2017/02/26

日本の文明 風土 和辻哲郎


風土 和辻哲郎 

 和辻哲郎は世界秩序のゆらいだ混迷の時代に、アメリカ文化とは異質のドイツ哲学にであい、そこからヒントを得て古来からの日本文化を分析した。

   「古寺巡礼」は30才の時、1919年(大正8年)奈良の近辺の古寺、仏像絵画を見学した印象記で、法隆寺、薬師寺や多くの仏像の中に、はるかギリシア文化の影響を見いだし、印度や大陸の文化を融合した日本古来の精神に触れ、感動した陶酔の気持ちを書き記し、多くの読者を引きつけた。
 奈良時代は歴史上もっとも国際的な時代であった。天平、飛鳥の建築や仏像にヨーロッパ文明、ガンダーラやバラモン文化のインド、中国文明の影響を色濃く反映しているのを発見した。

 その翌年、1920年(大正9年)には,仏教の影響をうける前の日本のすがたを研究した「日本古代文化」を出版した。人々は民本主義的で原始的な直さや子供らしさを持っていたとその当時を描いている。日本列島の島々では、同一の血族と言うより、さまざまな地域から渡来したさまざまな文化をもった温和な人の住む場所で、信仰や道徳が同一の人びとの集団であった。

 1926年になると「日本精神史研究」で今までの多くの研究を寄せ集め、仏教文化の源流を描き発表した。1934年「続日本精神史研究」を、そして1934年有名な「風土」を発表した。

 第一次世界大戦のあと、1927年ドイツのベルリンに国費で留学。日本から中国、印度、中東、地中海を旅行し、その風土気候の著しい変化を体験しながらその時期のドイツに到着した。敗戦国ドイツは1923年からおきたハイパーインフレによる社会混乱からようやく回復してきた復興の時代だった。

 そこでドイツ哲学者ハイデッカーの名作「存在と時間」にであった。この考えに触発され、自然や気候、ひととひとの間柄などの社会環境をふくむ空間である風土を国民性にあてはめた文化論をくみたてた。こうしてアメリカ、ヨーロッパの個人主義と異なる日本文化の由来を説明した。

 感情と風土をアジアのモンス−ン的風土と砂漠的風土およびヨーロッパの牧場的風土で3つの類型に分けた。モンスーン型の風土では、受容や忍耐が実存の構造をなし,自然のはかり知れない力を前に,仏教やヴェーダの神を生み出した。

 モンスーン的風土の特殊形として中国(シナ)と日本を対比して、中国大陸は単調として空漠でボーボーたる海は我々に本当の海特有の生き生きとした生命感を与えない。その中に立つ者の視野に入るのはその平野のほんの1部分に過ぎずその中をいかに遠く歩いていってもただ同じような小さい部分の繰り返しがあるだけであるこの中にあって人々は受容的忍従的でそして感情は無感動的になる。

 一方日本は、土地が海と平野と山岳地帯が隣接し、四季の変化が激しいため,激情と淡白が始めから混じり合っている。そして,気がかわりやすかったり、あきらめが早かったりする。単に熱帯的あきらめでもなく,単に寒冷的な、気の長い辛抱強さでもない。あきらめでありつつも反抗において変化を通じて気短に辛抱する忍従である。

  砂漠型の気候では,水や植物を手に入れるためには、自然と戦わなければならない。それゆえ戦闘的でかつ対抗的であり,自然との闘争に生きている一方部族の共同性においては服従的である。

 ヨーロッパの風土ヨーロッパは牧場的で、夏は乾燥期で冬は雨期になる。地中海の沿岸のイタリアの半島で海沿いの山野ではほとんど岩山で、植物は育っていない。一方、夏の乾燥は日本やモンスーン地帯で見られる夏草のはんも雑草が見られない。ここでは自然は従順な存在にとどまっている。この全土が牧草のようになるような過度な湿潤や乾燥のない、この気候の下にギリシャローマ時代の合理的文化が生まれた。

さらにギリシアやローマの地中海地方とフランスからさらに北に位置するドイツの陰うつな長い冬の気候が精神主義的キリスト教文化を生み出した。

 このようにしてドイツ哲学の方法を使って日本の独自性を学問的にくみたてる和辻風土学を生み出した。その後,和辻哲郎は生涯の研究「倫理学」3巻を1937年から1949年かかって書き上げ、また戦後、象徴天皇論の理論的支柱となった。

