2019/11/23

災害は予想できるのか


 家のつくりやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住まひは堪へがたきことなり。深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、はるかに涼し。細かなる物を見るに、遣戸は蔀の間よりも明かし。天井の高きは、冬寒く、灯暗し。造作は、用なき所をつくりたる、見るも面白く、よろづの用にも立ちてよしとぞ、人の定め合ひ侍り

                    徒然草       吉田兼好

 


 日本は古来から、夏の高温多湿な気候が、豊かな植生をもたらしていた。日本列島は、急峻な山岳地帯が複雑に入り組み、川は狭く急流が多い。火山活動や地震で急な斜面の地形が出来上がり、多量の降水によって、山が崩れ、今の日本の景観を作り出している。  それゆえ地震や火山活動だけでなく、古代から水害は日本の各地で頻発していた。治山治水は政治上の重要課題で、統治者は川を治め、植林し保水により洪水を防ぐべく多大の労力を注いだ。

 12世紀に入ると、樹木の年輪の解析から推定されるように、急激な寒冷化と温暖化が繰り返して起きた。鴨長明が暮らした、平安朝の末期には災害が頻発し、飢饉も繰り返し起こった。1212年(建暦2年)貴族社会が崩壊し、災害も頻発したこの時代の大火、地震、大嵐など多くの災害の事実を鴨長明は記録し、随筆に書き残した。14世紀はやはり、出家遁世した吉田兼好も日本の夏の暑さを記録している。
 
 江戸時代の初期から中期にかけて、森林の伐採や、新田の開発が進み、森林は荒廃した。岡山県では承応3年の備前大洪水に見舞われ、多くの死者を出した。その時の藩の執政をになったのが熊沢蕃山で、 蕃山は、山川は天下の源なり。山は川の本なりとして、100年の仁政によって、もとの山川に戻ると説いた。保水力の強い杉やヒノキを植林し、森林を再生し、雨水を涵養するように植林を実行した。そして寺社などの建築を制限して、森林の伐採をやめ、新田の開発も制限した。こうして山の保水力を回復し、河を改修して水害を防いだ。

 その頃、幕府も新田の乱開発を中止する「山川掟」を出した。そもそも幕府の中心、江戸の町は利根川の流れを変えた、治水工事の賜物であり、濃尾平野も江戸時代に薩摩藩が多大の犠牲者を出して、堤防をつくった。この輪中には敷地を高くして、倉や土蔵を作り、2階には水害時の船を据え付けるところもあった。日本全国の河川は、堤防を整備し洪水を防ぐことが地域の生存に必須の課題であった。水害に対して、昔から人々は、山を治め、河を治め、避難所をつくり、洪水用の船も用意した。

 明治時代に入り、オランダ人の土木建設技師などの新しい技術によって、多くの河川の改修工事が行われ、川の流れを直線化し堤防も強固にされた。戦後になると、山林の杉なとの人工植林は、大規模になされたものの山林の管理は不十分なままで、また住宅地の開発も過去の災害に関係なく、次々と広げられた。
  21世紀になると、以前に経験したことのないの熱帯の豪雨のような短時間の強い雨に遭遇するようになる。そして、土木工事の技術の進歩により、水害は防ぎうると安心していた時期に再び水害が日本の全土で起こった。気候はランダムに変わるものの、2000年以上の間、気候の変動はほんのわずかの変動の間で上下し、極端な振れ幅はなかったと言える。
21世紀に入り、異常事態が当たり前となった。この災害リスクは正規分布の中央に近いものであれば対応できる。しかし、正規分布の端の出来事、今まで起こったことのない気象の変化、100年に一度の異常気象が常態化すれば、国土計画を極端な災害に対応するように再編が必要になる

 今年の秋、規模の大きなカトリーナの台風が関東から東北地方を襲い、広範囲な地域、阿武隈川や千曲川の堤防決壊を多発させた。
 今後台風、ハリケーンそしてサイクロンともに海水温の上昇、地球温暖化によりますます巨大になることが予想され、ますます高頻度に世界の各地で水害が起こる確率は高まってきた。しかし、これが日本のどこにいつ、どのくらいの規模で起こるかは予想ができない。確実なことは、今後は、地球温暖化によって、気象災害は過去の歴史にはなかった 激烈さになることである。 
 1959年の伊勢湾台風や1959年の第二室戸台風は5000人以上の死者を出した。これらは、海上では猛烈な気圧の低下と暴風雨は上陸時には、勢力はかなり衰えていた。しかし、当時の防災能力では、気圧低下と暴風による高潮で多大な被害が出た。

 今年の台風による雨と風広範囲の持続する降水量の量は、現在より地球上の平均気温が4度上昇した時の台風によってもたらされる強度と一致することがコンピューターのシミレーションによってわかった
 21世紀になってから、過去の巨大な台風を上回るスーパー台風 中心気圧は890ヘクトパスカルを記録した2013年のフィリッピンに上陸した台風ハイエンがある。アメリカのハリケーンもカテゴリー5といわれる風速59メートル以上のカトリーナなどの巨大なものが多発している。 昨年の関西空港の水没や、今年の広範囲の長時間の豪雨をもたらしたのは、日本の近海の海水温が低下せず、台風のエネルギーが南海上と同じ強度のまま上陸し、今までの想定以上の災害となった。

