2020/06/01

日本的美意識と庭


 一面の芝の庭が裏山を背景にして烈しい夏の日に輝いている。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏庭へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。

 
 昭和の庭園は、「豊饒の海」の場面に描かれたように、背景の裏山、庭石、楓そして青々とした芝に象徴される広々とした開放的な庭になった。 明治時代に、小川治兵衛が芝生を日本の庭園に取り入れ、大名屋敷のよく剪定された名木の庭から、山縣有朋などの政治家や実業家の岩崎小彌太たちが望んだ近代的な庭園に変わっていった。
 その特徴は、庭に琵琶湖から導いた水を引いて、多くの石や岩を使って滝や池を作り、その前の解放された空間は、芝が多く用いられた。植栽は赤松やモミジ、そして京都の山々が借景となっている。この無鄰菴庭園に似た庭が昭和の時代に入っても標準になる。苔むす環境でない、明るく、広い庭園には手入れされた芝と、庭石、そして刈り込まれたツツジやサツキ、楓が植え込まれている。


 「見渡せば春日の野辺に霞立ち 咲きにほへるは桜花かも」

 万葉の時代、野山にはヤマザクラが自生していた。 奈良時代には、仏教とともに隋や唐の文化が流入し、そして珍しい植物も日本に輸入された。今までの日本には自生していなかった梅やヤナギが大陸から渡来し、流行した。

 7世紀の推古天皇の時代にはすでに庭園が貴族の生活にはふつうに見られるようになった。広大な自然を取り込んで、限られた空間にそれを再構成することが行われ、庭は、仏教の極楽浄土を表現したものだった。石を組んで人工的な水の流れを作り、緑の樹木を配置して、鳥のさえずる空間を造形した。 その庭に植えられた植物には桃、梅や柳があった。 当時、土氏 百村の「梅の花咲きたる苑の青柳を かずらにしつつ遊び暮らさな」と梅を詠んだものは多く、この新しい園芸品種が流行していたことがわかる。

 平安時代になると貴族によって、古代からの浄土教寺院の世俗化ともいえる阿弥陀堂の前庭に池や島をつくる、寝殿造りの庭園が広まった。部屋から見渡す庭には春や秋の草花を植え、その中にある人工の河の上に船を浮かべ、歌を詠んで楽しみ、夜には、月明かりの淡い光の下で集まり、自然を楽しむ、自然主義の庭だった。
 平安時代の後期に書かれた「作庭記」は、石をたてん事まづ大旨をこころうべき也、から始まり、生得の山水を学ぶとして、ともかく人の作るものより、自然の姿、風景が優っているので、庭石もなるだけ自然らしく石を組み立てるべきである。池岸、池底、流路には石を敷きつめ、築山し、滝をつくり、樹木を組み合わせる。全体の構成は、風情をめぐらし、おもしろきことが大切と記している。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、再び大陸の影響で禅の文化が日本にもたらされた。庭には常緑樹のシイ、イヌツゲ、シャクナゲ、カシ、ヒイラギ、マキなど平安の庭には見られない種類の木々が使われるようになった。

 室町時代に雪舟は中国の明に渡り、南宋画を学び、それを日本の山水画にした。この水墨画はいろいろな自然の中の、本質的なものを象徴的に単純に表現する。 当時京都は応仁の乱で混乱し、山口に移った雪舟は医光寺の住職となり、庭造りにもその才を発揮し、今に残る庭園をつくった。陽光の下に、水と植物と岩を使って、芸術としての庭を作る。原生の林で出来た裏山を借景として、岩を組んで枯れ滝をつくり、浮き石を配置した池庭をつくり、池のまわりに低潅木のツツジやカエデを植え込んで、山水画を描くように、庭を造った。
 応仁の乱の後、時の将軍、足利義政は現代にも続く、住まいや華道の源流、東山文化を作った。築庭に情熱を注ぎ、禅宗の影響のもと、日本古来からの美意識と共鳴し、日本の風土に合ったものとして完成したのが銀閣寺とその庭園で、東山丘陵を背景にした、煌びやかな色彩を使わない幽玄の美を完成した。


 この時代に、新たに自然を狭い空間に圧縮して、象徴化する枯山水が造られた。白い砂の上に様々な大きさの15個の岩を配置した龍安寺の石庭、さらに大徳寺の大仙院につながる、禅から生み出された、現在の抽象画のような庭が完成した。最初の枯山水は作庭記にも記載されている、それが山水画や禅の思想の影響のもとに、禅の庭の名で呼ばれる枯山水として発展した。

 その後江戸時代にかけて様々な形の枯山水の庭が造られる。銀閣寺の向月台もまた江戸時代に、東山からのぼる月を待ち、杉の木の向こうから次第に浮かぶ月の光の下で、輝く銀の砂の庭として完成された。 将軍毛利家の家老桂運平忠晴によって造られた月の桂の庭もまた、岩の上に岩を重ね、その砂に月が光る、そこに団子と小豆がゆを供え、月待ちの行事の舞台となる。
 西行の月すむ空へのあこがれ、足利義政の東山文化のかたぶく空の影をしぞ思う心、それを庭で造形し、夜空の下の月の輝く世界と共鳴する、静寂の空間を生みだした。
 そこには華麗で秩序だったベルサイユ宮殿やアルハンブラの庭、あるいは日本のきらびやかな金閣寺の庭には無い、それとは対極の侘びの美を見いだし、現世の限りない権力への執着や富への欲望を断ち、色彩を抑え、無常観をたたえた庭となった。

 戦国時代になると、茶道を極めた千利休が露地に庭をつくった。それは、樫の葉の散りつもる、奥山寺の道にたとえ、露地に落ち葉が積もっているのが重要で、そのまま掃かぬが巧者なりとし、また庭木には花のある木を嫌い、カシ、シイ、ユズリハなどの照葉樹林系の常緑樹とその二次林の落葉樹であるカエデ、マユミ、ヤマウルシなどが良いと、「茶の湯六宗匠伝記」で述べている。
 自然のままの、木々と石を配置した露地草庵と呼ばれる茶庭と極小の茶室の世界、無彩色の楽茶碗や万代屋釜を使い、茶杓も自作した美意識に徹した世界を生みだした。千利休によって、わびとさびの日本文化が完成し、日本中に広まっていった。