 この文明理論の正当性に関して,今でも議論がある。梅棹忠夫の「文明の生態史観」ではユーラシア大陸の中央に遊牧民の勢力が跋扈しその周辺にロシア、中国、インドなどの強力な帝国でき,興亡をくり返した。さらにその周辺にヨーロッパ、東の周辺には日本が位置する。この地域で封建制から近代国家が生まれたとし、和辻哲郎の考えを否定した。
 1996年にハッチントンは「文明の衝突」で,世界を西欧、イスラム、中国、東方正教会、仏教、日本、ラテンアメリカ、アフリカにわけ、それらの文明は同化しないと説いた。
 またイマヌエール トッドは人口学的手法でソ連解体を予言した「最後の転落」で注目された。そして家族人類学の方法でヨーロッパの国と文化を分析した。

 星占い的な荒唐無稽の文明論なのか根拠のある文明論なのかは今後実証が可能になり,ビッグデーターの解析による文明のモデルシステムが確立すれば、文明社会の未来は予想できる。
 




2017/01/29

男だけの世界 ヘミングウエーの生き方


  

 売ります。赤ん坊の靴。未使用(For sale:baby shoes,never worn.)

 イギリスの一国支配が終わり1885年以降になると、世界は多極的世界となった。どの国もわれわれこそ国家の中の国家であると主張した。 そして1914年(大正3年)フランス、イギリス、ロシアの協商国とドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入した。
 数週間で終わるはずの大戦は数千万人の死者を出す世界大戦となり、文明をも破壊し,国家そのものを解体することになった。
 ヘミングウエーは19才で、この第一次世界大戦に赤十字の輸送部隊で参加しイタリア戦場で負傷し名誉勲章をうける。

 ヘミングウエーは結婚し、作家で成功するために、まだ歴史の浅いアメリカから文学芸術の源流であるヨーロッパにわたった。 新聞記者として活躍し,ギリシャトルコ戦争の取材や,スペインの闘牛の見学をしたりして短編小説をかきあげた。それが最初の作品「3つの短篇と詩10編」でその文体は装飾的表現を極力排した短いフレーズで構成された簡潔な文体で構成された。

  その年、1923年ムッソリーニはローマに進軍した。彼をインタビューするために外国のジャーナリストたちが大勢集まり、その一人だったヘミングウェイは特派員としてその時の報告を書いている。
 ムッソリーニは会議に貢献するよりも新聞の大見出しになることにはるかに強い関心を抱いている。また、ムッソリーニはこれ見よがしに本を読み続け、集まったジャーナリストたちを無視することで記者会見を始めた。しかしその本はフランス英語辞典でしかも上下逆さまに持っている。

 ムッソリーニの主張は、第一次大戦いらい西洋思想は人間が安楽さや安全を求めて生活を送ることだけを目的として、それ以上のものは何も望まなくなった。しかし、人間はただ安楽な生活だけを望んでいるのではない。人間は少なくとも信仰までは望まなくても戦いや自己犠牲などの精神的けだかさを望むものだ。
 崩壊した国家を立て直すためにイタリアでは民主主義でもなく、共産主義でもない第3の道として国家社会主義が議会で多数派となった。

 

 無頼漢ともおもえるパリでの生活を送り、1924年に短篇集「われらの時代」を刊行。アメリカでも話題となり作家としての成功をおさめる。1926年には初めての長編小説「日はまた昇る」に戦争で負傷し心も体も傷ついた若者の物語、ロストジェネレイションを描いた。

 ロストジェネレーションは広くヨーロッパやアメリカの価値観がこの第一次世界大戦によって崩壊しパラダイムの大転換がおこった時代に青春時代をすごした世代を意味するものとなった。この世代は多くの人々が信じるべき価値を失い、精神的混迷に陥った時代で、この根本的価値の激変した世界にあってヘミングウエーは新たな表現者として、時代の騎手になった。1927年には短編小説「男だけの世界」で闘牛士の戦う男や殺し屋を描き6年半におよぶパリ時代を終えた。

 彼はその後アメリカフロリダの尖端にある離れ島、キーウエストに住んで長編小説「武器よさらば」を書く。この小説は第一第1次大戦中にイタリアで負傷したときの経験を小説にしたもので、この看護婦と負傷兵の恋物語で一流作家の仲間入りをした。

 1930年代の初め、ヘミングウェイは新たな小説スペインの闘牛を主題にした男と牛と血の世界を小説化したり、アフリカのケニアで象やライオンなどの狩猟に熱中し、あるいはキューバでのカジキの釣りをしたりして世界をかけめぐり、男たちの冒険を物語にした。

 1930年代の後半スペインの内戦がおこる。フランコ政権をドイツ、イタリアが支持しフランコ政権と戦う人民戦線をスターリンのソ連が支持した。この戦いに人民戦線側で参加し、長編作品「たがために鐘は鳴る」を書いた。やがて映画化されゲイリークーパーとイングリッド バーグマンが主演、世界中で驚くほどの成功をおさめた。
 大戦後「老人と海」が1952年にライフに掲載され、ピューリッツア賞をさらにはノーベル賞を受賞した。