 人は、未来は過去と同じようになると想像し、対応する。そのため未経験のことが起こる可能性を軽視する傾向がある。しかし、地球規模で起きている温暖化の影響で、今後、災害の規模は大きくなり、リスクが高まったことは確実になった。しかし、対応に困るのは、このリスク予想が完全にはできないことです。風速は最大何メートルになるのか、降雨はどのくらいまで激しくなるのか、その結果河川の増水がどの程度で、高波は最大何メートルになるのか。これがどこに、いつ起きるのかといったことの予想は今の所不可能です。
  今年の企業の成長に最も脅威をもたらすリスクとして、 サイバーセキュリティーや保護主義より、気候変動リスクをあげた企業が最も多かった。 異常気象がニューノーマルとなれば、屋外の作業を減らしたり、屋外スポーツも制限され、工場の立地や流通を変えたり、住居の移転や災害に強い都市を作ったりする必要が出てきます。しかし、最悪を予想して万全の対策をとるのには膨大な費用と労力が必要になります。

 今後は、最適な防災対策を実行するとともに、すべての国が地球温暖化を防ぐ低炭素社会に向かうことが重要になっています。

2019/10/14

「アンドロイドは電気じかけの羊の夢を見るのか」と「私を離さないで」

 「アンドロイドは電気じかけの羊の夢を見るのか」の物語は、主人公のリック デッカードが、気分を調整するムード オルガンを枕元に置いて、目覚める場面で始まる。リックは火星から逃亡し、人間の中に潜伏しているアンドロイドを破壊する仕事を請け負った賞金稼ぎで、この仕事でお金を貯め、昔のように本物の羊を飼う夢を持っていた。今は、死んだ羊の代わり電気じかけの羊を飼っている。
 
 核戦争により、地球上には、生きた動物も、生き残った人間も少数となり、さらに地球上に生き残った人間も適格者の人間と、生殖を許されない特殊者に分けられ、人間そっくりに作られたアンドロイドが地球の外でも働いていた。アンドロイドは、しだいに精巧さを増し、ほとんど人間との区別がつかなくなっていた。そのアンドロイドが火星から逃げ出し地球上に紛れ込んできた。

 このアンドロイドを破壊するためには、人間と識別することが必要になる。それは、人間の感情移入の能力、共感能力が試されるテストをして、感情と共感性の無いアンドロイドと人間を見分ける。アンドロイドは成長した過去を持たない、そのため過去の子供時代の記憶をつくり、それをセットする。アンドロイドはしだいに進化し、人間に近くなり、自分は人間だと思い込むアンドロイドもできる。
 

 人間とアンドロイドを峻別するのは、生物が50億年の進化の過程でつくりあげた子孫をつくり、生存するシステムで、遺伝子のAGCTの連鎖からたんぱく質をつくり、体をつくり、子孫を残す、この過程で感情が生まれた。ここが機械との根本的になる。この物語は、アンドロイドの性能が進化し、人間と外見上は区別がつかなくなり、どこかで、人間的な感情を持つようになれば人間と区別できないことになってしまい、そして、人造のレプリカが子孫をつくれるようになる世界を描いている。

 地球上で適応進化した動物が動物らしく見えるのにはいくつかの根本原理がある。すべての臓器は次第に成長し、協調して活動をする。 筋肉はしだいに強くなり、正確な運動で、手と足、さらには体全体を使って、相手を追いかけ、捕食し生きていく。地球上の荒れた地面でも走り回れなかったら、敵に捕食されてしまい生き残れない。
 機械は、ほとんどの場合平坦な面を進み、荒れた地面でもキャタピラー型の車輪が有効で、足は必要ではなく、車輪が目的にかなっている。ロボットが他のロボットに捕食される事はなく、進化の過程で得られた4足の歩行を真似たロボットは複雑になりコストが高くなってしまう。
 このように、ロボットと動物や人間は全くシステムが違い、目的が違って出来上がっている。 しかし、この全く異なるシステムが急速な機械の進歩で、動物や人間の動作そのもの、あるいは、話しかけたり、ほほ笑みかけたり、共感を示したり、歩き回ったりすることができるようになり、人間に近いアンドロイドとなり人間と共存する世界が近ずいてきました。

 人の声の機械による再生はすでに、完成に近くなり、世界中で、有名な歌手、台湾ではテレサ テン、アメリカではプレスリーの再現が試みられ、今年、日本で、美空ひばりが新しい曲を、AIで歌い、その姿も3次元画像で作り出され、かつての多くのファンや近親者は、その曲に感激した場面が放送されました。
 現在、AIによる声や歌は、もはや実在する人の声や歌との区別がつかないまでに進歩し、フェイクニュースを語らせる時代になっています。

 一方、未だ幾らかの気味の悪さを残しているものの、人間の姿形や動作を酷似させる技術もますます精巧になり、様々なヒューマノイドロボットがつくられています。人間の体を3Dカメラでスキャンし、それにそっくりの体を作り、個人の顔の筋肉を模倣して、感情、喜怒哀楽を表現させる技術で、顔で感情表現をすることが可能になってきました。
 現在、ロボットに感情を持たせたり非常に本物らしい表情をするロボットが香港で開発され、ソフィアとなずけられ、ファッション雑誌で紹介され、サウジアラビアで市民権が与えられる時代になりました。日本でも夏目漱石や実在する俳優のアンドロイドが作られました。技術の進歩はとどまることはありません。どこかでこの両者がかさなりあい生存への欲望、好奇心とか憧れを持つ心を持ったアンドロイドが開発され、ブレードランナーの世界は現実のものになるかも知れません。