 日本的庭は、日本の美意識に合ったもの、一切の無駄を排し、色彩を抑え、自然のままの石やシンプルな植生を組み合わせた築山、枯山水、露地の庭になった。その様式が、庶民の庭にも採り入れられ、昭和の時代まで続いた。

  「おほくの工の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めずらしく、えならぬ(素晴らしい)調度どもならべおき、前栽の草木まで心のままならず(あるがままで無く)作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし」 
   
                          徒然草      吉田 兼好

2020/05/04

ザリガニの鳴くところ  Delia Owens




ホタル

愛の信号を灯すのと同じぐらい
彼をおびき寄せるのはたやすかった。
けれど雌のホタルのように
そこには死への誘いが隠されていた。

 1969年10月30日の朝、アメリカ南部、ノースカロライナの海岸沿いの沼地に、チェイス アンドルーズの死体が横たわっていた。物語は、この死体を、火の見やぐらに遊びに来た二人の少年が見つけたことから始まる。

 湿地は、沼地とは違う。湿地には光が溢れ、水が草を育み、水蒸気が空に立ち昇っていく。穏やかに流れる川は曲がりくねって進み、その水面に陽光の輝きを乗せて海へと至る。いっせいに鳴きだした無数のハクガンの声に驚いて、脚の長い鳥たちが まるで飛ぶことは苦手だとでもいうようにゆったりとした優雅な動きで舞い上がる。

 アメリカの南部、ノースカロライナの街、バークリー コーヴ、その中心街の西のはずれにカラード タウンそしてその奥の湿地には、貧しい白人の住まいがある。その中に右足に重傷を負い体の不自由な退役軍人の父親シェイクと母親マイクそして5人の子供たちが生活していた。 オークの林に囲まれた、湖面には多くの生き物が波に揺られ、林の向こうの海から、潮風とカモメの声が運ばれてきた。末っ子のカイアはその自然の中の生き物たちと暮らした。砂にうごめくカニ、泥の中を歩きまわるザリガニ、水鳥、魚、エビ、カキ、太ったシカ、丸々としたガン。

 カイアが6歳の時、母親はワニ革の靴を履いて家を出た。やがて、三人の兄や姉も家を離れた。そして、年の一番近い兄ジョディーも家を出て、父親とカイアだけの生活が始まった。ノースカロライナの野生のみずみずしい世界を友にして、自然の持つ美しく、時には狂暴なその秘密を見て育った。

 カイア10歳の時父親も、帰らなくなり、一人で貝を採って生活し、学校は1日いっただけで、逃げ出し、字も計算も知らなかった。14歳になって、ジョディーの友達のテイトから、初めて文字を習い、数字も学び生物学や詩を学んで、自然の中の秘密を表現できる喜びを発見した。やがて生物学の本や、「野生のうたが聞こえる」や「レベッカ」を愛読し、大人になっていった。
 
 カイアはほかのホタルにも目をやった。雌たちはお尻の光らせ方を変えるだけで、いとも簡単に望みのものを 最初は交尾で、次は食事を手に入れていた。ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこには悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるにしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって変わるものだと捉えられている。

 自然界では、たとえば角が大きいとか声が低いとか肩幅が広いといった優れた二次性徴や、高い知能を有する雄が最上の縄張りを確保することができる。彼らは自分よりも弱い雄を追い払えるからだ。雌は、このような秀でたアルファ雄を交尾の相手に選ぶことで、より良い染色体DNAを子孫に残そうとする。これは、生物の適応や存続を可能にする非常に有効な手段である。
 しかしながら、発育が不良で腕力や容姿が劣っていたり、あるいは知能が足りなかったりしてよい縄張りを得られない雄も、あの手この手で雌をだまそうとする。虚飾や偽りのメッセージを使ったりどさくさ紛れのずる賢い手を使って、精子競争に勝とうとする。

  ザリガニの鳴くところってどういう意味があるのと、カイヤがテイトに聞く。母さんが、いつもこう口にして湿地を探検するように勧めていたことをカイアは思い出すのだ。茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所ってことさ、とテイトが言う。
 カイアのただひとり、心の許せるテイトも大学に進学し、生物学者になるため、またこの地を離れた。

 物語はやがて成人となったカイアが、1970年ノースカロライナ州バークリーコーヴ在住のチェイス ローレンス アンドルーズに対する殺人容疑で裁判にかけられる場面へと展開する。

 波乱の生涯を送った”カイア”、1945年生まれの湿地の少女、キャサリン ダニエル クラークは生物学の著者として2009年、64年の生涯を、ザリガニの鳴くところで閉じた。


 愛もまたうつろうもの
 いつかはそれも、生まれる前の場所へと戻っていく。



 著者のディーリア オーエンスは著名な動物学者で、アメリカ南部ジョージア州で生まれた。ジョージアやノースカロライナ州などのアメリカ南部地帯の気候は、日本の東京などの都市と同じ北緯35度で、暖かく湿気も多く、オークやヤマモモ、ヤシの木も育ち湿地にはガマが繁茂しスイレンも花を咲かせている温帯湿潤気候で、フィッツジェラルドがセルダに出会うのもこの土地で、セルダは晩年この地で過ごした。

 ディーリア オーエンスはジョージア大学を卒業した後、マーク オーエンスの動物行動の研究のためのフィールド ワークに加わって、南アフリカのボツワナのカラハリに向かった。カラハリ砂漠近くのデセプション バレーの草原地帯、動物たちの楽園にランドローバーに乗って、到達した。その自然の中の大木の陰に、静かに、野営のためのキャンプ場を設営する。そのまわりには声をあげながらレイヨウは集まり、集団で生活していた。彼ら野生動物は今まで人と遭遇することなく暮らし、人を恐れず、自然のままの生活を送っている。シマウマ、レイヨウなどの草食動物とそれを狙う肉食のライオン、ジャッカル、ハイエナたち。そこでネコ科の今までほとんど生態が知られていないブラウンハイエナと遭遇する。
1984年、カラハリでのキャンプ生活、サバンナに住むハイエナなどの生態の記録「カラハリ アフリカ最後の野生に暮す」をマーク オーエンスと共著で出版した。