 人間の本性の一部、男らしさ、戦い、闘争心を文学にした最もアメリカ人らしい小説家。時代の大転換の中、装飾のない簡潔な文体で小説そのものを変革した作家として評価された。

 一方、母親からはその生き方や小説を認められず、4度目の結婚で妻となったメアリーもまた手紙の中でヘミングウェイを薄情で非常識で利己的でエゴイストで評判だけを気にする人と書き、小説についても反知性的で退屈といった評価もあった。

 20世紀を代表するアメリカの小説家マッチヨなナルシスト、アーネスト ヘミングウエーは、彼のよき理解者であった父親と同じように1961年ショットガンで自殺した。














 

2016/12/16

巴里のアメリカ人 フィッツジェラルドとヘミングウエイ


ギャツビーは緑の灯火を信じていた。
年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。
それはあのとき我々の手からすり抜けていった。
でもまだ大丈夫。
明日はもっと速く走ろう。
両腕をもっと先まで差し出そう。
   そうすればある晴れた朝に----
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。
流れに立ち向かうボートのように、
絶え間なく過去へと押し戻されながら。

  グレート ギャツビー 村上 春樹 訳

                スコット フィッツジェラルド

 フィツジェラルドは1896年アメリカの北部ミネソタ州セントポール生まれる。1917年プリンストン大学を中退して陸軍に入隊。第一次大戦は猛威を振るったインフルエンザのためヨーロッパに渡らず、南部アラバマ州のモンゴメリーで駐屯しゼルダと会う。

 1920年「楽園のこちら側」で若き時代の作家としてみとめられ、新鮮な表現で、生まれた街を舞台にした「氷の宮殿」などの多くの短篇を創作する。
 同じ年「古い窓の敷居に腕を載せ、その上に顎を載せ、眠そうな目で砂ぼこりのチラチラ光る路上を眺めていた。」南部生まれのセルダと結婚した。

 第一次大戦後のアメリカも、以前あったヴィクトリア時代のモラルは変貌し、怒ったそして新しいタイプの若者が生まれた。   この狂乱のニューヨークにセルダとともに住み、小説そのままの生活を送り、時代の代弁者、時代の申し子にフィッツジェラルドはなる。
 
 フラッパーが生まれ、自らの作品で描いた「ジャズエイジ」の新しい世代が姿を現し、「ニューヨークは世界の誕生を思わせるような虹色の輝きに溢れていた.
「我々にとってのニューヨークはていどの差こそあれ、酒びたりのどんちゃん騒ぎの街であった。生活を立て直さねばという決心もロング アイランドに戻るまでのこと、戻ってしまえば全てはもとの木阿弥という有様だった。」

 1924年長女スコッティーをつれて3人でフランスにわたり「グレート ギャッツビー」を書き上げ出版する。この作品がいまでもアメリカの教科書にものる20世紀最大のアメリカ文学作品となる。
 ニューヨークの東、ロングアイランドを舞台にして大金持ちのギャツピーが、暑い夏の日、自宅で夜な夜な豪華なパーティーを開き、オーケストラが演奏されジャッズがうたわれ、舞台では演劇がそしてダンスとお酒の盛大な騒ぎが繰り広げられる。パーティーの主催者ギャツビーが何者であり何のために人々を招き主催するのか謎であった。
 隣の住人ニック キャラウエイによって語りすすめられるギャツビーの人生。ギャツビーの過去はしだいに明らかになり、デージーと再会し、そして夏の終わりのプールで悲しい結末を迎える。

  第一次大戦後のフランスは文化の中心として世界中から人々を惹きつけた。 世界から小説家など多くの芸術家が集まり毎日が祝祭日の生活を楽しんでいた。そして日本からも多くの画家、小説家の卵や財閥家族などの金持ちがパリの生活を楽しんだ。パリにわたったアメリカ人も芸術のインスピレーションを得て多くの作品を描いた。

 「もし幸運にも、若者の頃、パリで暮す事ができたなら、その後の人生をどこですごそうとも、パリはついてくる。パリは移動祝祭日だからだ。」

 1925年パリでフィッツジェラルドは最初の短編集「われらの時代」をだしたばかりの若いヘミングウェイと知り会い意気投合している。
 フィッツジェラルドはヘミングウェイの才能を認め、「日はまた昇る」のアドバイスをしたり、出版社を紹介したりした。そして「アーネストは雄牛で僕は蝶だ。蝶は美しい しかし雄牛は存在する。」と彼の才能を讃えている。

一方ヘミングウエイはフィッツジェラルドのあまりに繊細でアルコールにおぼれるパリでの様子と、通俗的と思える物語の中に、人間の奥深いこころの底を浮かび上がらせる小説について、後の「移動祝祭日」のなかで描いている。