 アンドロイド登場すれば、人間とは一体何者かが問われることになる。すべての人間は他者とは異なり特別な存在であり自分なりに考え、感情を持ち他者への共感力を持った存在であり、かけがいの無い存在として生まれてきたものなのか。この人間と非人間の境界はどこにあるのか、そして人間的感情を持った存在との違いは何か。来るべき、近未来はどんな世界になるのか。

 1996年、羊のドリーが遺伝子操作誕生により、技術的には人間でもこのクローン化の実現する未来が近いことが明らかになった。カズオ イシグロ はこれをもとに小説で、遺伝子操作によるもう一人の自分、クローンと共存する世界「私を離さないで」を描いた物語を2005年に出版した。

 物語はキャッシーの子供時代の回想、イギリスの田園の施設を舞台にどこにでもある少年少女のノスタルジーで始まる。やがて、彼らは臓器提供者として、人工的に世に産み出されたクローン人間であることがわかる。この人工的に生まれた人たちの、感情や揺れ動く心と過酷な未来をキャッシーが語る。この世界では、結局激流があまりに強すぎて、それに逆らうことが出来ず、握り合った手を放し、別々に流されてしまう運命の「人びと」を静かに描いている。

 現在クローン技術は、さらに進歩して、羊から始まり、ペット犬、そして、クローン猿までも生み出されている。


2019/09/01

芥川龍之介のアバター小説 Xと云う患者






   水洟や鼻の先だけ暮れ残る              
                               芥川龍之介


 散文は説明的で、文は外へ拡散する。そして、言葉をつらねて秩序だった物語を組み立てる。 絵画は様々な色彩の絵の具を使って額の中に世界を描く。詩は閉じた空間で、言葉がたがいに響きあう。
 この絵画的手法で短編の物語を彫んだのが芥川龍之介の小説で、  作品の額は西欧文学のアナトールフランスや、象徴詩人ボードレールなどで縁どられ、題材は平安時代の今昔物語、宇治拾遺物語、中国の古典、聖書など世界の古典で、これを使って、日本的タペストリーを近代的手法で織り上げた。そして多くの国で翻訳された。
 芥川小説を素材とした新しいコラージュ小説、英語で書かれた小説、「Xと云う患者」がデイヴィッド ピースによって作られ、黒沢敏行翻訳で日本語版が出された。


 「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度明方なのでございましょう。」で始まる、芥川文学の代表作「蜘蛛の糸」の文章を原文でほとんどそのまま使って構成した「糸の後 糸の前」。

 芥川龍之介の生い立ちを、芥川龍之介自身を物語の中で描いた「地獄変の屏風」。「2度語られた物語」では自我の分裂を「文章」などに登場する主人公の堀川保吉という第二の自我、分身をつくり、その中で彷徨する芥川龍之介を描いた。
 さらにはキリストを題材とした「黄色い基督」は斉藤茂吉と芥川龍之介と菊地寛の長崎旅行中の物語で始まる。「奉教人の死」「おぎん」など長崎の浦上での基督教徒の迫害を素材にした、キリスト教の少年信者の物語。日本のキリスト教信仰の歴史は誤解の連続ではないかと語るイギリス文化的日本の基督物語となった。
 さらに毎日新聞特派員で訪れた上海を舞台にした「戦争の後、戦争の前」。「キリストの幽霊たち」では歯車を素材にして新たな物語を生み出した。随所に芥川龍之介の文章をそのまま残し、物語の人物や実在の作家たちを小説に登場させ、現実と虚構を取り混ぜた世界を生みだした。



  作家のように考え作家のように話をする、そんなタイプのロボットができるのか。現在、生きていた時の記録を読み込ませ故人のチャット ロボで、その人の分身をつくることができる。 言葉は人格であり思想である。そのためには文章の表層ではなく、の文章を組み立てる発想や物の見方、いわゆる思想を機械に学習させる必要がある。

 この人格を持ったロボットを芥川龍之介のアバターを創り出す発想で、小説家芥川龍之介自身とその作品を組み合わせた、新しいタイプの小説がイギリス人作家デイヴィット ピースの小説「Xと云う患者」だった。

 難しいのは、人の心は単純ではなく、分類し難く、また時代によって変化することである。文芸作品についてもその様式、言葉とそれから生まれる隠喩や、諧謔、皮肉をどのように解釈するかが問われることになる。

 ヨーロッパでは19世紀末に自然主義と浪漫主義を産んだ。明治時代の小説家が、この西欧文化に出会い、ヨーロッパの文化に憧れ、それを至上のものとした。日本でも形式主義の小説に飽き足りなくなった人々は事実を、人間社会の真実を小説に描いた。やがてこの写実が日本では心境小説、私小説になってしまった。一方理想主義の白樺派もまた日本の現実から離れた理想の世界にこもってしまった。

 この時代、都市は近代化し、文化もより自由なモダーンな時代になった。明治の日本文学の後の大正時代を代表する作家芥川龍之介は新思潮、モダニズム文学の旗手として登場した。 

 「或る日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、きりぎりすが一匹とまっている。」
 平安時代末期、ききんで都も餓死した死体に溢れていた。その間を盗賊や餓鬼が横行する代表的作品「羅生門」と「藪の中」そして、仁和寺の和尚の「鼻」や「芋粥」。
 そして中国を舞台にした「杜子春」あるいは江戸時代、あるいは長崎を舞台にしたキリシタン物語と時と時代を変えて、人間の心理を、善と悪を華麗な文体で、「芭蕉に及ばなかった、芭蕉に近いある詩人の慟哭」を俳句や和歌ではない短編の物語で小説化した。 その底流には、生きる本能、このエゴイズムのほかに真実を見いだせぬ厭世主義があった。


「茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の翻った上には、もう風に吹かれた落花が点々と幾ひらもこぼれている。」

 文芸は文章に表現を託する芸術なりとした芥川龍之介の文章は緻密で細心であった。そして、文体はフランス文学の強い影響を受けたものの、西行や芭蕉の美意識の世界が底流にあった。その短編小説は、抒情詩や象徴詩に近いもので、その文体はむしろ日本の古典のしらべを近代化したとも言える。
 
「無数の眼はじっと瞬きもせず、三人の顔に注がれている。が、これは傷ましさの余り、息を呑んだのではない。見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。」その時おぎんのはっきりと意外な言葉を捉えた「わたしはおん教を捨てる事に致しました。」

 基督教のエキゾチックな側面にひかれていた芥川龍之介は、「奉教人の死」でイエスキリストの御血潮より赤い、火の光を一身に浴び、殉教したろおれんぞを描いた。「おぎん」では三人が棄教し、悪魔にさらわれ、堕落する情景、日本の殉教者の心の内と、民衆の心の酷薄さを浮き彫りにした。

  また「神々の微笑」で現実との激しい闘争から生まれた政治哲学の老子、や儒教の教えも、転生輪廻する世界と諦観の仏陀の教えも、また現実を拒否し永遠をめざすキリストの夢も、すべては二千年の歴史のうちに、美しい風景と温和な気候のうちに、静かにのみこまれてしまう宗教の日本化、土俗化の問題を取り上げている。

 ヨーロッパでは1920年代アヴァンギャルドが流行し、日本でもその影響が現れてきた。 芥川龍之介の作品は古典の換骨奪胎、コラージュの手法を用いた、新しいタイプの小説、モダニズム小説として受け入れられた。
 一方、プロレタリ文学が20世紀になって世界的流行となった。彼らは人生を、社会をそして生活し生産する立場の人々を描くことが文学であるとする潮流で、日本でもこれが文学作品で力を持ちはじめた。 

 しかしそれは脳の中の組み立てられた物語であり、一つの流行の商品であって、世界の現実や真実を、人間を描いたわけでは無かった。
 これは後の時代に、ようやくわかることであった。この重圧に対して、開き直ることをしないで、 芥川龍之介は、しだいに私小説の形を取り入れたフィクションを創作するようになる。大導寺信輔の半生、或阿呆の一生や歯車で、自分自身を題材とした物語を創作する。
 
 夏目漱石は「死ぬか、気が違うか、それでもなければ宗教に入るか。僕たちの前途にはこの三つのものしかない」と書いた。この文字通りの芥川龍之介の心の彷徨を「基督の幽霊たち」で物語にした。実の母親と同じ運命、狂気への恐れを、自らをキリストに重ね合わせ、天上への高みに向かう願いと、日常にある永遠に守ろうとするマリアの世界への憧れを、そして、書くことの価値を信じ、言葉の力を信じ、芸術を通じた救済を信じようとしたことを。


 最終章「事の後、事の前」は「高名な作家、芥川龍之介氏 田端の自宅で自殺す」で終わっている。一瞬の閃光を、紫色の火花を命と取り換えてもつかまえたかった芥川龍之介は、 或る阿呆の一生で「人生は一行のボードレールにも若かない。」と書き残し35歳で亡くなる。



   

                     

2019/08/01

たそがれの平安京と西行




 平安時代は藤原一族が、娘を天皇の妃とし、朝廷での権力を握った。そして政府の要職には貴族がついた。皇室は古来からの宗教的指導者としての権威を保ち、平安時代後期には、事実上の権力は、天皇を退位した上皇が握り、院政と呼ばれていた。


  若き北面の武士西行は藤原実能に仕えていた。その妹待賢門院璋子が鳥羽天皇の皇后になる。当時、白河法皇は日本を支配していた。自らは上皇となって院政を行い、堀川、鳥羽、崇徳天皇の43年間にわたり実権を握った。その力は絶大で、鴨川の水、すごろくの賽 、山法師以外は意のままに、世に君臨し、日本を動かしていた。白河法皇のもとで、幼い頃から育てられたスキャンダラスな待賢門院璋子がその後の時代を動かすことになる。鳥羽天皇のもとに嫁いで皇后となった璋子は第一皇子の崇徳天皇、第4皇子の後白河天皇をもうけた。この二人の間の確執がのちの保元の乱を起こす。

 当時の平安京は人口10数万人、日本の人口は600万人くらいであった。平安末期は、全国的に飢饉が起き、地方では海賊や山賊が跋扈し、京の都も餓死者があふれていた。しかしこの民人の困窮にかかわらず、都の貴族世界は退廃的で柔弱な内向きの世界に陥り、日々を送っていた。

 西行は鳥羽法皇に北面の武士として仕え、その法皇の妃となった17才年上の璋子と出会う。身分の違いからか、やがて二人は別れ、西行は憧れの人璋子を終生熱愛し、多くの歌を作っている。

 知らざりき雲居のよそに見し月の かげを袂に宿すべしとは

     (雲のかなた上の月に恋をして、その面影を袂に落とした涙に映すとは)

