彼をインタビューするために外国のジャーナリストたちが大勢集まり、その一人だったヘミングウェイは特派員としてその時の報告を書いている。
ムッソリーニは会議に貢献するよりも新聞の大見出しになることにはるかに強い関心を抱いている。また、ムッソリーニはこれ見よがしに本を読み続け、集まったジャーナリストたちを無視することで記者会見を始めた。しかしその本はフランス英語辞典でしかも上下逆さまに持っている。
ムッソリーニの主張は、第一次大戦いらい西洋思想は人間が安楽さや安全を求めて生活を送ることだけを目的として、それ以上のものは何も望まなくなった。しかし、人間はただ安楽な生活だけを望んでいるのではない。人間は少なくとも信仰までは望まなくても戦いや自己犠牲などの精神的けだかさを望むものだ。
崩壊した国家を立て直すためにイタリアでは民主主義でもなく、共産主義でもない第3の道として国家社会主義が議会で多数派となった。
無頼漢ともおもえるパリでの生活を送り、1924年に短篇集「われらの時代」を刊行。アメリカでも話題となり作家としての成功をおさめる。1926年には初めての長編小説「日はまた昇る」に戦争で負傷し心も体も傷ついた若者の物語、ロストジェネレイションを描いた。
ロストジェネレーションは広くヨーロッパやアメリカの価値観がこの第一次世界大戦によって崩壊しパラダイムの大転換がおこった時代に青春時代をすごした世代を意味するものとなった。この世代は多くの人々が信じるべき価値を失い、精神的混迷に陥った時代で、この根本的価値の激変した世界にあってヘミングウエーは新たな表現者として、時代の騎手になった。1927年には短編小説「男だけの世界」で闘牛士の戦う男や殺し屋を描き6年半におよぶパリ時代を終えた。
彼はその後アメリカフロリダの尖端にある離れ島、キーウエストに住んで長編小説「武器よさらば」を書く。この小説は第一第1次大戦中にイタリアで負傷したときの経験を小説にしたもので、この看護婦と負傷兵の恋物語で一流作家の仲間入りをした。
1930年代の初め、ヘミングウェイは新たな小説スペインの闘牛を主題にした男と牛と血の世界を小説化したり、アフリカのケニアで象やライオンなどの狩猟に熱中し、あるいはキューバでのカジキの釣りをしたりして世界をかけめぐり、男たちの冒険を物語にした。
1930年代の後半スペインの内戦がおこる。フランコ政権をドイツ、イタリアが支持しフランコ政権と戦う人民戦線をスターリンのソ連が支持した。この戦いに人民戦線側で参加し、長編作品「たがために鐘は鳴る」を書いた。やがて映画化されゲイリークーパーとイングリッド バーグマンが主演、世界中で驚くほどの成功をおさめた。
大戦後「老人と海」が1952年にライフに掲載され、ピューリッツア賞をさらにはノーベル賞を受賞した。
人間の本性の一部、男らしさ、戦い、闘争心を文学にした最もアメリカ人らしい小説家。時代の大転換の中、装飾のない簡潔な文体で小説そのものを変革した作家として評価された。
一方、母親からはその生き方や小説を認められず、4度目の結婚で妻となったメアリーもまた手紙の中でヘミングウェイを薄情で非常識で利己的でエゴイストで評判だけを気にする人と書き、小説についても反知性的で退屈といった評価もあった。
20世紀を代表するアメリカの小説家マッチヨなナルシスト、アーネスト ヘミングウエーは、彼のよき理解者であった父親と同じように1961年ショットガンで自殺した。