 「彼の才能は蝶の羽の鱗粉があやなす模様のように自然だった。
ある時期まで、彼は蝶と同じようにそのことを理解しておらず、模様が払いおとされたり、損なわれたりしても、気づかなかった。
のちに彼は傷ついた羽根とその構造を意識し、深く考えるようになったが、もはや飛翔への愛が失われていたがゆえに、飛ぶことはできなかった。
残されたのは、いともたやすく飛ぶことができた頃の思い出だけだった。」

 
 その後、ボルチモア郊外にこもり書き上げたのが、セルダとの生活を小説化した「夜はやさし」で新たなフィッツジェラルドの長編小説であった。
 アメリカ人富裕階級の世界を、精神科医ディック ダイバーと患者であり後に結婚するニコルとのフランス生活、若い女優ローズマリーと出会い、心の葛藤をえがいた。
 セルダの病気や自らのアルコール中毒、17才の女優との関係を作品にしたもので、1934年出版。実際セルダは精神に変調をきたし1930年スイスで療養生活にはいり、アメリカに帰国してからも、入退院を繰り返した。

 2人の小説家としての立場はしだいに逆転しフィッツジェラルドはかつての栄光をとりもどそうと焦燥感をつのらせ、一方ヘミングウエイはしだいに認められ「武器よさらば」などで小説家として成功者となる。 彼は「夜はやさし」の書評の中で、わんぱくなガキが軟弱だが才能のある少年、フィッツジェラルドにたいして、あざ笑うような優越感をいだいていたと書き記している。

 小説のような生活を送り、自らの実生活を小説化する作家フィツジャラルドはアルコールに溺れ、若すぎる晩年はハリウッドで劇作家として、かつての華やかさとは遠い生活を送った。映画「風とともに去りぬ」のスカレーット オハラの台詞をつくったり、ハリウッドの世界を小説にした。その後、セルダとも離れ、未完の小説「ラスト タイクーン」を残して44才の若さで死亡した。


 2人の活躍した時代、フランスで生活をした小説家も多かった。国内では芥川龍之介、中野重治、横光利一などが活躍し彼らの小説はヨーロッパの文化の大きな影響をうけていた。しかしアメリカ文学はほとんど日本には紹介されず、フィッツジェラルドやヘミングウエーの小説の影響力はみられていない。
 かれらの小説が反知性主義的な文体あるいは、通俗小説的な文学であったためか、あるいはよき翻訳者に巡り合わなかったためか、また生活様式の差なのか。
 彼らロストジェネレイションの文学が日本に受け入れられたのは第二次大戦後で、フィッツジェラルドは現在再評価されている。





2016/11/20

地震 小松左京の日本沈没


 
 大地震ふること侍りき その様世の常ならず 山崩れて川を埋み海傾きて陸地を浸せり 土裂けて水湧き上がり巌割れて谷に転び入り渚漕ぐ船は波に漂ひ道行く駒は足の立処を惑はせり

                           方丈記   鴨 長明

 1973年ベストセラーになった小説「日本沈没」は、SF作家小松左京の作品で、後に映画化された。  日本列島の成り立ちと地球の動きをもとにした近未来の物語で、日本列島で地殻の変動から、大地震がおき、津波,火山の噴火をともない次第にすべてが沈みはじめ、ついには、海に没してしまう。日本人は大脱出により世界にちらばっていった。その時の日本人の活躍、日本文明消滅の様子を衝撃的に描いた。
 このSF仕立ての日本人の物語は、プレートテクニークスという地球物理学の新しい理論をとりいれた。日本列島沈没の発想は近未来におこりうる現実を描きだしたものとして受け入れられ、空前のヒット作となった。


  小松左京は日本を代表するSF作家で、1961年「地に平和を」で活動を開始し、 1960年から1980年にかけて多くの作品をだした。地球温暖化や環境汚染、様々な病源体やウイルス、宇宙旅行や惑星移住などを素材にして、過去と未来、そして地上から彼方の宇宙を舞台にした多くの想像力ゆたかな思考の実験、フィクションを構想した。
 アーサーC クラークをおもわせる物体Oが日本を支配する短編小説「物体O」、日本の未来や過去を漂流する物語や近未来小説「果てしなき流れの果てに」「復活の日」あるいは2つの並行する歴史や江戸時代へのタイム スリップしたり、中国を舞台にした地殻変動小説「東海の島」などを発表し、SF黄金時代をつくりだした。「はみだし生物学」では自己増殖型機械についてかたり、コンピューター社会生態学を構想している。