当時、家富み、年若く、心に愁いない西行が23才の若さで出家する。

 世中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我身なりけり

  鳥羽法皇の死により天皇家と藤原摂関家が分裂し相争い、陰謀渦巻く中、崇徳天皇派と後白河派の衝突、保元の乱が起こった。慈円の愚管抄に「鳥羽院うせたまひしのち、日本国の乱逆という言葉起こりてのち武者の世になりにけるなり」と書かれたように、 武力をともなう権力は次第に地方の名門武士、瀬戸内海地方に勢力を持っていた平氏一門に移っていく。平清盛は、多くの荘園を持ち、日宋貿易で経済力をつけ、さらに強大な武力を持っていた。
 保元の乱で平清盛は、功績を挙げ、国司の頂点である播磨守になり、敗れた崇徳天皇は讃岐に遠島となった。続いて起こった平治の乱以降、清盛が武力闘争の覇者となった。そして太政大臣まで官位を登りつめ、平安時代初期藤原氏が行ったのと同じ方法、すなわち娘を皇室の妃として、朝廷の支配権を握った。

 30代に高野山の草庵に住み、吉野に出かけた西行は、和歌を通して、空海の真言仏教の世界に没入する。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思い続けては秘密の真言を唱ふるに同じなり。

 初花のひらけはじむる梢より そばへて風のわたるなりけり

  (ひらきはじめた桜の花の梢に、すでに無常にも、花の散るときの風が吹き渡る)

 西行39才の時、保元の乱が勃発する。その乱で遠島になった崇徳院は46才で、恨みを抱いたまま讃岐の地で没する。江戸時代の小説雨月物語「白峰」に西行が崇徳院の墓をたずねる場面がある。墓の前に、異形の悪霊が現れ、恨みつらみを語り始める。「かの仇敵ことごとくこの前の海に尽くすべし」と呪詛の言葉を唱えた崇徳院に対して、これを諌めて金剛経を読み、院の霊を供養した物語であった。

 西行は崇徳院の死後、数年して四国行脚の旅に出た。白峰の崇徳院陵、弘法大師の生まれ育った足跡を辿った旅をした。その後、源氏と平家の戦乱を避け、63才にして伊勢二見浦の草庵に住む。平家は清盛の死により没落し、やがて壇ノ浦で滅亡する。日本全土に渡る平家追討の戦いに勝利した頼朝は、幕府を鎌倉に開く。
 この頼朝に、69才になった西行は鎌倉で拝謁した。その後、陸奥国平泉に向かう。当時平泉は独立王国で奥州藤原氏が支配し、後に、義経はその下で庇護された。鎌倉幕府はこの奥州平泉と対立し、義経を自害させ、その後頼朝は大軍で平泉を攻め藤原氏を滅亡させる。

  とりわきて心もしみてさえぞ渡る 衣河みにきたる今日しも

 40年余りの出家の間に、過去から今に渡る自らの選んだ道を思い、戦乱の世に儚く死にゆく同族の多くの人々の思いに心めぐらせ、万感の想いを込めた心情を歌にした。
 
 当時は和歌が文章であり思想であり感情の表現だった。さらに、西行にとっては仏道に入る仲だち、法門を悟る便りであった。
 
 晩年西行71才の時、明恵に出会う。明恵は16才の時出家し、西行に和歌の奥義をおそわる。「我が歌を読むは、遥かに尋常に異なり、華 郭公 月 雪 すべて万物の興にむかひても、凡そあらゆる相皆是れ虚空なること」「自分は花を詠んでも実は花と思うことなく、月を詠じても実は月とも思わず、ただ縁にしたがい興のおもむくままに歌っているにすぎない。美しい虹がたなびけば虚空は彩られ、日光が輝けば虚空が明るくなるのと同じである。自分はこの虚空のような心を持って、種々の風情を彩っているといっても、あとには何も残らない」
 明恵は18才より仏道に専念し、翌年には夢の記を書き始める。後に、高山寺の中興の祖となる。

 ながきよの夢をゆめぞとしる君や さめて迷へる人をたすけむ    
                                 明恵


 日本の美意識の源となると歌を詠み、桜を歌った西行は、後鳥羽上皇が、西行を生得の歌人と高く評価し、自ら編纂した新古今和歌集に多くの作品を取りあげた。 西行の一生は、戦乱の世に生まれ、多くの親しい人の死にめぐり合い、生涯旅を友とし、遁世者の栄華を極めた。その歌とその生活は後の世に大きな影響を与えた。


 ともすれば月すむ空にあくがるる 心のはてを知るよしもがな



願い通り、桜の花の下、きさらぎのもちづきのころに亡くなる。西行73才の時であった。

2019/07/14

花火、 西東三鬼の俳句






    暗く暑く 大群衆と花火待つ

                          西東 三鬼

    遠花火 海のかなたにふと消えぬ
                         長谷川 素逝



 西東三鬼は「昭和17年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。」で始まる神戸物語を発表する。トアロードの安アパートは、日本人のほか、ロシア人、トルコ人、エジプト人や台湾や朝鮮の人たちが生活を送る。多くの外国人との生活を戦時下の神戸の街を舞台に物語を描き始め、戦後の混乱期の神戸の街の異邦人の生活を実録風につづり戦後の昭和29年「俳句」に連載を始めた。


      水枕 ガバリと寒い海がある


 西東 三鬼は明治33年(1900年)生まれ。同じ年に詩人の三好達治が生まれている。歯科大学を卒業後大正14年(1925年)シンガポールで開業。昭和13年歯科医をやめ、無季俳句、新興俳句を作る。
 高浜虚子のホトトギスと対決する俳句の勢力、新興俳句運動が昭和10年代に起ってくる。
昭和3年(1928年)に虚子は「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四季の移り変わり依って起る自然界の現象、並びにそれに伴なふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」それに反対し秋桜子が馬酔木をつくり、その新興運動を推進した。