 その後、続編「The Eye of the Elephant」で再び、アフリカ南部の野生の王国に戻り、ライオンと再会し、ザンビアの象と住民の生活を冒険小説にした。そして「ザリガニの鳴くところ」は著者ディーリア オーエンズが69歳で執筆した初めての小説で、2019年アメリカで最も読まれた本になった。

2020/04/17

パンデミックの記憶


 概して我々は、死亡率は低いが早晩自分たちが関わることになるはずの現実的な病気より、自分たちがほとんど罹りそうにもない高い死亡率を持つ病気の方にずっと恐怖を抱くものである。

            史上最悪のインフルエンザ   アルフレッド w  クロスビー

 人類は、動物から人間に感染するようになった病気の影響を、長い歴史の過程で幾度も受けてきた。約1万年前に、犬を飼い、犬とともに暮らし始め、豚を飼い、牛や羊を飼い、それによって動物の病原菌であったヴィールスは変化し、人間だけが罹患する病原菌になった。新型インフルエンザは豚の体内で変異し、人に感染し流行した。

 生物は進化の過程で自分の子孫をばら撒き、生き残るため、様々な形態を生み出した。病原菌にとっては自分の子孫をばら撒き、生きながらえるには、どれくらい多くの人間に次から次へと感染できるかにかかっている。罹患者がどのくらい長い間感染源としていられるのかと、病原菌がどのくらい効率よく感染するかによって決まる。あまりに強毒性のものは、病気が広がる前に、宿主がすぐに死亡し、かえって感染は広がりにくい。

 インフルエンザ、風邪や百日咳は個体に咳やくしゃみをさせ新たな犠牲者に移っていく。コレラ、ノロウィルスはひどい下痢をさせそれによって感染が拡大する。咳は人間から見れば病気の症状である、しかし病原菌から見れば進化の過程を通じて獲得した生存のための策略である。病原菌は動物を病気にすることによって個体を増やし、生き延びるための環境を作りだす。病原菌が有効に伝搬するために、下痢を起こさせたり咳をしたりといった様々な方法をとりウィルスを拡散させ人から人へとその住みかを広げていく。

 それに対して人間は体温を上げて菌を殺す、あるいは免疫システムを使って菌を殺す。
風疹やマシンは一度かかると一生かからなくなる終生免疫を獲得する。ところが病原菌よっては抗体に認識されないように抗原部分を次々と変化させる作戦を取る。インフルエンザは変異を起こし新型のインフルエンザが次々と登場することのよって毎年生き延び活動する。
 
 パンデミックを起こしたインフルエンザは、突然流行し始め短期間の間に集団全体が病原菌にさらされてしまう。そして一部の人は死亡し、多くの人は回復し抗体を作る。感染者の数の減少とともに、ウィルスは人の体内でしか生き残れないので流行は終息する。ウィルスもまた進化の過程でより多くの子孫を残すことができるウィルスが生き残る。


 1918年から19年にかけてスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザがパンデミックをおこした。アメリカでは1000人あたり280人が罹患し、全人口の25%、アメリカ全土で2500万人がかかり死者は60万人以上に登ると推定された。
 
 1918年春に悪性の風邪が流行し始め、第一次世界大戦の最中、アメリカから大部隊の兵員が船で次々と、ヨーロッパ戦線に渡った。そしてヨーロッパの戦士から市民にこのインフルエンザは蔓延し、世界中に広がっていった。8月の後半になって、アフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスは変異し、強毒性のインフルエンザとなり、9月はじめに、アメリカ東部の地域からこの流行が再び始まった。
 アメリカ東海岸の170万都市のフィラデルフィアの当時の記録がある。
 最初の頃、インフルエンザの流行はわかっていたが、余計な恐れは必要ないとする論説が米国医師会雑誌に載せられていた。しかし、9月29日からこのインフルエンザで死亡する人は急速に増え、一週間で706人になった。10月3日の夜、市はすべての学校、教会、劇場その他の大衆娯楽施設に閉鎖命令を出した。その後も死者は急速に増えて、第二週には2600人、第三週には4500人以上が亡くなった。、人々は病院に殺到し、それらの人々で溢れた病院は機能麻痺に陥った。公的施設も機能しなくなり、公共サービスは大混乱に陥った。公共サービスのうちとりわけ深刻だったのは遺体の埋葬作業だった。埋葬できない死体がたまって人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせることになった。10月10日で759人の市民の死亡数に達した後に次第に流行は下火に向かった。10月の末にはしだいに学校や教会、劇場やサロンが再開されていった。
 11月11日第一次世界大戦は終結した。その後一週間の死亡者数は164人、次の週は103人、次は93人と減少し、流行は終息した。アメリカでの死者は68万人にも及んだ。
 一般の感染症と異なり、このインフルエンザは子供や老人の死亡率より、20才台30才台の元気な人々の死亡率が非常に高かった。「ミラボー橋」で有名なフランスの詩人アポリネールとオーストリアの画家クリムトはインフルエンザにかかり死亡し、アメリカの小説家フィッツジェラルドはインフルエンザの流行のためヨーロッパ戦線には参加しなかった。そしてニューヨークヤンキースのベーブルースはインフルエンザにかかるも生還した。

 大正時代、白樺派の代表作家武者小路実篤の小説「愛と死」の中で、主人公の婚約者がフランス留学から帰る船の途中、スペイン風邪で亡くなる場面がある。当時人々は船に乗り国外に行き来し、インフルエンザは瞬く間に世界中に広まっていった。太平洋上の島々でも船による人の移動で、このインフルエンザは蔓延した。
 サモアの島々でも広がったこのパンデミックは、統治国の対応で明らかな死者の差が生まれた。西サモアではインフルエンザが蔓延し多くの死者を出したにも関わらず、アメリカンサモアでは死者は出なかった。当時その島の統治をしていたボイヤー知事は強力なインフルエンザ対策を徹底した。外からやってくるすべての船舶の検疫を強化し、インフルエンザにかかった患者が治って10日経過しなければ入港を拒否し、他に海岸でボートでの着岸を禁止した。郵便物は2時間の燻蒸消毒を行い、荷を扱う人にはマスク着用を義務ずけ、アメリカ海軍からインフルエンザワクチンも入手した。このワクチンは結局無効であったが、この検疫は1920年の中ごろまで維持された。