 「日本沈没」では、一人の地震学者がプレート理論を使って地殻の変動を観察し、日本が沈没することを予知した。このプレート理論を最初に唱えたのはドイツの科学者アルフレッド ウェーゲナーで、1915年に発表された「大陸と海洋の起源」で、海によって数千キロメートル隔てられた大陸で同じ太古の生物の化石を発見し、アフリカ大陸とアメリカ大陸はその形から、太古の昔すべての大陸は1つにまとまっていたとの説を発表した。
 長い間荒唐無稽の説として忘れ去られていたものが、地球内部のマントルの運動により地殻は動いているとわかり、人々が認めるようになったのが1960年代で、現在ではこの大陸移動説は定説になっている。

 プレート理論により陸地は移動し、地球表面の固い岩の層が、動き、沈み込み、変形をうけ、また陸側のプレートも引っ張り込まれ変形し、ある時この変形に耐えられなくなって一気に跳ね上がり地震をおこす。かつて日本列島はユーラシア大陸の一部で、それがひきはがされ、西日本と東日本は二つの島になって離れていた。それがさらに数百万年の時代をへて、太平洋側にしだいに動き、合体し現在の日本列島ができた。また地殻変動により地震はおき火山が噴火し、そのとき津波が発生することがわかってきた。いまでも日本列島は少しずつ動き、震動をくり返している。

 日本ではプレート境界型の東海大地震を想定して、その予知に予算も人材も法律もシフトして対応した。その後おおくの死者をだした阪神淡路大震災がおこった。活断層のずれによるマグニチュード7.3の地震だった。小松左京も「大震災95」でこの想定外の大都市圏直下型活断層地震についてルポルタージュを書いている。

 活断層というのは、約260万年前以後に大地に断層によるずれがおきたものを示す。その断層は過去からそれにそって地面が動き、何度も地震をくり返す場所で、陸側のプレートがひずみ、このひずみがある時裂けやすい地層、活断層にそってずれて地震をおこす。プレート境界型地震とはことなった地面の比較的浅い地面の裂け目であり、甚大な被害は比較的狭い範囲にとどまり、日本全国で2000以上ある。

 境界型地震も太平洋プレート(フィリッピンプレートを含む)の西のはしでは、アリューシャン列島、日本列島、琉球諸島、台湾、インドネシアからニュージーランドにかけて多発している。東北地方太平洋沖地震は、マグニチュード9の巨大地震でやはり想定外の規模と場所でおこった。

 寺田寅彦は小説の中で述べている。「日本は地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然ないとはいわれないまでも、頻繁にわが国のように激甚な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってよい。」

 この自然による災害は日本の国民性に影響をおよぼしている。「数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。」

 自然を征服しようとする野心を生じたことがかえって災害を大きくした。「文明が進んでますます天然の猛威による災害がその激烈の程度を増すと言う事実がある。文明が進むほど災害よる損害の程度も増加する傾向があると言うことを自覚して、普段からその防衛策を講じなければならない。それができていないのは、それは極めて稀にしか起こらないで、ちょうど人間が前車の転覆を忘れたころにそろそろ後者を引き出すようになるからであろう。天災は忘れた頃にやってくる。

 「昔は過去の経験から地震や台風に耐えた場所でのみ集落を保存し、時の試練に耐えたような建築物のみを墨守をしてきた。」として、日本のような地震国では津波のこない場所に住み、耐震家屋や地震にたえる都市の必要性を主張している。

 さらに台風の襲来の予知に対しては太平洋上や、日本海上あるいは大陸にも観測網をひろげるように提言している。現在台風の予知は気象衛星の活躍によりかなり正確にできるようになった。しかし地震の予知はなかなか難しく、原因としてのプレート理論は分かっても未知の活断層があらわれたりして、実際おこる地震の予知は今のところできていない。


2016/10/16

スターウオーズと2001年宇宙の旅


 宇宙空間を題材にしたSF映画「2001年宇宙の旅」はその後のSF宇宙映画に大きな影響を与えた。人間が作り出したロボットが逆に人間を支配するという発想は神秘的で不可思議な未来の不安を先取りするものだった。その哲学的、詩的作品のなかに、はるかかなたの惑星をめざす宇宙船の巨大な姿と美しい映像は、後の世界の目標となる作品で1968年に登場した。原作はアーサー   C  クラークでスタンリー キューブリックが監督し製作した。



 スターウオーズは1977年5月28日アメリカで公開された。
 チュニジアの砂漠で撮影された荒涼とした世界や、最初に帝国のスター デストロイヤーがレイヤ姫の船を追いかけ響き渡る轟音とともに巨大なエンジンの船がスクリーンを横切るシ−ンではじまる壮大な宇宙での物語。その宇宙の映像や戦闘の新しさで当時の人々を映画の新世界に引き込んだ。
  
