ユーラシア1000年の歴史は2回にわたる歴史的断層を経験した。
13世紀に始まるモンゴル帝国は武力、その残虐なまでの暴力で周りの国々を次々と倒し支配下に入れた。東の端の日本と西の端の西洋はその支配を免れた。
そして20世紀になるとロマノフ王朝を倒したソビエト連邦を中心とした共産主義国家がユーラシア大陸の中央部を支配した。
遊牧社会は馬や羊を飼育し,牧草をもとめて移動した。中国北部からハンガリーまで 7000キロメートルはこの草原が続いている。13世紀バイカル湖の南に住んでいたモンゴル族のテムジンはモンゴル族を纏め上げその長になった。
この地から見る世界は、左側に大興安嶺があり、向こうは遼東遼河の平原がありその先に中華の平原、黄河それよりとおくは南宋。右側にはアルタイ山脈、そのさきにウイグル、西遼、ホラズム帝国それより彼方の西方にイラン南方にアフガニスタン、インドが連なる。
1167年頃みずからが部族の伝説「上天より命ありてうまれたる蒼き狼ありき、その妻なる慘白いき牝鹿ありき。」その子孫としてモンゴル部の一首長の子としてテムジンが生まれる。やがてジンギスカン「二つの大洋の間の全土の帝王」と名乗り草原の天幕の中で壮大な世界制覇の第一歩をふみだした。
人間に差なし、地上に境界なしの思想で中央アジアの北辺のモンゴル族を糾合した。大聖典をつくり、罪を定め、懲罰における連座制をとりいれた司法を徹底させた。信仰は自由にし、聖職者は税を納めることもなくまた兵役もなくした。さらに統治機構を整備し,世襲ではなく首長は部族集会で選ぶ制度にした。家畜や商業による租税は軽くし財政官が担当した。そうして世界帝国へのきばんをつくった。
彼等は乗馬に長け、革製の鎧をつけ、弓を馬上から射る名手であった。それにくわえ軍備の近代化と大量報復の戦略を実行した。帝国の安定と平和維持の目的で敵対するものは容赦なく残虐に殺害した。イギリスの「大年代記」にモンゴル人はひとでなく獣である,血をすする怪物であるとしるされている。
ジンギスカンには4人の後継ぎがいた。長男ジョチはカスピ海の北、ヨーロッパの地でロシアを破り,ドイツポーランド連合軍を破り,現在のロシアから東欧にキプチャク汗国をつくり支配した。キエフ公国は1240年に滅ぼされ、タタールのくびきの時代が1488年まで続いた。
次男チャガタイはアフガニスタやガザフスタンなどのイスラム諸国を支配した。このユーラシアの南の肥沃な三か月地帯地帯をふくむアラブ、イスラム世界はイル汗国の支配下に置かれた。
第3子オゴタイはアルタイ山と天山山地の間を支配し、チンギスハンのあとモンゴル帝国を継いだ。4男トルイ家はその後、東方にある西夏を倒し、万里の長城を超え金を3たび襲い、1215年フビライの時代に北京を落し中国を支配した。
朝鮮半島では1231年以来30年にわたり高麗にモンゴル軍は攻め入り、1260年以降高麗を属国とした。
そして日本には2度の侵攻を試みた。1274年モンゴルのフビライ帝の時代に高麗軍を中心にして3万人軍勢で九州に来襲した。その途中に暴風により撤退した。それが第一回の元寇で文永の役とよばれる。
1279年南宗を滅ぼし、1281年第二回目の弘安の役とよばれる日本攻撃をおこなった。この戦いには降伏した宗の兵士と高麗の兵士あわせて14万人を動員し、その兵を満載した軍艦を使って日本に侵攻した。鎌倉幕府は北九州に防壁を、築き、鎌倉武士もよく戦い、再び暴風いわゆる神風が吹いたためもありモンゴルに征服されることはなかった。
結局13世紀に始まるモンゴル帝国の暴力の支配を免れたのは東の端の日本と西の端の西ヨーロッパだけであった。そして20世紀になるとロシアでロマノフ王朝を倒したソビエト連邦ができ、ふたたびユーラシア大陸は共産主義に席巻される。
1927年2月首都のサンクトペテルブルグで工場の人々が街頭に出て食料を求め「パンを」と叫んでたちまち9万人の人々のデモになった。翌日には
デモの数は膨れ上がり、軍と衝突し、その後軍も反乱し皇帝打倒に向った。
この2月革命で300年続いたロマノフ王朝が倒される。そして自由主義者などエリート層が中心になって臨時政府が作られ権力を握った。この時の革命では共和制もあるいは立憲君主政もありえた。しかしロシア民衆に支持されたのはポルシェビキの率いる共産主義であった。
4月にスイスからレーニンが帰り「人民は平和を欲している。人民はパンを欲している。人民は土地を欲している。」この過激な主張ははじめの頃は一部の賛同しかえられなかった。しかしレーニンは一貫してこのスローガンくり返し、広め、民衆の支持をあつめ、11月にはソヴィエトの名で権力を奪取した。翌年ソヴィエト社会主義連邦共和国ができた。
ロシア革命でロマノフ王朝時代のポーランドやフィンランドなど東ヨーロッパの多くの土地をなくした。 その後、第二次大戦でかつての列強が凋落し,ソヴィエトという軍事大国が独裁指導者スターリンのもとユーラシア大陸の中核地域の資源を支配し、さらにその周辺地域にまで拡大した。
ヨーロッパではポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、アルバニア、ブルガリアがソ連の同盟国となった。
中国は清帝国が滅びた後、一時共和制になった。その後軍閥の乱立と日中戦争により混乱が続き、戦後ようやく毛沢東が政権を取り中華人民共和国を建国した。韓半島の北半分は朝鮮民主主義人民共和国、東南アジアではベトナム、ラオス、カンボジアに共産党政権ができた。
レーニンの手法は中央集権の一党独裁制度と情報統制による表現の自由の制限。土地の私有は禁止され、経済的は計画経済であった。それが後にスターリンによる独裁政治のもと、軍事力を強化し、ユーラシア大陸の多くを支配することになる。
結局70年後ソ連などの共産主義のシステムは崩壊した。エリート官僚の特権と硬直化、さらに防衛費の過剰が誘因となった。そのため経済が低迷し、生活の水準の低下と平均寿命の低下、乳児死亡率の上昇をきたした。そしてエマニュエール トッドの予想通りソ連は崩壊し、共産主義の世界は終了した。現在残っている国は世襲制で3代目になる金王朝(朝鮮民主主義人民共和国)のみとなった。ソ連はロシアと東欧諸国、大統領制のイスラム諸国そしてアジアは資本主義の中国,ヴェトナムになった。中国とロシアはふたたび大国になる努力をしている。周辺の国々はこの力のバランスの変化に対応しなけらばならなくなっている。
共産主義国家の広がりはかつてモンゴル帝国の支配した領域とほとんどかさなりあう。モンゴルの支配から西の端西欧と東の端の日本が免れたのは地政学的僥倖に恵まれたことそして指導者の気まぐれによる。
そしてソ連の共産主義化はやはりユーラシア半島の西と東の端の民主主義国家の防衛力と共通価値をもつアメリカを中心とした自由主義国の理念と経済力と国民の選択によって防がれたことになる。