 日本では、このスペイン風邪による死亡者数は1918年6万9820人、1919年4万1986人、1920年10万8428人にのぼった。1度目の流行では、10月に急速に死者が増え、そのピークは1918年の11月そして、2度目のピークは1920年の1月だった。1回目の流行時全国民の37.3%がかかりその死亡率は1.22%、2回目は患者数は10分の1と少なかったものの死亡率は5.29%と高く、ウィルスの変異による悪性化が原因と推定される。流行の4週間で患者数はピークに達し、4週間で流行は終息している。

 内務省衛生局は「全世界を風靡したる流行性感冒は大正七年秋期以来本邦に波及し爾来大正十年の春期に亘り継続的に三回の流行を来し総計二千三百八十余万人の患者と約三十八万八千人余の死者とを出し疫学上稀に見るの惨状を呈したり。」と報告している。
 

 このスペイン風邪は、第1波がおさまった後、強毒性となった第2波、第3波と世界中に広がり、世界のすべての大陸、太平洋上の島々や極地にも拡散した。ワクチンも有効な薬もなく世界で2000万人以上の死者を出して、集団の多くの人が感染し、抗体をつくり集団免疫を獲得して終息した。

2020/03/22

イギリス中世の森



汽車に乗って、
アイルランドのようないなかへ行こう。
人々が祭りの日がさを くるくるまわし、
日が照りながら雨の降る、
アイルランドのようないなかへ行こう。
まどにうつった自分の顔を道づれにして、
湖水をわたりトンネルをくぐり、
めずらしい顔のおとめや牛の歩いている、
アイルアンドのような田舎へ行こう。
                                丸山 薫



 アイルランドの島の大部分はかつて巨大なトチノキ、ナラ、カエデの広大な原生林に覆われていた。山岳は急峻でなく、標高1000メートル程で、現在は、泥炭地や低潅木のヒースに覆われる。古来原生林の中は一つの生態系をつくり、枯れた木もまた甲虫類の生活の場となりウサギなどの小動物の住処となり、枝は枯れて地面に落ち、枯葉と共に木々に栄養を与えていた。

 アイルランドと同じように、イギリス本島は、大西洋からの西風を受け、湿った空気が嵐となり、丘に吹きつける。急な山がないため平らな土地は、低潅木のヒースの茂みを作り、ひらけた場所に立つ野生のオークなどの木があり、家畜がすむ牧草地になった。排水の悪い多くの場所は湿地帯となった。
 17世紀には、造船の為にオークやもみの木は大量に伐採された。1000トンの大型軍艦一隻を造るのに、樹齢100年のオークの木が2000本必要とされた。オーク材は腐りにくく、自然にカーブしているものもあって、船体用の板材として最適であった。さらに、鉄やガラス、あるいは陶磁器、塩の製造にも木材が大量に使われた。こうして、アイルランドもイングランドも古代からの森林は消えていった。

 18世紀のイギリスは、国土の多くに水路が造られ、そこを船で木材や穀物さらには塩などを運ぶ、物流の主役は水運だった。1840年から50年にかけて、鉄道が全国に広がる共に、人口も増え、広範な湿原は、排水され、肥沃な土壌の農地に変えられていった。産業革命以降にイギリス全土から90%の湿地は姿を消し、低地のヒースの原野は80%消えた。

 イギリスは第二次大戦の時、食料確保のために、原野を酪農と耕地にするため、開墾をすすめ、必要な木材を手に入れるためにさらにオークなどの木々を切り倒した。その代わりに麦畑などの穀物が造られ、そして森林と生垣がわずかに残された。その結果、牧草地は38%くらいあるのに比べ、森林は8%と少なくなっている。20世紀の終わり、国が補助し政策的に進められた農業の合理化、近代的工業型農業の方向はいきずまった。世界のグローバル化で小麦や乳製品は、世界の穀物との競争にさらされ、国の補助金がいくら支えても、将来性の見えない状態になった。

 同じ頃,イギリスでは農地の環境的価値を高める、庭園復元のプロジェクトが始まり、それを受けて、耕作地を野生にもどす、クネックパークの野生化計画が2000年に動き始めた。その土地に自生していた種子を採取して蒔き、自然をなすままにし、そこに動物を放った。ハイイロガンは大量の沼地の植物を食べることによって、葦がはびこり、ヤナギが生えて、沼地が消え去るのを防いだ。さらに草食動物によって自然の植生が低木からやがて高木の密林になるのを防いだ。草食動物の野牛、野生の馬、野ブタをその土地に放ち、開けた場所に立つ野性の木、低木、そのまわりを野生の牛、馬が草をはむ牧草地からなる、中世の森林牧草地を復活させた。ここでは植物と小動物と、昆虫とありとあらゆる生物が生息できるようになり、本来の自然が戻ってきた。
 
 樹木の植生は、寒帯では単調、温帯では複雑な生態系をなし、熱帯は生物の多様性がが見られ、動物植物のありとあらゆる種類の宝庫となっている。氷河期に北半球では、氷が南に進み、多くの植物を枯らした。森林は氷河期の影響を受け、北方の森林はその後、生存に勝ち残ったもののみ構成され、単調で、種類は少なく、多様性は失われている。一方、熱帯の森林はどんどんと多様化していった。この多様性こそ地球上の生命の本来の姿だった。

 この生物の多様化は、有性生殖による。オスの遺伝子とメスの遺伝子が子孫に半分ずつ受け継がれ、その子孫はさらに4分の1の遺伝子が受け継がれ、多様な遺伝子が混じり、生物の多様性が生まれ、生き残ることができる。植物も生き残るために、有性生殖をする、植物は受粉するための花粉を運ぶ動物、昆虫が必要でこれらは共に進化する。植物は甘く、栄養のある花蜜で動物を惹きつけ、昆虫や鳥は植物の色と香りにひかれて集まってくる。動物がいなければ植物は生きられないし、また植物がなければ動物も死に絶える。