 スターウオーズは、古代ローマ時代の帝政と共和国の歴史をモデルにした騎士と姫を主役とした騎士道物語で、宇宙を舞台に壮大な善と悪の戦いをくりひろげる。フォースと剣、ロボット.巨大な戦闘機、破壊兵器それらを武器にして西部劇を演じている。そして彼等主役たち翻訳ロボット C-3PO 万能修理ロボット R2-D2、ル−ク、レイア姫、ハンソロとチューバッカは世界中で最も有名な人物、キャラクターになった。

 この作品は神話的物語の序章で、二作目の帝国の逆襲では氷の惑星ホスの最初の場面はノルウエーの氷河の上、吹雪の中で撮影され、帝国軍の4足歩行の戦闘ロボットがスノースピーターと戦う場面が登場する。新しいキャラクターのヨーダは、操作される人形だった。

 第3作目ジェダイの帰還は1983年に公開された。コンピュータ−グラフィック映像を使わない時代の視覚光学的効果、登場するロボットや異生物など想像力に富んだ創造物が活躍する。宇宙を舞台にしたスペース ファンタジー、アメリカの神話物語スターウォーズの初期三部作は時代を変える映画だった。

 この作品のできた1960年から1980年に想像上のロボットや宇宙飛行の世界は映像のなかでしか存在しなかった。彼らは映画の中では、機械に強い小型ロボットR2-D2にはケニーベーカーが、臆病な翻訳ロボットC3POはアンソニーダニエルズが演じていた。その後現在までの間に技術は急速に進歩をとげ、物語の中でしか存在しなかった機械が現実の世界に登場するようになってきた。
 

 現在、イチゴ摘みの機械ができ,雑草取りの機械も既にできている。販売の仕事や自動運転の車ももうすぐ実用化の段階で,会計や税務の計算や弁護士の書類を書く仕事も自動化が現実のものになってきた。
 さらに、労働機械は工場や家庭でなくてはならないものになり、さらにそれらは警察ロボットだけではなくアメリカのネヴァダ州からコントロールされた戦闘機はアフガニスタンのアルカイダ攻撃に使われている。

 ソフトバンクから発売された人型ロボットのペッパーは自ら搭載するビデオカメラで相手の表情を読み取り、マイクを使って会話をする。そしてこれらのデーターをインターネット経由でデーターセンターに送られる。このセンサーは多くの家庭におかれれば多くの情報を集める端末となる。

 アマゾンやGoogleは現代における2001年宇宙の旅に出てくるHALと同じような人工知能になりつつある。情報端末からあらゆる種類のデーターが蓄積され人工頭脳がそれを分析する。人間と交渉したり人間を評価したり、その人の興味をもつ事や関心を記録している。それを使って人工頭脳で分析し集団としての人間行動をコントロールする影響力は徐々に人間の手から機械の手に移りつつある。この人間とシステムでの競争で、速度でも情報を手に入れる手段にしても、次に人が何をほしがるのかといった知識でもすべて機械の予想が人間を上まわっている。

 2001年宇宙の旅の人類の夜明けのシーンが暗示するように、人間が進化し、誕生し、長い年月をかけて自然と適応して進化した結果頭脳も発達し文明をうみだした。  一方HALは人によってつくりだされ、感情、愛情は生存にとって必要なものではない。倫理に反する行動も、合理的であれば実行する。このマシーンの暴走は映画の予言どおり人の命を平気にうばったり、戦争兵器の主流になるのか、あるいは人間の役にたつロボットにとどまるのか、SFの世界は今や現実の問題になりつつある。
 



                   


2016/09/25

昭和時代の庶民作家 林芙美子



 林芙美子は旅行、放浪を題材にして多くの作品をうみだし、満州事変から日中戦争(支那事変)、対米戦にいたる庶民の眼でみた昭和時代の記録になっている。
 
 1928年(昭和3年)尾道から東京に上京した生活を描いた放浪記の連載を始め、昭和恐慌時代の日本の流行作家となる。
  その後も、多くの旅行をしている。満州事変の2年前、満州から中国にかけての旅行を1月にわたりする。
 そして、私はハルピンが好きと書いた「ハルピンのお散歩」を1930年(昭和5年)に出している。当時ハルピンのあたりの人口は51万人、1895年ロシア帝国はこの地に東洋のモスクワの建設を目指し巨額の費用をかけて街を作った。
 その約10分の1が白系ロシア人であり、そしてユダヤ系住民、アメリカ人、イギリス人ドイツ人も多く住み異国情緒漂う町でもあった。そこで、国内にはない、広軌の列車に乗り、紅茶を飲み、初めての洋服を買い、「世界大旅行にでかけているような愉しい気持ちでした。」とうきうきした気分で、はじめての海外旅行を楽しんだ。

 日本は、1931年(昭和6年)満州事変を起こし、満州国を建国した。満州国の創設を企てた軍の考えは対ソ連の緩衝地帯としての国を作り上げそれを日本のコントロール下に置くことにあった。