 大正14年の震災以降、昭和に入り日本は大国の道を目指すも前途は混迷し閉塞に陥っていた。それを打破するために日本では新興財閥、新興仏教、新興科学などがブームになり、モダニズムとマルキシズムが日本を席巻した。 昭和12年(1937年)日中戦争始まる。それに対して、この強烈な現実こそは、無季俳句本来の面目を輝かせる絶好の機会だとして、三鬼等は、戦争をテーマの俳句に熱中した。


       兵隊がゆく まつ黒い汽車に乗り

       兵を乗せ  黄土の起伏死面なす

       機関銃 熱キ蛇腹ヲ震ハスル       

 

 昭和15年(1940年)京大俳句事件で逮捕された。

 昇降機 しづかに雷の夜を昇る の俳句を、「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が昂揚する」という意味で新興俳句は暗号で同士の間の闘争意識を高めていたという。治安維持法違反であった。翌年、昭和16年(1941年)12月7日真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる。



      
      
 長谷川素逝は明治40年(1907年)生まれ、昭和12年(1937年)に召集され、14年(1939年)戦場の句集「砲車」を刊行。高浜虚子は序文に「素てつ君も其後砲兵中尉に昇進したのであるが、不幸にして病を得、今は内地に還送されて居る。然も支那事変は有史以来の出来事であり、その事変の俳句における一人者であり得たといふことは以って自らを慰む可きであらう」

 中国戦線で、中国大陸上陸後南京に方面に転戦し、揚子江で雨と泥濘の中敵前上陸、南京陥落後、徐州戦線に参加、多くのうたを詠む。その後、昭和17年(1942年)日本文学報告会ができ、俳句部会の会長は高浜虚子で、国民詩としての俳句本来の使命を達成し、俳諧報国を念ずるとした。当時、俳句部会には入会申し込みが殺到した。

      
      夏灼くる 砲車とともにわれこそ征け

      かをりやんの 中ゆく銃に日の丸を 

      おほ君の み楯と月によこたはる       長谷川 素逝


 戦後「定本素逝句集」には「砲車」の中の「しづかなる いちにちなりし障子かな」などの3句以外は消去した。

      寒燈の 一つ一つよ国敗れ


 戦後、西東三鬼は、終戦を神戸で迎えた。終戦とともに、米軍の艦載機が空から捕虜たちに慰問物資を投下し始めた。米国軍は、フイリッピンから移動し、和歌山から神戸にも進駐軍としてやって来た。水道工事の仕事をしながら、再び俳句を始めた。

     広島や 卵食う時口開く

昭和29年(1953年)から「俳句」に「神戸」「俳愚伝」を、天狼に「続神戸」を連載する。「俳愚伝」は戦前の俳句弾圧、京大俳句事件の様相を描いて当時の日本の文化統制の記録となっている。

     中年や 遠くみのれる夜の桃

     おそるべき 君等の乳房夏来る 

 西東 三鬼は、昭和17年東京を去って神戸に住みつき、戦前、戦中、戦後の14年間、神戸を中心に、関西の地で暮らし、多くの句を残した。






2019/07/01

上皇の夢 実朝の歌





  昨日まで 花の散るをぞ惜しみこし 夢かうつつか夏も暮れにけり

                                  源実朝


 聖徳太子は律令制度をつくり、それを支える中心の思想に仏教をすえた。この世界の見方が定着し、社会を安定させ、日本社会はその世界観で動かされていた。そこにさらに日本古来の正直と道理を守る考えが加わって、日本は神と仏の加護の下で暮らす社会であった。
 平安時代も京の都の天皇を中心とした貴族が日本を統治した。彼らは仏教の世界を信仰して暮らしていた。平安末期になると律令制は綻びきたし 上皇による院政になって、仏教では末法思想が広がる。滅びつつある平安朝に権力を握ったのが後白河上皇でそれを武力で支えたのが平清盛であった。後白河上皇とその姻戚で、京武者となる平清盛が天下人として君臨した。清盛は後白河上皇の権威を借り、勅命絶対の思想のもとに、地位を極めた。

 遊びせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺がるれ

 後白河上皇は若き日々、当時のモダーンな、今様をうたいその世界に没頭した。
後白河上皇は、漢詩や和歌などの文芸にも秀で、音楽や儀礼に通じ、蹴鞠の達人であった。平清盛は、武家として初めて権大納言に昇進する。その後、上皇は平清盛とは敵対し、平家を滅亡させる。

 
 平家滅亡の後、鎌倉幕府を源頼朝が開き、後白河上皇の死後、征夷大将軍になる。朝廷は後白河上皇の孫の後鳥羽上皇が権力者となる。
 後鳥羽上皇は才能に恵まれていた。朝廷で和歌を主宰し、正当な王であることを示す「新古今和歌集」を編纂した。和歌だけでなく、琵琶をも演じ、武芸を得意とし、蹴鞠にも長けていた。日々、馬に乗って弓を引き、川をおよぎ、山で狩りをし、礼楽の思想によって朝廷の権威を高めた。

 源頼朝は実朝8歳の時亡くなると、その後鎌倉幕府は陰謀と暗殺の渦巻く世界になり、公武の対立、教団の勢力の増大そして、そのそれぞれが党派に別れ、抗争していた。その混乱の中、源実朝は三代目の将軍になる。
   
  大海の 磯もとどろによする波 われてくだけてさけて散るかも

 