 この有性生殖を支える共生の物語は、イチジクとハチの間に見られる。イチジクの若い実の中は、花がうちに向かってついている。その花が受粉すると、成長して種をつくる。これにはイチジクバチの存在が必要になる。雌のハチはイチジクの中に入り実の中の花に卵を産む、そしてそこで雌バチは死んで、卵は幼虫となり、イチジクの実の中でその身を食べて蛹となり成虫になる。そして雄バチはそこから飛び出し雌のいるイチジクに向かう、その時花を受粉させる。

 このように1種類のイチジクには、1種類のイチジクバチが存在する、それを介してイチジクは750種類にもわかれ亜熱帯から熱帯地方に広がり、植物として世界中に広く分布し、4000万年も前から生き残り、繁栄した植物になった。さらにこのイチジクの身をコウモリや鳥やそのほかの生物の食糧となっている。この長い時間をかけて出来上がった地球上の複雑な生態系はハチがいなくなったら瞬く間に地球上から消えてしまう。
 
 同じように、このオークの木はその繁殖をカラス科のカケスに頼っている。オークの実は樹齢20年位なってからどんぐりとなって地上に落ちる。そのほとんどは動物に食べられるか、腐ってしまう。やっと根がついても日光が当たらない木の下では育たない。この実が育つためには、捕食者に食べられないために土の中に埋める必要がある。その役割をカケスが果たす、一ヶ月に7500個以上のドングリを集め、元の木から遠く離れた周りに木のない低木の土の中に、50センチほど話して埋める。これを食料として保管しておく。4月から8月のは他に食べ物がたっぷりあるためこのドングリは5月に芽を出し、6月に葉が開く。カケスはひなにこの幼い葉を食べさせる。こうしてカケスによって植えられた苗木は、多くの子孫を残すことになる。

 オークの木の根は、樹冠よりはるかに大きく広がっていて、広大な木の根の周りにその生命を支える複雑な共生関係にある菌根の世界がある。この糸状の菌根が、オークに水と必要な栄養素を届ける。そのお返しに植物は炭水化物を与える。これは動物が海から陸に上がった時カルシウムを体内にとどめて使っているのと同じように、水中に豊富にあったリン酸を植物が多くの種類の菌根菌類を使って、取り込み、さらに、分子レベルのシグナルを送って他の木々に化学物質を出させる。

 この植物の菌根システムは、動物の体内の免疫系やその他の化学物質の伝達、あるいは腸内細菌の果たす役割に似ている。地球上の生命は、動物も植物も多くの生命体の織りなす非常に複雑で入り組んだシステムでできていて、いまだその全容は解明されていない。自然界には、何百万もの種と相互関係を築いている種が、何百万も存在し、細菌やウイルスも重要な役割を果たしている。この相互依存関係は30億年の年月をかけて作り上げてきたもので、今でも、熱帯雨林や温帯の原生林のちょっとした変化から複雑な変化をきたしうる、その複雑系はそれがどのように変化するか、現在のコンピューターでも描き出せない。この複雑系の中心である森の木がなくなれば生命はすべて消滅する。

 この森の木と野生生物の再野生化がイギリスのクネップ試みられ、中世の森が復活した。






 参考  英国貴族、領地を野生に戻す       イサベラ トウリー著 三木直子訳

2020/02/29

縄文の森


大空は永遠に青く、
大地は長く揺るがず、春に花を咲かせる
だが人間よ、お前はいつまで生きるのか

                            李白

 3億年前地球は、シダ植物に覆われていた。この時期、氷河は縮小し、高温多湿の環境で、シダ植物の大森林が地球上に現れた。それが次の氷河期に土の中に埋もれていた。
 1万年前、最後の氷河期が終わった後、 オーストラリアのクイーンズランドの熱帯雨林は、この時からできはじめ、成長してきた。この熱帯の原生林では50メートル近い巨木がそびえ、その樹冠の下の湿気の多い低木の層では、シダやハンノキ、そしてキノコ類が茂っている。この森の地上には多くの堆積物、朽ちた枝、落ちた葉、多くのキノコ類や地衣類、虫や微生物を養い、多様な生物の住処をつくっている。フンボルトは、同じような南米の熱帯雨林について、「海岸まで続く広大な森林が眼下に広がっていた。樹木には、つる植物が絡みつき、びっしりと花を付けた樹冠部が絨毯のように連なり、その深い緑が光を受けて輝いていた。これが熱帯の植生とのすばらしい出会いだった。」

 ユーラシ大陸ではやはり一万年前、樺の木やハンノキは南の温暖な地帯から、しだいに北半球を北進し広大な樹林をつくりはじめた。
 日本でも縄文時代の初期、9000年前くらいから、氷河期が終わるとともに、気候はしだいに温暖化し、日本列島の南部、九州や南西諸島の暖かい地方にのがれ、生息していた照葉樹林と冬でも葉の茂る常緑広葉樹林が、寒冷地の針葉樹林を北に押しやり、日本列島全土を覆うようになる。 このシイの木、タブノキ、樫の木が、縄文時代以後、日本に自生し、自然植生をつくっていた。
 照葉樹林帯は、九州からしだいに関東地方に、そして縄文の晩期には仙台や新潟の海岸地帯まで回復してくる。縄文人は日本の全土に広がったこの森林の中で木の実を拾い、草を食べ、魚や、貝や、小動物を食べて生活していた、現在と異なり主食の炭水化物は米も麦もなく、塩も作れず、当然砂糖もとに入れることはできなない食生活を送っていた。現在の日本の食生活では、塩分平均10g以上取っているのにくらべ、当時は2g以下で、炭水化物は現在の60%以上に比較してわずか5%であった。

 縄文時代から弥生時代にかけて、大陸から熱帯産の米が、日本列島にも渡って稲作が始まる。そして日本人の食生活もしだいに変化する。弥生時代の後期3世紀ごろの日本について、「魏志倭人伝」には、「倭の地は、温暖、冬夏生菜を食す。」そして木については、タブノキ、トチ、クスノキ、樫などの照葉樹林であったと日本の植生を記している。