 同じ年1931年(昭和6年)27才の時、シベリア鉄道を使って一人で巴里に向う。金子光晴たちの貧乏生活に勇気つけられたのか、権威や地位、社会的地位すべてからはなれた生活を送った林芙美子もまた底辺に近い人々の目線を持っていた。フランスで自炊し、着物を着て歩きまわる生活を半年にわたり続け「西伯亜の三等列車」「下駄で歩いた巴里」「巴里の小遣い帳」を出版。

 1932年(昭和7年)ロンドンの支那人コミンテルンでは、上海市街戦に対する反日デモを見、その後にマルクスの墓をおとずれる。 同年5月パリから日本への帰国 6月には帰国途中の上海で魯迅にあった。

 その後も国外の旅を続け、中国には第1次上海事変直後 日中戦争(支那事変)後の第二次上海事変、南京陥落直後の四回訪れている。

 
 1937年(昭和12年)日本政府は言論取り締まり強化の方針を発表した。そして12月には人民戦線事件で自由主義者も獄につないで発言を封じる。

 同年7月7日の日中戦争(支那事変)の勃発。直後の12月南京陥落、毎日新聞の特派員として上海から南京にむかった。その記事が上海一番乗りとして読者の注目を集め、さらに翌1938年(昭和13年)9月の漢口攻撃戦に作家として兵隊たちと一緒に従軍し漢口一番乗りをはたした。

 この年には国家総動員法が制定された。

 多くの国民は戦争を支持し、林芙美子は「国の宣伝下手は日本の益をゆがめられてしまう、民間から偉いジャアナリストを選んで宣伝省と云うのでも造ったらどんなもんだろう。」と提言し、それに応えて、日本政府は全文壇を揺り動かした文人の従軍ペン部隊をつくった。この内閣情報部派遣のペン部隊に選ばれるのは一流作家の証となり,北原白秋はその中に大衆作家の多く詩人の少ないことを問題にしたほどで、選考にもれた人は悔しがった。
 首相官邸で発表された作家は合計23名でそれぞれ陸軍と海軍に分かれ、その中で林芙美子は、陸軍に選ばれた唯一の女性作家となった。 


  1938年(昭和13年)9月国民党政府は南京陥落の後、漢口に首都を移していた。その首都を攻めるために日本軍が30万人を動員し国民党軍との戦いに臨んだ。
 林芙美子のあくなき情熱は危険もおそれない冒険心を生み出し、漢口攻略戦の従軍作家として、揚子江に沿って漢口まで朝日新聞の報道部隊とトラックに乗り兵士たちと一緒に行動し漢口一番乗りをはたした。その戦場のルポルタージュ「戦線」は戦場の自然そして日常としての戦いを感情をこめ、臨場感あふれる筆で書き上げ、当時の日本の国内の人々、読者を引きつけ、圧倒的支持を得た。

 「銃声や砲声を聞き最初は寝ることができなかったものが次第に慣れてきた。そして敵兵の死体を見ても恐怖を抱かず何の感傷もわかないどうした事なのだろうか、その気持ちを不審に思ってた」と記している。

 今まで戦場は遠いものであり想像でしかなかった。それが現場のルポルタージュで、現在の報道映像と同じ程度に鮮明に描き出して、当時の庶民の感情そのものの記録を書き送った。

「私は兵隊が好きだ。
空想も感情もそっと秘めて、
砲火に華と砕けて逝く。」


                              
 愛国は時代の風潮であり、 庶民作家は事変とともに一躍ときの人となる。朝日新聞や中央公論発行の「戦線」や「北岸部隊」はベストセラーとなり、林芙美子は全国の講演会で従軍を語り、流行歌や演劇にもなった。
「この時代と共に、私は逞しく素朴に進んでゆきたいと思っています。」

 1940年(昭和15年)満州国への一人旅「凍れる大地」を朝日新聞の後援でルボルタージュの記事を発表した。林文子の書いた満州は10年前と比べて暗いものであった。「ハルピンのお散歩」で描いた満州は林文子のにとって憧れの外地であった。その後、日本は、満州国を独立させ、国策のために多くの子供を含め貧農業の人々を各都道府県に割り当てて半ば強制的に満州に送り込んだ。

  「日本の現状を非常に案じて,何かしら重苦しいものが始終頭の中を去来している。」

 そして「青少年義勇軍にも行ってみたが今は何も言いたくない」とその後も義勇軍については何も語らず過ごした。
 





 1942年(昭和42年)南方派遣でマレー ジャワ ボルネオ島半年間の旅行をする。当時日本の占領下、比較的安定した時期で戦闘はなく,南方初だよりなどの数編の報告を雑誌に発表した。以降、敗戦までは疎開して、寡作になった。

