岡本太郎と村上隆
岡本太郎は1911年生まれる。一人で18才から29才にかけて1930年代のパリで暮らし、新しい芸術運動の抽象画からシュールレアリズムの画家として生活を始める。絵画の色をぬったり、形にこだわったりする、その美をつくる芸術とは何か、人間とは何かといったその根源を求めて、ソルボンヌ大学で哲学を学び、やがて民族学に出会う。
民俗学では、世界中のあらゆる地域から集められてくる人々のつくったもの、そこに見られる想像を超えた人間の生き方の多様性、人間の全体、いのちの根源からふき出した世界に魅了された。古代からの人間の生み出したものの中に、絵とか芸術などという分化された価値観を根底からひっくり返す、現代先進社会の虚飾の虚しさを超えた宇宙的存在感に出会った。
人類学では人間存在の善と悪、美と醜、生と死のなまな実態を知り、人間を理解する民俗学に強烈に惹きつけられ、人間とそれを生み出す芸術とはなにかをパリ大学で学んだ。その頃14才年上のバタイユと出会い、その思想に共鳴し、彼の主催する秘密結社アセファルに加わる。岡本太郎は後年この若き日を、「情熱の塊のような彼との交わりはパリ時代の最も充実した思い出」と語っている。
ジョルジュ バタイユは人間の本性を古代文化の中に見出した。アステカの神話では「神々の犠牲で動き出した太陽が大地を照らし、太陽が存在し、機能するために心臓と血を持つ人々を食べる、その太陽が輝き続けるために人間もまた生贄を捧げ続けなければならない」と信じていた。そのためのピラミッドをつくり、その祭壇ではその神話により、戦争で捕らえた捕虜の生贄が火の中に投げ込まれた。
アステカ文明では富を蓄え、その富は非生産的活動、生贄などの儀式、部族間の戦争、モニュメントの建造などが行われ、その富を使い尽くすことが権力者、国王に求められた。そこでは、人間が生きてゆくために大切なものを滅ぼし、蕩尽し、その瞬間、聖なるものが意識の前に現れると考え、宗教としての儀式が荘厳に行われていた。
バタイユは人間存在の根源から、経済学を組み立て、呪われた部分として発表した。その中で、浪費あるいは奢侈について、地球の生命は太陽のエネルギーに依存し、植物が生まれ、それを食べる草食動物が生まれ、さらにそれを食べる肉食動物が生まれた。それらの生き物には、自然界の三種の奢侈である食べること、死そして有性生殖が組み込まれている。 そして、動物から人間への過程で、人間は労働を通して動物から区別する、そして労働と死と性の活動に禁止という名の制約を課した。「人間は労働しながら、自分が死ぬだろうということを理解しながら、恥じらいのない性活動から恥じらいを知った性活動へと移行しながら動物性を脱した。」
禁止とそれを破る活動、呪われた部分は、労働においては、 経済合理性に合わない遊び、蕩尽、祭儀そして死においては供犠、性においてはエロス。この禁止と侵害の交錯する世界から生まれる神聖、恍惚は人間の本性であり、芸術や経済活動もまたその上に成り立つとした。
岡本太郎は、1940年日本に帰国し、初年兵として戦場におくられる。戦後、1949年と50年非合理的な情熱と合理的な構想が合体した前衛的絵画作品「重工業」「森の掟」を発表する。
西欧文明の源、ギリシャ、ローマと対峙したケルト文明はいまではほとんど消え去り、その思いではアイルランドに見られる。無限に旋回し、流れ、くぐり抜けていく紐組紋が輪廻や永劫回帰の呪術的信仰から生まれたケルト芸術として残っている。これと同じように 日本文化と呼ばれる秩序だった、繊弱で、平たく、こじんまりした弥生的王朝的な芸術に対して、奔放な流動性を持った、生命感を持った形態の縄文芸術の中に、自らの根源に相通ずるものを発見した。
1950年から60年代、西欧的近代主義と日本的伝統主義両方とも蹴とばして、新しい芸術をつくる活動、絵画から彫刻、グラフィクデザインや家具、建築そして出版や講演で時代を動かす活動を開始した。銀座の空にヘリコプターで絵を描き、飛行船絵を書いて飛ばす映像の演出も試みた。
「生産と蓄積が善の世界で、ある時それが逆転して猛烈な消費が生きがいとして行われる。祭りだ。この時人間は日常の卑小な枠を超えて、絶対、つまり宇宙と結びつく。私は万国博をそのような意味での祭にすべきだと思っている。」その芸術を実現したのが1970年大阪の万国博覧会で、お祭り広場に縄文的黄金マスクの「太陽の塔」を残した。
芸術は商品ではない、芸術とは全人間的に生きることであるとして、ヨーロッパで近代の芸術は生み出された。一方、1960年代アメリカで、個人の好みと企業の利益をエネルギーにした、高級文化と俗物、安っぽさ、キッチュの通俗文化の境界をなくしたポップアートと呼ばれる芸術が現れた。芸術の中心がパリからニューヨークに移り、アンディー ウオルホールは毛沢東やマリリンモンロー、キャンベルのスープ缶を画面に並べて、芸術作品にした。毛沢東とマリリン モンローはは同じ芸術テーマであり、政治も歴史もない象徴として切り取られ画面に貼り付けられた。
「お金を作るのは技術だし、働くのも技術だし、うまくいっている商売は一番最高の芸術だ。」として、芸術も文化も商品になり、経済的活動にしてしまう。全ての価値が消費する人のお金の評価に還元される資本主義の国アメリカでは、アートギャラリーはスーパーマーケットと同じであり、美術館もテーマパークと同じになった。そしてその高踏的芸術を消失させ、絵画のマーケットは世界中に広がっていく。
1962年生まれの村上隆は、日本画から出発し、DOB君をデビューさせ、アメリカのグローバルな美術界でローカルなフィギュアを創り認められる。
資本主義経済を徹底させることでアートとして成功する構造が、アメリカを中心にした西欧社会の構造ができた。そして1990年代から2000年にかけて現代芸術はブームに乗った作品は、驚くべき値段で売れていった。「人間の欲望は抽象的な部分だけでなく、大きい熱病のようなものが本当に渦巻いています。リアルな欲望の元に生まれた金(マネー)というものは実戦でしか観察できない。その意味においてわれわれアーティストは金(マネー)の実態探しに付き合わされてしまっている冒険家なわけです。」
ベルリンの壁がなくなり、絵画や美術館など芸術の世界にロシアや東欧、中国やオイルマネーを持った国々が利益と社会的地位の上昇を狙ってアドヴァイサーを雇って最良のものを手に入れる競争に参加した。さらに北京オリンピックの北京国家体育場の、鳥の巣のデザインしたアイ ウエイウエイなど中国では多くのエリートが芸術家を目指し、ビジネスを理解し、西欧式アートに進出した。
日本人画家で孤軍奮闘していた村上隆は、2010年にカタールのスポンサーでベルサイユ宮殿で個展を開催した。その後も仏教の世界、五百羅漢を大画面で現代によみがえらせ、ドラえもんを題材にした作品を創り出し、芸術をスーパーフラット化して様々なインパクトのある世界を生み出している。
日本もバブル期に世界の美術品を買い集め、日本画家の絵も国内で高額で買い求められた。その崩壊後、美術も世界経済、新自由主義的資本主義とは距離を置き、海外への目線は閉じて、国内の内向きの風潮にあわせて弱気(ナイーブ)になり前衛的(アヴァンギャルド)精神は消えてしまった。