 
 縄文の森は、照葉樹林であった、しかし人々の生活により、樫の木、椎の木などの原生林が、焼かれたりあるいは苅られて、人の手が加わり落葉広葉樹のクヌギ、コナラ、エゴノキや山桜などの里山の雑木林になる。杉もまた、人々が照葉樹林を切り倒した後に広がり、弥生時代に発掘された板材は杉が多く、また杉花粉もすでに多く見られる。

さらに、時代を経て日本の景観を代表する松林風景は、人間の活動によって消滅した照葉樹林の後の二次林であるマツ林になる。このアカマツに下に、ツツジ、秋の七草のキキョウ、ナデシコ、オミナエシなどが生い茂る。

  日本は、主に農業をを行う里と、都、それとは別世界の山に分けられていた。普通の人々が足を踏み入れることのない、その異界の山と農耕地の里の間、を里山という。
 里山とは集落に近い山の端で、農業や果樹、あるいは林業などの行われている場所。神聖で修験者の住む山と違い、里山にある森林が「里山林」で、里の人々が手を入れ、古くから利用してきた雑木林や竹林、人工林などがある。 
 この雑木林では、スギやヒノキなどの建築資材になる。そして、人々が薪をとったり、炭焼をしたり、農業の材料として木を使ったり、木を小物の工芸品である、小箱ちやそろばん玉、器など工芸品に加工したりして里山の雑木林で行われ、 森林のきれいな水を利用した渓流魚の養殖をしたり、飲み水として使い、や田んぼや畑を潅水し、小枝や落ち葉は肥料として利用され、いわゆる里山がこうしてつくり出された。この里山は、伐採して芽吹きさせることによって再生し、手入れしてできた森林で、利用が遠のいた時、管理されないとすぐに荒れ果てた場所になってしまう。

  森林を伐採して家畜の放牧に使うと、草地になる、そこにはススキやササがその草地に群生する。一方放牧による家畜が、草を食んで、踏みつけると芝型の草地になる。ユーラシア大陸のゴビ砂漠につながる、牧草地帯は、森林の伐採、過放牧による草原の砂漠化がおこって黄砂の原因となっている。
 温帯の雨量の多い日本の広葉樹林帯も鉄や木材の利用で、伐採され、そこにマツ科の植物が代わりに進出し、明治時代には、そのアカマツも枯れてしまった。これによって山は緑のないはげ山になってしまった。

 昭和になると燃料革命によって、里山の炭作りや、芝刈りに変わって石油石炭、あるいはガスに変わる。何億年か地下に埋まっていた生物を掘り出して産業革命が起こり、日本の庶民の生活も一変した。里山は利用価値がなくなり、放置されることになった。

 一方戦後に行われた山林の緑地政策は、本来の日本の植生と異なる、杉やヒノキを植え、山を埋め尽くした。これらの木は根が浅い針葉樹であり、山の斜面に植えられても、土砂崩れを防ぐことはできない。さらに、杉林は50年から60年で、過熟林となり、花を咲かせ、膨大な量の花粉を飛散させ、春になると毎年花粉症を引き起こすことになった。

 イギリスもまた、工業化と農業や放牧で、イギリス本来の植生は破壊された。そのイギリス南部のクネップ城の持ち主貴族が、その土地の元来生息していた、野生動物や近隣種を戻し、生態系が復活した。

 人口の減少と、都市への人々の移動により、日本各地の、山間で生活する人は激減している、生活は変わり燃料や、材料としての木材はあまり使われなくなてきた。再び、この地域を里山として利用するのか、あるいは本来の日本の植生、潜在自然植生である照葉樹林縄文時代の森の復活とその新たな利用を生み出すのか。あるいは農業と林業が融合した、ハイテク技術よるアグロフォレスオリーが進化するのか。
 植生を含めた、新たな日本列島改造論が必要な時代になりました。

2020/01/26

新たな時代と心配性の脳、忘れられたパンデミック


 19世紀はイギリスのビクトリア王朝の時代で、安定した秩序と世界観が支配していた。多くの国は国王が君臨し、その下で強大な帝国をつくっていた。ヨーロッパを中心とてキリスト教が信仰され、そして世界はデカルトとニュートンの科学のもとに組み立てられ、地球は太陽系の周りを周り、規則正しく時を刻み、季節は変わり、時はめぐると理解されていた。
 
 20世紀になると、芸術の基準、その枠組みを壊す芸術が登場した。20世紀にピカソは割れた鏡のような像を絵にした。キュービスムという発想で、何かのものを見るのに、客観的で正しい視点や枠組みはないとする、鏡のように割れた像をキャンパスに描いた。もう一つの芸術もこの時代に流行した。ムンクの「叫び」で、私的な心の風景を表現した。物理の世界ではアインシュタインの相対性理論の正しいことが証明された。
 そしてモダニズムという新しい表現が芸術の世界に起こった。この時代は、同時に科学技術が生活を豊かにした。ラジオが発明され、自動車は普及し、電話で会話し、映画が娯楽の中心になりつつあった。
    
 日本でも新興芸術としてのモダニズムが小説、絵画、音楽あらゆる分野で流行した。その代表が横光利一や芥川龍之介のモダニズム小説だった。そして、芥川龍之介は未来に対するぼんやりした不安を理由に自殺した。時代を研ぎ澄まされた神経で感じ、不安の時代、未来を予兆する出来事だった。

 古典物理学が量子力学に変わり、芸術の世界で起こったモダニズムと時を同じくして、旧い世界秩序が崩壊した。イギリスのヴィクトリア王朝時代は、オスマン帝国が東欧から中東さらにアフリカまで支配し、ヨーロッパの中央はオーストリ ハンガリー帝国、そしてさらに北にはロシア帝国とドイツ帝国、そしてユーラシア大陸の東には清王朝、それらは第一次世界大戦前後、瞬く間に瓦解した。そしてイギリスと日本の皇室は第二次大戦後に政治権力としては無力な存在になった。