 この頃になると武士がしだいに力をもちはじめ朝廷は力を失いつつあった。後鳥羽上皇は源実朝との良い関係を保ち、公武の合体を進め、子供のいない実朝が退位し、後見人になり、京の天皇家が幕府の後継将軍にする策を進めた。実朝は異例の速さで官位を昇進し、瞬く間に右大臣となった。
 名実共に若き指導者となった 源実朝は、鶴岡八幡宮の拝賀の夜、二代将軍頼家の遺児、甥の公暁に暗殺される。この暗殺は歴史を大きく変えることになった。幕府内は悲しみと動揺が広がり、主の死を哀傷し、翌日には百余人の御家人達が出家し、公暁の近親者は処罰され源氏の血族は滅亡した。

 出でて去なば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

 源頼朝が暗殺されると、京と鎌倉のあいだに確執が生まれ、 自らの力をたのむ後鳥羽上皇が執権北條義時を撃つ命を発する。それに対して関東の武士は反撃し、承久の乱が勃発する。

 この頃から、西欧中世の騎士道に似た武士道の源流が見られる。武器を持ち、自立した彼らにとって、最も大切なものは武人の誇りと主従の契りである。天皇に従うべきか、忠臣の道を選ぶかを問われた時、忠臣の道を選ぶ。そして有徳者こそ君主になるという思想で、天皇や上皇でも天道に反すれば統治者の資格を失うという思想であった。

 承久の乱では、後鳥羽上皇の北条義時追放の令に対して、関東武者は鎌倉の武家の棟梁のもとに集まり、三代将軍のご恩を忘れず、京に向かって軍を進めた。いかに天皇の命令が重いといっても、主従関係に従わないのは弓馬の道に反すると多くの武士は考えた。

 承久の乱で関ヶ原の戦いに匹敵する天下分目の戦いは、関ヶ原から東へ30キロほどの、木曽川西岸の地で行なわれた。当時の京都文化はこの地にも及び、今様の歌い手、傀儡子と言われた歌舞集団はここから、後白河院院のもとに召されていた。この木曽川の西岸、墨俣の地(現在の大垣市墨俣町)はかつて、木曽川、長良川、揖斐川や中小の河川が、洲股(墨俣)で合流し大河となり伊勢湾に合流していた、この地が渡川場で、源平の合戦以来、東西の境になる要衝であった。ここに上皇軍は陣を構え、1万9千人の軍勢で19万人の東軍を迎え撃った。西軍は山田 重忠の奮闘及ばず、海道大将軍 藤原 秀澄は墨俣の陣から2日で撤退した。その後京都の近くの瀬田川の戦いに勝った幕府軍、東軍は京の都に押し寄せ、京都市内の戦闘で承久の乱は幕を閉じた。


 聖徳太子の律令制と仏教に裏ずけられた権威の物語は綻び、消滅した。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に流され、京の都の朝廷の世界が関東の武士の世界にとってかわられる。鎌倉幕府は、北条泰時が将軍職にはつかず、執権となり複数の指導者体制をとり、武士の精神を法律とした「関東御成敗式目」を定める。

 

 後鳥羽上皇は、現在の島根県の美保関から、船で隠岐の島の海士町に流された。この美保関から、天気の良い日には隠岐の島が見える。隠岐の島は一番大きな島後と島前と呼ばれるより本土に近い小島に別れる。上皇はこの島前と呼ばれる小島の海士町に少数の付き人とともに暮らし、和歌の世界に没頭し、「隠岐本新古今和歌集」などを編纂した。時々使者が京から訪れ、それを京の人々に届けた。その後京に復帰することなく隠岐で60歳の生涯を閉じた。

 我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 心して吹け

 文人であり侍であった右大臣実朝は暗殺され、和歌が残った。後鳥羽上皇の遠島により日本は武者の時代になり、明治維新まで続いた。




 * 承久の乱の戦場となった木曽川、墨俣川(現在の長良川)の西岸は壬申の乱以来幾たびも、東(坂東)と西(京)の勢力が激突し、戦場となった。壬申の乱では、671年大海人皇子(天武天皇)が自分の領地安八磨郡の地で、大友皇子軍を撃ち破った。墨俣町の不破神社にこの神社の神が娘に化身した大海人皇子を助けたとの伝説が残る。


 墨俣川の戦いは1181年(治承5年)平の清盛の5男、平重衡が総大将で東に向かい、この川を渡ってきた源義円(義経の兄)を倒した。1338年の青野ヶ原の戦いでは、後醍醐天皇の命を受け、北畠顕家が奥州から駆けつけ、室町幕府軍が、現在の大垣市赤坂町で激突した。


2019/06/09

脳の中の出来事


6月を綺麗な風が吹くことよ

                            正岡 子規

 100年前から、特定の音階の音を聞くと、特定の色を感じる人がいることは解っていた。フランスの詩人アルチュール ランボーは母音に色を感じた。同じように、数字を見て色彩を感じたり、味覚から他の感覚を感じ取り、匂いから情動と色彩と自然が呼び起こされる人もいた。 その後、200人に一人は、この共感の変化、共感覚がみられることがわかった。
 そもそも私たちが日常使う言葉には、複数の感覚にまたがる、共感的メタファーたとえば、派手な(うるさい)シャツを着ているとか、鋭い味といった表現がある。これは脳の中で音と味覚と色など視覚を感じる神経の配線がクロスためと考えられる。
 このクロス配線は芸術家、詩人や小説家にこの遺伝子が一般の人に比べて統計では約7倍に見られる。小説家には、脳の中で無関係に思える事柄を結びつける、メタファーを作る技能が秀でていることがわかる。詩人はこの感覚を研ぎ澄まし文字に表現し、俳句はその究極の形といえる。