  時代の意見に反対することは難しく時代の流れに乗るのは容易い。情報が制限された時、みようとしないものは見えないのもので、努力して見ようとして初めて形に現れる事実もある。林文子の考えの枠組みの中には、中国の世界はどこにもない。なぜ反日になるのかは想像もしていない。マルクスは貧乏人の味方だったし、お国の為に戦っている兵隊さんは偉い、そして戦場にともに生きる馬たちをいとおしく思う。

 嵐のように去った戦争では、死んだ人が一番可哀想と思い,戦後も不運な運命のひとびとの物語を書き続けた。

2016/08/17

漫画「同棲時代」



上村一夫のいた時代 漫画「同棲時代」

ふたりは いつも
傷つけあって くらした
それが ふたりの
愛のかたちだと 信じた


 東京オリンピックが開催されたのは,1964年、日本は高度経済成長期にはいる。この時代に青春期をおくった世代は人口の最も多い世代で、アメリカでもベビーブーマーと呼ばれ,第二次大戦後から、ケネディー政権のときに生まれた世代。中国では、文化大革命の時、教育機関は閉鎖され地方に下放された世代にあたる。

 日本のこの世代は敗戦により、新しくできた日本国憲法のもと、戦後民主主義の教育をうけて育った。天皇の主権がおわり、象徴天皇となり、男女の平等と、人権尊重、平和主義の憲法のもとでうまれ育った初めての世代が青年になる頃が1960年代の後半、ちょうど日本の高度成長期がはじまる時だった。老人人口は少なく、若者の多い時代でもあった。

 1960年代後半は、若者たちの叛乱、あるいはプロテストの波が世界中に波及しアメリカやヨーロッパそして日本でベトナム反戦運動や、学園紛争が起り,中国では国内を大混乱になる文化大革命が始まった時代の転換期であった。

  日本では、1970年代になると理念や理想を掲げた政治の季節は収束にむかい、2年後の1972年7月に田中角栄首相となり、今太閤とよばれ、野人、電算機つきブルドーザーとよばれ、国民の圧倒的支持を得た。

 田中内閣の日本列島改造は経済の発展が第一、新しい国の発展のため大都市集中から、日本全国に豊かさをいきわたらせるための大構造改革であった。
 これは全国に25万人の都市を作ってそれを新幹線と高速道路網で結ぶと言う土木事業を中心にした国土開発計画であった。人々の考えも理想主義より現実主義になっていった。

 当時の金日成の言葉
 「この一年間に、日本人民の闘争もたいへん力強くくりひろげられました。日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれにかわりました。これは日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人民の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します。」 

 田中内閣もう一つの成果は同じ年の日中国交回復で、中国政府から2頭のジャイアントパンダ,カンカンとランランが日本に送られてきた、当時中国は,文化大革命のまっただ中、毛沢東と周恩来の時代。いまからみれば国内的には大混乱の時代だった。

 近隣の国が、政治的生活を強いられている中,日本人の関心は世界の大きな枠を決める政治の世界とは離れた身の回りの豊かさを求める時代にかわった。
 1970年代になると若者達にとって大きな物語より、傘がないことが重要となった。 そして,アメリカでも同じころ政治の季節が終わり、若者たちは,内向きの世界を求めた。それは、「私の時代」とよばれ、アメリカ人たちもまた純粋に個人的な関心に向けて後退した。

 若者の文化は音楽文化ではプロテストソングがおわりをむかえ,「神田川」が流行し、吉田たくろうがかがやいた時代が始まる。 出版の世界では、ストーリーや内容で小説との差のなくなった漫画文化をささえた第一世代でもあった。   少年少女漫画やウオルト ディズニーとは違う漫画、大人の世代を対象とした劇画が登場した。カムイ外伝が話題となり、1968年には今でも続くゴルゴ13がはじまった。時代は漫画が,文化の一部として定着し、かつての詩人や小説家の予備軍,人材が自己の表現手段として、フォークソングや漫画に動きはじめた。




 1972年3月2日号から漫画アクションに上村一夫の「同棲時代」の連載がはじまる。カムイ外伝は教条主義的すぎるし、ゴルゴ13はあまりに007のジェイムス ボンド的で、時代はそれらの借り物ではない日本の日常、ふるい情の世界を日本のその時代のありふれた日常生活を切り出した作品をもとめた。 やがて,その漫画はテレビドラマになり、映画になり、流行歌になり時代の象徴になった。上村一夫はその一瞬の輝きの後夭折した。日本文化の潮流が変わる最初の時代は終わり、その後ガロやゴルゴ13は30年以上も続き、ドラえもんやドラゴンボールは多くの国で読まれ、漫画は市民権を得て、日本文化の象徴にまでなった。