  技術の進歩は急速で、第一次大戦には機関銃が発明され、それが戦場で使われ、飛行機や戦車が活躍し、毒ガスも使われ、兵士は塹壕の中で、ほとんど耐え忍ぶ戦場となった。この時期運悪くスペインかぜと呼ばれる新型インフルエンザはこの塹壕の兵士たちにも襲いかかり、多くの病死者を出した。1918年から19年の新型インフルエンザの死者は2500万人以上に達した。

 「塹壕掘りの部隊が仕事にとりかかった時、あと平均どのくらいの寿命があるか知っているかい?」「たぶん、短いんでしょうね」「たったの9分さ」

 A.W クロスビーの「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミックについて」に詳細な記録が分析されている。1918年アメリカで肺炎を伴うインフルエンザが流行し始め、兵員の輸送によりフランス軍そして、ヨーロッパの全域に広がりその夏には一般市民に蔓延した。四ヶ月で南極を除くすべての大陸や孤立した島々など、地球上のすべての国に広がった。この第一波に続いて、8月の後半にアフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスの変異から、強毒性のインフルエンザとなり爆発的流行、パンデミックとなって世界中で多くの死者を出した。そしてアメリカ大統領のウィルソンなどの政治家も重症となりその後の世界の政治も変えた。

 すぐに終わるはずの戦いは、誰も予想しない長期の悲惨な大戦となった。以前は帝国にとって、あるいは軍人にとって悲惨な戦いであっても、勇敢な戦士たちの戦闘は物語となり、ある程度の誇りと利益がもたらされた。しかし第一次世界大戦はかつての戦争と異なり、長期の塹壕戦になり、多くの病死者や戦闘ストレスの兵士を生み出した。そして利益は誰にももたらさなかった。技術が、戦争を変え、人々の予想を超えて世界を変えた。 

 第二次大戦後の日本は、安全で安定した民主主義の国として再生した。戦後民主主義と平和主義は夢と希望をもたらすものだった。戦後高度経済成長期は国内の経済と生活の再建に全力を注ぎ、日本列島を改造し、あるいは田園都市の構想で日本全土を豊かにすることを目的に人々は勤勉に働いた。その後バブル崩壊が起こり、世界やよその国を視野に入れないで、国内のみに目を向けて外の世界を見ないで生活できた時代が終わった。中国は経済大国、軍事大国になり、またアジアの国々は経済的に豊かになってきた。アジアもグローバル化の主役の一員になった。

 20世紀になると科学とテクノロジーは電話、自動車、ラジオを普及させ、第一次世界大戦には飛行機、戦車、化学兵器が戦争に使われた。現在はその時と同じくらいに急速に技術が進歩し、止まることのない時代になった。そして新しい技術は世界を、人々の生活を変えつつある。バイオ技術で病気を治し、人工知能があらゆる分野で進歩して、快適な生活ができるようになり、食料不足もなくなり、クリーンエネルギーで気候変動を抑えるのも技術の開発による。しかしそれと同じ技術は無人兵器、サイバー戦、宇宙戦を可能にしている。イラン革命防衛隊司令官ソレイマ二氏殺害はアメリカのリーバ型無人機にによるものであったことは、あらためて世界に衝撃を与えた。

 今の時代は、比較的安定した時代、第二次世界大戦後の冷戦とその後のアメリカによる平和が終り、資本主義と民主主義に対する信頼が揺らぎ、ちょうどイギリスのヴィクトリア時代が終わりの時代を思い出させる。そして今再び、心配性な脳は、不安を感じることになる。

  今までに、急性の反応として恐怖が脳内で起こるメカニズムはわかってきた。恐怖は感覚の刺激が、脳の原始的な器官である扁桃体に直接伝わる。これによって人々は危険を逃れ、地球上で生き残った。この生存に必要な脳のメカニズムが過剰でそれに耐えられなくなったのが戦場でのストレス症候群で、第一次大戦の時多くの兵士がこの状態になり、入院した。同じ症状は第二次大戦やその後の戦争で見られた。

 一方、将来への漠然とした不安はどこから起こってくるのかは未だわからない。しかし、生存のための必要性から生まれた機能で、人々は安定した世界、安定した日常、安定した生活が変化する時不安におののくことになる。不安は脳の全体が関わる現象で複雑な脳内の活動によって引き起こされる。最初は一部の感覚の鋭敏な芸術家がそれを感じ取り、表現しやがて多くの人々もそれに共振する。

 理性的な判断ではない感情が、理性を狂わせるメカニズムが働き、世界を変えてしまうこと。あるいは、人々の心に、不安がまん延する時代があること。技術の進歩に、人の心はついていけない時があることを歴史は証明している。
 

 安定した社会が失われる時、理性で理解していた世界観が崩れ去るとき、感情が人の判断のよりどころとなる。平静の心を保つのは、生存のために備わった不安がる脳にとって今は大変な時代かもしれません。

2019/12/31

切支丹とアジアの海 

神か天皇か将軍か、誰が支配者になるかの争いが、16世紀の日本で起きた。

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂い鋭きあんじゃべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。


いざさらばわれらに賜え、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊に死すとも
惜しからじ、願うは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を折に身も霊も薫り焦がるる。

                    邪宗門秘曲     北原白秋


 15世紀、世界の文明の中で最も進んでいたのが中国の明王朝で、人口は1億人を超えていた。明王朝は、技術も文化も優れていた。そして巨大な船舶を連ねた大艦隊を鄭和が率いて、南シナ海、ベンガル湾を通り、インド洋からアフリカまで 航海した。しかし明王朝は、強大な官僚体制と極端な保守主義により、その後海外には目を向けず、国内で閉塞していった。彼らの考えは、軍事力が必要になるのは野蛮人が攻撃してくる恐れがあるときと、内乱を収める時だけだとした。そして官僚たちは軍を嫌い、また商人を嫌い、私的な蓄財を嫌った。