 交感 

                           ボードレール 悪の華

自然は荘厳な寺院のようだ
列柱は厳かな言葉をおりなし
人は柱の間を静かに歩む
象徴の森をゆくが如くに

遠くから響き来るこだまのように
暗然として深い調和のなかに
夜の闇 昼の光のように果てしなく
五感のすべてが反響する

嬰児の肉のような鮮烈な匂い
オーボエのようにやさしく、草原のように青く
甘酸っぱく 豊かに勝ち誇った匂い

無限へと広がりゆく力をもって
こはく 麝香 安息香の匂いが
知性と感性の共感を奏でる

 人間はネアンデルタール人のいた頃から言葉を獲得した。それは共感覚と同じように聴覚と視覚の間にそなわったクロス活性があり、また手と口にもクロス活性がみられる。脳内で手の動きが舌、唇、口の動きにつながり、ものの形を認識する領域と聴覚がつながり、聴覚から視覚がいっしょに働いて、手招きをし、「アー、アー」と叫んでいたものからある日「ここに来い」という原始的言語が生まれる。
 そして、単純な動作や、ものの名前から、やがて言語は複雑なことがらを表現し、それを連ねて、ロゴス的表現が生まれ、論理を生み出す。
 そして言葉はあらゆるものの扉となった。言葉、単語から色彩を、音とひふの感覚を、そして過去の記憶を呼び起こす。6月の風は、その湿気と、綺麗な緑の、海岸の白南風につながる。
 つながりを持った言葉がたがいに響きあい、音はこだまし、香りをはなち、色彩をきらめかせる、それを受け取った言葉が音や香りや色を無限に広がらせる。やがて深い共通感覚の場所にも及び、部分が共鳴し、詩全体が象徴の森となる。




 人間の脳は本質的に、モデルを作る機械です。私たちはそれに基づいて行動するための有用な世界の仮想現実(バーチャル リアリティ)のシュミレーションをつくる必要がある。そのためにほかの人たちの心のモデルをつくらなくてはいけない。これは脳の中の前頭葉にあるミラーニューロンというと特別なニューロン群で、相手に対する共感力に関係する部位が働いている。人が顔を赤らめるのも、他者の心を理解するためで、人間だけが赤面する。これが障害を受け、他の人の行動の意味が理解できない子供達が、自閉症スペクトラムと呼ばれている。
 
 赤ちゃんは大人の行動を真似する。そして猿や小さい子供は大人の行動を真似する。例えばオランウータンは飼育係りの様子を観察していて、自分で錠を開けることができるようになる。真似をすることで学習していく、この模倣の能力が文化を作り出し、文化を伝えていく。人類は、およそ5万年から7万年前に火を使い、精巧な道具を使い、それを模倣し文化はたちまち伝搬し、さらに儀式や呪術、芸術、を生み出した。

  人は何に対して、愛着を感じ、情動を動かされるのか。病室の患者に、ラブラドールなどの愛玩犬で心の平静を保つ治療がなされています。この愛犬のなにが心を落ち着かせるのか、そのしぐさか、その手に感じるぬくもりか、温かさや毛ざわりか、動きなのか、あるいはその表情なのか。
 最近高齢者の好むロボットの研究で、実際の人間や動物の形をした嘘っぽい愛くるしさより、コロッとした球状の機械の組み合わせが生き物を感じさせることがわかってきた。これを理解するのに特異な脳の損傷によるカプグラ症候群が手がかりを与えてくれます。
 視覚と情動の関係が断たれた非常に稀な脳の障害がカプグラ症候群と呼ばれています。交通事故で頭に怪我をして、こん睡状態から治って、知力も会話もすべて回復して、自分の母親と会った時「この人は私の母とそっくりですが、母じゃありません。母のふりをしている偽物です。」という。電話で話しをしているときは母親として認めるのに、面として会っているときはそれが認められない。この原因は、視覚中枢と情動の中枢である扁桃体の配線が外傷によって切れてしまったために、視覚で母親は認めても、そのとき母を感じる情動が結びつかないためです。そこで、脳は一生懸命解釈しようとして母に似た偽物となる。同じように、形は似ていても情動を伴わない機械や生き物は決してペットとはならないし、アンドロイドは人類にはなれません。



 ライオンに襲われた探検家デイヴィット リビングストンの有名な話に、自分の腕が食いちぎられたのを見ても、痛みはおろか恐怖さえもまったく感じなかった話や、変な痛みの代表としてネルソン提督が切断された手が実在するよう感じると書いたファントムペイン。
 さらに現在でも治療にこまる、反射性の交感神経ジストロフィーと呼ばれていた(現在はCRPS、複合性局所疼痛症候群)持続する痛みがある。小さなけがである、虫刺され、打撲などがきっかけで、しだいに腕全体が腫れて、発赤が起こり、ついには動かすこともできなくなる。腕を動かそうとすると、動きを妨げる強い痛みが起こり、それが学習された痛みとして、麻痺にまで至る。これらは痛みは脳内の出来事で、その仕組みは次第に明らかにされ、治療も進んできました。
 さらに、脳梗塞などで障害された神経が再生や代替されることで、麻痺した手足が回復し、失語症も治る人が出てきました。それは神経そのものの再生をさせる医療によるもので、しだいに臨床に使われるようになってきました。そして言葉の起源や美を感じる脳の解明が、進化的な見方と相まってしだいに明らかにされています。


               参考 V.S.ラマチャンドラン 脳の中の幽霊、ふたたび