 一方、当時の西欧には統一ヨーロッパはというものはなく、小さな王国や公国、領主国家、都市国家が乱立していた、スペイン、フランス、イギリスは君主国家の萌芽期であった。15世紀、そのヨーロッパの西の辺境の人口100数10万の小国のポルトガルが大航海時代を切り開いた。まず対岸のアフリカに拠点を築いた。やがて、アフリカ大陸西岸を南下し、バスコダガマが1497年アフリカの南端希望峰からインドのカリカットにたどり着いた。そして次第に、インド洋の要所に要塞を築き、ポルトガルの独占的交易の海にしようとした。インドのゴア、を占領し、マラッカを支配し、インド洋の海上帝国を作り上げた。
 その当時インドには、ムガル帝国を中心に多くの強国が存在した。それにもかかわらず、インドの王国がポルトガルの海上覇権をなぜ許したのか、これは当時インドの帝国にとって、海上の貿易は帝国にとって、商人の問題であり、王の威信とは何らか関係のないと考えていた。

 
 宗教的使命感と物質的利益を求め、集中的に国力を集中したポルトガルはやがてインド洋から南シナ海、東シナ海へ進出した。この海は15世紀、明の海禁政策をによって、琉球王国の船、倭寇と呼ばれる日本の海賊船の活躍の舞台だった。その後ポルトガルが南シナ海、東シナ海の支配者となる。当時ポルトガル国王はローマ教皇庁から、新領地住民のキリスト教徒化、カトリック教の布教を義務ずけられていた。そして、イエズス会がポルトガル植民地の宗教的指導権を握った。

 イグナチウス ロヨラによって創設されたイエズス会は、伝道活動を重視し、人間は神の望むことをこの世に実現する存在であり、あらゆる人々の民族に神の国をつくる。この使命に燃えて世界の各地に会の指導者を育て、派遣した。1529年スペインとポルトガルの間で世界領土を2国で分割支配するサラゴサ条約が結ばれ、アジアはポルトガル勢力圏とされた。

 フランシスコ ザビエルは最初、インドに向かい住民の教化を始めた。しかし、インドや東南アジアでの布教活動に苦闘していた時、薩摩から来ていた日本人に会い、彼とともに1549年8月15日フランシスコ ザビエルは鹿児島につき日本での布教活動の第一歩となった。日本で布教を始めた頃、日本の人々は、キリスト教は異端、あるいは邪宗というより初めは仏教の一派と思い、その教えをきいていた。

 永禄12年(1569年)4月3日織田信長はフロイスと会い、その後朱印状で宣教師が信長の領国に滞在することを認めた。信長は宣教師を厚遇した。時代の創造者としての信長の視線は時代常識を超えていた。信長の新しい日本は、国内だけではなく国際社会の文物や情報を取り入れ、異国の来朝を歓迎し、世界の中の日本にするいう枠組みで捉えていた。

 緋色の外套を身につけ、ビロードの帽子をかぶり、コルトヴァの皮革、日時計や砂時計など南蛮渡来の異国の品々を愛好した。信長は神仏や迷信を信じなかっった。酒は飲まず、食を節制し、合理的で、徹底した行動の人である信長はやがて京を制圧し、将軍義昭を追放した。そしてキリシタン大名高山右近や内藤ジョアンなどにより、京の街にキリスト教の教会が建てられた。

 本能寺の変で信長が、暗殺され、その後秀吉は天下を支配した。当時秀吉を含め、戦国武士達の世界観は、神は仏の化身でありこの神仏への信仰と、正直な行いにより、神明の加護があり天道に見放されることはない、この天の道が世界を決めるというものであった。そして、信長同様キリスト教の布教は許し、臣下にも多くのキリシタン大名を抱えていた。

 秀吉は、天正25年(1587年)九州の島津氏制圧の帰りに、九州の筑前でキリスト教擁護から一転して、禁教令、バテレン追放令を突然を出した。この時九州はキリスト教がかなり浸透し、力を持ち始めた、これを放置する危険を秀吉は実感した。
 第一条では、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ似て然るべからざる候事。第二条では、知行を受けた秀吉の家臣が、領民をキリシタンにして寺社を破壊することを禁じ、第三条では、司祭らが20日以内に日本を待機すべきことを告げ、第四条でポルトガル船が来航して交易することは一向構わぬとし、第五条は、仏法の妨げをせぬならば、商人以下、キリシタン国からの渡来は自由とするとした。
 

 
 1588年スペインは英国、オランダ連合に海戦で敗北。世界の覇権国は南蛮人(スペイン、ポルトガル)から紅毛人(オランダ、イギリス)に変わりつつあった。

  ヨーロッパの君主国家と同じように、秀吉は政権を握ると、フイリッピンではなく朝鮮半島に軍を送る。しかしすぐに撤退し、その後徳川家康が政権を握る。徳川政権はヨーロッパ諸国とは異なる道、しだいに国外には関心を向けず、国内の統治に専念し、キリスト教は禁教策で排除し、海外との貿易も長崎のみとする政策をとった。
 はじめは家康、秀忠ともにキリスト教をうけ入れ難いと思いつつも、貿易は促進したい考えであったためキリスト教の布教を認めた。
 家康は御朱印船という幕府認可の貿易船が東南アジアで貿易することを認め、江戸時代初期から鎖国するまで10万人以上の海外に出て、日本人町をつくった。シャムのアユタヤの日本人町以外にもプノンペンや、マニラの近郊にも日本人は定住していた。しかし、徳川政権は、1614年には「みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城内の政号を改めて己が有となさんと欲す」とした、キリシタンの禁教令を出した。
 イエズス会のキリスト教徒は、邪宗を信ずる民族をキリスト教徒すなわち真の人間にすることであると信じ、世界に宗教戦士を送り出し、そして日本にたどり着き、30万人から40万人の信者を獲得していた。
 さらに、南方の航海に新型の船を造り、多くの日本人は、アジアで貿易を行っていたが、1936年には、遠洋航海用の船の建造が中止され、日本人の海外航海が禁止され、鎖国した。

 その後世界はヨーロッパの国々が支配し、インド洋から太平洋にかけても彼らの海になった。覇権国はポルトガル、スペイン、オランダからイギリス、アメリカと変化した。日本は260年後の幕末、キリスト教の布教ではない、アメリカの黒船、ペリー艦隊という近代化した国家、西欧と再び対面することになる。